故に戒の体は、もと悪の、事に逆なるに出づ。悪なければ、則ち戒なし。故に、大論に云く、「もし、仏にして好世に出でなば、則ちこの戒律なし。釈迦文のごとき、悪世にありといへども、十二年中、またこの戒なし」と。これなり。僧祇律は則ち云く、「五年以後、広く戒律を制す」と。四分律は大論に同じ。また異部の言、しかり。
富永仲基『出定後語』巻下「戒 第十四」、訓読は拙僧
つまり、釈尊の戒律制定は、「随犯随制」などともいわれるが、弟子達の間で問題が起きてから定めたものだとしているのである。年数には、上記の通り文献によって違いがあるけれども、「律蔵」では成道後5年としており、まずはその辺の数字を見ておくべきなのだろう。
ところで、この時定めた戒律は何であったのか?ここからは、篤胤の見解を見ておきたい。
それは彼誰も知ておる殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒、の五戒おはじめ種々の戒を立て、其道に入り出家したるものは乞食といいつて人の門に立ち、今の世の僧もする如く余り物おもらつて命をつなぎているでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』67頁
・・・最近引いている文章、「を」と「お」が混同されているので、とても読みづらいし、拙僧の入力ミスでは無いか?と思われるのが心外なのだが、原典は明らかに「五戒おはじめ」(おは、をになるべきか)と書いてある。ただ、江戸末期頃と推定される版本を見ると、ちゃんと「五戒を」となっているので、この辺はもう良く分からない。どっちにしても、引用している文献に従うだけである。
話を戻すが、篤胤はまず、戒律で最初に定められたのが「五戒」だと考えているようだが、これは本当だろうか?確かに『雑阿含経』巻4には「在家の四法」が教示され、具体的には「信・戒・施・慧」の四具足を指している。そして、「戒具足」が「五戒」となるので、在家者向けに五戒が示されていたとは思うのだが、この辺、「律蔵」だと「優婆塞五戒」という表現で多出するから、それで良いというべきか。
そういえば、「五戒」の話はこれ以上膨らみそうも無いのだが、篤胤が「乞食」について詳しく示していることが分かったので、また次回の記事で見てみたい。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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