つらつら日暮らし

「神無月」一考(再掲載)

※この記事は一度掲載されたが、修正・編集の上、再度掲載するものである。

旧暦10月は「神無月」と呼ばれるが、これを「神無し月」と理解したのは、いつ頃くらいだったのだろうか?例えば、旧暦6月は「水無月」と呼ばれるが、実態としては梅雨真っ只中であり、意味としては、「水の月」と呼ばれるべきともされる。そうなると、「神無月」も「神の月」として理解がされるべきなのだろうか?とりあえず、江戸時代の見解を参照してみたい。

◎十月 和名を神無月と云は、もともとの神、出雲の国に行て、こと国神なきゆへにかみな月といふと、奥義抄に見へたり。
    「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、53頁


以上である。これは、現在でも同様の理由で説明されることが多いのではないだろうか。要するに、和名である「神無月」の由来を、各地の神が皆、出雲国(現在の島根県東部)に行ってしまい、各地の神がいなくなるから「かみな月」というのだと、説明されている。「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。

この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書で、藤原清輔の著である。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立し、崇徳天皇に献上された後も増補されたという(そのため、各地に所蔵された写本は本文の異同が激しいとのこと)。

どこかで本文が読めないかな?と思っていたら、ネット上では複数の写本などを閲覧可能の様子。例えば、以下の1本。

『奥儀抄』(宮内庁書陵部所蔵、新日本古典籍総合データベース)

ただし、上記の一節がこの写本のどこに載っているか探すのは大変なので、興味ある方はご自分でどうぞ。それで、当方で気になったのは、「神無月」については、まだ説明が付記されていることである。

○出雲の国にては神在月と云、又神月ともいへり、神在の裏に神在のやしろ有、諸神これにあつまり給ふと詞林采要抄に見えたり、しかれどもいづもの国にても、かみな月といふよし、かの国の人の云り、卜部家にては、いざなぎの尊のかくれ給ふ月なればしかいふと也、本朝にて十月の上無と云ゆへに上無月と称す、神無月と書は伝称のあやまり也といへり、貝原云、此月は純陰の月なれば陽無月といふ心也、鬼は陰の霊也、神は陽の霊也、鬼神陰陽相同じ。
    前掲同著、53頁


以上である。要するに、「神無月」の名称の由来について、更に検討した一節であるが、こちらは、『詞林采要(葉)抄』、卜部家の見解、貝原益軒の見解、という3つを挙げ検討しているのだが、そのどれもが確実といえるほどの説得力が無く、第一、「いづもの国にても、かみな月といふよし、かの国の人の云り」といわれているとすれば、もはや詰んだ状態の気もする。要するに、「神無月」の表現について、その定義は良く分からないということになるだろう。なお、『詞林采要鈔』については、以下のサイトで本文を閲覧可能。

『詞林采葉鈔』―国文学研究資料館

こちらも、どの辺に載っているか見出していないので、興味のある方はご自身の目でどうぞ。

でも、卜部家の見解については興味がある。要するに、伊邪那岐命が隠れた月だからだということだが、伝称はどの辺に載っていることなのだろうか。そして、「本朝にて」という説もおそらくは、「十」という数字に因んで、それよりも「上無」とし、「上無月」になるということのようだが、これも根拠としては希薄な印象である。

明治初期の説として、以下の見解もある。

十月を神無月といふ事、此月総陰の月にして、十二律にも上無月といふ、上も神もともに陽なり、陽の字もかみと訓ず、陽を陰中に蘊み、純陰〈卦が出る〉の月なれば、陽なし、故に神無月といふ
    「神無月鬼無月之事」、源兼勝『惶根草―三教捷解』岡田群玉堂・明治5年、21丁表


この辺は、先に挙げた貝原益軒の説と同じだといえよう。「十二律」については、中国や朝鮮、日本の伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの音であり、陰陽思想の影響がある。日本に於ける「十二律」の「十二」が「上無」だという。ただ、これも、十二律自体はともかく、これと「旧暦十月」との関係について、古くに遡れないことが最大の問題か。それに、「旧暦十月」と、「十二律の十二」とを一致させる意味も、良く分からない。

それで、「神無月」について疑義を呈した説としては、おそらく以下の一節が知られていると思う。

十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし、本文も見えず、但し、当月諸社の祭なき故にこの名あるか、この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれどもその本説なし、さる事ならば伊勢には殊に祭月とすべきにその例もなし、十月諸社の行幸その例も多し、但し多くは不吉の例なり。
    『徒然草』第202段


『徒然草』、作者については最古の写本に僧・正徹の見解として、吉田兼好だとされるから、そうなっているけれども、実際のところは良く分かっていない。とはいえ、別の人を出せる根拠も無いから、今は、吉田兼好としていることになろう。

さておき、この一節は14世紀頃の一見解であり、神無月だから神事を行うべきではないという見解があったようだが、それについては旧暦十月、諸神社で祭をしていないからではないか、という説を提示している。一方で、この頃は、現代のような出雲大社ではなくて、「太神宮=伊勢神宮」に集まるという説だったそうだが、『徒然草』の作者はそれも否定しており、伊勢一国が「祭月」としているのなら分かるが、その例も無いとしている。

上記の各説からいっても、「神無月」の意義については、不明だというべきだろう。明治時代の広池千九郎氏も、『史学俗説弁』(史学普及雑誌社・明治26年)で、「●神無月とは国史上大なる誤也」とし、やはり出雲国の出身者に会った際に、その伝承を尋ねたところ、昔は出雲も「神無月」であったという見解を聞いたとしている。

結局、この辺は同じように「無」の字が入っている「水無月」から考察すべきなのだろう。なお、旧暦六月を意味する「水無月」は、梅雨の時期であって、全国各地雨が多いため、この「無」は「の」の意味で解釈すべきだとされた。いわゆる「水の月」なのである。同じように「神無月」についても、「神の月」とすれば良いという見解もあるようだが、これ、実は、『徒然草』と合わないのである。同書の作者は、その月には神事をしてはいけない、とか、諸神社の祭が無いとしている。そうなると、「神の月」とはいえないだろう。もちろん、14世紀には「神無月」が一般化し、それが神事などに影響したともいえるかもしれないが、それを探るには今少し、諸資料を渉猟して判断する必要があるといえよう。

まとまらない記事で恐縮だが、このように、俗説として定着しているような説であっても、厳密に見ていくと良く分からないことは数多く存在する。今回はたまたまそれが「神無月」だったというだけだ。転ずれば、良く分からないからこそ、「俗説」はさも何か事実があるように構築されるのだ。我々はその、知の澱みに安住してはならないと思う。

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