つらつら日暮らし

応量器を壊すとどんな罪になる?(2・『日本霊異記』の話)

以前に書いた【(1)】の続きである。前回は、応量器を落として壊しても、それほどの罪にはならないと示したのだが、それと正反対の見解を見つけたので記事にしておきたい。

  邪見して乞食の沙弥を折破して以て現に悪死報を得るの縁 廿九
 白髪部猪麿は備中国の少田郡の人なし。天年に邪見して三宝を信ぜず、曙に一僧有りて来たり、食を乞う。
 猪麿、乞う所に施さず、反て逼悩を加ふ。亦、其の鉢を破りて、之を逐去す。
 然る後、即ち他の郷に往く。道中に風雨に遭て、暫間、他の倉の下に寄り、覆て圧煞せる。
 誠に知る、現報甚だ近し、寧ろ慎まざらんや。
 菩薩経に云うが如き、一切の悪行、邪見を因と為す者は、其れ斯を謂うや。
 丈夫論に云く、悲心、一人に施せば、功徳は大地の如し。己が為に一切に施せば、報いを得ること芥子の如し。一の厄難を救えば、余の一切の施に勝る、云々。
    景戒『日本霊異記』巻上


色々と見てきたが、『日本霊異記』の伝承次第では、この話が無い場合もあるようだが、とりあえず、当方の手元にある本には載っていたので、訓読して引用してみた。

なお、前回の記事は、明らかに鉢盂を破壊した場合についてのみだったが、上記の内容からすると、少し別の見解も見えてくるので、例示としては余り良くなかったかもしれない。

何故ならば、上記の内容としては、乞食(托鉢)に来た沙弥(見習い僧侶)に対して、狼藉を働いた者が、それ相応の報いを受けたという話になっているが、その中で、「鉢を破る」話が出ている。よって、鉢盂(応量器)を破る悪行も含まれているのだが、それ以外にも沙弥を傷つける、布施を拒否する(もちろん、布施は任意だが、自らの財産を惜しむことは認められない)といった行為が見られる。

よって、鉢を破っただけの話となっていないところが微妙なのである。

それに、インド以来の仏典で、仏教への弾圧が影響したと思われるような文脈は、少なからず見られるため、そういった影響も考えていくべきなのかもしれない。ところで、上記に引用されている『菩薩経』と『丈夫論』についても確認しておきたい。まず、『菩薩経』というのは、大乗『大般涅槃経』巻35「迦葉菩薩品第十二之三」に見える「一切悪行、邪見為因」の部分であろう。また、『丈夫論』については、『大丈夫論』巻上「施勝品第一」に見える「悲心施一人、功徳如大地、為己施一切、得報如芥子、救一厄難人、勝余一切施」が典拠となっている。

これらの典拠となる文章をまとめれば、悪行にはそれ相応の報いがあるし、善行にもそれ相応の報いがあるという話となっている。『日本霊異記』とは、詳しくは『日本国現報善悪霊異記』と呼称される。つまり、行為とその報いについての内容を著者である景戒が、現実に語られる因縁譚の中から、仏の道理として引き出したのである。それは、仏典の内容を確認していく作業でもあった。

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