つらつら日暮らし

東嶺円慈禅師『臘八示衆』参究1(令和3年度臘八摂心短期連載記事)

この坐より摂心、ということで、今日から8日まで(8日は釈尊成道会だが)摂心となる。とはいえ、この辺は【摂心―つらつら日暮らしWiki】という記事の通りで、元々は「定坐」という名称だった行事が、名称の1つだった「摂心」が、明治時代以降に定着した印象である。

それで、今年はたまたま入手できた『臘八示衆』(貝葉書院・年代不明なるも古い版本)を学んでみようと思う。聞けば、本書に収録される提唱をされたのは、臨済宗妙心寺派の白隠慧鶴禅師(1686~1769)の弟子である東嶺円慈禅師(1721~1792)とのことである。当方では、版本が手に入った御縁を大事に、どこまでも当方自身の参究を願って学ぶものである。解釈についても、独自の内容となると思うが、御寛恕願いたい。

  臘八示衆第一
朔日夜示衆に曰く、夫れ禅定を修する者は、先づ須らく厚く蒲団を敷き、結跏趺坐して寛く衣帯を繋け、脊梁骨を豎起し、身体を斉整ならしむべし。而して始めて数息観を為すべし。無量三昧の中には数息を以て最上と為す。気をして丹田に満たしめ、而して後に一則の公案を拈じて、直に須らく命根を要断すべし。若し是の如く歳月を積て怠らずんば、縦ひ大地を打して失すること有るとも、見性は決定して錯らず。豈に努力せざらんや。豈に努力せざらんや。
    版本『臘八示衆』1丁表、原典に従って訓読


「朔日」とある通り、臘月の一日の示衆である。更に、「夜」とあるので、その日1日坐ってきて、夜坐に於いて示衆がされたものか。

内容だが、禅定修行を行う者は、まず暑く蒲団(坐蒲)を敷いて、結跏趺坐して緩く衣や帯を掛け、背骨を真っ直ぐに立てて、身体の姿を整えるべきであるという。そして、それから数息観を行うべきであるとし、理由としては、無量の三昧の中では、数息観をもって最上とするからだという。

結局、呼吸に伴って観法に繋げるわけであるが、その上で、気を丹田に満たし、その後、一則の公案を採り上げて、命根を要断すべきであるという。まず、気を丹田に満たす話というのは、臨済宗では良く聞かれるとは聞いたことがあるが、当方では余り用いない。それから、公案を拈ずる際に、「命根を要断」するべきだというのは、中国禅でもいわれることで、例えば、「参禅は、生死命根を要断す。別に方便無し。你、但だ種種の知見解会を截断するのみ」(『天目中峯和尚普応国師法語』「示禅人」)という話もある通りで、要するに輪廻する要因を断ち切り、知見解会を捨て去ることをこそ、参禅だとしているわけである。

そして、そのように歳月を経れば、大地(認識の対象)を失することがあっても、見性は決定して誤ることが無いとしている。確実に見性することを示しているのだが、その理由については、上記の一節からだけでは分からない。とりあえず、努めるように促しているので、修行に精進することはその通り(この部分は、当方は理解しやすい)のだが、見性に至る理由などについては、今少し参究してみたい。

もっとも、当方では余りというか、全く見性を重視しないので、この辺の文脈は一から勉強しなくてはならないところである。今回の臘八摂心に因む短期連載で、何とか理屈くらいは分かるものなのだろうか・・・

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