つらつら日暮らし

食事の前に手を洗う話

律関係の文献を見ていると、色々なところで参考になる記述を見出すことが出来る。

 一には三下の鐘を聞かば即ち須く務を息めて先ず且く出入すべし。
 二には先ず皀莢を用いて手を洗い浄からしめよ。〈以下略〉
    南山道宣『教誡新学比丘行護律儀』「二時食法第八〈六十條〉」


実際のところは、上記の一文から更に58條ほど続くのだが、その冒頭二條のみ引用してみた。これは、「二時食法」という項目名の通り、仏教の修行道場中に於ける朝食・昼食についての話になるわけだが、以上のような説示が見られる。

まず、最初の三下の鐘が鳴るというのは、集合する時の合図である。特に、寺院で食事を用意する、いわゆる「僧食」の場合、鐘が鳴ると「務(様々な仕事)」を止めて、食事場所に来なくてはならないと述べているのである。

続いて、皀莢(サイカチ)の実を使って、手を洗い、清らかにしなければならない。この皀莢の実は、石けんの役目をしたとされており、手を洗うときに使われるのである。

 五には鉢を把りて堂に上らんと欲して、又た須らく手を浄くして、巾上に於いて手を拭いて乾かしめ、中指にて巾を夾むべし。
 六には堂に至りて食の未だ了らざる已前、常に須らく手・指面及び掌を護して、触れることを得ざれ、設使、堂頭経を把れば、手を労せざれども更に洗え、但し香を以て浄むれば即ち得たり。
    同上


さて、少し飛ばしているけれども、やはり手を洗うことが示された一節である。それは、自分の食器を持って食堂に上ろうとするならば、また手を洗い、手拭いで水を拭くべきだというのである。また、その後、堂に入ったならば、食事が終わる前は、手や指、手のひらを守り、何かに触れることがあってはならないというのである。経本を取ったときなども、手を使っていなくても、更に洗えば良いとしているが、興味深いのは、香を焚けばそれで清らかになるともいう。

香自体に、実際の洗浄機能などがあるとは思えないので、これは信仰ということなのだろうか。それを示すような文脈は幾つか見聞きしているのだが、確定的なものがないので、紹介はしないけれども、仏教に於ける「香」の機能については、色々と複雑ではある。ただ香りによって我々の精神を落ち着けるだとか、そういう効能の面からのみでは計れない複雑さである。

それにしても、新型コロナ対策でも、手洗いなどは推奨されたが、食事の時の手洗いがここまで推奨されているというのは、非常に興味深く感じた。もちろん、中国以東では、箸や匙なども使うようになったのだが、インドでは基本は手で食事を行い、病僧などが匙(スプーン)を用いることを許可されるともいうから、手を清らかにするのは当然であるともいえる。

先に挙げたのは、あくまでも中国で編まれた文献だが、インド由来の律蔵でも、この辺は明示されていることを確認しておきたい。

比丘、食前の時、当に浄手を護るべし、若しくは摩頭、若しくは泥洹僧、革屣を捉え、若しくは盛酥油革嚢を捉えれば、当に更に浄め洗うこと前の如くすべし。
    『摩訶僧儀律』巻17「明単提九十二事法之六」


このように、食事前には、手の清らかさを護持すべきだというのである。そして、それを汚すようなことがあれば、更に洗い清めなくてはならないという。しかし、律で定められているということは、当然にこれを行っていなかった比丘を諫めるものであると拝察されるが、教団の方向性として、手を清らかにさせていたということは、比丘本人の修行の継続性を促すものであったと見るべきであろうし、現代ほどの清潔さなどを期待すべくもなかった時代でも、努力が続けられていたところに、価値を見出すべきだと言えよう。

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