そうしたら、その辺のことが同じ『大智度論』に書いてあったので、確認しておきたい。
先説す、「尽く十方諸仏の説く所の法を聞かんと欲する者は、当に般若波羅蜜を学すべし」と。説く所の法とは、即ち此れ十二部経なり。
諸経中、直に説くものは、修多羅と名づく。いわゆる四阿含、諸摩訶衍経、及び二百五十戒経なり。三蔵の外に出れば亦た諸経有り、皆な修多羅と名づく。
『大智度論』巻33
「十二部経」とは、「十二分教」とも呼称されるが、釈尊が説いた法について、形式などに基づいて12種類に分類したものである。その中でも、メインとなる「経」を示すのが、「修多羅」ではあるのだが、繰り返しになるけれども、そこに『二百五十戒経』を入れているのが気になるのである。
『大智度論』は、「大乗仏教」に基づく註釈書であるから、「諸摩訶衍経」が入るのは分かるのだが、戒経が入るのはどうなの?と思うわけである。
舎利弗、我れ持戒の比丘を利益せんが為の故に、二百五十戒経を説く。
『仏蔵経』巻3
こちらも、漢語の訳語として、『二百五十戒経』を用いている。ただ、これは「律蔵」を指し示しているのだろう。
今、此の戒本、即ち彼の初分なり。乃ち比丘二百五十戒経なり。
『四分戒本如釈』
こちらは、中国明代の註釈だが、『四分戒本』を『二百五十戒経』だとしているわけである。ところで、どうも中国には『二百五十戒経』という名前の経典が翻訳されていたようなのである。
二百五十戒経一巻〈諸録、並びに云わく、六種の異出有り、と〉
『出三蔵記集』巻4
このように、訳出仏典の目録には名前が出ているのだが、「異出」とある通りで、複数の系統が存在していたようである。そのため、後代の目録では以下のような評価となる。
二百五十戒経一巻〈諸録、並びに云わく、六七の種異有りと、先に出す所なり、故に疑に入る〉
『衆経目録』巻5
以上の通り、複数の異本があることを理由に、『二百五十戒経』は「疑」に入るとしているのである。ただし、これは思想的内容というよりも、形式的問題の印象である。それに、当方としては、『二百五十戒経』そのものを見たことがない。この辺は、どこかにあるのかな?
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