つらつら日暮らし

清浄なる行者 破戒の比丘

このブログでは、常に修行者の清浄ということ、破戒ということについて問題視している。一般の人は、どうしても自分の理想とする修行者像に契う場合には清浄とし、そうではないと戒律に関する乏しい知識の中から、僧侶の問題点を見つけて、「破戒」や「不清浄」などと批判する。

しかし、拙僧は、そういう見方は問題があるとして批判している。それは、そもそも出世間たる僧侶のありようについて、一般の方がどこまで判断できるかが、判断できないのではないかという意識があるためだ(以前【僧侶の善し悪しは測度不可】という記事などを書いた)。これは、一般の方に対して文句があるのでは無く、「判断」自体の性質を真摯に考えれば、それこそボロボロの法衣で供養に来た一休さんは要らないけど、煌びやかな袈裟を着けた一休さんなら尊敬することになりかねないと思うわけである。

そんなことを思いつつ、「第一義」として、清浄・破戒を考えるとどうなるのか?鈴木正三道人の言葉を見ていきたい。

 ○一、経曰、清浄行者不入涅槃、破戒比丘不堕地獄。
 師、著語曰く、珍重。便ち曰く、清浄の行者とは、一切を離れ、涅槃を超ゑたる人を云ふ也。破戒の比丘とは、地獄・天堂を踏み破つた人を云ふ也。
    『驢鞍橋』中-1


この冒頭の語句である「経典」の出典だが、『文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経』である。『大正蔵』では、般若部である巻8に収録されている。ただ、原文は「清浄の行者」云々という部分は同じだが、後半部分は「犯重比丘不墮地獄」となっており、「犯重の比丘」に関する内容である。しかも、原典では次のように続く。

是の如くの比丘は、応供に非ず、不応供に非ず、尽漏に非ず、不尽漏に非ず。何を以の故に。諸法中に於いて、平等に住するが故に。
    『文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経』


般若系の思想では、要するに存在そのものが空であるが故に、二辺に落ちないところから規定する。要するに両者ともに否定されてしまうわけだが、それこそが「第一義」になる。大概は、どちらかに寄ってしまいたくなる。様々な過ちを犯した比丘に対しては、非難し排除するのが、一般的な思念であろう。しかし、それこそがもっとも空から遠くなる。何故ならば、判断が固定化し、さらに実体化する危険性があるためである。

したがって、そのような一般的な思念から離れて物事を見ていくと、清浄が涅槃を否定し、破戒が地獄を否定することになる。何故ならば、清浄こそが涅槃に入り、破戒こそが地獄に堕ちるという関係の一義化は、関係を実体化することに繋がるからである。

そこで、関係の実体化を離れるは良いが、そのままではただの空虚な理念に終わってしまうので、正三は積極的な修行の状況を示そうとする。つまり、経典の文言の意義を、より掘り下げて示そうとした。それが、清浄の行者は、何にもとらわれがない故に、一切を離れ、涅槃ですら超えてしまうことであり、破戒の比丘は、地獄に堕ちるかどうかを超えて、地獄にすら入らないほどに自己の確立がなされていることになる。いわば、世間に於ける常識を超えて、ひたすらに宗教的実践を行う者になる。前者も、自分の悟りにとらわれず、ひたすらに教化活動を行う者ということになる。

拙僧つらつら鑑みるに、こういう修行者こそが「異類中行」なのだろうと思う。周囲の状況が、全く自らの理念などと違っていても、ひたすらに自らが行為し続けて、行為の中から自己を作り上げていくというシステムこそが、菩薩であろうと思う。その意味で、常に創意工夫が必要でしょうし、創意工夫の結果こそが、様々な布教教化ということになるのだろう。その時、初めて差異を超えるが、それこそを「平等」という。

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