クリスマスの意義に就きて書きたるものは頗る多く、而も亦た英語を以て之を思ひ之を感じたるもの甚だ多くして、この問題は蓋し言ひ尽されたるものなるが如し。されば吾人は更に、斬新なる一語をも之に加ふ能はざるに失望す。されど予も亦た聊か云はんと欲する所あり。
クリスマスは日其者が尊きには非ず。史家は十二月二十五日を以て、人なる耶蘇の誕生日なる事を是認せず。啻に基督の誕生日が不明なるのみならず、而も亦た彼の生れたる年月すらも一大疑問にして、此の重大なる事実に関する歴史は幾として明かならず。されど耶蘇基督の如き人の現存したりてふ大事実は疑を容れず。されば彼は基督教時代の初年と称せらるゝ時世の十年の間に、何の日にか、実際に此世に降誕したるものならずんば非ず。されど年月其ものは、さして重きをなさず。これをその年月の記念する事跡に比ぶれば毫も真価無く、云ふにも足らぬ小事なり。吾人が心の裡なるベツレヘムに於ける、基督の誕生てふ一事の与ふる霊性的の価値に較ぶれば、人なる耶蘇が何の年はた何の日に生れたるかは、殆んど関する処なし。ベツレヘムとは、麺麭の家の義にて、基督はいへらく、『我は生命の麺麭なり』と。クリスマスとは、即ち天の使が、我等人類に大いなる喜の音を告ぐる其日を指して云ふべきなり。
新渡戸稲造著『随想録』丁未出版社・明治40年、187~188頁
まず、ここで新渡戸先生が指摘しているのは、今日12月25日がイエス=キリスト(耶蘇基督)の誕生日ではない、ということである。では、何故今日なのか?といえば、その日が選ばれた理由まで示しているわけではない。どうも、何らかのきっかけで、今日が「クリスマス」となったのだろうが、それを理由付け出来ないこととなったため、結果として今日という日は、「クリスマスとは、即ち天の使が、我等人類に大いなる喜の音を告ぐる其日を指して云ふべきなり」として位置付けられている。
つまり、新渡戸先生はクリスマスについて、聖霊がこの世界に福音を告げた日であるとしたのである。これを分かりやすく解釈して、おそらく一般的なキリスト教の説明では、「イエスが生まれた日」ではなくて、「イエスが生まれたことを祝う日」としているように思う。
ところで、一般的にイエスはベツレヘムで生まれたことになっている。ベツレヘムとは、当時の古代ユダヤで、エルサレムよりも南にあった街のことだと思うのだが、新渡戸先生は「麺麭の家」の意味だという。これは「パン」のことである。ヘブライ語で「ベース・レヘム」であり、意訳すると「パンの家」になるという。
これと、キリスト教の儀礼などで「パン」を使うことと関係あるのだろうか?何だか良く分からないが、今の日本に於いては、西洋版こどもの日みたくなっているから、全国の子供たちに幸あれ。
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