そこで、中国で書かれた律宗関係の文献に、楊枝の事柄がまとめられているので、見ておきたい。
三十六、楊枝を嚼んで洟唾すれば、当に屏処たるべし。
『教誡新學比丘行護律儀』「事師法第三」
これは「事師法」とある通り、師匠にお仕えするときの作法なのだが、楊枝を嚼んでいるとき、唾液が出てしまうので、それを捨てる場合は、物陰で行うように示しているのである。
十一、人に対して楊枝を嚼むこと得ざれ。
同上「対大己五夏闍梨法第七」
これは「大己五夏」という五年以上の修行をした阿闍梨の前では、楊枝を嚼んではならないとしている。先ほどの「事師法」と合わせると、先生の前で楊枝を使ってはならないということである。しかし、確かに、何かを口にくわえたままで人に向き合うというのは、相手が先生や先輩で無くても失礼である。
転ずれば、上記のような軌則が出来た理由を考えてみると、こういう行為をした人がいた、ということである。困ったものだと思う。
九、師、正に楊枝を嚼み、灌漱する時。
同上「見和尚闍梨得不礼法第十七」
「和尚・闍梨を見ても礼せざることを得るの法」とある通り、先ほどは自分が楊枝を使わないタイミングを示したが、こちらは逆に先生や先輩が、楊枝を使い、口を漱いでいるときなどは、礼拝すべきでは無いとされる。他の様子を見てみると、余りに締まらない様子で、その様子の先生などを礼拝するというのは失礼なのである。
ところで、おそらくは手に入る木材の様子について、楊枝は楊であったが、一般的には「歯木」などとも呼ばれていた。
坭瑟搋、此に云わく木なり。謂わく歯木なり。多く、竭陀羅木を用いて之を作る。今、此に多く楊枝を用ゆ。此の木無き為なり。
『四分律名義標釈』巻36
このように、本来であれば「竭陀羅木」というのを使っていたようだが、それが中国では手に入らないので、楊枝になっているという。とはいえ、これは明代の註釈書だから、中国で通時的に同様だったかどうかは分からない。
でも実際、「歯木」という用語で律蔵を調べてみると、食事の後に使っていた様子が分かる。それから、大勢の比丘が皆で歯木用の木材を入手しようとすると混乱するので、それに対する口宣があったことが分かる。この辺はまた、色々と学ぶ機会を得る必要があるように思う。今回、記事を書くときに思い付いただけだが、今後、まとめる機会を得てみたいものだ。
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