そこで、今回は「旧戒」を学んでみたい。
十善道、旧戒と為し、余の律儀を客と為す。復た次に、若し仏、好世に出れば、則ち此の戒律無し。釈迦文仏の如きは、悪世に在ると雖も、十二年中、亦た此の戒無し、是を以ての故に、是れ客なるを知る。
復た次に、二種戒有り。有仏の時、或いは有、或いは無なり。十善、有仏・無仏、常に有り。
復た次に、戒律中の戒、復た細微なりと雖も、懺すれば則ち清浄なり。十善戒を犯せば、復た懺悔すると雖も、三悪道の罪、除かず。比丘の畜生を殺すが如きは、復た悔を得ると雖も、罪報、猶お除かず。
『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」
これは、冒頭のリンク先で紹介した文章の続き(若干、中略はしているが)に当たる。以上の文章には、幾つか見ておくべき教えがある。そこで、「十善道」が「旧戒」であり、他の律儀は「客」だという。当然、「客」の対義語は「主」だから、本書では「十善道」を主だとしていることになる。
その上で、問題は「余の律儀」という表現だが、その意義は、仏の有無に関わる。まず、もし、仏が現れた世界が、衆生の喜根も優れている「好世」である場合、「余の律儀」は制定されないという。或いは、釈尊の場合、悪世(娑婆世界)に生きておられたが、12年間、戒律を定めなかったというが、これについては、『根本説一切有部毘奈耶』巻1で「爾時薄伽梵、初めて覚を証してより、十二年中、諸もろの声聞弟子、過失有ること無し、未だ瘡疱を生ぜず」とあって、確かに仏陀が正覚を得られてから12年間、制戒する必要が無かったとなっている。
この辺とも、共通の伝承があるのだろうか。よって、『大智度論』では、「余の律儀」は「客」の扱いだとしているのだが、ここも転ずれば、「十善道」はそのような状況に関係なく、行われるべきものだということになる。
その後は、上記で挙げたことの、説明のし直しのような文章である。
まず、戒には2つの種類があるというが、仏の在世の時には、制定される戒、されない戒があるとしつつ、十善戒は、仏がこの世界にいようがいまいが必ず行われるという。
また、「余の律儀」の如き、「戒律中の戒」は、細かなことでも、懺悔すれば清浄となるが、「十善戒」の場合、懺悔したとしても、三悪道へ堕落する罪が除けないというのである。それくらい、「十善戒」は根本的な戒であることを意味している。このような戒だからこそ、より本質的な位置付けを与えられ、いわゆる「旧戒」となったのである。
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