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つらつら日暮らし

『大智度論』と「彼岸」について(6)

今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。

なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。

復た次に、人有りて言く、「一切の物、一切の種、内外の物、尽く以て布施して、果報を求めず。是の如き布施を、檀波羅蜜と名づく」。

これは、前回の記事の続きであり、菩薩にとっての布施、つまりは檀波羅蜜の意義を説いたものである。理解のカギは、「一切の」という言葉と、「尽く」ということと、「果報を求めず」という三点である。まず、「一切の」というところから、「大心」「大悲心」という言葉へと繋がってくる。「尽く」ということは、分け隔て無くということである。やはり「大心」に繋がる。そして、「果報を求めず」だからこそ、この布施行は清浄なのである。

 復た次に、尽くすべからざるが故に、檀波羅蜜と名づく。所以は、何ぞ。
 施物は畢竟空にして、涅槃の相の如しと知り、是の心を以て衆生に施す、是の故に施報、尽くすべからずを、檀波羅蜜と名づく。五通仙人の如きは、好宝物を以て蔵して石中に著け、此の宝を護らんと欲して、金剛を磨いて之に塗り、破るべからざらしむ。菩薩の布施も、亦復是の如し。涅槃の実相の智慧を以て布施を磨き塗り、尽くすべからざらしむ。


この五通仙人の譬えは、分かりにくかった。なお、五通仙人というのは、六神通の内、漏尽通のみ会得していない者のことである。現代風にいえば、超能力者に近いといえる。その者が、自分の好む宝物を、石の中に隠し、しかも金剛(ダイヤモンドの如く難い物質)を磨いてその石に塗り、破られないようにするという。菩薩の布施の場合もこれと同じで、布施される物が涅槃の相(普遍であるということ)だという智慧を塗ることで、尽きることなき無限の行にしているという。

復た次に、菩薩、一切衆生の為の故に布施す。衆生の数は尽くすべからざるが故に、布施も亦、尽くすべからず。

今度は、布施という行の無限さを、対象となる一切衆生の数が尽きないという状況を挙げることで示している。この救うべき衆生の無限さから、誓願の無限性を説くのは、大乗仏教の実践的教理としては一般的見解であるが、この辺が原型となっているのかもしれない。

復た次に、菩薩は仏法の布施をす。仏法は無量無辺なり、布施も亦た無量無辺なり。是を以ての故に、阿羅漢・辟支仏、彼岸に到ると雖も、波羅蜜と名づけず。

こちらが、今回取り上げる一節の最後の部分となる。「仏法の布施」という概念が出てきたけれども、仏法の無限性から布施の無限性を説き、その結果、その無限性を共有しない阿羅漢・辟支仏は向こう側としての彼岸には到るが、「波羅蜜」に到らないとされる。その意味では、「波羅蜜」というのは、確かに「○○の完成」という意義で理解されるものの、『大智度論』に於いてはその完成というのは、「完成すること無き完成」であることが分かる。何故ならば、無限を相手にしているためである。

拙僧が以前、無限の概念を学ぼうと思い、30代に到って数学を学ぼうと思ったのは、この辺の教理を正確に理解するためであった。無論、未だ学び切れていないため、現在の職場の先生のお力も借りながら、この辺の学びを進める必要を感じる。また、「仏法を無量無辺」とし、関連する行の「無量無辺」を説くという手法は、道元禅師にも共通している。今回の短期連載は、その経緯を知ることが出来て、非常に役立った。

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