つらつら日暮らし

布薩の実施日について

備忘録的な記事である。いわゆる「布薩」の実施日について気になる記載があったので、紹介してみたい。

・布薩戒師作法〈但し小乗は十四日及び二十九日に之を行ず〉
・大乗布薩作法〈十五日及び晦日に之を行ず〉
    法進律師『東大寺戒壇授戒方軌』巻1


日本に正式な受戒作法を伝えた鑑真和上の実質的な後継者となった法進律師が著した東大寺での授戒の作法書に、以上の記述を見た。布薩というのは、比丘にとっての持戒の反省会兼勉強会みたいなものである。

布薩 此れ律居の常式なり。此に云く、共住、又た云わく浄住なり。
 ○毘奈耶に云わく、裒洒陀、唐には長養浄と言う。謂わく破戒の垢を除けば清浄を長養するが故に。意は、半月半月に所犯の事を憶して、無犯の人に対して説露し前愆を異改す。
 一には則ち遮現在の更為を遮し、
 二には則ち未来の慢法を懲するが故に。
 ○毘尼母論に云わく、何を布薩と名づくや。
 答う、断を布薩と名づく。謂わく、能く所作を断じ能く煩悩を断じ、一切不善の法を断ずる故に。又た云わく、清浄を布薩と名づく。
    『釈氏要覧』巻下


以上の通りで、ごく簡単に「半月半月」と書かれていて、少し分かりにくいが、他にも以下の記載がある。

若しくは布薩の日、新学菩薩、半月半月に布薩して十重四十八軽戒を誦す。
    『梵網経』巻下「第三十七故入難処戒」


以上の通り、日付の詳細は書いていないが、半月ごとの布薩は設定されている。それで、禅宗清規でいわゆる「月分行持(月中行事)」が設定された場合、この辺がどう表現されているのか、幾つか見ておきたい。

・十五日、僧堂に大座煎点有るべしと雖も、布薩、依りて畧すべからず。
・十五日 粥時歎仏、粥罷人事。祝聖諷経、上堂・巡堂、朔望一致、斎罷布薩。
・晦日 布薩。
    『瑩山清規』


初期曹洞宗教団では、15日・晦日が布薩だったようである。「14日」は設定されていない。

・〈十四日〉晡時略布薩あり。
・〈晦日〉晡時略布薩あり、十四日の如し。
    『椙樹林清規』「月中行事」


江戸時代の中期に差し掛かって加賀大乘寺で編集された清規では、14日・晦日が設定されている。

・〈十五日〉略布薩。
・〈廿九日・晦日〉略布薩。
    『洞上僧堂清規行法鈔』巻2「月分行法」


こちらは、「15日」となっている。『僧堂清規』は、『椙樹林清規』よりも少し後の時代に成立しているけれども、この違いはどこに由来するのか?そう思った時、『僧堂清規』を編まれた面山瑞方禅師が、以下のような指摘をしている。

半月とは、上十五日の白月は、十五日に行じ、下十五日の黒月は、大には晦日、小には廿九日に行ず、白月の十四日・十六日を用ゆること、律に見へたり、
    『洞上僧堂清規考訂別録』巻3「略布薩作法考訂」


さて、ここの「白月・黒月」とは、インドでの太陰暦の考え方とされるが、1ヶ月を2つに分けて、朔(新月)から望(満月)までを白月、望から朔までを黒月とする。そこで、面山禅師は基本を「白月の十五日」と、「黒月の晦日・廿九日」としている。また、「白月」の例外的な感じで、「十四日・十六日」も設定している。

ところで、明治時代になると日本も従来の太陽太陰暦を、太陽暦へと改暦したのだが、具体的には明治5年12月3日が、新暦の明治6年1月1日とされたのである。そこで、太陽暦への改暦によって、江戸時代までの29日・30日が月末だったのが、30日・31日(2月は28日)となったのである。そうなると、「月分行持」は以下のようになった。

・〈十五日〉晡時略布薩。
・〈三十一日〉晡時略布薩。
    『洞上行持軌範』巻上「月分行持」


・・・15日はともかく、31日になった。項目を見てみたら、「○十五日と同じ、小の月は三十日に之を行ふ」とあって、表記としては「大の月」に合わせた様子が分かる。結局、月末の実施に変わりないということになるようだ。それで、先ほどから書いてある通り、曹洞宗での半月ごとの布薩は「略布薩」となっている。何故、「略布薩」になったのかは、これまでも幾つかの関連記事を書いているが、その内にまとめて直してみたい。

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