つらつら日暮らし

「掛錫」について

現代でも禅宗の修行道場などでは用いると思うのだが、「掛錫」という言葉がある。文字通り、行脚する際に携行する錫杖を掛けることを意味するのだが、具体的な意味としては以下の通りである。

  掛錫
今、僧の住処する所に止まるを、掛錫と名づくるは、凡そ西天の比丘、行くときは必ず錫杖を持つ。錫を持つに、二十五威儀有り。凡そ室中に至りては、地に著することを得ず。必ず壁の牙上に掛ける。故に掛錫と云う。
    『釈氏要覧』巻下「入衆」章


ということで、「掛錫」について、要するに行脚していた僧侶が、安居するために道場に入り、そこで「掛錫」を行うことが分かるのだが、気になるのは、室中(この場合は、ただ部屋に入る意味であろう)においては、錫杖を地面に着けてはならないという。そのため、壁の「牙(フックのようなもの)」に掛けておくという。

これ自体は良いだろう。

気になるのは、「錫を持つに、二十五威儀有り」の一節である。これは何か典拠があるのだろうか?調べてみると、『三千威儀経』に以下の一節があった。

 錫杖を持つに二十五事有り、
 一には地の虫の為の故に、
 二には年老いての為の故に、
 三には分衛の為の故に、
 四には出入して仏像を見るには、頭をして声を有らしむることを得ざれ、
 五には杖を持ちて入衆することを得ざれ、
 六には日中の後、復た杖を持ちて出づることを得ざれ、
 七には肩上に担著することを得ざれ、
 八には横ままに肩上に著けて手を以て両頭に懸けることを得ざれ、
 九には手もて掉し前却することを得ざれ、
 十には杖を持ちて舎の後に至ることを得ざれ、
 十一には三師、已に杖を持ちて出づれば、復た杖を持ちて随出することを得ざれ、
 十二には若し四人共行するに、一人、以て杖を持ちて出づれば、復た杖を持ちて後に随うことを得ざれ、
 十三には檀越の家に至りて、応に杖を身より離すことを得ざれ、
 十四には人門に至る時、当に三欬瘶を出さざれば、応当に便ち余処に去至すべし、
 十五には人の出づるを設けて、応当に杖を著けて左肘に之を挟むべし。
 十六には杖、室中に在れば、地をして著せしむることを得ざれ、
 十七には当に自ら持ちて臥床に近づくべし、
 十八には当に之を拭いて取るべし、
 十九には頭をして生有らしむることを得ざれ、
 二十には杖を持ちて出づることを欲すれば、当に沙弥に受け、若しくは白衣に受くべし、
 二十一には病瘦の家に宿するに至れば、応に暮杖を得るべし、
 二十二には遠く送り過ぎ去れば、当に暮杖を得るべし、
 二十三には遠く行宿を請すれば、応に暮杖を得るべし、
 二十四には阿を行じて其れを云い、応に暮杖を得るべし。
 二十五には常に当に以て自ら近づけ、人を指し、若しくは地に画いて字を作ることを得ざるべし。
    『三千威儀経』巻下


以上の通りである。それで、『釈氏要覧』で指示しているのはもちろん、この全てを守るべきだということなのだろうが、特に例示されているのは、「十六には杖、室中に在れば、地をして著せしむることを得ざれ」だったことが分かる。ついでに、「五には杖を持ちて入衆することを得ざれ」も関係あるのだろう。だから、「掛錫」せよ、という話になっている。

それにしても、上記二十五威儀で気になったのは、「四には出入して仏像を見るには、頭をして声を有らしむることを得ざれ」だろうか?これは、仏像を見るために建物に入るときには、錫杖の頭の部分を鳴らしてはならないというのである。仏像を詣でるときには、静かに行うべきだということが分かる。

それから、「二十五には常に当に以て自ら近づけ、人を指し、若しくは地に画いて字を作ることを得ざるべし」は「杖あるある」である。杖で人を指したり、あるいは、それで地面に字を書くことがあってはならないとしている。だが、正直やりそうなことではある。現在、余り錫杖を持つ機会は無いけれども、持つときには気を付けたいと思う。

ということで、ちょっとした学びであった。

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