つらつら日暮らし

「不浄説法」の話

以下の一節を見ていきたいと思う。

 人に接待して我仏法を開演せんとするには、二説あることを知るべし、
 一を善友説と名け、
 二を威儀説と名く、
 苟も此二種を離れて説くに於ては、智弁舎利子・布留那の如くなるを、亦た名けて不浄説法といふ、
    福田行誡上人『説法清規』


江戸時代末期から明治期初期にかけて、浄土宗の近代化を推進した福田行誡上人(1809?~1888)の教えである。そこで、説法のあり方に2種類があって、それを外れると「不浄説法」というと指摘されている。今回はこの「不浄説法」に注目してみたいのだが、『法苑珠林』巻23で『仏蔵経』から引用して、以下のように示されている。

 復た次に舎利弗よ、不浄説法とは、如来の随宜の意趣を知らず、自ら善解せずして、人の為に説く、是の人、現世に五つの過失を得る。何等をか五と為すや。
 一には説法の時、心に怖畏を懐き人を恐れ我を難ず。
 二には内に憂怖を懐き而も外に他の為に説く。
 三には是れ凡夫にして真智有ること無し。
 四には説く所の不浄、但だ言辞のみ有り。
 五には言に次第無く処処に抄撮す。
 是の故に衆の心に恐怖を懐くこと在り。是の如きの凡夫、智慧心有ること無く、決定すること無く但だ名聞を求めるのみ。疑悔の心在りて人の為に説く。
    『法苑珠林』巻23


これは、確かに良くない。まず、そもそもの「不浄説法」とは、如来が宜しきに随って説いた(要するに、次第説法か)その意趣を知らずに、しかも、説法者本人が仏法を善く理解していないのに、他人のために説くことだという。その結果、その本人に5つの過失が生じるという。

具体的には、1:説法の時に、心に恐怖心を懐いてしまい、他人を恐れたりするという。2:心に憂いを懐いているにも関わらず、他のために説くという。3:凡夫のままであり、心には真実の智慧が無い。4:言葉のみの不浄であるという。5:説く教えに次第(正しき順番)が無く、抄撮(いいとこ取り)をしているという。

さて、まず、1・2については、仏陀の教えが、凡夫の恐怖心を除くことを目的にしたものだったことを思えば、説法者本人が救われていないのに、他人に説くことは出来ないといえる。3・4については説明の必要が無い。

今回注目したのは、5である。これは、教えの意義などを正しく把握していないので、次第が無いという。これは、仏陀の教えが、諄いように見えても、相手が理解出来るようにその始終を説いていることから考えれば、結局一部分だけを覚えて、いいとこ取り(抄撮)をしているに過ぎないのである。

結局、この「抄撮」というのは悪質で、場合によっては「断章取義」なども伴うことがある。よって、説法をしている人の言葉を見るときには、その教えの全体を見ていく必要があるのである。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事