つらつら日暮らし

『釈氏要覧』の「戒」という項目

『釈氏要覧』とは、中国の北宋代の道誠によって編集され、天禧3年(1019)に全3巻として成立した。初学者向けの、仏教用語事典のような位置付けであり、日本でもかなり参照されたことが知られる。その中に、「戒法」という一章があるが、当ブログではしばしば採り上げている。

今回は、その名も「戒」という項目を見ておきたいと思う。

  
 智度論に云わく、梵語に尸羅、秦に性善と言う。
 ○古師云わく尸羅、此に戒と云う、止過防非を以て義と為す
 ○増輝記に云わく、戒とは警なり。三業を警策し、縁非を遠離するなり。
 ○優婆塞戒経に云わく、戒とは制と名づく。能く一切の不善の法を制するが故に。
 ○菩薩資糧論に云わく、尸羅とは、清涼の義なり。心の熱悩を離れるが故に。安穏の義、能く他の世楽の因と為すが故に。安静の義、能く止観を建立するが故に。寂滅の義、涅槃の楽の因を得るが故に。
    『釈氏要覧』巻上


以上の通り、「戒」という用語の意義を羅列した文章となっている。まずは鳩摩羅什訳『大智度論』であり、定番の解釈である。そして、次が「古師」となっている。ちょっと調べたが、詳しいことは分からなかった。まぁ、誰かの教えということか。

ここでいう『増輝記』とは『増輝録』とも呼称され、中国唐代の温州希覚律師によって編まれ、全20巻だったとされる(『律宗新学名句』巻下、参照)。それで、中国等で編まれた律学系の文献(或いは『釈氏要覧』でも)には広く「増輝曰く」などと引用されているが、原本自体を当方では見ていない。無いのだろうか?そして、「戒」を「警」だとしている。

『優婆塞戒経』だが、「戒」を「制」だとしている。そして、典拠としては同経第七「業品第二十四之余」となっている。なお、原典の同箇所では、他にも戒の特徴を挙げている。

又復た戒は、名づけて迮隘と曰う、悪法有ると雖も、性、能く容れず、故に迫迮と名づく。
又復た戒は、名づけて清涼と曰う、煩悩の熱を遮り得入せしめず、是の故に涼と名づく。
又復た戒は、上と名づく。能く天に上り、上は無上道に至る、是の故に上と名づく。
又復た戒は、学と名づく、心の調伏、智慧・諸根を学ぶ、是の故に学と名づく。
    『優婆塞戒経』巻7


これだと、「制」と合わせて5つあるのだが、何故か最初の1つを挙げたことになる。でも、よく見たら、「清涼」は次の『菩薩資糧論』を引いて・・・あれ?『菩提資糧論』じゃなかったっけ?『大正蔵』巻32所収の文献は、「菩提」だな。しかも、『釈氏要覧』、他の箇所では『菩提資糧論』といっているのに、何故ここでこうなった?手元にある明治期の版本を見ても、やはり「菩薩」になっているので、もうこれは元々そうなっていた、と考えるしかないのかな。

で、実際の原典を見てみると、引用された文章と少しだけ違っている。

尸羅と言うは、習近と謂うなり、此れは是れ体相なり。又た本性の義なり、世間に楽戒・苦戒等有るが如し。又た清涼の義なり、不悔の因と為し、心熱憂悩を離れるが故に。又た安隱の義なり、能く他の世楽の因と為るが故に。又た安静の義なり、能く止観を建立するが故に。又た寂滅の義なり、涅槃の楽の因を得るが故に。
    『菩提資糧論』巻1


まぁ、微妙に違っているだけで、全く意味が違うことも無いから良いか。しかし、いつも思うのは、『釈氏要覧』ではしばしば、原典と文章が違っていることがあるんだけど、これはわざとそうしているのか、それとも『釈氏要覧』の編者である道誠の手元にあったテキストの問題なのだろうか。

とても有名な文献なので、先行研究くらいありそうなものだが、とりあえず以上としておくか。

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