つらつら日暮らし

続・「名字比丘」について

以前、【「名字比丘」について】という記事を書いたのだが、その続編に当たる記事である。具体的には、「名字比丘」という言葉が用いられている文脈を探ってみよう、という話である。

今回は、日本に於ける末法思想の様相を示すとされる『末法灯明記』を見てみたいと思う。こちらの文献は、古来より伝教大師最澄の著作だとされるが、仮託されたものとされる。なお、同書は文中で問答が続くのだが、その中で「名字比丘」についても論じられている。例えば、以下の問答である。

 問て云く、諸の経律の中に、広く破戒を制して、入衆を聴さず 。破戒尚に爾なり。何に況んや無戒をや。而るに今重ねて末法の無戒を論ず。豈瘡無きに自ら以て傷つけんや。
 答う、此の理、然らず。正像末法の所有の行事は、広く諸経に載す 。内外の道俗、誰か披きて諷せざらん。豈自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。但し今の論ずる所は、末法に唯だ名字の比丘のみ有り。此名字を世の真宝と為して、更に福田無し。設い末法の中に、持戒の者有らんも、既に是怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけんや。


この持戒の比丘を称して、「市に虎有るが如し」とするのは、結構衝撃的だったのか、この文章の引用例は多い。例えば、日蓮聖人は『祈祷抄』と呼ばれる御文にて、「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者は麟角よりも希ならん」という指摘をしている。それで、上記一節では、破戒や無戒の比丘は、大衆に入れないことを示しているが、末法はどうなのか?という話である。

答えは、その道理は、末法では当たらないとしており、末法にはただ名字の比丘がいるだけので、この名字を世の真の宝とすべきだという。そして、末法の世に、もし持戒の者がいたとしても、それは怪異だというのである。妖怪扱いか・・・そうなると、当然にこの話の典拠はどこなのか?という展開になる。

 問て云く。正像末の事、已に衆経に見へたり。末法の名字を、世の真宝と為すこと、何の聖典に出づるや。
 答う、『大集』の第九に云わく、「譬へば真金を無価の宝と為すが如し。若し真金無くんば、銀を無価の宝と為す。若し銀無くんば、鍮石偽宝を無価の宝と為す。若し偽宝無くんば、赤白銅鉄、白鑞鉛錫を、無価の宝と為す。是の如く、一切世間には、仏宝無価なり。若し仏宝無くんば、縁覚無上なり。若し縁覚無くんば、羅漢無上なり。若し羅漢無くんば、余の賢聖衆を、以て無上と為す。若し余の賢聖衆無くんば、得定の凡夫、以て無上と為す。若し得定の凡夫無くんば、浄持戒、以て無上と為す。若し浄持戒無くんば、漏戒の比丘、以て無上と為す。若し漏戒無くんば、鬚髪を剃除し、身に袈裟を著する、名字の比丘、無上宝と為す。余の九十五種の異道に比すれば、最も第一なり。応に世の供を受けて、物の福田と為るべし。何を以ての故に、能く身を破して、衆生に怖畏せらるるが故に。若し護持し養育し安置すること有れば、是の人久からずして、忍地に住することを得ん」と、已上経文。


それで、こちらは、末法の名字のみの比丘を、世の真の宝とするのは、どの聖典に出ているのか?と尋ねており、答えは『大集』第九とあるが、ここが良く分からない。なお、『大集』というのは、『大方等大集経』のことだと思われるが、上記で参照されているのは、同経巻55「月蔵分第十二分布閻浮提品第十七」だと思われる。そうなると、不思議な話となってくる。「第九」とはいったい、何のことなのか?

そもそも、『大集経』は全60巻である。ただし、これは当初の『大集経』に、他の経典を合わせたものだとされ、特に今回見ている「月蔵分」とは、『月蔵経』として単独に存在した経典であったともされる。それで、『法華文句』巻8に「月蔵第九に、法食・喜食・禅食あり、経文總て法喜禅悦と言う」という一節が見え、これも60巻本だと巻55「月蔵分第十二分布閻浮提品第十七」となる。よって、これは、全部で10巻本だったという『月蔵経』の巻数だったのかもしれない。

さて、上記一節だが、世間の宝のランクを例としつつ、上のランクが無ければ下のランクが最上となるようなものだという。仏陀がいなければ、縁覚(辟支仏)が、縁覚(辟支仏)が無ければ阿羅漢が、阿羅漢がいなければ他の賢聖が、賢聖がいなければ禅定を得た凡夫が、禅定を得た凡夫がいなければ持戒者が、持戒者がいなければ漏戒が、漏戒がいなければ剃髪し袈裟を着けただけの、「名字の比丘」が無上の宝になるという。

ここで、確認しておかねばならないのが、「浄持戒」のランクの低さと、「漏戒」という単語である。まず、持戒がここまで低い理由だが、仏教では元々戒定慧の三学という言葉がある通り、戒学を学び、そして定学・慧学と進む。最上は仏陀であるが、仏陀は三学の欠けたる所が無い存在で、無上である。それから徐々に、どこまで出来ているかという話になり、結果として持戒のランクは低くなる。

「漏戒」という単語、一般的には「無漏戒・有漏戒」などとあるべきところ、何故か「漏戒」のみで書かれている。しかし、『大集経』の本文を見てみると、この「漏戒」は「汚戒」となっている。そして、それだとすぐに理解出来る。何故、『末法灯明記』で引用する時「汚戒」が「漏戒」になったのか、ちょっと良く分からないが、「汚戒」なので、破戒などと同じ意味である。

それで、上記一節の引用文に対するコメントが、以下の通りである。

此文の中に、八重の無価有り。いわゆる、如来と、縁覚と、声聞と及び前三果と、得定の凡夫と、持戒と、破戒と、無戒の名字と、其の次第の如く、各正像末の時の無価の宝為り。初の四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。此に由りて明に知りぬ。破戒・無戒、咸く是れ真宝なることを。

結局、八種の無価の内、末法の時には無戒の名字比丘のみだということになる。もう、それしかいないのなら、無戒こそが真宝という話になる。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事