つらつら日暮らし

『彼岸弁疑』を学ぶ④(令和6年春彼岸会5)

『彼岸弁疑』を学ぶ③】の続きである。

 一彼岸、二八月七日に限るの説 善住陀羅尼経に云く、帝釈天の住処〈忉利天〉に樹有り、善住陀羅尼樹と名く、其木華菓倶に衆生の善悪を顕す、月の八日には使者を下し、十四日には太子を下し、十五日には自ら下る。
 所引龍蔵目録に見へず、但し倶舎世間品等に所謂須弥山頂上忉利天善見城東北の角に円生樹有り、西南の角に善法堂有り、三十三天此に集会して如法不如法等の事を評論すと云云、誤て此等の説を云ふなるべし、華菓の義明す所なし、月八日等は白月の三斎日なり、黒月を加て六斎日なるべし、十二月惣て尓なり、今の所用に非ず、何ぞ彼岸の証とするに足んや。
    『彼岸弁疑』巻上・2丁裏~3丁表、カナをかなにするなど見易く改める


それにしても、『善住陀羅尼経』の件だが、とにかく典拠不明。よって、『彼岸弁疑』の著者も『龍蔵目録』を確認したようだが、この『龍蔵目録』というのは、『乾隆大蔵経』のかな?いや、それは時代的に無いか。何だ?良く分からない。

ただ、どちらにしろ、『倶舎論』に善法堂などの話があるので、この説を元にしたのでは無いか?ということだが、この「世間品」についての検討が必要。一般的な『倶舎論』の漢訳では「分別世品」となるが、『倶舎論頌』とか註釈書は「分別世間品」となっているから、おそらく『彼岸弁疑』の著者もその何かを参照したものか。

集会して如法不如法等を論じることだが、「評論」した話となると、唐代の円暉『倶舎論頌疏』巻11が典拠となる。つまり、「城の西南の角に善法堂有り、三十三天、彼に於いて如法・不如法の事を評論す」とある。他は「詳論」となっていることが多いので、この辺の違いは明確。

「月の八日・十四日」などの話について、「三斎日」と「六斎日」として判断していることは、その通りだと思うが、典拠を調べてみると、宋代の遵式による『往生浄土決疑行願二門』という文献に「六斎日とは、白月の初八日、四天王の使者、世を巡る。十四日、四王の太子巡る。十五日、四天大王親しく巡る。黒月の二十三日・二十九日・三十日、世を巡るは、上の白月の次第に準ず、終れば復た始む。若し四王、親しく下れば一切の諸天・星宿・鬼神倶に時に随従す。若し福を修し、斎戒する者に遇わば、諸天、相い慶ぶ」とあって、要するに「斎日」に持戒をする理由が明示されていることとなる。

結局、この辺の説が色々と合揉して出来た説であって、『彼岸弁疑』の著者は、それでは彼岸の証にはならないと批判しているのである。というか、やっぱり「彼岸」を回る論説って、本当に難しいな。

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