つらつら日暮らし

如来が制戒した意義について

とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。

  制戒十益二意
 僧祇律に云わく、
 舍利弗、仏に白して言わく、幾ばくの利益有りて、弟子の為に制戒するや。
 仏言わく、十の利益有り。
  一には僧を摂するが故に。
  二には極めて僧を摂するが故に。
  三には僧をして安楽せしむるが故に。
  四には無羞人を折伏するが故に。
  五には慚愧有る者の、安穏を得て住持なるが故に。
  六には不信なる者をして、信を得せしむるが故に。
  七には正信なる者の益を増す故に。
  八には現法中に於いて、漏尽を得るが故に。
  九には未だ生ぜざる諸漏をして、生ぜざるが故に。
  十には正法、久住することを得て、諸天人の為に甘露門を開く故に。
○摂大乗論に云わく、如来の制戒、二意有り。
  一には声聞の自度の為の故に。
  二には菩薩の自度度他の為の故に。
    『釈氏要覧』巻上


まずは以上である。これは、『釈氏要覧』にてまとめられている如来制戒の意義である。その制戒の意義について、以上の通り、2つの文献から「十益」と「二意」を挙げている。それぞれの典拠だが、前者は『摩訶僧祇律』なのだが、同じ文脈が数箇所に見えるようで、巻1・7・36となっている。後者は、『摂大乗論』巻11となっている。

典拠が確認出来たので、後は内容を見ていく。まず「十益」の方だが、第一・第二は、僧を摂するためのものである。つまり、僧が目指すべき生き方などを明示することにより、仏教の修行者として同じ方向を進ませるものだといえる。第三は、戒律を守る者が、安楽になるのである。第四が一番分かりにくかったが、要するに悪事をしても恥にも思わないような者の態度を折ることをいう。一方で、第五は悪事をして慚愧の感情を得るものは、安穏の立場で住持するという。第六は、不信なる者に信心を得させ、第七は正信を得ている者の利益を更に益すという。第八は、現在の法中で、漏尽を得るという。第九は、未だ生じていない煩悩を、生じないままにするという。第十は正法が久しく住し、天人のために甘露門(優れた説法)を開くという。

個人的には、「第五」が気になるところだったが、掘り下げることも出来ないので、ここまで。

「二意」の方だが、『摂大乗論』は法相唯識系の文献で、完全に大乗仏教であるから、「制戒」の意義についても、声聞乗と菩薩乗とで分けている。つまり、声聞乗の場合は、自度のために戒が必要で、菩薩乗の場合は自度度他(自利利他)のために戒を要するという。

ということで、簡単な記事であるが、如来が何故、戒律を定めたか、伝統的な理由は上記の通りであった。拙僧などが、授業で説明する時には、もう少し経分別などを読み込んで解説するが、些末に過ぎるので、大きな意義としては上記の通りなのだと拝しておきたい。

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