つらつら日暮らし

「因脈会作法」考(2)

既に、【「因脈会作法」考】で見たように、現行の『行持軌範』に於ける「因脈会作法」は、授戒会⇒法脈会⇒因脈会と、本来の授戒会から次第に略されたものであるけれども、その略され方を通して、現行の因脈会がどのような戒学に裏打ちされているかを考察する。

まず、「因脈会作法」とはどのような流れになっているか、簡単に確認しておきたい。

そもそも、宗門が公式に「因脈会作法」を定めたのは、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和27年)であるが、以下のような説明となっている。

 概ね授戒会と同じ。唯、日時を短縮する。長さは四五日、短きは二三日或は一日とすることもある。又、月授戒と称して毎月一回(最後二日行ふ)修行することがある。因脈会には登壇並びに上堂は行はない。又、飯台を略して弁当持参とする。
 迎聖、歎仏、説教、施餓鬼、供養回向、説戒、読経、巡堂、壇上礼、仏祖礼等、授戒会に準じて行ひ、最後に懺悔、教授戒文、正授戒文、因縁脈授与を行ふものとする。(一日、二日の場合は、適当に取捨する。)
    『昭和改訂』263頁、表現や漢字は見やすく修整


以上である。これは、「因脈会(法脈会)作法」であり、両作法が混在し、総論しか論じていないことが分かる。よって、実際にはどのような差定になるべきか、この段階では明確に定めていなかったといえよう。ただし、「最後に」以下の懺悔・授戒については省略されるはずもないから、それまでの供養や礼拝がどうなったか?という感じであろうか。それで、これが『昭和訂補曹洞宗行持軌範』(昭和42年)になると、「因脈会作法」には「小授戒会」という別称が与えられ、説明も以下のようになる。

 法脈会の作法を更に簡略にして、一日にてこれを修する。直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。
 戒師は三鼓、大擂上殿。先ず説戒、終つて懺悔文を唱えしめる。
 室侍長(あるいは随行長)、洒水を行なう。
 次いで戒師は、三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈を授与する。(なお、時間に余裕があれば説教師はこれを布演する)
    『昭和訂補』317頁、表現や漢字は見やすく修整


それで、当記事の問題意識は、この作法にどのような思想が用いられているかを検討するものであるが、これだけではよく分からない。だが、『昭和訂補』には「因脈会行時日鑑」が「一例」という文言付記ではあるものの、一応掲載されている。よって、その日鑑を見ておきたい。なお、同日鑑は、一日で行うことを前提に書かれている。

◎午前
早暁 暁天坐禅 朝課諷経
早晨 小食 内外清掃(大衆のみ)
禺中 戒弟受附 迎聖諷経 啓建歎仏 礼仏
午時 献供諷経 供養諷経 施餓鬼会 午時飯台

◎午後
下午 説戒 説教 礼仏
晡時 因脈授与 送聖諷経 四衆退散
※黄昏以下、項目はあるが差定は無い。


以上である。ここから、禺中(午前10時頃)より受付を開始し、黄昏(夕方)前には終わるという流れであると理解出来よう。そして、一々の項目については、『行持軌範』で意義付けがされているので、それを確認しておきたい。

迎聖諷経 授戒会に必要な三師や歴代の仏祖、戒源師、護戒護法諸天善神などを拝請。
啓建歎仏 歎仏
礼仏 『三千仏名経』により仏名を呼称しながら、戒弟は礼拝。
献供諷経 通常の本尊上供とは、回向文の詳細を除いてほぼ同じ。
供養諷経 いわゆる「法事」。ただす回向文は戒会に相応しい内容へと変更。
施餓鬼会 上記「供養諷経」を更に丁寧に行うもの。
午時飯台 昼食
説戒 戒師や随行長・説戒師により戒が説かれる。
説教 随行長の所轄で、説教師などが説教。なお、説教を行った者は終わるときに、必ず「三宝証明」を祈念。
因脈授与 懺悔・教授戒文・正授戒文・因縁脈授与。なお、四衆登壇は無い。
送聖諷経 三師や歴代の仏祖、戒源師、護戒護法諸天善神などを送迎。


以上である。ここから理解出来ることは、結局、授戒本番である「因脈授与」の前に行われるのは、礼仏と供養が主だということになる。それでは、その礼仏と供養について、どのような目的で行われているのだろうか。例えば、このような「授戒本番」の前に行われる行のことを「加行」という。その意義については、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の指摘が知られている。

 総じて加行と云は、受戒の時ゆへに、日用の勤行のうへに、別行を加増して勤むる意にて、行を加ると云義なり。常の勤行を止むれば、加行の道理にそむくゆへに、課誦坐禅等の勤行をやめて、加行ばかりつとむべからず。
 この懺悔一七日の加行は、梵網瓔珞二経の説に就て、過去現在の罪業を消滅する為に、諸仏を礼するなり。
 梵網に云く、七日仏前懺悔と。また礼三世千仏と。これは経には、見好相の受戒、懺悔の法にて、二七三七乃至一年ともあり。今は現前師受戒の時なれば、見好相には及ばぬゆへに、ただ一七日の修法なり。
 瓔珞には、当に受戒の時に当たりて、先ず過去世、尽未来際一切仏を礼し、未来世、尽未来際一切仏を礼し、現在世、尽現在際一切仏を礼し、是の如く三拝し了れり。法僧も亦然り、とありて、三世の三宝に九拝なれども、今一尊に一拝は丁寧の儀なり。
    『若州永福和尚説戒』坤巻「加行の因縁」項、『曹洞宗全書』「禅戒」巻、172頁上下段


思想的にはまず、この面山禅師の見解が、その後の宗門授戒会の説戒に於いては一般的に用いられているので、ここを見ておきたい。それで、面山禅師はこの「加行」全体を懺悔であるとしている。そして、その懺悔のために礼仏をするのだけれども、『梵網経』の説に拠れば「見好相」のためであるという。これは、『梵網経』巻下「第四十一悪求弟子戒」をご覧いただければ良いのだが、『梵網経』では懺悔をしなければ受戒できないという立場であった。そのため、諸仏を礼拝し、その内に諸仏から許して貰え、そして受戒ができるという話があるのである。ただし、面山禅師は「現在師受戒」といって、目の前に戒師がいる状況であるから、そこまでの徹底した懺悔は要らずに、ただ一週間の修法のみで良いとしている。

然るに、「因脈会」は「授戒会」よりも更に短い内容である。ということは、ここでいう「一週間の修法」も成立していない。しかし、江戸時代より前の受戒では、懺悔に一週間も要した印象が無いため、現在師受戒であれば成立するということなのだろう。その意味では、「因脈会」に於いては、とにかく礼仏と供養という善行を積むこと、そしてそれが懺悔にもなることで、「因脈授与」が成り立つという話になるといえよう。

無論、ここまで考えると、思想的な意義として、「因脈会」「授戒会」の違いをどう理解するかが難しくはなってしまうが、それはまた別の課題として考えてみよう。

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