そして、個人的にはこの一節よりも、次の一文が気になった。
右の外、猶お遺漏多し、今唯慷慨を挙るのみ、蓋し之を賜ふの所由は唐の代宗が不空三蔵上表の勅答に褒崇の典、礼秩を先とする攸、印綬の栄を増さんと俾して、式を師資の敬ふと重すと云ひ、又夫れ妙界で荘厳の土に有り、内品には、果地の殊有り、徳に尚ぶに敬て時典に順ふ本つと等とあるが如し、
本朝にて官位を賜ふも亦是意なり、高野天皇、天平宝字八年、九月の詔に仏教を隆せんと欲するも高位無ければ則ち衆を服することを得ず、緇徒を勧奨せんには、顕栄するに非ざれば、則ち速やかに進ましむること難しとあるが如し、
今、略して本朝の古僧に賜ひし、位官職を挙示せん、
『緇門正儀』9丁表、訓読は原典を参照しつつ当方
この辺から、釈雲照律師が僧に付与された官位について、どういう位置付けをしていたのかが分かるようになっている。つまり、不空三蔵の上表に対して、代宗が皇帝として答える時に、通常のままだと礼儀などは充たすが、仏教としての意義が弱まってしまうため、敢えて師資の敬いを重んじる式を加えたというのである。
そして、雲照律師は日本で官位を僧侶に与えた理由も同じであって、「高野天皇」とは聖武天皇の娘である孝謙天皇になるのだが、これは『続日本紀』での名称であるとされる。そして、天平宝字8年(764)9月(この時は淳仁天皇)に仏教を興隆させる詔を出そうとしたが、特定の僧侶を中心に行わせようとしても、高位が無ければ他の僧侶たちが納得しないと考え、そこで位官職を授けたとしているのである。
個人的には、この辺は「名聞利養」に当たると考えており、それによって僧侶たちの心が動くのであれば、奥深い問題であると思うのだが、理想ばかりでも無いということなのだろう。
本書は、以下、日本の僧官の検討に入っていくようである。よって、またしばらく、この連載を続けていきたい。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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