つらつら日暮らし

『観普賢菩薩行法経』に見る菩薩戒について

以前、【『大般涅槃経』と菩薩戒について】という記事を書いたこともあったが、個人的に諸大乗経典(偽経含む)に見える「菩薩戒」について調べている。他にも、個人的に『梵網経』を学ばせていただいているが、拙僧以前からちょっと気に入らないことがあって、『梵網経』は、「誦戒」を始めとして、儀軌的な側面も見えるのだが、総じてはその意義を説くのが主眼で、梵網菩薩戒を具体的にどのように受けるかは分からず終いであるように思う(中国仏教界では、『梵網経』に授戒儀規を示す一品があったとする人もいるが、本当にあったのかどうか分からない。少なくとも、現存はしていないと思う)。

ただ、当然に教団として、『梵網経』を受け容れていくとなると、それを受者に敷衍していくに辺り、儀軌的な側面が軽いのは問題だといえる。無論、儀軌を作り上げていく過程で、色々な経や律が参照されたのだろうけど・・・始めから儀軌的な要素が具わった大乗経典もある。それは、「法華三部経」の一であり、『妙法蓮華経』の「結経」とも評される『観普賢菩薩行法経』である。

其れ衆生あって、昼夜六時に十方の仏を礼したてまつり、大乗経を誦し、第一義甚深の空法を思わば、一弾指の頃に百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん。此の行を行ずる者は真に是れ仏子なり、諸仏より生ず。十方の諸仏及び諸の菩薩、其の和上となりたまわん。是れを菩薩戒を具足せる者と名く。羯磨を須いずして自然に成就し、一切人天の供養を受くべし。

やや引用文が長くなるので、前後に分けてみた。引用文の前半部分であるが、これは、六時の十方礼仏から始まっている。いわば、1日6回、十方の仏を礼拝することを求めている。更に、「大乗経典」を唱え、「空観」を行うことが出来れば、無限の時間の間に作られた生死の罪を除くという。いわば、同経の主眼の1つである「懺悔」について説いたといえる。実は、後々、曹洞宗の懺悔法にも、「礼仏懺悔」としていくべきか?「対首懺悔」としていくべきか?「実相懺悔」としていくべきか?かなりの論争があったことが、『曹洞宗全書』「禅戒」巻を読むと理解出来る。

現状、曹洞宗では、僧侶の懺悔は「礼仏懺悔」であり、授戒会などの在家信者への教化現場では「対首懺悔」が模索されていると分類出来るかと思う。ところが、同経では、「礼仏」と「実相」とが併修されている印象である。多分、この懺悔法はそのまま、天台宗の行法にも影響しているはずである。無論、独自の体系は作ったようだが、根底にて影響している、基層的文脈として見ていくべきだといえる。影響は中国以東の東アジア全体に見ていくべきか?

爾の時に行者若し菩薩戒を具足せんと欲せば、応当に合掌して、空閑の処に在って遍く十方の仏を礼したてまつり、諸罪を懺悔し自ら己が過を説くべし。然して後に静かなる処にして十方の仏に白して、是の言を作せ、諸仏世尊は常に世に住在したもう。我業障の故に方等を信ずと雖も仏を見たてまつること了かならず。今仏に帰依したてまつる。唯願わくは釈迦牟尼仏正遍知世尊、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧を以て我に清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我を憐愍するが故に亦我が菩薩の法を受くることを聴したもうべし。十方の諸仏、現じて我が証と為りたまえ。諸大菩薩各其の名を称して、是の勝大士、衆生覆護し我等を助護したまえ。今日方等経典を受持したてまつる。乃至失命し設い地獄に堕ちて無量の苦を受くとも、終に諸仏の正法を毀謗せじ。是の因縁・功徳力を以ての故に、今釈迦牟尼仏、我が和上と為りたまえ。文殊師利、我が阿闍梨と為りたまえ。当来の弥勒、願わくは我に法を授けたまえ。十方の諸仏、願わくは我を証知したまえ。大徳の諸の菩薩、願わくは我が伴と為りたまえ。我今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依すと、是の如く三たび説け。三宝に帰依したてまつること已って、次に当に自ら誓って六重の法を受くべし。

さて、懺悔の成就は、同時に「受戒」への道を開く。この場合、当然に『妙法蓮華経』の影響下にある同経に於いて、その「戒」が、声聞戒であるはずがない。「菩薩戒」を受けるのである。なお、十方の仏への礼拝が済めば、同時にその十方の諸仏・諸菩薩は、受戒時に必要な和上となってくれるという。和上というのは、今風にいえば「戒師」のことである。なお、十方の諸仏が和上になってくれるといっても、具体的には釈迦牟尼仏である。そういう細かな儀軌的問題が、後者の引用文にて明らかになる。まず、十方の諸仏に対して、帰依を表明する。そして、釈迦牟尼仏に対し和上となることを願い、文殊菩薩には智慧でもって菩薩の法を授けることを願い、弥勒菩薩にはその受法の許可を求めている。いわば、文殊菩薩は羯磨阿闍黎(教授師)であるといえよう。弥勒菩薩は・・・引請師なのか?この辺は、整合性を求めるのが難しいが、元々引請師は教授師であったのを、強引に機能分化させたらしいから、余りに差異を求めても意味は無いといえようか。

元々、声聞戒の受戒には、「三師七聖」が必要とされたが、三師は以上の通りである。そして、諸仏は「七証」となってくれる。さて、問題は、これらの存在が、現実の我々にとってみては、理念的存在になりつつあるということだ。多くの場合、これらの仏・菩薩は、我々の観念(念仏)以外なら、絵像の中にのみある存在である。結局、そういう時、「菩薩戒」を受けるに辺り、我々は常に理念的である。だからこそ、現実の持戒・破戒を易々と超えて、絶対的な「一得永不失」という「持戒」を可能とする。反面、引用文の前者にある通り、菩薩戒は理念的には常に「自誓受戒」とならざるを得ない。「禅戒」という江戸時代の曹洞宗で作られたカテゴリーでは、「面授」が強調されていたり、その起源的文脈として、道元禅師には「仏祖正伝菩薩戒」があるが、これなどは、本来的に「自誓受戒」になりがちであった菩薩戒の欠陥を埋めたものといえる。

なお、余談的だが、上記引用文を引用しなかった部分まで補って「差定」に組み替えてみるとこうなるのではなかろうか。

・礼仏(懺悔)
・読経(大乗経典)
・坐禅
・戒師請拝
・帰依三宝
・受戒


この「受戒」の内容がやや不明であるが、おそらくは「三聚浄戒」「十戒」であったのだろう。ただ、問題は受けているのが「菩薩戒」だということだけである。しかし、理念的内容である。よって、同経が説かれた時代、それは仏陀入滅後なのだろうなと理解出来るのである。ただ、疑い無く「仏説」ではある。

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