つらつら日暮らし

「木魚」と「木魚」の話

この辺、ざっくばらんに言えば当方の【木魚―つらつら日暮らしWiki】をご一読いただければ良いことなのだが、思うところがあったので、記事にしてみた。

そこで、問題意識としては、現行、我々が「木魚」と思っている法具は、江戸時代に隠元隆琦禅師が伝えた黄檗宗が、持ってきたものだとされている。ただし、その根拠は今ひとつ分からないので、予備的な考察ということで、記事にしてみたい。

まず、木魚について、別には「梆」と呼ばれ、更には「魚鼓」などとも呼称されるものである。そして、その用例としては以下のものなどが知られていると思われる。

次に木魚を打つ、衆僧集定するなり。
    『禅苑清規』巻6「警衆」項


以上の通りで、これは食事作法に関わることだが、修行僧が食事場所である僧堂に集まる合図に関連した記述である。この場合の「木魚」は「梆」に同じである。なお、1103年という『禅苑清規』の成立年代に鑑みて、中国宋代までの記録上、「木魚」とは皆「梆」であった。

よって、鎌倉時代に禅宗が伝来した日本でも、しばらくは「梆」のみが存在していた状況であったと思われる。

その様子が変わるのは、中国明代以降、特に末期に入ってから、浄土教系の記録に、上記の「梆」とは、明らかに違ったと思われる「木魚」について記載されるようになる。

歳に亢旱す。居民、雨を祷ることを乞うに、(引用者註・袾宏)曰く、吾れ但だ念仏を知るのみ、他の術無きなり。衆、固く請す。乃ち木魚を持ちて出でて田塍を循りて行く。
    『浄土聖賢録』巻5「袾宏」項


本書については、18世紀中頃に成立したようだが、以上のように中国明代末期の念仏禅の実修者である雲棲袾宏(1535~1615)が、木魚を持って打ちながら、田んぼを回って雨を祈願したことが書いてある。この時、持っていた「木魚」だが、おそらくは現在と同じようなものだったのではないか?と思っているが、これだけでは少し分からないことは事実である。

なお、以上の内容とほぼ同じ文脈は、袾宏とほぼ同じ年代で、やはり明代末期を代表する憨山徳清(1546~1623)が、「雲棲蓮池宏大師塔銘」を書いて、讃えている。このことからも、持って歩ける「木魚」があったことは確実だったといえよう。さて、そこで、袾宏が行ったのは念仏であったと思われる。要は、木魚を叩きながら、念仏したということになるだろう。

そこで、本来の木魚(梆)については、例えば食事の時に修行僧を呼び集めたりであるとか、そういう役目であった。一方で、後代の木魚については、念仏に使われていたという違いを元にすると、中国の文献で以下の記述を見ることができる。

  木魚
 円木魚、念誦之を用ゆ。相伝に謂く、魚、昼夜に常に醒む。木象の形に刻む。念誦之を撃つ。昏惰を警する所以なり。抑も斉衆音を以てするなり。
 長魚、即ち梆なり。斎堂に懸ける。二時の粥飯、及び晩課、厨房之を撃つ。普請の出坡に三通鳴らす〈客堂之を主る〉。又た浴室に梆を懸け、撃法、浴堂規約を見よ。然らば梆を鳴らすに、亦た諸家、小異有り。各おの随宜に撃を改むべし。
    『百丈清規証義記』巻9


本書の成立は、著者の儀潤による序には、中国清代の「道光三年(1823)」という署名が見られるので、清代でも末期、日本でも江戸時代末期の成立であるから、直接日本の禅宗叢林に於ける諸作法に影響を与えたとは思えないが、清代末期には、中国でも木魚を2種類に分けて、それぞれに役割が異なることを認識していたことになろう。

そして、注目したいのが、「円木魚、念誦之を用ゆ」とあることで、この「円木魚」というのが、現代の我々が思う「木魚」に該当し、いわゆる「念誦」の際に用いるとあるので、これは「念仏」も兼ねていたと見て良いだろう。よって、先に上げた袾宏の振る舞いについて、本書からは時代を遡ってしまうので証明などにはならないが、しかし、状況の一端を知ることが出来たとはいえよう。

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