※未練の波止場〜1957年(昭和32年):KIINA.2008年
https://m.youtube.com/watch?v=d-UssYVZYHw
松井由利夫先生の初めてのヒット曲です。その後松山恵子さんと松井先生のコンビでは、翌昭和33年に「だから云ったじゃないの」というヒット曲も生まれましたね。
松井先生と松山恵子さんのご関係については、「味わい尽くす♬158」で詳しく述べさせていただきましたので、ちょっと本題からズレて、松山さんのもうひとつの代表曲となった「お別れ公衆電話」について。
この曲は1959年に発表されました。1970年〜80年代のJポップでは「電話」や「電話ボックス」が随分歌詞に使われるようになりましたが(湯川先生が作詞された「恋におちて」も電話のダイヤルが重要なキーワードでしたね)、「公衆電話」が男女の別れの手段に使われたのは松山さんの曲がハシリだったのではないでしょうか。
そこで日本の公衆電話の施設数というのを調べてみましたら、昭和30年に全国で約4万台だったのが昭和35年に約13万台以上と3倍に、さらに4年後の1964年(東京オリンピックのあった年ですね)の統計では37万台となっています。
昭和30年代、個人の家庭に電話を置くのはまだ少し贅沢な時代でしたが、街の要所要所には公衆電話があって、気軽に用が足せるようになっていたのですね。
統計によると公衆電話の設置数のピークは1984年の93万台。その後は各家庭の固定電話の普及で徐々に、さらに携帯電話の普及で急速に数を減らしていきましたが、2011年の東日本大震災をきっかけに一定数の公衆電話は確保しておこうという流れになっているそうです。
松山恵子さんのご出身の宇和島駅のホームには松山さんにちなんで「お別れ公衆電話」が設置されているそうです。
汽車に乗り込む寸前に思い余って駅の喫茶店の電話で「さようなら」と告げた女性。今ならLINEで別れを告げるのでしょうか。それともブロックでお終いにするのでしょうか。
公衆電話のもうひとつの使い道。
1974年にかぐや姫が発表した「赤ちょうちん」で、主人公の女性は電話ボックスの中で膝を抱えて泣いています。
私は最初、電話ボックスから彼に別れを告げたのかと思っていましたが、そうではありませんね。その日暮らしの貧しいカップルの三畳間に電話はありませんから。彼と暮らした部屋を身ひとつで飛び出した彼女がずぶ濡れで飛び込んだのが電話ボックスだったのでしょう。
コンビニもまだない時代、暗い街角にぼんやり灯る電話ボックスの小さな空間だけが彼女を温かく包んでくれたのですね。きっと。
どんどん本題から脱線していきますね(笑)。何しろ歴史、特に昭和史が大好きなものですから、KIINA.の歌声を聴いているとイメージがあっちこっちに飛んでいってしまうのですσ(^_^;)
※未練の波止場〜味わい尽くす🎵158
https://blog.goo.ne.jp/tazutazu3232/e/bb2e7b2794e8d5117b846c430f1a1d59