考えるあるみさんのブログ

「たたかうあるみさんのブログ」の管理者が「革命的」に「生産」「労働」と「分配」について考えるブログ

京都で生活補償を求めるデモでありますっ!(写真つき)

2020-06-22 22:12:02 | 政治・経済

 昨日、京都で行われた生活補償を求めるデモに参加してきた。四条河原町あたりからブラブラ北上し、新京極あたりで一休み…その後、京都市役所前へ。毎週水曜日の午後に行われている「座り込み」行動の場所ではなく、市役所南側の歩道上に集合だ。
 告知では13時半集合なのだが、13時にはすでにちらほら人が集まっている…ウクレレを奏でる人が「イマジン(日本語バージョン)」なんかを歌って、ゆる~く始まった。韓国KBS(KBS京都じゃないからね!)の方も見えられて、撮影を始める。

 「解放」とでっかく書かれた赤くてきれいな横断幕も登場!いや、別に解放同盟が組織参加しているわけではないのだが、ある方が「きれいな横断幕を見て欲しいから」と持ってきたもの。

 それでも13時半に、一応集会開始…まず大阪市役所前座り込み行動から、「都構想」や「カジノ・万博」にかまけなぁ~んにも生活補償をしない大阪維新とのたたかい…全ての病院労働者に危険手当を出せ!住民票がなくても野宿労働者に定額給付金を支払え!ということを要求している旨の報告。
 続いてトランスジェンダーの女性から、普段受けている差別や生きづらさに加え、コロナ禍で「医療的な支援」が受けられなくなったことなど、差別が酷くなったことへの報告、そして在日の女性から、コロナウィルスは中国から来ただの、”武漢肺炎”だの、差別排外主義が広がっていることの報告があった。
 そう、この集会・デモの目的は「生活補償」だけではない…これまであった様々な差別や格差・矛盾、そういったものが「コロナ禍」であからさまになったことを訴え、そのような差別や矛盾を無くそう!というのがキモなのだ。
 だいたい60人以上の様々なひとが集まって、デモに出発~

 「生活補償 まだまだ足りない」「賃金補償も まだまだ足りない」「給付に時間がかかりすぎ」
 河原町通を、南下していく。
 「リスクの仕事に 危険手当」「夜の仕事を 差別するな」「個人事業に 補償しろ」「フリーランスに 補償しろ」
 なぜか私は先ほどの「解放」の横断幕を持って歩くことに…

 四条河原町を、左折する…このへんは人が多い!
 「子どもたちに 今すぐケアを」「学費高すぎ 払えない」「金儲けより 市民を救え」「内部留保を 市民にまわせ」まさにその通り…デモはコールだけでなく、なぜデモをしているのか、生活補償を求めるため、声をあげよう!と説明も行う。
 四条通を、東へ…東山、八坂神社に向かってデモするのもオツなものだ。

 「障害者差別を 許さない」「外国人への 差別をするな」「排外主義を 煽るのやめろ」「セクマイ(セクシャル・マイノリティ)差別を 許さない」「野宿者差別を 許さない」「感染者への 差別をやめろ」…このへんが真骨頂!
 「軍事費高すぎ 福祉にまわせ」「京都 沖縄 基地はいらない(京都にも京丹後市に「Xバンドレーダー」米軍基地がある…それに対する反対運動を続けている人も参加しているのだ)」「コロナに乗じた 改憲反対!」
 円山公園の手前…ちょっと坂を上ることになる、炎天下だったら、キツイだろうなぁ~

 「安部は やめろ」「コロナ前から 生活苦しい」「我慢の限界 声をあげよう」「カネより命の 社会に変えよう」「格差をなくせ 差別をやめろ」「みんなの声で 未来を変えよう」う~ん、その通り!

 ホント、たんに生活補償・賃金補償を求める「ゼニカネ」の要求だけでなく、というより、そういった要求がなぜ出て来るのか⁉格差や差別があるからだろう!それを推し進めてきたのが安倍政権じゃないか!みんなの力で変えようよ!ということなのだ!
 円山公園内でデモは一旦解散、その後公園内でかるく交流会(飲み物だけ)

 で、この日は「Black lives matter」デモが京都でも企画されていて、実は円山公園を15時半に出発、市役所へというコース…そのデモにも参加するよ!という人も沢山いた。

 公園内で、デモに出発する人にエールを送る…京都に住む留学生や外国人労働者が主体の、人種・民族も多様なデモ…だいたい1000人近くの人が集まっているのではなかろうか…という感じだった。
 ではでは(^^)


MMTの特徴と問題点(メモ)…マルクスに戻って批判しなければならないらしい

2019-11-15 13:41:43 | 政治・経済

 「反緊縮」「政府がお金をつくって財政出動」の理論的根拠とされるMMT(現代貨幣論)について、興味深い論考があってので紹介&メモである。ハーバー・ビジネス・オンライン(フジサンケイグループらしいのだが、なぜか政府・政権や保守的な考え方に批判的なサイト)における、結城剛志氏による参議院選挙前の連載記事から…リンクとコピペ

現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回>
 MMTは貨幣論です。これを財政・金融政策を論ずる政策論の次元で評価しても空振りに終わります。既存のMMT批判は、政策論の根幹にある貨幣論に届いていません。(中略)
 MMTの貨幣論は、中野氏が「国定信用貨幣論」と呼ぶように、国定貨幣論信用貨幣論の合成です。これらは一般に相いれるものだとは考えられず、2つの異なる貨幣論があると考えられてきました。(中略)
 MMTによれば、貨幣は本質的に債務であり、国が創るものです。そして、債務が貨幣の本質なので理論的には現金のない信用経済を考えます。信用経済とは、貸借によって成り立つ経済です。(中略)
 問題は、国と国民の間の国定貨幣循環(タテの循環)国民間の信用貨幣循環(ヨコの循環)が、理論的にはパラレルな関係になっていることです。レイは、国が国民に課税し、国民が国に納税するという権力関係を、私人間の信用関係と同じレベルの債権債務関係に類するものだとみなし、タテとヨコの本来交わらない「デュアル・サーキット」(二重の貨幣循環)債務というひとつの契機でつなぎました。ここがMMTの要石です。拡張的な財政政策は貨幣論から自然に出てくるものであり、いくら政策を批判してもMMTの土台をなす貨幣論はまったく揺らがないのです。 しかし、税を課し、税を支払わなければ罰するという権力関係と、商品の売り買いから生じる信用関係とは本質的に異なるものです。くわえて、国定貨幣が国家権力に基づいて創出されるとの想定が適切ではありません。かりに、国が純粋に力で商品を買っているのだとしたら、それは購買ではなく、徴発です。国が商品を買うためには、市場がもたらす価値を国に引き上げるほかありません。つまり、課税を通じて、市場で生み出された価値を集めて使うかたちになります。(中略)
 税債務としての貨幣が、信用貨幣のように私人間で広範に流通する根拠が示されていません。MMTは、国と国民の間の権力関係から生まれる徴税と納税の関係と、私人間の商品売買関係から生まれる債権債務関係という、まったく含意の異なる社会関係を同じものとみなしている点で決定的に誤っているのです。(中略)
 現代のお金はお札(銀行券)と預金です。ミクロ・マクロ経済学に代表される現代の主流派経済学は、現代のお金を適切に説明することに成功していません。この問題に正面から切り込んでいる点でMMTの研究姿勢は真摯であり、評価できます。(中略)
 MMTは、現代の通貨が兌換のない信用貨幣であることを適切に説明しています。そもそもの問題は、現代の主流派経済学が、不換銀行券と預金通貨からなる現代のお金を整合的に説明できていない、という点にあります。この問題を解決することなく、MMTがいいとか悪いとかいってみてもほとんど意味がありません。(以下略)

現代貨幣論(MMT)はどうして間違ってしまったのか?<ゼロから始める経済学・第8回>
 前回は国定貨幣論と信用貨幣論の関係をみました。今回はMMTにおける商品貨幣論の取扱いについて説明します。MMTが信用貨幣論の着想を受容しながら、国定貨幣論との無理な結婚を迫らざるをえなかったのは、商品貨幣論とのつらい別れがあったためです。過去の商品貨幣論がしっかりしていればこうはならなかったでしょう。  多少なりとも貨幣的な経済学に触れたことのある方であれば、信用貨幣論が国定貨幣論と仲がいいなどという考えは通常とりえず、むしろ商品貨幣論と親和的であることに気づきます。商品貨幣論をベースに信用貨幣論を発展させられていれば、こんなことにはならなかったのです。それができなかったのは、もちろんMMT自身の限界ではありますが、商品貨幣論側にも問題なしとはいえなかったでしょう。(中略)
 本稿で問題にしたいのは、MMTでは、商品貨幣論と金属主義的な貨幣観との混同がはなはだしいということです。お札と「金(=gold)」との交換が約束された金本位制のもとでは、お金の価値は「金」によって支えられていると考えることができました。しかしそう考えると、「金」との交換ができない現代のお金の価値を説明できなくなります。MMTは、「金」と商品の区別がつかないために、「金」による説明原理を失った途端に、商品貨幣論そのものを否定し、国という外部の要因で説明するしかなくなってしまうのです。(中略)
 金属が貨幣の本質だと考える見方はたしかにおかしく、現実を説明できません。ところがMMTでは、金属主義としての商品貨幣論は採りえないと考えるがゆえに、国家の力によって貨幣に価値を与えるとする国定説に助けを求めてしまうのです。金属主義批判には一理あるものの、解決法は下策をいってしまいました。

 実際、内藤氏の批判の矛先は新古典派の経済学者を念頭に向けられており、またその問題点を、物々交換モデル、お金を交換の道具と考える説(交換手段説)、物価がお金の量で決まると考える説(貨幣数量説)においている点で、マルクスの商品貨幣論とは無縁です。内藤氏は慎重に断っています。 「ここで批判の対象としている商品貨幣説は、メンガーに代表される新古典派的、オーストリアン的な理論である。マルクスおよびマルクス経済学に関しては、ここでの批判が単純に適用しうるかどうかは、それ自体大きな問題であると思われるため、ここでは扱わない。」(『内生的貨幣供給理論の再構築』)(中略)
 これは経済学の初歩の初歩ですが、そもそも新古典派に商品という概念は存在しません。新古典派が考える市場で取り扱われる「物」は財です。したがって、新古典派の商品貨幣論といわれているものは、厳密には財貨幣論というべきものです。財交換または物々交換に基づく理論だからです。(中略)
 さて、商品の概念はマルクスによってはじめて与えられたものです。これは「物」(財)でもありませんし、金属でもありません。市場で売られているすべての「物」が商品です。つまり、みかんも著作権も等しく商品であり、かたちがあるとかないとか、金属か非金属とかいうことは関係がありません。商品には、売り物としての価値がある、これが貨幣の基礎なのです。
 
マルクスは、古典派の物々交換論を捨て、商品がお金で売買される資本主義論として経済学を再構築することで、古典派・新古典派、そしてMMTが解決できなかった商品貨幣論と信用貨幣論との関係を説明したといえます。  商品貨幣論に結びつけられた信用貨幣論の知見は極めて常識的なものです。すなわち、貨幣の価値は、銀行システムを媒介にして、市場で売買されている商品の価値にリンクされます。財政は、税を通じて市場で生み出された価値を集めて使うだけです。魔法を使う余地はどこにもありません。MMTが、物価という恣意的な留保を付けて、無制限ともいえる財政支出を容認してしまうのは、貨幣を論じるときに市場との関係をいったん切って、国の力という外部的な要因を持ち込んでしまうためです。財政を市場から遊離させる理論的な操作をしているようにもみえます。(以下略)

 長々と引用してきた…私も含めた「左の人たち」も貨幣論についてはほとんど考えたことがないだろうから、ちょっと難しいかも知れないが…貨幣論はどうやら「商品貨幣論」「信用貨幣論」「国定貨幣論」の3つがあるらしい(それ以外にもあるカモしれない)。現代は「商品貨幣論」が成り立たないので、貨幣を説明するには「信用貨幣論」か「国定貨幣論」であろう。で、「国定貨幣論」の「貨幣の価値は国家が(徴税を通して)恣意的に決定できる」ことはやっぱり問題だね…商品の価値と結びつかないで、国家が決めれるものでもないでしょう。「信用貨幣論」も、その価値は売買される(ハズの)商品の価値に裏打ちされているモノ…そーゆーことはマルクスがちゃんと言っている!のだそうな!?へへへ。

 ということで、MMTをちゃんと批判しようと思ったら、やっぱりマルクス・資本論に戻らないとイケナイというお話らしい。

 蛇足だが、初めの紹介記事の後半はアベノミクス批判にもつながり、次の紹介記事の後半はMMTを紹介した中野剛志氏への批判でもあるのだが、そのツッコミが逆にMMTが展開する社会を見据えたかっこうになるので興味深い。


発想を転換して、お勉強宣言

2019-06-30 15:36:05 | 政治・経済

 前回までの議論で、かなり「マルクス主義」から離れてしまった。
 MMTというのは、現代のニューケインジアンらも依拠する論理で、米上院議員バーニーサンダースの経済顧問であるステファニー・ケルトン(ニューヨーク州立大学スト―二―ブルック校教授)がMMT派であるという。またアメリカ民主党で史上最年少議員となったオカシオコルテスが支持しているということでも話題になっている。

 それはともかく、本ブログで今のところMMTのお勉強をするつもりはない…
 研究するのは需要不足(デフレ)下で政府支出によって需要を喚起する「ケインズ政策」を実施することが、マルクス主義的にみてどうゆうことなのか?ということをやってみたい。
 その前に…マルクス主義の体系は「需要不足」ということは考慮されていない。需要が不足する=供給が過剰→ → →過剰資本を問題としている。資本が「過剰」になれば、破綻していくというものだ。
 ただし、G-W-G´において、WからG´への転換が「全て、確実に」行われる…と仮定されている。これは「セイの法則」といって、「非貨幣市場の総供給と総需要が常に一致する」という原則、すなわち「作ったモノは必ず市場で全部売れる!」という原則(原理?)をリカードが採用し、マルクスも取り入れているからだ。
 ちなみに「総供給と総需要が常に一致」というのは、現代の新古典派でも暗黙的に採用されており、これが新古典派が労働市場に対し楽天的な見方…失業は存在せず、現在ある失業は雇用のミスマッチに過ぎない…てなことを支えているのであるが、それはおいておこう。
 この「セイの法則」はケインズの「一般理論」によって否定されている。

 マルクスに戻ろう…ただし「セイの法則」が成り立たない世界において…過剰資本であればWは需要以上に生産(需要不足)され、全てが貨幣Gになるわけではない。G=W>G´となり、倉庫に余ったWが退蔵される。現代では、需要に合わせて生産量の調整を行うので、Wが余ることはないが、最初から少なく生産するので、G>W=G´いずれにせよ、資本は増殖しない。で過剰なGが増殖先を見つけてさまようことになるわけだ。
 この状況が不況であり(恐慌ではない)その解決策として?ケインズは政府支出によりG-W-G´がまわるようにしましょう!と言っているわけだ。政府支出の「財源」として、ケインズはふつうに「税金」としているわけであるが、現代の左派、ニューケインジアンは富裕層への課税強化(収奪)およびMMT理論に基づいた政府債券発効…自国中央銀行引き受け…となるわけである。 

 また、マルクス主義的な考察にあたっては「資本主義の終わり論2」にいろいろ示されている再生産表式、すなわち…①    資本を生産財を生産する資本Ⅰ(部門Ⅰ)と、消費財を生産する資本Ⅱ(部門Ⅱ)に分類し②W=C+V+M…生産物は原材料などの元からあった価値Cと、労賃(可変資本)Vと、剰余価値Mの和である③部門Ⅰの生産物はⅠ(C+V+M)、部門Ⅱの生産物はⅡ(C+V+M)と表す…てなことから、単純再生産・拡大再生産過程を考え、「資本主義の終わり」を考えてみる…要するに、資本論2巻20章、21章を再度お勉強しつつ、若干の「ケインズ的」考察をしてみよう…という大胆な試みをしてみよう!というものである。

おまけ…関西本線亀山駅にて、キハ120形


考えるあるみさんのブログ…準備中!

2018-08-24 15:40:02 | 政治・経済

 なぜかgooブログのアカウントを取得してから、ほったらかしにしていたブログを「始動」させることにしました。タイトルは「考えるあるみさんのブログ」です。  テーマは「生産、労働と分配」です…具体的には、「AIやロボットが人間の労働を『置き換えた』時、どうなるのか?」や、「(資本主義的生産関係をそのままにしたまま)ベーシック・インカム(BI)を導入したら、どうなるか?」ってなことを考えます。もちろん、ベースになるのはマルクス主義的、資本論的なものになります。また、かなり原理論的、思考実験的なことをやろうと思っていますので、「考える事例」はかなり極端な前提で組み立てることになります。 

 本家「たたかうあるみさんのブログ」でやってもエエんだけれど、ひとつのテーマ…といっても今、上げた事例だとかなり離れているように見えますが…に絞ったものを作ってもいいかなぁ~っと思った次第で、ハイ(^^)

 更新は月に1~2回ぐらいのペースで考えております。

 実は9月1日で、本家ブログが開設10周年になるのですね。そうゆうこともあって、ネットとの付き合い方も含め、今いろいろ見直しているところなんですね。

 本家ブログのほうも、形は変えませんがリンクとか修正していきますよ。


おまけで鉄道画像をアップロードしておきます…ではでは。