多摩川 健・・リタイアシニアのつれずれ・・時代小説

最近は元禄時代「寺子屋師匠 菊池三之丞 事件控え」全30話書いてます。週2-3回更新で順次 公開予定。

泥棒村  後編

2024年05月27日 17時37分39秒 | 時代小説

 

 

 

 

 師走の二十四日夕刻。半年間鍛えた操船を、身をもって試す時が来た。半七と筏職十名。 みのすけと強力百姓四名は、大船を、江戸に向けて釜石浦からまさに出航させるところであった。同時にはやばしりのよしは、飯能河原に走った。 船上ではみのすけたちが、足回りの手甲脚絆、黒装束、工具、食料の点検をしていた。こちらは大船の別動隊が総勢十五名。飯能河原の村からは頭の捨松、弥助ほか十七名。総勢で三十二名の、五年がかりの大部隊であった。訓練のおかげもあって、大船は穏やかな波をけって南下し、銚子沖を二十五日には超えた。

 

   暮の二十八日夕刻。今日も江戸の町はよい天気だ。三之丞は稽古で汗を流し、牛込の道場から長屋まで戻り、井戸で洗い物をする。

「お師匠様。お帰りなさい」

「おうおう、はなと里ではないか。どこへでかけるのじゃ」

「はい かかの許しをえたので、二人で増上寺まで行くところよ」

   年上の里が答える。

「もう夕の刻だ。二人きりなら、すぐに帰るのだぞ」

「はい。お師匠様」

 と二人が手をつなぎ木戸を出るとすぐに、見慣れぬ男が、木戸を入り井戸端の三之丞をすり抜け、足早に北東のおいとの家に向かっていく。

・・・・・はて、おいとさんはまだ大黒屋のはずだが。届け物かな・・・  

  寺子屋に戻り居間で茶を飲んでいると、表から弥生の声がする。

「兄上 お帰りでございますか」

「今、稽古から帰ったところじゃが、よく参るのう。何用じゃな」

「お母上様からの書状を持ってまいりました。兄上の縁談ですよ。羽生家の娘御で、よいご縁ですから、すぐに返事をするようにとのおおせです。すぐに返事をしたいから、今晩、必ず築地の家に来るようにとのお言葉でございますよ」
「わかったが、まだわしにはその気はないのでのう。困ったな。丁寧にお断りはできぬものかな」

   と母上の書状を傍らに置く。

何か気になることがあるようだ。弥生は兄のしぐさで分かるのだ。

「前にも話したがな。このところおいとさんのところに、飯能の村からよく人が出入りするのでな。先日は、川越で助けていただいた村医者方徳さん。今日もおいとさんが、大黒屋の務めのはずなのに。また知らぬ男が家に入って行った。届け物にしてはのう。男が帰らぬのもなあ・・・・不思議な気がしてな」

「それではおいとさんの家を訪ねて、男の方に・・どんな御用かとお聞きしてはいかがですか」

   と弥生は澄まして言う。

「ま・・そこまで詮索するわけにはいくまいて」  

「ところで母上へのご返事はいかがいたしましょう」

「お前から、まだその気がないようだと、母上に話してくれないものかのう」

「あら。いやでございますよう。兄上から今晩直接お話しくださいませな」

「ひとまずわたくしは築地に帰ります。今宵、必ずおいでくださいませよ」

  

それから一刻。新橋の金春湯屋に出向き、ゆっくり湯につかった三之丞は、帰りに店じまいした煮売りやおみよの店によって、頼んでおいた野菜の煮しめとイワシのめざしを受け取ると、遅い夕餉をゆっくりと食べ終わった。明日の子供たちへの手習いの準備も終わり、床をのべようとしていた。時はすでに子の刻に近い。入口をたたく音が聞こえた。

「兄上、兄上。まだお休み前ですか」

 弥生の声がする。外は漆黒の闇だ。

「なんだこんなに遅く・・一人でまた参ったのか」

「母上がどうしても、今晩中でとお待ちでございます。どうしても連れてこいとのおおせでございますよ」

   苦笑しながら三之丞は袴をはいた。

二人が外に出たその時・・三乃丞が門口で立ち止まり、ふーと天を仰ぎ見るとじっと立ち止まったままであった。

 鋭い直感が三之丞を貫いたのだ。前にもしばしばこのような兄の直感に驚かされた弥生は・・思わず、

 

「いかん。この辺りで何か大事が起こるぞ。弥生はしばらくここにおれ」    そういうと、井戸端から向こうの長屋の端まで確かめに行った。北西の角のおいとの家の方向から、黒い影が飛び出し木戸へと駆け抜ける。

「弥生。今の男を追うぞ。大丈夫か」

 その時黒い影の男は、木戸を大きく飛び上がり、通りを新橋方向に走る。

「兄上。何者でしょう。おいとさんの家からですね!」

   三之丞と弥生は新橋方向に宇田川町から柴井町へと、男の後を追って走る。右に浜御殿と松平肥後守屋敷。露月町の角まで来ると、三之丞は立ち止まり、無言で姿勢を低くしろと弥生に合図した。

先ほどの男の影は見えない。と、 その時、浜御殿の海の方角から十数名の黒装束の賊が、西の源助町の方向に、疾風のような速さで走り抜ける。西の方角からも、別の十数名の黒装束の男たちが、あっというまに源助町の大黒屋の前で合流する。一団は勝手口に回り込み、大黒屋の屋敷内に消えた。くらい静寂だ。

「どうするべきか」

 三之丞と弥生が、南町奉行所に走ろうとしたその時、三十数名の黒装束の賊たちは戻って、三丈間隔ほどで、浜御殿横の海に向かって走る。その先には大船が待ち構えていた。

「なんと準備の良いことだ!」

二人は驚いた。大黒屋からは、千両箱が手渡しで三十数名に引き継がれ、大船にあっという間に入ってゆく。猶予はない。まことに驚くはやわざだ。大黒屋の店の者たちはなんとしたことか。

「弥生。わしはあの大船の行く先を見届けねばならん。江戸湾に入ったからには、海から千住の河口か、西なら三浦から、伊豆半島方向に向かうだろう。わしの勘では千住方向だ。深夜だが、そなたは直ちに南町奉行所にいきさつを届け出ろ。築地の家から馬を用意し、千住の河口に向かってくれ。あの大船は河口口までしか入れんだろう。多分積み替えを準備していると思われる。頼んだぞ」 

  三之丞は東の両国方向に向けて走る。

「兄上。お気をつけて、相手は三十数名と思われますので!」

 と声をかけると、新橋から数寄屋橋の南町奉行所へ、弥生も漆黒の闇を走った。

 

 

 この疾風のーーいただきーーから一刻前のことであった。

西川の捨松は、増上寺方向から師走の寒風の中を二十名ほどで芝、源助町の大黒屋に向かって、音もたてずに走り着いていた。三十数名で勝手口から一階の店内に入る。夕餉の後か十名ほどが眠りこけ、ぐったりしていた。その中には、手引きのおいともいた。奥の店主夫婦の寝間に回ってみると、ここでも夫婦は昏睡中。まことに見事な薬草の効き目であった。かねてのつなぎのとおり、化粧棚の三段目から本蔵のカギも出てきた。

「予定どうりじゃ。皆の者。千両箱を、大船まで引継ぎで渡すのだ」

泥棒村の三十数名の賊たちは一気に店から大船まで走った。そして千両箱が、次々に大船へと運び入れられた。半時もかからない五年準備の早業であった。

人の命も殺めず、女子供も犯さず、本蔵から、二百箱近い千両箱の内、きっちり百箱ーーーいただいたーーーというわけであった。

「予定どうりであったな。おいとも、よく辛抱して成し遂げてくれた。さあ皆。大船に引き上げだ。千住でもう一仕事、残っておるからのう」と捨松。   

 

 

三之丞は師走の闇を両国橋をぬけ、三ノ輪から千住に向けて走る。芝の江戸湾から大船で北を目指すなら、まずは千住の河口であろうと直感が告げていた。 

千住の宿場を超え大橋を渡る。右は荒川、大川から江戸市中へ。左は千住の河口へ向かう土手であった。暗闇の向こうから海のざわめきが聞こえてきた。  いた!  大船は砂州の先に、すでに係留されていた。下には小舟が四艘。まさにいま、黒装束を脱いだ屈強の男たちが、千両箱を小舟におろしている。薄い月明かりの先で、頭と思われる男が声をかけていた。土手の右側に杉林があり、小さな地蔵堂があった。地蔵堂に姿を隠し、船の行方を見定める。宿場の方角から、馬に乗った弥生がやってくる。朝明けに、近づく影が大きくなる。

「おい ここだ」

   三乃丞が一声かける。弥生は地蔵堂の蔭の柱に馬をつなぐ。

「兄上。ここでしたか。大船から、あの四艘に荷下ろしして、どこに向かうつもりでしょうか。南町奉行は二手に分かれ、西は東海道三浦方面と、こちら東は千住から銚子方向に向かう手筈ですが、到着は明け方になりましょう」

「それまでに、行き先を確かめねばならぬな。四艘が川を上り始めたぞ。われらは二人だけ。向こうは数十名の屈強な男どもだ。うかつなことはできんな。まずは悟られぬように、船を追って、奴らの拠点を突き止めねばならん」

「兄上の縁談話が・・とんだことになりましたね。父上も母上も、必死で止めましたが、概略だけ話して馬で飛んでまいりました」

   気負いたつ弥生。「この馬で、賊どもを追うことができる。一人ではとてもな。しかし弥生。今後、無理はいかんぞ。腕に覚えがあろうとも、多勢に無勢であるからな」

   うっすらとした明かりの中を、四艘が北千住から荒川をさかのぼる。漕ぎ手は、熟練のようで船足は相当に早い。川越からさらに入間川上流に入ってゆく。やがて川が二筋に別れ、入間川本流から右手の飯能方向に入る。土手沿いをわずかな提灯の光で、馬上は前が三之丞、後ろが弥生であった。あたりは川越藩の所領であったろう。しばらく進むと入間川が川上から大きく蛇行する地点。 飯能河原で四艘の船は係留し、千両箱を、河原の横の広場に降ろし積み上げた。あたりは、朝のひかりが立ち始めている。土手の手前で、馬から降りた二人はその様子をうかがう。さてどうしたものだろうか。

 「思いの外にうまく運んだな。さて最後のの仕事じゃ。皆頑張っておくれ」 広場の奥には杉、檜が筏としてにいつでも組める状態で大量に置いてある。百姓強力みのすけの合図で、十人の屈強な男どもが、奥まった個所の杉や檜を運び出す。

ーーなんとその地点には、鉄の板で頑丈に入口を覆った竪穴の入口が現れたではないかーー

筏職の男も加わり千両箱、百箱はあっという間に地下に運ばれた。

あとはまた杉、檜で入口をすっかり覆い、その上にまた大量の杉、檜を載せた。 

「さて。これで良し。この百箱と、ためておいた百箱。合計二百箱あればここ、五年は持つであろうな」

   頭の西川の捨松は満足そうだ。

「当分は大丈夫でしょう。うまくいきましたね。五年間の準備が」

   補佐の弥助も満足げにうなずく。
「では弥助さん。皆を帰しましょう。明日からはまた・・今までどうり平穏に西川材の仕事に精を出してな・・・・」

    いつもの村人にかえって皆が家に戻る。


「まあ、ともかくも、この不思議な村の内容を調べねばなるまい」

   驚く三之丞。

「まるで夢のような・・・・・村の男たちがほとんど大泥棒んて・・」

  弥生も茫然とつぶやく。二人は頭と思しき男の後をそっと追う。

ーー後ろから人の気配を察知しながらも、捨松はゆっくりした足取りで、落ち着き払って左手奥の、やや大きめの百姓家に入っていったーー

「ここは多勢に無勢。われら二人ではいかんともしがたい」

  百姓屋の入り口脇、薪を積んだ一角で、二人は中の様子を探ろうと・・その時・・・・・・

「こんなに朝のはようから何かご用かな」落ち着いた声だ。

  しまった。きずかれたようだ。さすがに勘の鋭い男であった。

二人はじっとしばらく無言。飯能河原の宵が明けようとしていた。

「ま。そこでは、寒いじゃろうて。おはいり」

  二人は迷ってまた無言。

その時三之丞の直感が頭を貫いた。目顔で弥生に合図を送ると扉を開けた。

大きな土間と左右は、何段もの棚が並び道具類が整然と詰まっている。その正面に囲炉裏が切ってあり、正面に白髪の老人がこちらを凝視している。再び無言。

「そこへお座り。若衆。おお、おう。凛々しい娘さんも一緒かな」

  優しい言葉とは別で、二人を見定めるしもぶくれの顔の瞳の光はまことに鋭い。

 危害は加えられないと三之丞の直感が告げていた。意を決して、

「今宵。芝、大黒屋から大船で千住河口へ。積み替え荒川、入間、そしてここ飯能河原まで、すべて見届けましたぞ。ま。 芝での偶然からですが。まことに驚いた大泥棒で言いようもない」

  弥生もうなずく。捨松は依然二人を凝視して品定めであったが、彼にも直感があった。わきまえのある若者であろうと。囲炉裏の炭火をおこし、土瓶の湯を茶入れに注ぐと、二人に差し出す。

「それはそれは。すべて見られてしまっては、観念せねばならんかのう」

「整然たる所業は、見事と言わざるは得ないが、泥棒は泥棒。このままにしておくわけにはいかんだろう。まもなく、江戸から奉行一行が来る手筈をしてある。ここは神妙にする方がいいのでは」

   ゆっくり毅然と三之丞。

「そうか。奉行たちが来るまでに間があるならば、少しわしの話も聞いてもらおうかの。少し長くなるで、ゆっくり茶で、手足を温めて聞いておくれ」

ーー信頼せよと直感が告げた捨松はゆっくりと村のいきさつを話し始めたーー

ーー自分は東北、釜石浦の生まれであること。漁師の息子であったが海よりも山や樹木が好きであること。秩父のこの山中に、良質な杉やヒノキが豊富にあること。四十年前から東北一円の飢饉で悲惨な暮らしの農民や漁民と、この地に移り住んだこと。二十数年前からここ飯能、川越、深谷、熊谷などの洪水や飢饉での悲惨な生活を見かね、「いただき」を始めたこと。そして今宵の五年がかりの、芝大黒屋での顛末。今回を含めこの村には千両箱が二百あること。これで当分数年は近隣・近郊を助けることが可能なこと。そして・・・・すべては自分一人の責任であって、村人は従わざるを得なかったであろうことーー
   話し終わると、捨松はほっとした表情で二人を見た。 

「あなたの話は承った。同情の余地もあるが、それと犯した罪は別であろう」

「それは覚悟はできているさ。ただ村の女子供や若衆たちは、何とか軽い裁きというわけにはいかんものかの」

   弥生も小さくうなずいている。

「できる限りの口添えはしてみよう」

  三之丞もそういうほかはなかった。

 

 夜が明けた。南町奉行所からは与力服部采女之介を頭に与力三名、同心三名が村に到着した。服部は御家人の出であった。三之丞は昨晩からこの明け方までの顛末、また頭の捨松の話など詳細に報告する。

 服部は落ち着いた大柄、で顔の小さな心きく与力であった。川越藩への応援も頭をよぎったようであったが、今宵の主犯捨松と弥助。他数名の主だった男、合計五名を捕縛し、奉行所に引き立てることとした。ほかの村の者たちは追って沙汰があることを告げる。

「弥生。馬で。そなたは直ちに兄上と父上に、事の次第を知らせなさい」

  その時三之丞の頭をよぎったのは、ことの重大さと、隠居とはいえ父と柳沢吉保公との関係であった。奉行から老中には即刻報告が行くであろうことも。

「兄上。それではお先に。お気をつけて」

   火急を悟った弥生でもあった。

 

 

  築地の屋敷につくと直ちに弥生は二人の兄上と父の居間へと急いだ

「何。千両箱が今宵で百箱。村には二百はあろうと。芝の大黒屋といえば綿糸問屋でも屈指の大店。一人も傷つけずにし遂げただと。大事じゃ!」

  普段は物静かな父が真剣なまなざしで一瞬考え、言った。

「柳沢公のところへ参るぞ。太郎左衛門。弥生も同行せよ。次郎左衛門は屋敷でわれらが連絡をまて」

  まだまだ衰えていない左衛門であった。

 

明けの四つ。常盤橋の柳沢屋敷では吉保が登城に備え、腰元の介添えで召し換えの最中であった。

「なに。朝はようから菊池が息子、娘と参ったと。火急とな。よしこのままでよいからこの間にとおせ」

   直ちに着替えの間に三人が平伏した。

「菊池殿。朝はようから何事じゃ。おうおう。そなたが娘の弥生殿か。また凛々しいお姿じゃな。剣術のほうも相当と聞いて居るが」と吉保。

「殿。朝はようから、ご登城の折にまことに失礼仕りますが・・」

    と事の次第を述べた。

「弥生。付け足すことはないか」弥生は平伏のままであった。

「む。さようなことが・・・・千両箱で二百か。おそれいったな」

  じっと庭の先を凝視していた。考え事があるようだ。三人は黙ったままだ。

「あいわかった。登城して老中、奉行からも話があるだろうて。大儀であった」

 

  江戸城本丸。通称大城では明八つ。将軍綱吉の執務開始の時間であった。

 平伏する吉保。綱吉の機嫌は普通だなと顔色から判断すると、大黒屋の昨夜の件を順を追って話し始めた。

「・・・・という次第でございます。まことに恐れ入った大泥棒。泥棒村でございます。が・・しかし飯能の河原の村にはなんと二百箱の千両箱がございます。・・・・・・・・・そのほとんど百五十箱を差し出させてはいかがでしょうか。もちろん頭と主だったもの数名は捕縛いたしておりますれば・・処罰することはできますが。村内の女子供 若衆はなんとか助けてやるわけには・・・・・・・」

「なに。柳沢。御政道を曲げろと申しておるのか。まことに不届きな奴らだ。それに差し出させるとはどうゆうことだ!」

「は。恐れながら・・・・海に運搬中の捕り物で、賊たちが箱をすべて江戸湾に沈めてしまったという次第では・・・・・」

   上目で御上をうかがう吉保。

「大黒屋に全額返却せぬのか。それこそ、われらが大泥棒ではないか!」

「御上。大黒屋はまだまだ千両箱が百箱以上残りおり、傷ついたものとて一人もなく立派に立ち直りましょう」

「それに・・・・」

「なんだ。ほかにもあるのか」

「勘定方が苦労いたしております。御上もご存じのように、このところ金のひっ迫で、小判、大判ともに鋳造がままなりませぬ。ご老中から建白の改鋳の儀にも、この百数十箱は重要と・・・・・お恐れながらでございます・・」

   じっと黙る綱吉。その時奥から猫が走り、綱吉の膝に乗る。

「柳沢。そちも・・・・・くせものよのう。ま。あいわかった。老中とよしなに。くれぐれも事件の尾を引かぬようにな。川越藩にもな」

  と綱吉。

 

 

 

夕刻柳沢がいったん下城し屋敷に戻ると、菊池家の三人が待っていた。

「お帰りなさいませ。奥方様から昼餉をごちそうになり、お待ちしておりました。して、飯能の件は」

   遠慮がちに聞く菊池左衛門に、

「おう。そちらの急報のおかげでな、南町奉行飛騨ノ守と老中から相談を受けてな・・ある提案をしたさ。ま。ここからは内聞にな。捕えた頭の捨松と奉行のあいだでな、百五十箱は御政道のために、代わりに、頭と数名の男の島流しで他は穏便に・・・いうことになった。捨松はなかなかの男であったそうな。飛騨ノ守も、戻って褒めておったは」

   面長の顔で笑う吉保であった。

「それはそれは、間に合ってようございました」

「そちらのおかげじゃな。よい子息、娘御を持たれたものよ」

菊池家の三名は深く平伏して屋敷を辞去した。捨松は八丈島へ長く十年。副頭格の弥助が三宅島に五年、半七、みのすけが神津島に二年の流しと決まった。百五十箱は幕府の金座に運ばれた。表向きは賊を船で追う中で、百の箱は江戸湾に沈められた・・ということになっていた。主だった賊どもが島流しから帰った後、また何事かが仕組まれても・・それはその時のこと。われらの時代ではないわ。柳沢は割り切って御政道を考えていた。いいもわるいもそれが政治とゆうものかもしれなかった。  

 

大晦日の煮売りやおみよ店。菊池家の兄弟の忘年会であった。長男太郎左衛門、次男次郎左衛門、そして三之丞と弥生。店奥の飯机で、珍しい四兄弟の会食でもあった。小松菜の煮びたし、たこと里芋の煮もの、マグロのねぎま鍋からは、いい匂いと湯気が上がっている。

「いやあ。このようなものがいただけて。このたこと芋はうまい」と次郎。

「三之丞。お手柄であったな。そちのおかげで普請頭を命ぜられたは。また、お奉行からいただいた酒もある」

   太郎左衛門が剣菱の樽から酒を三之丞に注ぐ。

「それにしても村人の多くが救われましてございますね」と弥生。

おみよが入ってくる。満面笑顔を絶やさない。

「さあさあ。お話はそのくらいにして。鮪もこうして、根深と煮合わせるとおいしくいただけますよ」

 と鍋を皆に勧める。四人は、剣菱を冷で茶碗でやりながら、湯気の立つねぎま鍋に箸を出す。


「それにしても 兄上の縁談がまたお流れですね」

   弥生が笑う。

「まずは兄上たちであろう。順番というものがあるからな」と三之丞。

「いや。三之丞。遠慮はいらんぞ。母上は、まずそちと次郎を、何より気にかけておられる。そうじゃた。弥生もな」

  と太郎左衛門。

「太郎殿も家督で長男ですから・・まずはお先に」

「弥生 そちはどうなんだ」

   酒の勢いで次郎座衛門んが聞いた。

「兄上様方がいかれてから・・まだまだ、よいご縁もごいませんし」

  その時、北の方角から増上寺百八つの鐘が寒空に響き始めた。

 

 二年後の皐月、菖蒲の薫る入間川を、おいとと半七の祝言に赴く三之丞、弥生の姿が小舟の上にあった。

 

                          完

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全文掲載 江戸元禄人模様 寺子屋師匠 菊池三之亟 事件控え 第三話 火つけ・・前篇

2024年04月29日 17時34分00秒 | 時代小説

 

 第三話      泥棒村  

 つけ火の捕縛に活躍した、三之丞と田島牛乃進の親交が深まり、その一年後の元禄三年同じ師走のことであった。 
 三之丞は鍵屋長屋東北角の厠を使い、露地右に折れて井戸に向かう。長屋の木戸の方角から、小男が,師走の寒い風を避けるように、北西の奥に向かっていくのを見ていた。

 三月ほど前にも確か、あの男は大圓寺の裏門、北西角の家にきたような気がする。竹のぶらしで歯をすすぐと、ゆっくと木戸入口右側の自宅へと向かう。北の方角から、強い風が吹き長屋の路地に土埃が舞う。

 「おいとさん。これはお頭からの、例のものでござんすよ。まあ村内でも試してみましたが・・なかなか使う量が難しい。簡単に、誰かに試すわけにもいかないからね。私も少しやってみたんですがね・・意識が朦朧として、そのまま寝込ンじめえましたよ。若い筏師の連中は、うなりっぱなしで・・寝つけずにうなっている者もおりやした」 

   丸顔の目じりをさらに下げ、弥助が薬草の説明をする。

「そうなの・・・・量を間違えたら大変なことになるのね」

「お頭は、年が開けてすぐにとおっしゃっておられるので・・なんとか準備を願いたいものでございます」

   渋茶をすすりながら、弥助はしょってきた荷を下ろす。

「いよいよですね。五年がかりで準備してきたのですから、失敗するわけにはいきません。この薬草は私も少し試してみましょう」

   小型の壺に薬草茶が入っている。

「くれぐれも量には気をつけなすって」

   薬草を一つまみする。

「分かっていますよ弥助さん。ところで銭は、ここに揃えてあります。少し重いようですよ、背負ってなるべく早くお帰りなさいまし」

   布団の奥から箱を出すおいとであった。

「おいとさん。分かりました。夜のうちにひとっ走りして、飯能河原まで戻ることにいたしましょう。今日の荷は、この三百両でございます。あと年内にもう一度参りますので、それまでにいつものように、銀貨と小銭にお願いします。ではわしは、これで失礼して」

「弥助さん気をつけてお帰りなさいよ」

「おいとさんも気をつけなすって」

   寒空の中、急ぎ、弥助は引き上げっていった。



  武蔵国。飯能河原の村では、西川の捨松が子の刻すぎのこの時刻まで、弥助の帰りを待っていた。がっしりとした下あご膨れの音松は、囲炉裏にじっと座っていた。 

「西川のお頭。いつものように、渡して参りました。おいとさんの方も、ほとんど準備が整ったようでございます。年明けにはと。申しておられました」と弥助。

「そうさなあ。大黒屋も五年もかけて準備をしたんだ。苦労なことだ。年明けといわず、この師走に一挙に頂きということにするか」

    ゆっくりと煙草に火をつける西川の捨松。

  五年前の酒田でのーーいただきーーは苦労した。酒問屋、井筒屋から越後を超え、中山道までの山道を、千両箱を運ぶのは並大抵ではなかった。江戸府内は取り締まりも厳しいだろうし、この度の仕事は、この飯能河原の村まで運ぶ手段が一番の難題だった。

「弥助さん。皆の衆に、年末の二十五日いうことで、寄合いを私の家でやりますからな。頼みましたよ」

   捨松もいよいよ決心したようであった。

「承知いたしました。二十五日には、それぞれの役のものが集まってくると思いますので、歳の垢を落とす酒盛りの前に、江戸でのーいただきーの打ち合わせをいたしましょう」

   弥助は副お頭格で村人の信頼も厚かった。

「そうだな。来年がが良い年になるようにな。どの村も、今年は作物の出来があまり良くないようだ。西川材はなんとか商売になっておるが、近郷の百姓たちを助けてやらねばなるまい。人目がつくのでの、小判を、小銭に替えて百姓たちに明るい春が来るようにしてやりたいと思っているのだよ」

    囲炉裏の燃え炭をかきだす捨松であった。

「久しぶりのーーいただきーーでござんすね」

   と弥助も目を細める。

   入間川上流から流れが荒川に向かう前に、川は、ここ飯能河原で大きく蛇行していて、鬱蒼とした杉や檜を切り出し運ぶ西川材のおかげで、この村はずっと豊かに暮らしてきている。この左右に広がる山々からの杉と檜のおかげで、村人たちは豊かに暮らして行けるのだから、そのお返しをしなければなるまい。と西川の捨松も、村人も考えていたのだ。

 

 

おいとは鍵屋長兵衛の口利きで芝、源助町綿糸問屋大黒屋に入って、早くも五年の年月がたっていた。はじめのころは、勝手口の手伝いや下働きであったがその気遣いの良さから、台所・炊事のことは次第に任され、三年目には女中頭のような塩梅になっていた。

おかみさんも信頼し、よくしてくれている。このようになれた店でーーいただきーーをしなければならないのは、少しつらいものがあった。 通い奉公でもあり、店でも長屋でも、できるだけ目立たないように暮らしてきたつもりではあったのだが。

大黒屋の旦那も女将さんも、蔵の鍵だけは、決して使用人任せにはせず、女将さんの化粧箪笥の三段目に保管し、蔵の開閉には必ず、どちらかが立ち合う日常であった。蔵のカギの在処もわかるし、店への手引きも簡単であったが、今回は少し気が晴れないおいとであった。が・・五年の準備を無にすることはできない。優しい目のおいとは気を取り直す。

 

 江戸での綿糸の扱いは、菱垣廻船、樽廻船で、西の難波や京から全国の良質綿糸や綿織物が入り、それを東回りや西周りの航路で、山陰から秋田、山形、岩手、青森の卸商や藩に転売し、莫大な商いになっていた

 芝の大黒屋の本蔵には、千両箱が二百以上あると噂されていた。千両箱には 八百枚から九百枚の小判が入っていたから・・現代の価格で言えば、一両二十万円弱としても・・ 一箱二千万万円弱くらいということになるが・・五両あれば、一人一年暮らせる当時としては、莫大な金額であった。

 今回のーーいただきーーは、千両箱五十箱ということになろう。全部頂かずに、その大店が、再建できる程度にするのが西川の捨松の決め事であった。さすれば大黒屋も、何とか再建し、商いをやって行けるであろう。最大の問題は、五十の箱の運搬にあると考えていた。飯能河原までこれだけ運ぶのは並大抵のことではない。それこそが今回のーーいただきーーの重要な肝でもあった。

 

 

  芝御殿。中之御門橋の南が松平肥後守。北が松平陸奥守の屋敷であった。大川から江戸湾に入り、この中之御門橋のあたりであれば、大船が係留できることも、西川の捨松には調べがついていた。大川から、千住の先までは大船で運ぶことができるだろう。そこからさらに数隻の小舟に荷を積み替え、荒川の上流まで。と。手はずは整えていた。この方法について、捨松は弥助と何度も相談していたし・・実はそのための大掛かりな準備を、一年前から行っていたのだ。

  飯能河原のこの村は、戸数四十数軒、総勢は百二十人強であったが、西川材のおかげで豊かな暮らしであった。左右の山林から、杉や檜を伐採し入間川から荒川、千住から大川を下り、木場まで筏を組んで運搬し。生計を立てていた。このいきさつは、西川の捨松が東北釜石の浦で網元漁師の子として育ち、竹馬の友、寺子屋で一緒に机を並べた土地の豪商佐野家の惣領佐野吉秀との関連であったが、その話はまた後程にしよう。

  西川材の仕事のために二代にわたって、村では分担が決まっていた。熟練の筏乗り職人二十数名を、頭の半七がまとめていた。剛力百姓十数人は、みの助が そのほかに、つなぎの徳、よろず調達の五名は三次が、錠前と鍛冶屋は仁兵衛、早や走り連絡のよし他数名、寺と墓は山寺の田の助、寺子屋と医者を兼ねた、方徳は子供達と女房どもをまとめていた。この連絡網に乗って、すでに鍵屋長屋のおいとからは、芝大黒屋の詳細な図面も入手していた。

 ーーいただきーー当日の四十数名の黒装束や、足回りはすでに三次が調達準備を終わりーー当日、店の者を眠らせておく薬草の準備は方徳が準備していた。  

   ここ数年江戸の町はやや華美に流れ、市民の生活は豊かになりつつあったが、ここ川越や飯能あたりの百姓は、日照り続きもあって、貧しく苦しんでいる。かって貯めた小判は小銭に変え、近隣の村々にそっと施してきた。このたくわえ金はこの村のためだけではなく、近隣の生活をも救っていたのだ。村では頭の西川の捨松、弥助だけでなく皆結束が固い。男も女も自分たちの使命をわきまえ秘密を守ってきた。こんな奇妙な村が、一つくらい世の中にあってもいいのかもしれない。 

  

 亥の刻少し前、少し肩を丸めながら鍵屋長兵衛は長屋の木戸をくぐる。長兵衛は、時々夕餉もすんで仕事の段取りが付くと、こうして巡回する大家であった。

 大きな三棟の右の一角を、煮売り屋から東に回り北東の厠のそばまで来ると門口から出るおいとに出会った。

「おや おいとさん今日は早いお帰りだったかい」

「あ。 大家さん。いつもお世話様でございます。久しぶりに早く上がりましたんで、これから湯屋へ行こうかと」

   優しい目と大きな耳のおいとだ。

「しばらく姿を見なかったが元気で暮らしおるようじゃな」

「もうかれこれ・・ここと、大黒屋様にお世話になって五年でございますね。お店でもすっかり慣れ、よくしてもらっております」笑うおいと。

「それは良かったのう。ところで・・・おいとさん・・・誰かいい人はできたかね」

  こずくりだが愛嬌のある襟足のきれいなおいとだ。

「鍵屋さんいやですよう。私みたいな女では、とてもとても・・・」

「いやいや、私も心にはかけているのだが。いつまでも一人暮らしのままというわけにもいくまい。捨松さんからも、誰かいい人がいればと。飯能の村の方々も元気でおられるかのう」

   丸顔でつややかな髪の大家の鍵屋だ。

「筏で、西川材を木場に降ろした後、いつも誰かが帰りがてらに寄って、村の様子を聞かせてくれていますよ。おかげさまで、皆元気でやっておるようでございます」

「それはそれはよかったの。江戸でも、このところ普請が盛んで材木の需要は増すばかりでな。それなら皆の衆も安心して暮らせるな」

「はい、さようでございますね。寒いので鍵屋さんもお気をつけて」

 

三乃丞は牛込での稽古を終え、金杉橋を増上寺の方角から渡って鍵屋横丁木戸口まで来ると、東の長屋奥の方角からどこかでみかけたような・・気のする・・男と出会った。男は顔を背け会釈すると、足早に木戸を抜けて出て行った。確か・・あのお方は・・二年前、私が川越の剣の友、及川治三郎を訪ね江戸へ帰る途中、腹痛で、街道の地蔵尊の前で下腹を抑え、冷や汗を流していた時に、お助けいただいた医者では・・・・・・

印籠から漢方の薬草を出し、手当てしていただいた・・・その折お聞きした・・飯能の村医者で、方徳様ではなかったのか。それとも人違いだろうか。

そしてその三日後にまた増上寺の前で、あの方に出会う三之丞であったが、先方は、北へ急ぐ様子で足早に去って行った。

 

師走の忙しさが鍵屋横丁にも漂い、朝から大騒ぎであった。棒手振りの魚売りや大工の職人、鍛冶屋、竹職人、砥ぎ師、小間物行商、薬売りなど。 師走になんとか付け支払いを済ませ、新年を迎えようと、仕事納めに向かって奮闘中であった。三之丞はこうした長屋のたくましい連中を見ると自分は・・どこかへ・・おいて行かれるような気がして・・ふとさみしさも感じていた。

 


  一方 飯能河原の村ではいよいよ最後の詰めに入っていた。

「方徳さん。この薬草の効き目は、しっかりと確かめてくれたかい」

   と西川の捨松。

「はい。西川のお頭。大丈夫でございますよ。何度も試し・・私も試しました」

「この辺りで取れるこの麻が、それほど効果があるものかい」

「左様でございます。この麻は、一年草で丈は三丈ほどになりますが、夏に花を落とした後、麻糸を取るんでございますが、この少しとがった葉が、曲者でござりまする。これを干しまして、通常、は天日干しに長い間するわけでございますが、私は短期に大量に作るため、家の中に小さな炉をを作りまして、この麻の葉を大量に乾燥させました」

   眉の濃い角張った目でじっと薬草に太い腕を伸ばす。

「黒ずんだ葉と言うか・・・そうな感じだな・・」

   と西川の捨松。

「左様でございますね。これを飲んでみたら、大変なことになります。色々試しましたが、やはりこのひとつまみの乾燥した麻の葉で、土瓶一杯分の薬になります。まず、すぐに頭の脳みそがいかれてまいります。幻覚を見るような感じになり、意識がもうろうとして、昏睡状態に陥ります。つまり適量を飲んでおれば、命に別状はないが、昏睡状態がほぼ半日は続くという代物でございます」

「そんなに、昏睡状態になるものなのか。しかし量を間違えたら大変だな」

「その辺は、おいとさんともよく相談いたしまして、命を殺めないようにいたしましょう」

   自信ありげな方徳であった。

「そうだな。決して女子供を犯さないこと。財産を全て取らないこと。人を殺めないこと。これが我々の掟であるからな」

    方徳がうなずく。

「心得ております。明日にでも、これをもちまして、おいとさんと相談してまいりましよう。おいとさんは、大黒屋の炊事場を一手に仕切っておりますのでーーいただきーーの当日の夕餉。味噌汁の中に、これを入れて全員、眠らせましょう」

「それでおいとは・・そのあとどうするつもりかの・・・」

「先日の、おいとさんとの打ち合わせでは、後の詮議で、内部の手引きなど調べが厳しくなるので、自分も勝手口の芯棒を外したら、味噌汁を飲む、と言っておりますが。そのほうが、決して疑われないだろうとも。翌日、目が覚めても皆、覚えもないことで、不思議な一家全員の昏睡中の盗みで・・・証拠も挙がらないわけですから」

   薬草を箱に戻した方徳が、捨松から濃い茶を受け取りゆっくりと啜る。

「そうか・・・大変なことじゃが、そのようにおいとが覚悟を決めているのであれば、そのようにしようかの。半金は残しておくわけだから、大黒屋も立ち直るであろう。半年か一年して、ほとぼりが冷めてから、引き上げさせればいいだろう。確かおいとは、筏職の半七といい仲であったな。五年も引き離し、不憫であったな。引き上げたら盛大な祝言をしてやろう」

   と捨松は煙管に火を付ける。

「それはようございますね。半七もおいとさんも、喜ぶことでしょう」

「この師走の二十八日だ。雨が降ろうが、雪だろうが、大船の準備もしてあるので、外すわけにはいかない。しかと伝えておくれよ。万一の時に備え、宵の刻につなぎの徳をおいとの家に詰めさせておくからな」

「承知いたしました。抜かりなく伝えますです」

    方徳が捨松のもとを去る。


  西川の捨松は、東北の海岸線釜石浦の出身であった。東日本の物流を抑える豪商佐野吉秀とは幼馴染の仲だ。数年前から佐野とのやり取りを、捨松は頻繁に行っていた。そしてこの師走の約六ヶ月ぐらい前からは、村のおもだった男たちを、釜石浦に派遣し、大船の操船技術を実地で訓練してもいた。

 筏職半七ほか九名、強力百姓みのすけ他4名。食料、装束、工具などの調達の三蔵。はや走りのよし、総勢十六名の男どもが、別動隊で準備していた。佐野とは、五十数年の付き合いである。うすうすと、捨松の狙いを察知していたが、西川材の重要な供給先でもあり・・・・深くは追及しない佐野であった。

 

 師走二十三日。三乃丞が寺子屋をしまい、湯屋へ行こうとしていた戌の刻。久方ぶりに妹の弥生が訪ねてきた。
「兄上お変わりはありませんか」

「変わらず元気にいたして居る。そちは、道場の帰りかな。今日はまた何用じゃ。お父上、母上、兄者ども、みな息災でおろうな」

「はい。柳井道場の帰りでございます。お父上が、様子を見てこいと仰せられましたので、ご機嫌うかがいでございます」

 と胸元から袱紗に包んだ金を置いた。

「そのような心配はせんでよいと母上に伝えてくれ。寺子屋も順調でな。一人で食うて、生きて行くにはじゅうぶんなのだよ」と三之丞。

「まあまあ、まあそうおっしゃらずに。それが父母の心とゆうものですよ」

「お。 なんだ。そちは説教に来たのか」二人は笑い合った。

 菊池の後妻みとの実子は、三之丞と弥生であった。長男と次男は先妻とよの子である。家督は長男太郎左衛門が継いでいる。

 三之丞と弥生は何かと気の合った兄妹で、二人供母みとに似て、すらりと背も高く、切れ長の目の美形で、色白であった。

 弥生は幼いころから兄に負けまいと勝ち気で、習い事よりは、兄との剣術を楽しみにするような旗本の一人娘で、薙刀の稽古からはじめ、今では父母を説得し、溜池の柳井道場に通い、八年後の今は、師範代柳井正勝の代理を務める腕前であった。若衆髷に袴姿である。

  しばし無言の二人であったが、遠く時の鐘が響き渡ると・・兄が目を細める。

「兄上。何を考えておいでなのですか」

「いや、このところ長屋やこの付近でよく会うお人がいての、こちらは見知っておるのに、先方は避けるようにして行き過ぎる。何か不思議な気がしてな」

「はてそれはまた不思議でございますね。人違いではありませんぬか」

「いや。人違いではなかろう。ま。夜も遅い。もう帰りなさい。皆様によろしくな。旗本の三男坊が、こうして市中で気楽に暮らせるのも、お父上のお許しがあればこそだ。まことに感謝いたしておる」

   三之丞の本心であった。

「うらやましい兄上ですこと・・・・・」弥生は帰っていた。

 

 

「兄上。何か!」その翌日の宵遅く、三乃丞が厠を使って井戸端から部屋へ戻ろうとする。木戸から入ってくるあの男にまた出会った。顔を背け、奥の方向に行こうとする。間違いない。あの時お助けいただいた方徳様だ。思い切って三之丞は声をかけた。

「川越でお助けいただいた方徳様ではありませぬか」 

  男は、はっとしたように顔を上げた。間違いなかった。

「あの折はありがとうございました。川越在の友人を訪ねた帰り道に腹痛で。お助けいただいた菊池でございます」

  三之丞の礼に、男はとぼけ顔で答える。

「おうおう。あの時の吾人か。確か寺子屋の師匠とか。ここであったか。旅の途中難儀をしておられる方を助けるのは、医師として当然ですよ」

   眉の濃い角張った目の方徳。

「誰かお知り合いがこの横丁長屋に・・」

「はい。時々薬草の仕入れに江戸に参りますが、今日は飯能河原の村の、家族からの届け物を、ついでにおいとさんに置いて帰るところです。時々こうしてよらせていただいております」

「たしか、おいとさんは近くの芝大黒屋さんに通いで・・」

「さようでございます。年頃でございますので、村の両親も、そろそろ帰って嫁入りの支度をさせたいと考えておるような次第でして」

「さようでございましたか。夜も遅い、気を付けてお帰りください」

 方徳は急ぎ足で、北東角のおいとの家に向かった。

 

 「おいとさん。今そこの井戸端で、昔、川越の街道で腹痛のところをお助けしたお方から声をかけられましてな。時々、村からの届け物と・・いたしておきましたが、どのようなお方ですかな。用心にこしたことはありませんからね」

「ああ。あのお方は、旗本菊池様の三男坊で家督の見込みなく、街中で気楽な仕事をと・・寺子屋の師匠で、長屋の子供たちが毎日世話になっております。趣味は銭湯の長湯と剣術だそうですよ。牛込の堀内道場では三羽烏とか」

「そのような方がおられるのか。用心じゃな」

   濃い眉の下の鋭い目が光る。

「この暮れの二十八日と決まりましたよ。雨が降ろうと、雪であろうと江戸湾から芝に大船も用意しています。万一のつなぎには、徳が当日宵の刻、この家に待機です。どうしても具合が悪い場合以外は、必ず決行と西川のお頭からの伝言でございます」

   再び方徳の目が鋭く光る。

「わかりました。いよいよですね。五年の準備が。ところで方徳さん。この麻の薬草はそんなに効果があるものですか」

  小箱を開けるおいと。

「私も試しましたが、間違いなく昏睡状態に陥ります。肝心ことは、使う量でございます。決してお間違えにならないように。味噌汁大鍋いっぱいに、土瓶いっぱい分のみでお願いします。それ以上では万一昏睡から冷めず・・もございますので」

   小箱の中の乾燥させた麻の薬草を、おいとの前に置く。

「では方徳さんがお帰りなったら、今日、自分で試してみましょう」

「おいとさん。お試しなら、くれぐれも碗の三分の一になさいませ。間違えては危険ですから。それと勝手口の芯棒だけは、夕餉前に外してくださいませ。道具で壊すことは簡単ですが、近所に物音が漏れて、悟られては面倒ですから」

「わかりました。それでは私も疑われないように、夕餉を食べまして・・」

「西川のお頭は、それを心配しておりますが・・本当に・・それでよいのですか」

「半年もしたらお店を引き上げ、村に帰ることにいたしましょう。覚悟はできておりますゆえ。半七さんも、待ってくれるでしょう」

   しっかりとしたおいとだ。

「それではおいとさん。身体を壊さぬようにお気をつけて」

   方徳は夜泣き蕎麦屋が横丁を通るそばを、さっと木戸を抜け暗闇に消えた。(前篇終了)

 

  
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸 元禄 人模様 寺子屋師匠 菊池三之亟事件控え 第三話 「泥棒村」その4

2024年04月15日 14時53分13秒 | 時代小説

  

 

うっすらとした明かりの中を、四艘が北千住から荒川をさかのぼる。漕ぎ手は、熟練のようで船足は相当に早い。川越からさらに入間川上流に入ってゆく。やがて川が二筋に別れ、入間川本流から右手の飯能方向に入る。土手沿いをわずかな提灯の光で、馬上は前が三之丞、後ろが弥生であった。あたりは川越藩の所領であったろう。しばらく進むと入間川が川上から大きく蛇行する地点。 飯能河原で四艘の船は係留し、千両箱を、河原の横の広場に降ろし積み上げた。あたりは、朝のひかりが立ち始めている。土手の手前で、馬から降りた二人はその様子をうかがう。さてどうしたものだろうか。

 「思いの外にうまく運んだな。さて最後のの仕事じゃ。皆頑張っておくれ」 広場の奥には杉、檜が筏としてにいつでも組める状態で大量に置いてある。百姓強力みのすけの合図で、十人の屈強な男どもが、奥まった個所の杉や檜を運び出す。

ーーなんとその地点には、鉄の板で頑丈に入口を覆った竪穴の入口が現れたではないかーー

筏職の男も加わり千両箱、百箱はあっという間に地下に運ばれた。

あとはまた杉、檜で入口をすっかり覆い、その上にまた大量の杉、檜を載せた。 

「さて。これで良し。この百箱と、ためておいた百箱。合計二百箱あればここ、五年は持つであろうな」

   頭の西川の捨松は満足そうだ。

「当分は大丈夫でしょう。うまくいきましたね。五年間の準備が」

   補佐の弥助も満足げにうなずく。
「では弥助さん。皆を帰しましょう。明日からはまた・・今までどうり平穏に西川材の仕事に精を出してな・・・・」

    いつもの村人にかえって皆が家に戻る。


「まあ、ともかくも、この不思議な村の内容を調べねばなるまい」

   驚く三之丞。

「まるで夢のような・・・・・村の男たちがほとんど大泥棒んて・・」

  弥生も茫然とつぶやく。二人は頭と思しき男の後をそっと追う。

ーー後ろから人の気配を察知しながらも、捨松はゆっくりした足取りで、落ち着き払って左手奥の、やや大きめの百姓家に入っていったーー

「ここは多勢に無勢。われら二人ではいかんともしがたい」

  百姓屋の入り口脇、薪を積んだ一角で、二人は中の様子を探ろうと・・その時・・・・・・

「こんなに朝のはようから何かご用かな」落ち着いた声だ。

  しまった。きずかれたようだ。さすがに勘の鋭い男であった。

二人はじっとしばらく無言。飯能河原の宵が明けようとしていた。

「ま。そこでは、寒いじゃろうて。おはいり」

  二人は迷ってまた無言。

その時三之丞の直感が頭を貫いた。目顔で弥生に合図を送ると扉を開けた。

大きな土間と左右は、何段もの棚が並び道具類が整然と詰まっている。その正面に囲炉裏が切ってあり、正面に白髪の老人がこちらを凝視している。再び無言。

「そこへお座り。若衆。おお、おう。凛々しい娘さんも一緒かな」

  優しい言葉とは別で、二人を見定めるしもぶくれの顔の瞳の光はまことに鋭い。

 危害は加えられないと三之丞の直感が告げていた。意を決して、

「今宵。芝、大黒屋から大船で千住河口へ。積み替え荒川、入間、そしてここ飯能河原まで、すべて見届けましたぞ。ま。 芝での偶然からですが。まことに驚いた大泥棒で言いようもない」

  弥生もうなずく。捨松は依然二人を凝視して品定めであったが、彼にも直感があった。わきまえのある若者であろうと。囲炉裏の炭火をおこし、土瓶の湯を茶入れに注ぐと、二人に差し出す。

「それはそれは。すべて見られてしまっては、観念せねばならんかのう」

「整然たる所業は、見事と言わざるは得ないが、泥棒は泥棒。このままにしておくわけにはいかんだろう。まもなく、江戸から奉行一行が来る手筈をしてある。ここは神妙にする方がいいのでは」

   ゆっくり毅然と三之丞。

「そうか。奉行たちが来るまでに間があるならば、少しわしの話も聞いてもらおうかの。少し長くなるで、ゆっくり茶で、手足を温めて聞いておくれ」

ーー信頼せよと直感が告げた捨松はゆっくりと村のいきさつを話し始めたーー

ーー自分は東北、釜石浦の生まれであること。漁師の息子であったが海よりも山や樹木が好きであること。秩父のこの山中に、良質な杉やヒノキが豊富にあること。四十年前から東北一円の飢饉で悲惨な暮らしの農民や漁民と、この地に移り住んだこと。二十数年前からここ飯能、川越、深谷、熊谷などの洪水や飢饉での悲惨な生活を見かね、「いただき」を始めたこと。そして今宵の五年がかりの、芝大黒屋での顛末。今回を含めこの村には千両箱が二百あること。これで当分数年は近隣・近郊を助けることが可能なこと。そして・・・・すべては自分一人の責任であって、村人は従わざるを得なかったであろうことーー
   話し終わると、捨松はほっとした表情で二人を見た。 

「あなたの話は承った。同情の余地もあるが、それと犯した罪は別であろう」

「それは覚悟はできているさ。ただ村の女子供や若衆たちは、何とか軽い裁きというわけにはいかんものかの」

   弥生も小さくうなずいている。

「できる限りの口添えはしてみよう」

  三之丞もそういうほかはなかった。

 

 夜が明けた。南町奉行所からは与力服部采女之介を頭に与力三名、同心三名が村に到着した。服部は御家人の出であった。三之丞は昨晩からこの明け方までの顛末、また頭の捨松の話など詳細に報告する。

 服部は落ち着いた大柄、で顔の小さな心きく与力であった。川越藩への応援も頭をよぎったようであったが、今宵の主犯捨松と弥助。他数名の主だった男、合計五名を捕縛し、奉行所に引き立てることとした。ほかの村の者たちは追って沙汰があることを告げる。

「弥生。馬で。そなたは直ちに兄上と父上に、事の次第を知らせなさい」

  その時三之丞の頭をよぎったのは、ことの重大さと、隠居とはいえ父と柳沢吉保公との関係であった。奉行から老中には即刻報告が行くであろうことも。

「兄上。それではお先に。お気をつけて」

   火急を悟った弥生でもあった。

 

 

  築地の屋敷につくと直ちに弥生は二人の兄上と父の居間へと急いだ

「何。千両箱が今宵で百箱。村には二百はあろうと。芝の大黒屋といえば綿糸問屋でも屈指の大店。一人も傷つけずにし遂げただと。大事じゃ!」

  普段は物静かな父が真剣なまなざしで一瞬考え、言った。

「柳沢公のところへ参るぞ。太郎左衛門。弥生も同行せよ。次郎左衛門は屋敷でわれらが連絡をまて」

  まだまだ衰えていない左衛門であった。

 

明けの四つ。常盤橋の柳沢屋敷では吉保が登城に備え、腰元の介添えで召し換えの最中であった。

「なに。朝はようから菊池が息子、娘と参ったと。火急とな。よしこのままでよいからこの間にとおせ」

   直ちに着替えの間に三人が平伏した。

「菊池殿。朝はようから何事じゃ。おうおう。そなたが娘の弥生殿か。また凛々しいお姿じゃな。剣術のほうも相当と聞いて居るが」と吉保。

「殿。朝はようから、ご登城の折にまことに失礼仕りますが・・」

    と事の次第を述べた。

「弥生。付け足すことはないか」弥生は平伏のままであった。

「む。さようなことが・・・・千両箱で二百か。おそれいったな」

  じっと庭の先を凝視していた。考え事があるようだ。三人は黙ったままだ。

「あいわかった。登城して老中、奉行からも話があるだろうて。大儀であった」

 

  江戸城本丸。通称大城では明八つ。将軍綱吉の執務開始の時間であった。

 平伏する吉保。綱吉の機嫌は普通だなと顔色から判断すると、大黒屋の昨夜の件を順を追って話し始めた。

「・・・・という次第でございます。まことに恐れ入った大泥棒。泥棒村でございます。が・・しかし飯能の河原の村にはなんと二百箱の千両箱がございます。・・・・・・・・・そのほとんど百五十箱を差し出させてはいかがでしょうか。もちろん頭と主だったもの数名は捕縛いたしておりますれば・・処罰することはできますが。村内の女子供 若衆はなんとか助けてやるわけには・・・・・・・」

「なに。柳沢。御政道を曲げろと申しておるのか。まことに不届きな奴らだ。それに差し出させるとはどうゆうことだ!」

「は。恐れながら・・・・海に運搬中の捕り物で、賊たちが箱をすべて江戸湾に沈めてしまったという次第では・・・・・」

   上目で御上をうかがう吉保。

「大黒屋に全額返却せぬのか。それこそ、われらが大泥棒ではないか!」

「御上。大黒屋はまだまだ千両箱が百箱以上残りおり、傷ついたものとて一人もなく立派に立ち直りましょう」

「それに・・・・」

「なんだ。ほかにもあるのか」

「勘定方が苦労いたしております。御上もご存じのように、このところ金のひっ迫で、小判、大判ともに鋳造がままなりませぬ。ご老中から建白の改鋳の儀にも、この百数十箱は重要と・・・・・お恐れながらでございます・・」

   じっと黙る綱吉。その時奥から猫が走り、綱吉の膝に乗る。

「柳沢。そちも・・・・・くせものよのう。ま。あいわかった。老中とよしなに。くれぐれも事件の尾を引かぬようにな。川越藩にもな」

  と綱吉。

 

 

 

夕刻柳沢がいったん下城し屋敷に戻ると、菊池家の三人が待っていた。

「お帰りなさいませ。奥方様から昼餉をごちそうになり、お待ちしておりました。して、飯能の件は」

   遠慮がちに聞く菊池左衛門に、

「おう。そちらの急報のおかげでな、南町奉行飛騨ノ守と老中から相談を受けてな・・ある提案をしたさ。ま。ここからは内聞にな。捕えた頭の捨松と奉行のあいだでな、百五十箱は御政道のために、代わりに、頭と数名の男の島流しで他は穏便に・・・いうことになった。捨松はなかなかの男であったそうな。飛騨ノ守も、戻って褒めておったは」

   面長の顔で笑う吉保であった。

「それはそれは、間に合ってようございました」

「そちらのおかげじゃな。よい子息、娘御を持たれたものよ」

菊池家の三名は深く平伏して屋敷を辞去した。捨松は八丈島へ長く十年。副頭格の弥助が三宅島に五年、半七、みのすけが神津島に二年の流しと決まった。百五十箱は幕府の金座に運ばれた。表向きは賊を船で追う中で、百の箱は江戸湾に沈められた・・ということになっていた。主だった賊どもが島流しから帰った後、また何事かが仕組まれても・・それはその時のこと。われらの時代ではないわ。柳沢は割り切って御政道を考えていた。いいもわるいもそれが政治とゆうものかもしれなかった。  

 

大晦日の煮売りやおみよ店。菊池家の兄弟の忘年会であった。長男太郎左衛門、次男次郎左衛門、そして三之丞と弥生。店奥の飯机で、珍しい四兄弟の会食でもあった。小松菜の煮びたし、たこと里芋の煮もの、マグロのねぎま鍋からは、いい匂いと湯気が上がっている。

「いやあ。このようなものがいただけて。このたこと芋はうまい」と次郎。

「三之丞。お手柄であったな。そちのおかげで普請頭を命ぜられたは。また、お奉行からいただいた酒もある」

   太郎左衛門が剣菱の樽から酒を三之丞に注ぐ。

「それにしても村人の多くが救われましてございますね」と弥生。

おみよが入ってくる。満面笑顔を絶やさない。

「さあさあ。お話はそのくらいにして。鮪もこうして、根深と煮合わせるとおいしくいただけますよ」

 と鍋を皆に勧める。四人は、剣菱を冷で茶碗でやりながら、湯気の立つねぎま鍋に箸を出す。


「それにしても 兄上の縁談がまたお流れですね」

   弥生が笑う。

「まずは兄上たちであろう。順番というものがあるからな」と三之丞。

「いや。三之丞。遠慮はいらんぞ。母上は、まずそちと次郎を、何より気にかけておられる。そうじゃた。弥生もな」

  と太郎左衛門。

「太郎殿も家督で長男ですから・・まずはお先に」

「弥生 そちはどうなんだ」

   酒の勢いで次郎座衛門んが聞いた。

「兄上様方がいかれてから・・まだまだ、よいご縁もごいませんし」

  その時、北の方角から増上寺百八つの鐘が寒空に響き始めた。

 

 二年後の皐月、菖蒲の薫る入間川を、おいとと半七の祝言に赴く三之丞、弥生の姿が小舟の上にあった。

 

                          完

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸 元禄 人模様 てらこや師匠菊池三之亟 事件控え・・第三話 「泥棒村」その3

2024年04月08日 10時37分02秒 | 時代小説

    

 

  

 

     「泥棒村  その3」

それから一刻。新橋の金春湯屋に出向き、ゆっくり湯につかった三之丞は、帰りに店じまいした煮売りやおみよの店によって、頼んでおいた野菜の煮しめとイワシのめざしを受け取ると、遅い夕餉をゆっくりと食べ終わった。明日の子供たちへの手習いの準備も終わり、床をのべようとしていた。時はすでに子の刻に近い。入口をたたく音が聞こえた。

「兄上、兄上。まだお休み前ですか」

 弥生の声がする。外は漆黒の闇だ。

「なんだこんなに遅く・・一人でまた参ったのか」

「母上がどうしても、今晩中でとお待ちでございます。どうしても連れてこいとのおおせでございますよ」

   苦笑しながら三之丞は袴をはいた。

二人が外に出たその時・・三乃丞が門口で立ち止まり、ふーと天を仰ぎ見るとじっと立ち止まったままであった。

 鋭い直感が三之丞を貫いたのだ。前にもしばしばこのような兄の直感に驚かされた弥生は・・思わず、

 

「いかん。この辺りで何か大事が起こるぞ。弥生はしばらくここにおれ」    そういうと、井戸端から向こうの長屋の端まで確かめに行った。北西の角のおいとの家の方向から、黒い影が飛び出し木戸へと駆け抜ける。

「弥生。今の男を追うぞ。大丈夫か」

 その時黒い影の男は、木戸を大きく飛び上がり、通りを新橋方向に走る。

「兄上。何者でしょう。おいとさんの家からですね!」

   三之丞と弥生は新橋方向に宇田川町から柴井町へと、男の後を追って走る。右に浜御殿と松平肥後守屋敷。露月町の角まで来ると、三之丞は立ち止まり、無言で姿勢を低くしろと弥生に合図した。

先ほどの男の影は見えない。と、 その時、浜御殿の海の方角から十数名の黒装束の賊が、西の源助町の方向に、疾風のような速さで走り抜ける。西の方角からも、別の十数名の黒装束の男たちが、あっというまに源助町の大黒屋の前で合流する。一団は勝手口に回り込み、大黒屋の屋敷内に消えた。くらい静寂だ。

「どうするべきか」

 三之丞と弥生が、南町奉行所に走ろうとしたその時、三十数名の黒装束の賊たちは戻って、三丈間隔ほどで、浜御殿横の海に向かって走る。その先には大船が待ち構えていた。

「なんと準備の良いことだ!」

二人は驚いた。大黒屋からは、千両箱が手渡しで三十数名に引き継がれ、大船にあっという間に入ってゆく。猶予はない。まことに驚くはやわざだ。大黒屋の店の者たちはなんとしたことか。

「弥生。わしはあの大船の行く先を見届けねばならん。江戸湾に入ったからには、海から千住の河口か、西なら三浦から、伊豆半島方向に向かうだろう。わしの勘では千住方向だ。深夜だが、そなたは直ちに南町奉行所にいきさつを届け出ろ。築地の家から馬を用意し、千住の河口に向かってくれ。あの大船は河口口までしか入れんだろう。多分積み替えを準備していると思われる。頼んだぞ」 

  三之丞は東の両国方向に向けて走る。

「兄上。お気をつけて、相手は三十数名と思われますので!」

 と声をかけると、新橋から数寄屋橋の南町奉行所へ、弥生も漆黒の闇を走った。

 

 

 この疾風のーーいただきーーから一刻前のことであった。

西川の捨松は、増上寺方向から師走の寒風の中を二十名ほどで芝、源助町の大黒屋に向かって、音もたてずに走り着いていた。三十数名で勝手口から一階の店内に入る。夕餉の後か十名ほどが眠りこけ、ぐったりしていた。その中には、手引きのおいともいた。奥の店主夫婦の寝間に回ってみると、ここでも夫婦は昏睡中。まことに見事な薬草の効き目であった。かねてのつなぎのとおり、化粧棚の三段目から本蔵のカギも出てきた。

「予定どうりじゃ。皆の者。千両箱を、大船まで引継ぎで渡すのだ」

泥棒村の三十数名の賊たちは一気に店から大船まで走った。そして千両箱が、次々に大船へと運び入れられた。半時もかからない五年準備の早業であった。

人の命も殺めず、女子供も犯さず、本蔵から、二百箱近い千両箱の内、きっちり百箱ーーーいただいたーーーというわけであった。

「予定どうりであったな。おいとも、よく辛抱して成し遂げてくれた。さあ皆。大船に引き上げだ。千住でもう一仕事、残っておるからのう」と捨松。   

 

 

三之丞は師走の闇を両国橋をぬけ、三ノ輪から千住に向けて走る。芝の江戸湾から大船で北を目指すなら、まずは千住の河口であろうと直感が告げていた。 

千住の宿場を超え大橋を渡る。右は荒川、大川から江戸市中へ。左は千住の河口へ向かう土手であった。暗闇の向こうから海のざわめきが聞こえてきた。  いた!  大船は砂州の先に、すでに係留されていた。下には小舟が四艘。まさにいま、黒装束を脱いだ屈強の男たちが、千両箱を小舟におろしている。薄い月明かりの先で、頭と思われる男が声をかけていた。土手の右側に杉林があり、小さな地蔵堂があった。地蔵堂に姿を隠し、船の行方を見定める。宿場の方角から、馬に乗った弥生がやってくる。朝明けに、近づく影が大きくなる。

「おい ここだ」

   三乃丞が一声かける。弥生は地蔵堂の蔭の柱に馬をつなぐ。

「兄上。ここでしたか。大船から、あの四艘に荷下ろしして、どこに向かうつもりでしょうか。南町奉行は二手に分かれ、西は東海道三浦方面と、こちら東は千住から銚子方向に向かう手筈ですが、到着は明け方になりましょう」

「それまでに、行き先を確かめねばならぬな。四艘が川を上り始めたぞ。われらは二人だけ。向こうは数十名の屈強な男どもだ。うかつなことはできんな。まずは悟られぬように、船を追って、奴らの拠点を突き止めねばならん」

「兄上の縁談話が・・とんだことになりましたね。父上も母上も、必死で止めましたが、概略だけ話して馬で飛んでまいりました」

   気負いたつ弥生。「この馬で、賊どもを追うことができる。一人ではとてもな。しかし弥生。今後、無理はいかんぞ。腕に覚えがあろうとも、多勢に無勢であるからな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺子屋師匠 菊池三之亟事件控え 第三話 泥棒村その2

2024年04月01日 11時18分08秒 | 時代小説

 

 

 

 

「兄上。何か!」その翌日の宵遅く、三乃丞が厠を使って井戸端から部屋へ戻ろうとする。木戸から入ってくるあの男にまた出会った。顔を背け、奥の方向に行こうとする。間違いない。あの時お助けいただいた方徳様だ。思い切って三之丞は声をかけた。

「川越でお助けいただいた方徳様ではありませぬか」 

  男は、はっとしたように顔を上げた。間違いなかった。

「あの折はありがとうございました。川越在の友人を訪ねた帰り道に腹痛で。お助けいただいた菊池でございます」

  三之丞の礼に、男はとぼけ顔で答える。

「おうおう。あの時の吾人か。確か寺子屋の師匠とか。ここであったか。旅の途中難儀をしておられる方を助けるのは、医師として当然ですよ」

   眉の濃い角張った目の方徳。

「誰かお知り合いがこの横丁長屋に・・」

「はい。時々薬草の仕入れに江戸に参りますが、今日は飯能河原の村の、家族からの届け物を、ついでにおいとさんに置いて帰るところです。時々こうしてよらせていただいております」

「たしか、おいとさんは近くの芝大黒屋さんに通いで・・」

「さようでございます。年頃でございますので、村の両親も、そろそろ帰って嫁入りの支度をさせたいと考えておるような次第でして」

「さようでございましたか。夜も遅い、気を付けてお帰りください」

 方徳は急ぎ足で、北東角のおいとの家に向かった。

 

 「おいとさん。今そこの井戸端で、昔、川越の街道で腹痛のところをお助けしたお方から声をかけられましてな。時々、村からの届け物と・・いたしておきましたが、どのようなお方ですかな。用心にこしたことはありませんからね」

「ああ。あのお方は、旗本菊池様の三男坊で家督の見込みなく、街中で気楽な仕事をと・・寺子屋の師匠で、長屋の子供たちが毎日世話になっております。趣味は銭湯の長湯と剣術だそうですよ。牛込の堀内道場では三羽烏とか」

「そのような方がおられるのか。用心じゃな」

   濃い眉の下の鋭い目が光る。

「この暮れの二十八日と決まりましたよ。雨が降ろうと、雪であろうと江戸湾から芝に大船も用意しています。万一のつなぎには、徳が当日宵の刻、この家に待機です。どうしても具合が悪い場合以外は、必ず決行と西川のお頭からの伝言でございます」

   再び方徳の目が鋭く光る。

「わかりました。いよいよですね。五年の準備が。ところで方徳さん。この麻の薬草はそんなに効果があるものですか」

  小箱を開けるおいと。

「私も試しましたが、間違いなく昏睡状態に陥ります。肝心ことは、使う量でございます。決してお間違えにならないように。味噌汁大鍋いっぱいに、土瓶いっぱい分のみでお願いします。それ以上では万一昏睡から冷めず・・もございますので」

   小箱の中の乾燥させた麻の薬草を、おいとの前に置く。

「では方徳さんがお帰りなったら、今日、自分で試してみましょう」

「おいとさん。お試しなら、くれぐれも碗の三分の一になさいませ。間違えては危険ですから。それと勝手口の芯棒だけは、夕餉前に外してくださいませ。道具で壊すことは簡単ですが、近所に物音が漏れて、悟られては面倒ですから」

「わかりました。それでは私も疑われないように、夕餉を食べまして・・」

「西川のお頭は、それを心配しておりますが・・本当に・・それでよいのですか」

「半年もしたらお店を引き上げ、村に帰ることにいたしましょう。覚悟はできておりますゆえ。半七さんも、待ってくれるでしょう」

   しっかりとしたおいとだ。

「それではおいとさん。身体を壊さぬようにお気をつけて」

   方徳は夜泣き蕎麦屋が横丁を通るそばを、さっと木戸を抜け暗闇に消えた。

 

  
  師走の二十四日夕刻。半年間鍛えた操船を、身をもって試す時が来た。半七と筏職十名。 みのすけと強力百姓四名は、大船を、江戸に向けて釜石浦からまさに出航させるところであった。同時にはやばしりのよしは、飯能河原に走った。 船上ではみのすけたちが、足回りの手甲脚絆、黒装束、工具、食料の点検をしていた。こちらは大船の別動隊が総勢十五名。飯能河原の村からは頭の捨松、弥助ほか十七名。総勢で三十二名の、五年がかりの大部隊であった。訓練のおかげもあって、大船は穏やかな波をけって南下し、銚子沖を二十五日には超えた。

 

   暮の二十八日夕刻。今日も江戸の町はよい天気だ。三之丞は稽古で汗を流し、牛込の道場から長屋まで戻り、井戸で洗い物をする。

「お師匠様。お帰りなさい」

「おうおう、はなと里ではないか。どこへでかけるのじゃ」

「はい かかの許しをえたので、二人で増上寺まで行くところよ」

   年上の里が答える。

「もう夕の刻だ。二人きりなら、すぐに帰るのだぞ」

「はい。お師匠様」

 と二人が手をつなぎ木戸を出るとすぐに、見慣れぬ男が、木戸を入り井戸端の三之丞をすり抜け、足早に北東のおいとの家に向かっていく。

・・・・・はて、おいとさんはまだ大黒屋のはずだが。届け物かな・・・  

  寺子屋に戻り居間で茶を飲んでいると、表から弥生の声がする。

「兄上 お帰りでございますか」

「今、稽古から帰ったところじゃが、よく参るのう。何用じゃな」

「お母上様からの書状を持ってまいりました。兄上の縁談ですよ。羽生家の娘御で、よいご縁ですから、すぐに返事をするようにとのおおせです。すぐに返事をしたいから、今晩、必ず築地の家に来るようにとのお言葉でございますよ」
「わかったが、まだわしにはその気はないのでのう。困ったな。丁寧にお断りはできぬものかな」

   と母上の書状を傍らに置く。

何か気になることがあるようだ。弥生は兄のしぐさで分かるのだ。

「前にも話したがな。このところおいとさんのところに、飯能の村からよく人が出入りするのでな。先日は、川越で助けていただいた村医者方徳さん。今日もおいとさんが、大黒屋の務めのはずなのに。また知らぬ男が家に入って行った。届け物にしてはのう。男が帰らぬのもなあ・・・・不思議な気がしてな」

「それではおいとさんの家を訪ねて、男の方に・・どんな御用かとお聞きしてはいかがですか」

   と弥生は澄まして言う。

「ま・・そこまで詮索するわけにはいくまいて」  

「ところで母上へのご返事はいかがいたしましょう」

「お前から、まだその気がないようだと、母上に話してくれないものかのう」

「あら。いやでございますよう。兄上から今晩直接お話しくださいませな」

「ひとまずわたくしは築地に帰ります。今宵、必ずおいでくださいませよ」

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸 元禄 人模様 寺子屋師匠 菊池三之亟事件控え 第三話 泥棒村 その1

2024年03月25日 11時32分52秒 | 時代小説

 

           泥棒村   

 つけ火の捕縛に活躍した、三之丞と田島牛乃進の親交が深まり、その一年後の元禄三年同じ師走のことであった。 
 三之丞は鍵屋長屋東北角の厠を使い、露地右に折れて井戸に向かう。長屋の木戸の方角から、小男が,師走の寒い風を避けるように、北西の奥に向かっていくのを見ていた。

 三月ほど前にも確か、あの男は大圓寺の裏門、北西角の家にきたような気がする。竹のぶらしで歯をすすぐと、ゆっくと木戸入口右側の自宅へと向かう。北の方角から、強い風が吹き長屋の路地に土埃が舞う。

 「おいとさん。これはお頭からの、例のものでござんすよ。まあ村内でも試してみましたが・・なかなか使う量が難しい。簡単に、誰かに試すわけにもいかないからね。私も少しやってみたんですがね・・意識が朦朧として、そのまま寝込ンじめえましたよ。若い筏師の連中は、うなりっぱなしで・・寝つけずにうなっている者もおりやした」 

   丸顔の目じりをさらに下げ、弥助が薬草の説明をする。

「そうなの・・・・量を間違えたら大変なことになるのね」

「お頭は、年が開けてすぐにとおっしゃっておられるので・・なんとか準備を願いたいものでございます」

   渋茶をすすりながら、弥助はしょってきた荷を下ろす。

「いよいよですね。五年がかりで準備してきたのですから、失敗するわけにはいきません。この薬草は私も少し試してみましょう」

   小型の壺に薬草茶が入っている。

「くれぐれも量には気をつけなすって」

   薬草を一つまみする。

「分かっていますよ弥助さん。ところで銭は、ここに揃えてあります。少し重いようですよ、背負ってなるべく早くお帰りなさいまし」

   布団の奥から箱を出すおいとであった。

「おいとさん。分かりました。夜のうちにひとっ走りして、飯能河原まで戻ることにいたしましょう。今日の荷は、この三百両でございます。あと年内にもう一度参りますので、それまでにいつものように、銀貨と小銭にお願いします。ではわしは、これで失礼して」

「弥助さん気をつけてお帰りなさいよ」

「おいとさんも気をつけなすって」

   寒空の中、急ぎ、弥助は引き上げっていった。



  武蔵国。飯能河原の村では、西川の捨松が子の刻すぎのこの時刻まで、弥助の帰りを待っていた。がっしりとした下あご膨れの音松は、囲炉裏にじっと座っていた。 

「西川のお頭。いつものように、渡して参りました。おいとさんの方も、ほとんど準備が整ったようでございます。年明けにはと。申しておられました」と弥助。

「そうさなあ。大黒屋も五年もかけて準備をしたんだ。苦労なことだ。年明けといわず、この師走に一挙に頂きということにするか」

    ゆっくりと煙草に火をつける西川の捨松。

  五年前の酒田でのーーいただきーーは苦労した。酒問屋、井筒屋から越後を超え、中山道までの山道を、千両箱を運ぶのは並大抵ではなかった。江戸府内は取り締まりも厳しいだろうし、この度の仕事は、この飯能河原の村まで運ぶ手段が一番の難題だった。

「弥助さん。皆の衆に、年末の二十五日いうことで、寄合いを私の家でやりますからな。頼みましたよ」

   捨松もいよいよ決心したようであった。

「承知いたしました。二十五日には、それぞれの役のものが集まってくると思いますので、歳の垢を落とす酒盛りの前に、江戸でのーいただきーの打ち合わせをいたしましょう」

   弥助は副お頭格で村人の信頼も厚かった。

「そうだな。来年がが良い年になるようにな。どの村も、今年は作物の出来があまり良くないようだ。西川材はなんとか商売になっておるが、近郷の百姓たちを助けてやらねばなるまい。人目がつくのでの、小判を、小銭に替えて百姓たちに明るい春が来るようにしてやりたいと思っているのだよ」

    囲炉裏の燃え炭をかきだす捨松であった。

「久しぶりのーーいただきーーでござんすね」

   と弥助も目を細める。

   入間川上流から流れが荒川に向かう前に、川は、ここ飯能河原で大きく蛇行していて、鬱蒼とした杉や檜を切り出し運ぶ西川材のおかげで、この村はずっと豊かに暮らしてきている。この左右に広がる山々からの杉と檜のおかげで、村人たちは豊かに暮らして行けるのだから、そのお返しをしなければなるまい。と西川の捨松も、村人も考えていたのだ。

 

 

おいとは鍵屋長兵衛の口利きで芝、源助町綿糸問屋大黒屋に入って、早くも五年の年月がたっていた。はじめのころは、勝手口の手伝いや下働きであったがその気遣いの良さから、台所・炊事のことは次第に任され、三年目には女中頭のような塩梅になっていた。

おかみさんも信頼し、よくしてくれている。このようになれた店でーーいただきーーをしなければならないのは、少しつらいものがあった。 通い奉公でもあり、店でも長屋でも、できるだけ目立たないように暮らしてきたつもりではあったのだが。

大黒屋の旦那も女将さんも、蔵の鍵だけは、決して使用人任せにはせず、女将さんの化粧箪笥の三段目に保管し、蔵の開閉には必ず、どちらかが立ち合う日常であった。蔵のカギの在処もわかるし、店への手引きも簡単であったが、今回は少し気が晴れないおいとであった。が・・五年の準備を無にすることはできない。優しい目のおいとは気を取り直す。

 

 江戸での綿糸の扱いは、菱垣廻船、樽廻船で、西の難波や京から全国の良質綿糸や綿織物が入り、それを東回りや西周りの航路で、山陰から秋田、山形、岩手、青森の卸商や藩に転売し、莫大な商いになっていた

 芝の大黒屋の本蔵には、千両箱が二百以上あると噂されていた。千両箱には 八百枚から九百枚の小判が入っていたから・・現代の価格で言えば、一両二十万円弱としても・・ 一箱二千万万円弱くらいということになるが・・五両あれば、一人一年暮らせる当時としては、莫大な金額であった。

 今回のーーいただきーーは、千両箱五十箱ということになろう。全部頂かずに、その大店が、再建できる程度にするのが西川の捨松の決め事であった。さすれば大黒屋も、何とか再建し、商いをやって行けるであろう。最大の問題は、五十の箱の運搬にあると考えていた。飯能河原までこれだけ運ぶのは並大抵のことではない。それこそが今回のーーいただきーーの重要な肝でもあった。

 

 

  芝御殿。中之御門橋の南が松平肥後守。北が松平陸奥守の屋敷であった。大川から江戸湾に入り、この中之御門橋のあたりであれば、大船が係留できることも、西川の捨松には調べがついていた。大川から、千住の先までは大船で運ぶことができるだろう。そこからさらに数隻の小舟に荷を積み替え、荒川の上流まで。と。手はずは整えていた。この方法について、捨松は弥助と何度も相談していたし・・実はそのための大掛かりな準備を、一年前から行っていたのだ。

  飯能河原のこの村は、戸数四十数軒、総勢は百二十人強であったが、西川材のおかげで豊かな暮らしであった。左右の山林から、杉や檜を伐採し入間川から荒川、千住から大川を下り、木場まで筏を組んで運搬し。生計を立てていた。このいきさつは、西川の捨松が東北釜石の浦で網元漁師の子として育ち、竹馬の友、寺子屋で一緒に机を並べた土地の豪商佐野家の惣領佐野吉秀との関連であったが、その話はまた後程にしよう。

  西川材の仕事のために二代にわたって、村では分担が決まっていた。熟練の筏乗り職人二十数名を、頭の半七がまとめていた。剛力百姓十数人は、みの助が そのほかに、つなぎの徳、よろず調達の五名は三次が、錠前と鍛冶屋は仁兵衛、早や走り連絡のよし他数名、寺と墓は山寺の田の助、寺子屋と医者を兼ねた、方徳は子供達と女房どもをまとめていた。この連絡網に乗って、すでに鍵屋長屋のおいとからは、芝大黒屋の詳細な図面も入手していた。

 ーーいただきーー当日の四十数名の黒装束や、足回りはすでに三次が調達準備を終わりーー当日、店の者を眠らせておく薬草の準備は方徳が準備していた。  

   ここ数年江戸の町はやや華美に流れ、市民の生活は豊かになりつつあったが、ここ川越や飯能あたりの百姓は、日照り続きもあって、貧しく苦しんでいる。かって貯めた小判は小銭に変え、近隣の村々にそっと施してきた。このたくわえ金はこの村のためだけではなく、近隣の生活をも救っていたのだ。村では頭の西川の捨松、弥助だけでなく皆結束が固い。男も女も自分たちの使命をわきまえ秘密を守ってきた。こんな奇妙な村が、一つくらい世の中にあってもいいのかもしれない。 

  

 亥の刻少し前、少し肩を丸めながら鍵屋長兵衛は長屋の木戸をくぐる。長兵衛は、時々夕餉もすんで仕事の段取りが付くと、こうして巡回する大家であった。

 大きな三棟の右の一角を、煮売り屋から東に回り北東の厠のそばまで来ると門口から出るおいとに出会った。

「おや おいとさん今日は早いお帰りだったかい」

「あ。 大家さん。いつもお世話様でございます。久しぶりに早く上がりましたんで、これから湯屋へ行こうかと」

   優しい目と大きな耳のおいとだ。

「しばらく姿を見なかったが元気で暮らしおるようじゃな」

「もうかれこれ・・ここと、大黒屋様にお世話になって五年でございますね。お店でもすっかり慣れ、よくしてもらっております」笑うおいと。

「それは良かったのう。ところで・・・おいとさん・・・誰かいい人はできたかね」

  こずくりだが愛嬌のある襟足のきれいなおいとだ。

「鍵屋さんいやですよう。私みたいな女では、とてもとても・・・」

「いやいや、私も心にはかけているのだが。いつまでも一人暮らしのままというわけにもいくまい。捨松さんからも、誰かいい人がいればと。飯能の村の方々も元気でおられるかのう」

   丸顔でつややかな髪の大家の鍵屋だ。

「筏で、西川材を木場に降ろした後、いつも誰かが帰りがてらに寄って、村の様子を聞かせてくれていますよ。おかげさまで、皆元気でやっておるようでございます」

「それはそれはよかったの。江戸でも、このところ普請が盛んで材木の需要は増すばかりでな。それなら皆の衆も安心して暮らせるな」

「はい、さようでございますね。寒いので鍵屋さんもお気をつけて」

 

三乃丞は牛込での稽古を終え、金杉橋を増上寺の方角から渡って鍵屋横丁木戸口まで来ると、東の長屋奥の方角からどこかでみかけたような・・気のする・・男と出会った。男は顔を背け会釈すると、足早に木戸を抜けて出て行った。確か・・あのお方は・・二年前、私が川越の剣の友、及川治三郎を訪ね江戸へ帰る途中、腹痛で、街道の地蔵尊の前で下腹を抑え、冷や汗を流していた時に、お助けいただいた医者では・・・・・・

印籠から漢方の薬草を出し、手当てしていただいた・・・その折お聞きした・・飯能の村医者で、方徳様ではなかったのか。それとも人違いだろうか。

そしてその三日後にまた増上寺の前で、あの方に出会う三之丞であったが、先方は、北へ急ぐ様子で足早に去って行った。

 

師走の忙しさが鍵屋横丁にも漂い、朝から大騒ぎであった。棒手振りの魚売りや大工の職人、鍛冶屋、竹職人、砥ぎ師、小間物行商、薬売りなど。 師走になんとか付け支払いを済ませ、新年を迎えようと、仕事納めに向かって奮闘中であった。三之丞はこうした長屋のたくましい連中を見ると自分は・・どこかへ・・おいて行かれるような気がして・・ふとさみしさも感じていた。

 


  一方 飯能河原の村ではいよいよ最後の詰めに入っていた。

「方徳さん。この薬草の効き目は、しっかりと確かめてくれたかい」

   と西川の捨松。

「はい。西川のお頭。大丈夫でございますよ。何度も試し・・私も試しました」

「この辺りで取れるこの麻が、それほど効果があるものかい」

「左様でございます。この麻は、一年草で丈は三丈ほどになりますが、夏に花を落とした後、麻糸を取るんでございますが、この少しとがった葉が、曲者でござりまする。これを干しまして、通常、は天日干しに長い間するわけでございますが、私は短期に大量に作るため、家の中に小さな炉をを作りまして、この麻の葉を大量に乾燥させました」

   眉の濃い角張った目でじっと薬草に太い腕を伸ばす。

「黒ずんだ葉と言うか・・・そうな感じだな・・」

   と西川の捨松。

「左様でございますね。これを飲んでみたら、大変なことになります。色々試しましたが、やはりこのひとつまみの乾燥した麻の葉で、土瓶一杯分の薬になります。まず、すぐに頭の脳みそがいかれてまいります。幻覚を見るような感じになり、意識がもうろうとして、昏睡状態に陥ります。つまり適量を飲んでおれば、命に別状はないが、昏睡状態がほぼ半日は続くという代物でございます」

「そんなに、昏睡状態になるものなのか。しかし量を間違えたら大変だな」

「その辺は、おいとさんともよく相談いたしまして、命を殺めないようにいたしましょう」

   自信ありげな方徳であった。

「そうだな。決して女子供を犯さないこと。財産を全て取らないこと。人を殺めないこと。これが我々の掟であるからな」

    方徳がうなずく。

「心得ております。明日にでも、これをもちまして、おいとさんと相談してまいりましよう。おいとさんは、大黒屋の炊事場を一手に仕切っておりますのでーーいただきーーの当日の夕餉。味噌汁の中に、これを入れて全員、眠らせましょう」

「それでおいとは・・そのあとどうするつもりかの・・・」

「先日の、おいとさんとの打ち合わせでは、後の詮議で、内部の手引きなど調べが厳しくなるので、自分も勝手口の芯棒を外したら、味噌汁を飲む、と言っておりますが。そのほうが、決して疑われないだろうとも。翌日、目が覚めても皆、覚えもないことで、不思議な一家全員の昏睡中の盗みで・・・証拠も挙がらないわけですから」

   薬草を箱に戻した方徳が、捨松から濃い茶を受け取りゆっくりと啜る。

「そうか・・・大変なことじゃが、そのようにおいとが覚悟を決めているのであれば、そのようにしようかの。半金は残しておくわけだから、大黒屋も立ち直るであろう。半年か一年して、ほとぼりが冷めてから、引き上げさせればいいだろう。確かおいとは、筏職の半七といい仲であったな。五年も引き離し、不憫であったな。引き上げたら盛大な祝言をしてやろう」

   と捨松は煙管に火を付ける。

「それはようございますね。半七もおいとさんも、喜ぶことでしょう」

「この師走の二十八日だ。雨が降ろうが、雪だろうが、大船の準備もしてあるので、外すわけにはいかない。しかと伝えておくれよ。万一の時に備え、宵の刻につなぎの徳をおいとの家に詰めさせておくからな」

「承知いたしました。抜かりなく伝えますです」

    方徳が捨松のもとを去る。


  西川の捨松は、東北の海岸線釜石浦の出身であった。東日本の物流を抑える豪商佐野吉秀とは幼馴染の仲だ。数年前から佐野とのやり取りを、捨松は頻繁に行っていた。そしてこの師走の約六ヶ月ぐらい前からは、村のおもだった男たちを、釜石浦に派遣し、大船の操船技術を実地で訓練してもいた。

 筏職半七ほか九名、強力百姓みのすけ他4名。食料、装束、工具などの調達の三蔵。はや走りのよし、総勢十六名の男どもが、別動隊で準備していた。佐野とは、五十数年の付き合いである。うすうすと、捨松の狙いを察知していたが、西川材の重要な供給先でもあり・・・・深くは追及しない佐野であった。

 

 師走二十三日。三乃丞が寺子屋をしまい、湯屋へ行こうとしていた戌の刻。久方ぶりに妹の弥生が訪ねてきた。
「兄上お変わりはありませんか」

「変わらず元気にいたして居る。そちは、道場の帰りかな。今日はまた何用じゃ。お父上、母上、兄者ども、みな息災でおろうな」

「はい。柳井道場の帰りでございます。お父上が、様子を見てこいと仰せられましたので、ご機嫌うかがいでございます」

 と胸元から袱紗に包んだ金を置いた。

「そのような心配はせんでよいと母上に伝えてくれ。寺子屋も順調でな。一人で食うて、生きて行くにはじゅうぶんなのだよ」と三之丞。

「まあまあ、まあそうおっしゃらずに。それが父母の心とゆうものですよ」

「お。 なんだ。そちは説教に来たのか」二人は笑い合った。

 菊池の後妻みとの実子は、三之丞と弥生であった。長男と次男は先妻とよの子である。家督は長男太郎左衛門が継いでいる。

 三之丞と弥生は何かと気の合った兄妹で、二人供母みとに似て、すらりと背も高く、切れ長の目の美形で、色白であった。

 弥生は幼いころから兄に負けまいと勝ち気で、習い事よりは、兄との剣術を楽しみにするような旗本の一人娘で、薙刀の稽古からはじめ、今では父母を説得し、溜池の柳井道場に通い、八年後の今は、師範代柳井正勝の代理を務める腕前であった。若衆髷に袴姿である。

  しばし無言の二人であったが、遠く時の鐘が響き渡ると・・兄が目を細める。

「兄上。何を考えておいでなのですか」

「いや、このところ長屋やこの付近でよく会うお人がいての、こちらは見知っておるのに、先方は避けるようにして行き過ぎる。何か不思議な気がしてな」

「はてそれはまた不思議でございますね。人違いではありませんぬか」

「いや。人違いではなかろう。ま。夜も遅い。もう帰りなさい。皆様によろしくな。旗本の三男坊が、こうして市中で気楽に暮らせるのも、お父上のお許しがあればこそだ。まことに感謝いたしておる」

   三之丞の本心であった。

「うらやましい兄上ですこと・・・・・」弥生は帰っていた。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸元禄人模様 寺子屋師匠菊池三之亟 事件控え 第二話 火つけ 全文掲載

2023年11月13日 10時38分53秒 | 時代小説

   皆様の感想を楽しみにしています!

 

 

 

 第二話      火つけ

 

   芝七軒町。 銭屋長屋を師走の北風が江戸湾へ突き抜ける。
寺子屋では今日も、手習いの真っ最中である。

「おいおい・・・みの吉・・そんなに慌てて書くことはないぞ。今日はな、この壁に師匠が書いたーーいろはにほへとーーこれをしっかりと、ゆっくり見て書きなさい」

「長次・・少し墨が薄すぎるようだな。留吉は、きちっと座り姿勢を正して書きなさい。梅、それでいいよ・・そうそう筆の先はそっと入れ、しっかり伸ばす。止めるところはきっちり止める」

 さとがほっぺたに墨を付けて言った。

「梅はね、いつもなにかしゃべり方がおかしいんだよ。だってね・・イロハニフヘト・・・・て いうんだよ」

 前歯が一本抜けた梅はまだ少し空気が抜ける。

「少し筆を休めて皆聞きなさい。人間はその身体の特徴や、やや欠けた所があっても、皆同じように一人前なんだよ。欠けた所を笑ったりからかったりしてはいけない。誰もいいところと欠けた所をもっているのだからね」

 吉次は、左手で筆を持ち右止めに苦労している。右手の指が生まれついて固まっているのだ。左腕を支えしっかり右の筆止めを教える。

「吉次上手いぞ。その調子だ。左で何でもできるんだからな」

「はいお師匠様。うまく右にしっかり止めることができました」

「さあ。今日はここまでにしよう。筆先はしっかり紙で拭い、道具箱にしまいなさい」

 子供たちが嬉々として帰っていく。

「いつもあんなですか。今、水を飲みに行って、お師匠様の部屋の戸があいていたので中を見たらもうびっくり。書物や紙が部屋中に!」

「いや・・すぐにな・・・ちらしてしまうのだよ」

 頭に手をやる三之丞。

「では帰りに、はると、ちょっとかたずけておきますね」

 いととはるは、年長十三歳で来春には奉公に出る予定だ。

 

  三乃丞はーーこの、差し棒の仕掛けを直してもらおうかーーと長屋の北東角の厠の向かい、飾り職人 時次郎の家に向かった。

「時次郎さんいるかね」

 ちょうど河野屋に収める簪の最後の仕上げに真剣な表情の時次郎が、仕事台から顔を挙げた。

「この仕掛けだが少し緩いような気がする。うっかり寺子屋で外れたら大変だからな」

 と三之丞が差し出す差し棒を、時次郎は点検し始めた。

「鍵十字の仕掛けが・・少し・・緩いようですな。この簪がすんだらすぐに直しましょうよ」

 長身で、長い手足の時次郎だ。

「師匠は今日はこれからお出掛けですか」

「牛込の道場でひと汗流してこようかと」

「では、お帰りまでにはきっちり直しておきましょうよ」

「忙しい折にいつもすまないが、頼みましたよ」

「いつも、長屋中がお世話になっている師匠の頼みだ。何、簡単でござんすよ」

 

 

 

    江戸中期。元禄元年。師走の話である。

 江戸は家康の江戸城建立から約百年。百万人の大都会になっていた。全国での米の生産が飛躍的伸び、乾田への切り替えで地方はまた、稲の他に、藍、桑、紅花等、多岐にわたる生産で豊かになりつつあった。

   物流では一六六0年の初頭には、河村瑞賢が東回りと西回りの廻船を開き、特に大阪では両替、金融業が諸藩の蔵屋敷の管理や出納を行う、というような時代になってきた。

 当時の江戸、大阪は米の集積地の他に、大名の藩の財政を管理する重要な出先であった。武士階級においても二大都市は重要な拠点となっていた。

 一方、市民の生活は、武家の豪奢ぶりからはまだかけ離れてはいたが、一部の豪商達は江戸、大阪での米の管理ということで、急激に蓄財するものも多くなっていた。大阪、江戸の蔵屋敷とも大繁盛で一部の豪商が権勢を伸ばした。

 

 


   尾張屋長三郎は、蔵元の仕事の合間に尾張藩から頼まれた仕事のために、江戸に向かって二日目のことであった。

 東海道島田宿からちょうど、宇津ノ谷峠にさしかかっていた。今回の仕事は城郭先端の尾張藩のシンボルともいうべき金のシャチホコの仕上げ細工で、腕の立つ職人を探すことであった。この分野ではやはり、江戸の職人が群を抜いて達者であり、藩主からの強い要請であった。鍵屋からの知らせで何人かの候補者に会いに行くところだ。 

 ーーそうだ。ちょうどこの辺りであったーー 

 五年前に旅の娘を助けたことを思い返していた。あれから五年か。わしも年を取ったものだ。と白髪をなでる。

ーーあの時、峠の最後の切り通しのところで、突然女の悲鳴が聞こえ、長三郎は左手の茂みに走り込んだ。無頼者と浪人が、今まさに若い娘に襲いかかろうとしている。そばでは、同行と思われる老爺が必死に娘をかばうが、危ないーー

「おい。浪人。貴様! 何をしようとしておる。ここは天下の街道だぞ」

「なんだ! お前は。文句あるのか。たたっ斬るぞ!」

   角顔がだみ声で脅す。

 浪人は刀を抜くと上段から長三郎に斬りかかる。右に体を交わし、鍔先を浪人のひばらに打ち込む。大きくうめいた浪人んはそれでも下から突き上げる。長三郎は刀を抜き、峰を返すと、右肩を目にもとまらぬ速さで叩く。浪人と無頼者は峠の下に逃げ出していった。商人風と侮ったか、見事に撃退されたわけだ。年は取っても長三郎の腕に衰えはなかった。

 「お助けいただいて、まことにありがとうございます。お嬢様と江戸へ向かうところでございましたが、この峠で、無頼浪人に突然襲われまして」

 娘と老爺は、掛川から江戸への旅の途中であった。呉服屋を営んでいた片親の父をも亡くし、店を整理して、遠縁にあたる江、南八丁堀の三ツ池屋弥一郎の元へ向かう途中であった。老爺、弥助一人の供であり、難儀な旅の様子であった。おっとりとした丸顔で目鼻立ちの整った娘は、

「おかげさまをもちまして助かりましてございます。掛川で呉服商をやっておりました前田屋の、しのと申します。お名前をうかがわせていただけませんでしょうか。次の安倍川の宿にて、ささやかでございますがお礼をさせていただきとうございます」

  しっかりとした口調での礼の言葉であった。

「いやいや、旅は相見互い。これからの峠越えなどでは、宿の籠を使うようになさい。先を急いでおりますので、これにて失礼いたしますよ。尾張屋長三郎と申すものでございます」

  大柄で額の広い長三郎であった。

「では、あの尾張藩の蔵元の・・尾張屋様でございましたか」

 と老爺。 ふたりに黙礼すると、長三郎は脚を速めて東に下って行った。

 ーーあれから・・五年の歳月がたっていたのだーー  

   

 師走のからっかぜが吹く中を、上野の呉服商、吉野家吉政は、今日は供もつれずに深川富岡神宮の奥、あたりの香具師元締め、鬼屋の一八のところに向かっていた。日ごろから、店でのもめごとなどの相談と処理人でもあった。

「吉野家の・・この師走も押し迫った中・・今日は何事だい」

「一八親分に手を煩わせるほどのことかどうかですがな・・実はちょっと困っておりましてな。少し痛めつけてやりたい店がありますので・・」

「ふーーーん。同業者だろう」

 おみとうしの一八であった。

「実は・・それです。最近やたらと、南八丁堀の三ツ池屋に客を取られてましてな。弥一郎は最近すっかり何かコツをつかみ、魚をえたようでしてな」

  少し赤黒い丸顔。 どんぐり眼で下から一八を見上げる。

「お前さんも、そのあたりを探って・・真似をしたらよかろうに」 

「それがどうもつかめんのでござんすよ。そこで・・ちょっと・・・店のあたりで火でも起こればと!」

  物騒な話だ。

「そいつはちっとな。お前様も、知っていなさるだろうに。最近はボヤ程度でも、お調べが厳しいぞ。まして失火でなく付け火とわかったら・・・」

「そこですよ。大事にならない程度で。店先か横路地あたりで、少し燃えてくれれば・・三ツ池屋の評判が落ちれば、こっちのもんです」

  と懐の袱紗から二十両を一八の前に置く。

「吉野家さんも、恐ろしいことをおっしゃるお人だね。私どもが直接は・・できませんですよ。それにわしらの名前も、絶対に表に出ないということですな。こう見えてもね、香具師の商売は、脅しタカリより信用と顔ですからな」

「それは、親分さん。十二分にこころえておりますですよ。何とかこの年内に。お願いいたします。年明けには同額で、お礼に伺わしていただきます」

「旦那にそこまで言われちゃ。考えておきましょうよ」

  と二十両を受け取る。

 一八は、吉野家が帰ると、信用できる代貸の三蔵を部屋に呼んで密談だ。

「・・というわけで・・界隈の土地者は駄目だぞ。ボヤを起こしたらすぐに江戸を離れるよそ者でなくてはな。木場奥の太西先生のところに・・確か伊勢崎の流れ者がいて、下働きをしていたな。奴に因果を含めるように先生にお願いしてこい。この十両でけりをつけてこい。くれぐれも用心するようにな。ボヤ程度でも御上のお調べは厳しいぞ!」

  と煙管をくゆらせる。

 

  門前仲町を左に折れ、仙台掘り方向の万年町。代貸三蔵の家では、酒肴が準備され、肥前藩浪人大西主馬、同じく肥後浪人石橋一之介が歓待を受けている。二人は木場の先に巣食う、食い詰め浪人だ。もはや土地の無頼者と同じであった。

「・・というわけで。先生方に、やっていただくほどの仕事ではないんだがね。先生のところにいなさる・・伊勢崎の・・たしか・・」

「三平のことかね。奴はあれでなかなかK役に立つ。度胸もあるしな」

「ボヤ程度とはいえ、お調べは厳しいから、よそ者ですぐに江戸から出れる奴がいいんでね。どうかお願いいたしますよ。とりあえずこれは前金で」

  と大西の前に三蔵は四両を置いた。

「いいだろう。引き受けた。それでいつまでに・・」

「年内ですがね。できればここ四、五日で片を付けたいんでござんすよ。くれぐれもわしらの筋は・・・ご内聞に」

  うわ瞼の厚い三蔵は念を押す。 

 その晩、伊勢崎の三平は大西から薬研堀の船宿 井筒に呼ばれた。

「大西の旦那。簡単な仕事だ。五日以内にやってみせやしょう。江戸では旦那方にお世話になりましたし、ちょうど潮時で伊勢崎に帰ろうかと。し遂げた後・・すぐにご府内から消えておりますよ」

 と餞別の二両を受け取る。

 

 

  伊勢崎の三平は深川から永代橋を北へ渡り、神田から八丁堀に向かっている。 師走の南八丁堀のあたりに強い北風が時々吹き抜ける。

 仕掛けるにはまだ早い宵の口で、職人や棒手ぶりが行きかっている。

風の様子も見ながら、三平は、三池屋の表口から左に折れる路地の火桶置き

の傍らで、たたずみながら北風の様子を探っていた。 

ーーボヤ程度に収めるには・・少し周りに人がいる方がいいかもしれないなーー

  大西の旦那が言うには評判を落とす程度でいいと。表口はすでにしっかりと閉められていて、火桶置き場の上の松の木のあたりの二階には、明かりがともっていた。風が少し下火になった。よし。いまだ!

  このこのあたりがよかろう。三平は懐からすっかり乾いた紙と火打石をとりだし、あたりをを見回す。緩やかな冬風が吹く・・人通りはほとんどない。

 素早く火打石をたたき、乾いた紙に向ける。さっと、火が付く。さらに乾いた紙に火を移し、塀越しに投げこもうとした。 と。 その時、ーー強く北風が吹いて、三平のほお被りの手ぬぐいを飛ばすーー

 火はあっという間に乾いた松の枝に、燃え広がり、勢いよく三ツ池屋の二階の戸袋に燃え移る。

「これくらいで、よかろう」

  落ちた手ぬぐいを拾って、横丁から出ようとしたとき、

「あれ。火が。これは大変だ! 風がつよくなってきて」

  夕刻の商売から帰宅途中の、棒振り魚売りの男とぶつかりそうになる。

下あごのとがった顔の三平は、無言で男の傍らを走り抜け、永代橋の方向に走り抜ける。

 ーー顔をみられたかもしれねえなーーと右目の下の痣をなでる。

  火に気付いた奴がいる。まぁ、ぼや程度で済むだろう。こりゃ溜池の巳之助のところに隠した金をもって、すぐに伊勢崎に帰ったほうがよさそうだ。



 松の木に移った炎は、思いの外に大きく、、シューと音を立て、母屋二階の羽目板に、あっという間に燃え広がる。炎の周りがまことに早い。風が吹く。

北風にあおられ、炎は、瞬く間に上下にメラメラと燃え広がる。

 三ツ池の弥一郎は、ちょうど丁場の仕事を全て済まし、二階の居間に上がるところであった。

 二階の天井のあたりから糸を引くような白煙とミリミリという木が裂けるような音。これはいかん。二階が火事だ。慌てて駆け上ろうとしたとき、前方からものすごい黒煙がこちらに向かう。

 妻がたもとで口を覆い必死で階段にはいだしてきた。弥一郎も姿勢を低くしながら、左たもとで口を覆い、思い切り右手を伸ばし妻の腕をつかみ、下に引っ張る。その時乾燥した室内では、すでに大きな炎が上がっていた。急ぎ妻を引いて階段を降りようとしたまさにその時、すでに下に回った烈火のような炎が階段下に一気に迫る。

 二人は階段下に転げ落ちた。朦朧として意識が薄れ始める。阿修羅のごとく燃え広がる炎の中をそれでも必死に妻を引いて、正面戸口の土間に転がったが、そこでふたりは意識を失った。

ジャンジャンジャンと半鐘が急を告げる中、尾張藩蔵屋敷の蔵掛、田島牛乃進は、池之端の道場帰りで、役宅の長屋を目指して駆け出していた。尾張藩蔵屋敷の少し手前の商家三ツ池屋から、ものすごい黒煙が上がり、やがてあっという間に師走の北風にあおられて、暗い夜空に大きな炎が上がっている。まさに数軒先は蔵屋敷であった。店の正面戸口が、今まさに燃え落ちんとしていた。牛乃進は戸口にうずくまる二人の姿を見た。蔵屋敷まではまだ数軒あったので、とっさに動く。二人を通りまで何とか引きずり出した。

あたりはすでに野次馬が出始めていた。野次馬の若い男に、老女のほうを見るように声をかけ、牛乃進は主人と思われる男の呼吸を探った。黒煙と炎で真っ黒の男の胸前を大きく開いて、心の臓に耳を当てる。ほとんど反応がない。やむなく道場で会得した、心の臓に両手をあてがいグイグイと押す。依然反応がない。そこへ一番組、は組の頭と思われる男から声がかかる。

「お侍。ちーっと無理かもしれねえが、あとはお任せなさい」

「そこの妻女も頼んだぞ。拙者は、この先の尾張藩蔵屋敷の田島牛乃進!」

  叫ぶと蔵屋敷に向かって急ぐ。と 数歩先、店の勝手先から黒煙で真っ黒になりながら、若い娘と老爺が転がり出てきた。

「お嬢様もう無理でござんすよ。旦那様と奥様は、外に出たかもしれませんから」

 戻ろうとする娘を必死で引き戻す老爺。

身体中、煤と黒煙で真っ黒になった老爺が、これも真っ黒な娘をやっと引き戻す。それでも女は、燃え広がる正面戸口に向かって、養親を助けに行こうとしている。牛乃進は、通りの奥で介助されている二人のことを知らせた。ふたりは、は組の火消しの方向に急いで走った。あの老夫婦は助かるだろうか。

蔵屋敷では上役の指示のもと、若党他全員が類焼を防ごうと、は組の火消と相談中であった。火はこちらに向って、北風の中を衰える様子はない。 

「ここまで、火元からあと十数軒でござんす。中ほどの、ここから五軒を急ぎ取り壊し、日除け地を作るしか仕方ない!」

は組の屈強な若党の声に、蔵元上役と供に出張っていた尾張屋長三郎も、同感であった。上役が藩の全員に取り壊し手伝いを即刻命じた。それから一刻後、火は何とかおさまり類焼を防ぐことができた。

野次馬たちも三々五々引き上げる中、田島は店から引き出した二人の夫婦のことがきがかりで、三ツ池屋の向かいに戻ってみると、先ほどの娘と老爺が、横たわる二人に取りすがって泣いていた。いくら声をかけても、もう答えはない。

「お二人はだめでござんした。喉から黒煙を相当吸っていなさって・・」  頭がまことに残念そうに田島に声をかけた。この寒空に番所というわけにもいかず、手下に娘と老爺の今夜の宿の手配を言いつけていた。

「頭。わが蔵屋敷の長屋が空いています。しばらくでしたらそこにお連れしてもかまいませんが」

 と田島が声をかける。

「お武家様助かります。あまり身寄りもないようですので、そうしていただければ。後でそちらに土地の目明しなどから、お調べもあるとは思いますが。二人がしばらくは落ち着く場所が必要かと。わっちどもは、一番組。は組の次郎と申します」

そんな経緯で、田島はその場を去りがたい二人を、尾張藩蔵屋敷長屋へ引き取ることとなった。

この日はたまたま番頭、手代や通いの女中たちも、早めに引き上げた後であったため、三ツ池屋は亡くなった主人と妻、娘のしのと老爺弥助の四人だけであったのが、不幸中の幸いであったかもしれない。

煤で黒くなった姿で長屋に入った二人は、長屋の妻女たちの世話で、顔と身体を洗い清めたが、放心状態であった。田島と尾張屋は、その遅い宵、二人に必要なものと、様子を見るために長屋を訪ねた。尾張屋はまだ放心状態の娘の顔を見たとき・・・・・

ーーおや この顔は・・いずこかで・・・お。そうじゃ五年前のあの時の娘と老爺ではないかーー  

それでも必死に礼を述べようと、しのは二人に向かって顔を上げた。老爺のほうが先にきずいたようだ。

「あ 五年前、駿河の峠でお助けいただいた!」

 絶句する。その声に、しのも尾張屋と田島をじっと見る。驚きの表情であった。必死で両手をつくと、

「このように二度までお助けいただき誠に、まことにありがとう存じます。養父母は残念でございました。手塩にかけて可愛がっていただきましたのに」     思い出したのか整った顔から大粒の涙が光る。

「これも何かの縁じゃのう。江戸で暮らすと聞いてが、三ツ池屋であったのかのう。しばらくは落ち着かぬであろう。お調べや、御養父母の弔いなどもあろうから、何でもここの田島と長屋の妻女達に相談なされ」

ふたりは深く頭を下げた。

 

  翌日昼。九ツ。北町奉行所与力、権田十郎は同心山内与十郎と深川の岡っ引き三次を従えて、南八丁堀の尾張蔵屋敷を訪ねた。まずは家族で生き残った娘と老爺の聞き取りを開始するためであった。

「昨晩の火災では、尾張藩の皆様方にもお世話になり、日除け地で、何とか類焼も防ぐことができました。奉行からもお礼をということでございました。本日は、まず生き残りの娘さんと老爺に話を伺いに参りました。二人の藩長屋へのお引き取りにも感謝申し上げます」

  上役と田島牛之進に丁寧に申し述べる。

「ご苦労様にござりまする。娘たちは昨晩のことでまだ落ち着かないさまでござる。拙者が同行させていただいてもよろしいかな」

  と牛乃進であった。 

「ご養父母を亡くされて誠に残念な折ではありますが、昨晩の様子を少し伺いたくて参っております。夕刻、何か不振に気付かれたことはありましょうか」

  与力権田の問いかけに、しのも老爺も黙って首を横にするばかりであった。

「じつは・・火が上がった刻に・・表どうりで、三ツ池屋さんの横辻から飛び出してくるやくざ風の男と、棒手ぶり魚屋が出会いましてな・・」

「お嬢様。何か恨まれるようなことに、こころあたりはございませんかねえ。若いやくざ風で、細い糸を引くような目と、右目の下に大きな痣がある男のようですがね・・」

   深川の岡っ引き三次が改めて確認するが、

「そのような方は存じておりませんですね。お嬢様」と老爺。

  火が回った時、しのと老爺は勝手口で夕餉の支度中であった。ものすごい黒煙が二階から一気に降りてきて、養父母を助けられず残念であったことなどを娘は細い声で伝えた。

「四人だけが、店とお宅にいらしたわけですな。今回は火つけとみております。一刻も早く下手人を探し追及するつもりです。いろいろご心労のところまことに恐縮でした」

  与力権田十郎は挨拶して引き上げる。

「権田様。娘さんも養父母を同時に無くし、身寄りもなく悲嘆にくれております。何とか事件のいきさつと、下手人を捕縛してくださいませ」

  と牛之進言った。

 



  牛込の堀内道場では、激しい竹刀の声が響き渡っている。堀内健太左衛門が師匠だ。この道場の使い手、師範代旗本の畑山光太郎、尾張藩の原田寅吉、松前藩の栗原右衛門などが稽古に汗を流している。

 上段から裂ぱくの気合いで、原田寅吉が三之丞に打ち込んでくる。少し身体を開きながら両腕でうけるが、グイーと押し込んでくる。原田とはほぼ互角の腕前だが、畑山にはやはり三本中一本くらいしか勝てない。堀内先生のおっしゃる、間合いが、まだまだ未熟であると三乃丞は感じていた。稽古が終わり庭の井戸で身体を拭いていると、尾張藩・原田寅吉がやってくる。

「おぬしは確か旗本の三男と聞き及ぶが。稽古は熱心だな」

「いや まだまだの未熟者です。原田さんや師範代にはまだまだ及びません」

「たしか芝の長屋で寺子屋とか・・またなんで・・」

「旗本の三男坊など、刺身のつまにもなりません。それに堅苦しい武士の生活というのも私にはあいません。習い覚えた論語・大学、そろばんなどを生かして街中で自由に生活させてもらっています」と三之丞。

「よくお父上が許されましたな」

「私もびっくりでしたが、兄二人に万一あった時だけ戻ればよい、との一言でした」

  端正な顔を手ぬぐいで拭いながら三之丞は笑って答える。

「それは驚きましたな。しかし剣のほうもなかなかで、おしいのう・・」

「剣術は大好きです。それと・・銭湯にゆっくりつかるのも・・」

  と笑う三乃丞。身体を拭き終わると、

「それにしても先日の池之端、塚原道場の田島牛ノ進殿はすごい腕前でした。三本のうちやっと一本打ち込めましたが」

  真剣な表情の三之丞だ。

「いや、田島は藩の同輩であるが、拙者も同じで、なかなか勝てませぬな。間合いがまことにうまい。引くとみせ来る。来るとみせてわずかに引く。堀内先生の説く、ーー間合いこそが剣の奥儀ーーそのままで。天性ものかもしれんな」

「一度是非、加藤殿にお話を伺いたいものですが」と三之丞。

「わしは藩邸務めであるが、田島は勘定方で南八丁堀の蔵屋敷長屋に暮らしておる。まだ独り身じゃがな。おぬしと同年配であろう。今日、藩邸で会うので話しておこう」

  がっしりとした長身の原田が答える。

「ありがとうございます。それであれば、明日夕刻にでも早速南八丁堀の役宅に伺わせていただきましょう」

「おぬしも、こうときめたら気の早い男よのう」

  と原田が目じりを下げ笑う。

「ところで帰りに一杯やっていかぬか。のどが乾いてならぬでな」

「原田様 お供させていただきましょう」

  それを聞きつけていたのか、松前藩の栗原右衛門が丸い身体を揺すって、

「おうおう、それは良いのう。わしも一緒させていただこう」

 三人は連れ立って飯田橋から神楽坂方向に向かった。

 

  翌日。申の刻を告げる江戸の鐘が響き渡る北風の中を、三乃丞は南八丁堀に向かっていた。町火消、は組の連中が、先刻の半鐘の先に向かって必死の形相で火消し車を引いて走る。はてこの辺りであろうか。鍛冶橋を超えるとあたりから、煤と煙の臭いが風に乗って迫ってくるではないか。八丁堀から右に折れ呉服屋の前まで来ると店の向いの通りでは、町火消の連中が、今まさに鎮火後の片付けの真っ最中で、焼け出された店のものが通りに横たわり、家族が茫然自失の体であった。

 これは今日はまずかったかな。戻ろうかとも三乃丞は思案したが、すでに数軒先、南側の商家は壊されて日除け地になっているのを見て、奥の尾張藩蔵屋敷に向かった。

  蔵屋敷は藩士達で騒然とする最中であった。

「菊池三之丞と申しますが、田島様のお住まいはこちらでようございましょうか」

  がっしりとして、額の立派に広い蔵屋敷の商人風の男が答えた。

「その左の奥側じゃが、ご覧のとうり、近所の火消しの後で、皆忙しくしておるところじゃ。何か急用でござるかな」

「それは、大変でございました。藩邸の原田様のご紹介で参りましたが、今日のところは、ご挨拶のみにて帰らしていただきましょう」

  と三乃丞は丁寧に言った。

 田島の長屋を訪れてみると、ちょうど向い側の家から田島が戻ってくるところであった。先日立ち会った三之丞を田島も覚えていた。

「原田様にお願いいたしました。先日御指南いただきました、堀内道場の菊池でございます。ご多用中に伺いまして誠に申し訳なく、本日はご挨拶のみにて失礼仕ります」

  田島は藩邸での原田の言葉を思い出した。

「夕刻、この先の呉服商、三ツ池屋で火事があり申して、今、片付けの最中ですが、よろしければ中へお入りください。話は原田様から聞いておりますゆえ」

「いえ本日はご挨拶のみにて。また改めましてうかがわせていただきます」

「わざわざのお立ち寄り、まことに恐縮ですが、ではまた日を改めまして」

「火事の原因は・・・・付け火とかの声も聴きましてございますが」

「土地の役人や岡っ引きの申すには、やくざ風の細い、右目の下に痣のある男の仕業ではないかと・・早速探索するようですが」

と田島牛ノ進。

 

 

 

   翌朝は朝早くから鍵屋長屋の寺子屋では、いつものようににぎやかな子供たちの声が響き渡る。

「さあ、意味が分からなければ、いつでも質問をしなさい。お前達が大きくなって仕事を始めたり、迷った時に、少しでも役に立つのがこの==商売心得じゃ==」   

  三乃丞は項目を白紙に書き出し始めた。

「お師匠様。商売とは・・・・何のことですか」

   甚五郎のところの幼い六歳の娘 里が問う。

「里や。商売とはな、よい品物を仕入れて、少しもうけを載せて売ることさ。例えばな、里の大好きなスイカを、八銭で仕入れて、汗水流して客を探し十銭で売る。二銭は里が頑張った褒美ということだ」 

  真面目に答える三之丞。

「その二銭は里がもらえるの。うれしいいなあ。かかさまを助けてあげられる」

「おうおう、そのとうりよ。里はえらいのう」

  子供達が寺子屋から帰り部屋ががらりと空いた。その日の夕、申の刻。

長屋の北東奥の飾り職時次郎がやってくる。長い手足と鋭い眼だ。

「師匠。仕掛けができましたでござんすよ」

「もうできたか。それはありがたい。急がせてすまなかったな」

仕掛けは昨日よりしっかりしている。卍の留め金もカッチと入り、今度はまことに具合がよい。シュシュと左右に振る。しっかりと卍で止まっていた。

「いかほどだな」

  巾着を取り出す三乃丞。

「師匠。よござんすよ。いつも長屋じゅうがお世話になっておりやす。これくらいの仕事はお安い御用でござんすよ」

 時次郎は帰っていった。

 

  遅い昼餉をおえた三乃丞は牛込の道場に向かい、溜池から麹町方向に向かって歩いていた。向こうから下ってくるやくざ風の男を見て、直感的に通りの隅によって男を目で追う。

    ーー昔からこのような直感がよくある三乃丞であったーー 

  伊勢原の三平は麹町から溜池に向かい坂を下っていた。麹町の同郷巳之助に別れを告げて帰る途中であった。ボヤのつもりが大事になって、これはもうはやく江戸を出るしかないだろうと、巳之助との悪さで稼いだ分け前の金をとっての帰り道だ。

 あたりはまだ明るかった。坂を下ったところに、蕎麦屋が早くも店を出していた。江戸ともしばらくご無沙汰だ。いっぱいやっていこうと、店の暖簾をくぐる。その様子を向かいの路地から三乃丞がじっと見ていた。そしていっとき。じっとたたずんで待つ三之丞であった。

三平が頬かむりのまま店を出て、虎ノ門方向に向かう。三乃丞は道場行きをあきらめ、男の後を追う。昨日八丁堀ですれ違った男に間違いない。先ほど頬かむりの間から、右目の下の痣も確認していた。寒い夕闇が迫る中を男は八丁堀から永代橋を抜け、深川方向に向かう。距離を置きながら三乃丞が男を追う。

 門前仲町の富岡神宮を越えた東、木場方向に向かう。細川越中守の下屋敷を左に折れた南西角が、広い畑地になっていて、そこに浪人大西主馬と石橋一之介の住むしもた屋がある。あたりには、この一軒家しかない寂しい場所である。木場の奥の隠れ家としてはまことに都合のよい場所であった。

男がその家に入るのを確かめ、しばらく見張っていた三乃丞は、気付かれないようにそっと、しもた屋の裏手の勝手口にうずくまる。中から三人の話声が漏れてくる。周囲を警戒している様子は全くない。

三ツ池屋の火災から四日後の宵であった。商家五件を全焼させ、死者二人を出す大火事となってしまった。伊勢崎の三平にしても、軽いボヤ程度のつもりが大事になった。

「火つけで追及や詮議も厳しくなるだろう。一刻も早く江戸を抜けだしたほうがよさそうで、挨拶に参りやした。明日あける前に、江戸を抜け出すつもりでおりますんで。わっしのようなやくざな田舎者を、なかまにいれていただいて、あんまりいいことはしちゃいませんがね」

 と浪人二人にお礼の金を渡す。 

「三平よ。人間にゃあな。いい奴と悪い奴。どっちつかずのその中間。三種類しかないのよ。俺たちはその悪のほうだがな。それでも生きていかねばならんのよ。ま。早く江戸を出たほうがいいだろう。半年や一年で、ほとぼりも覚めるだろうから、それまでは伊勢崎でじっとしていろ。餞別をやりたいところだが、このところ物入りですまんな」

  と大西も石橋も金を懐にしまう。

「明日早や立ちなら、今日はここに泊まっていけ。酒盛りでもしようではないか」

  それを聞いた三乃丞はそっと腰を上げ、木場の方向にゆっくりと、きずかれないように戻った。さて。すぐに番屋か奉行所に届けるべきかどうか。ここは、急いで尾張藩蔵屋敷の田島殿に知らせようと思い立ち、寒風の中を永代橋を渡り南八丁堀へと急いだ。

  田島の家には三ツ池屋の娘しのと老爺弥助がいた。娘はすっかり牛乃進を信頼し、頼り切っている様子である。今日も町方や奉行所の探索を、心待ちにしていた。ここで話すべきか三乃丞は迷ったが、田島が娘を帰す様子もないのでやむなく、木場奥の見聞きした内容を手短に語った。娘が驚きの目を見張る。

「その三平というお人は、父母に何の恨みがありましたのか」当然の疑問だ。

「いや まだそこまではわからんが、そこには、胡散臭い浪人が二人おって、その筋からのつながりかもしれん」

  田島牛ノ進は一瞬沈黙したがすぐに言った。

「明日明ける前に、その男が江戸を出てしまえば、追及も難しくなる。相手は三人か。よし今宵中に捕まえねばならん。直ちに拙者は出向く」刀を取る。

「及ばずながら この菊池も同道いたしましょう」と三之丞。

「わたくしもお連れくださいませ。父母を亡き者にしたいきさつを、どうしても知りとうございます 

 しのは気丈な娘であった。老爺弥助と二人が、待つように説得しても、頑として聞かない。

「危険でござるぞ。それでもか・・・・やむをえまい」田島が折れた。

 三乃丞は木場の先の住処を老爺に詳しく話し、直ちに深川の岡っ引き三次に届けるようにと手配した。田島、菊地、娘しの三名は、永代橋を越え門前仲町から木場方向に向かった。時は夜、九ツ過ぎだ。猛烈な寒さと闇の深夜であった。

 

 木場を東に下った一軒家につくと、左手の大きな松の木の下で田島は、

「しのさん。合図があるまで決してここを出てはなりませんぞ。これだけはお守りください」

   しのは唇をかみしめ、黙ってうなずく。

  田島は正面入り口に、三乃丞は左手から回り込んだ勝手口へ向かった。

 三平はわずかな物音に目を覚まし、勝手口から外の様子をうかがう。面長で長身の男が月明かりの下に立っていた。

「なんだ てめえは!」

   月明かりの下で、細い右目下の痣がはっきりと浮かび上がる。

「今日一日中、溜池から、お前の後をつけて、すべて・・ここでの話も聞かせてもらったものさね。お前が三平さんかい。火つけの下手人はお前さんだな。罪は重いぞ。覚悟はできているのかね」

  三之丞が静かに三次に迫る。

「うるせい! さんぴんめ! それがどうしたい」とすごむ三平。

 奥から浪人大西主馬と石橋一ノ助が出てきた。すでに刀の鯉口を切っている。

「先生方。奴一人ですから、わっちにお任せください。片付けちまいますから」

「話を聞かれたからには生かしておいてはまずいぞ」

  と顎のとがった太西主馬。 

その時表口から田島が回り込んできた。ちらっと横目で確かめ、ドスを抜いた三平は、三乃丞に向って無言で鋭くドスをつきかける。凶暴な男だ。 左に体を開いた三乃丞は、小刀でドスを払う。二人の浪人は田島の正面に回り、大西は下段。石橋は上段に構える。

 ム!と、 うなった三平は体を低く足場を固めて、飛び込むように、再度三乃丞にドスを突き出す。右に下がると見せ、宙に舞った三乃丞。

 左手で差し棒の卍仕掛けを外す。と。シューと鋭い針のように長い小刀が飛び出し、三平の左目を突く。どっと血がほとばしり、三平は痛さに耐え兼ね、その場に膝から崩れ落ちた。完全に戦意は消失だ。

  石橋は上段の構えからじりじりと田島との間合いを詰める。石橋が少し下り、一気に上段から斬り下ろす。左にわずかに体を寄せ、田島の峰を返した刀が石橋の胴をガッキと払う。右腹を抑えながら、石橋一ノ助が膝を折り倒れこんだ。

その直後。田島の後ろから、まさに大西主馬の下段撥ね上げ切りが襲おうとした。大きく左に飛んで、三乃丞が撥ね上げ刀を受け止める。振り返った田島は一歩下がって、太西に対峙する。長いにらみ合いと二人の間合い詰めが続く。 

三乃丞は、二人の呼吸を横で見つめる。大西の息が上がってきた。耐え切れずに再度大西が、下段から裂ぱくの気合で撥ね上げる。右に体を交わした田島の峰打ちが、太西の左首筋の急所を打つ。一瞬の早業であった。その呼吸を三乃丞はしかと見届けた。大西も左ひざから崩れ落ちる。立てない。

   捕縛した三人のところへ松林の蔭からしのを呼ぶ。

「どのような恨みが父母にあってのことですか」鋭い声だ。

「頼まれ仕事さ・・・わしらに恨みはないのよ・・・」

   突かれた目の痛さに耐えながらも、三平がつぶやく。

「では・・その依頼人は・・」

「それは言えねえな。それが掟だからな」

  二人の浪人も決して依頼人を口外しない。厳しい詮議を待つほかはなかった。 やがて老爺弥助に先導されて、深川の岡っ引き三次が、北町奉行所与力、権田十郎と取り方二十数名をひきつれ到着した。

  三人は捕縛され、明け前の寒空の中を北町奉行所に引き立てられていった。

 

 それから十日後の師走二十五日。将軍側用人、柳沢吉保の常盤橋の邸宅である。

 菊池左衛門吉行の妹秋乃は、柳沢二人目の側室であった。正親町家ゆかりの正室定子は、健在であったが子女に恵まれない。側室飯塚染子を七年前に、はやり病で、秋乃もまた心の臓の病で、昨年なくしている柳沢であった。

 側用人はまことに多忙であり、宵の登城も多い。子女に恵まれない吉保は、時々帰宅すると、父ほどの年配の菊池と茶を飲み、碁を打ち、旗本たちの思いや話を聞くことを楽しみにしていた。碁盤に静かに黒石を置いた柳沢。

「そちの三男がまた活躍いたしたそうじゃのう。先日の南八丁堀、三ツ池屋の付け火の下手人どもと戦うて、尾張藩蔵屋敷の侍と、捕縛したそうじゃ。北町奉行飛騨守が老中に報告しておった。お手柄お手柄!」

「さようで・・・・・」

「なんだ。おぬしは知らんのか。まあ良い。よい子息をお持ちでうらやましい」

 

  同じ日。芝七軒町、鍵屋長屋煮売りやおみよの店では貸し切りで、大宴会の真っ最中である。おみよとつね婆も大忙しだ。

  貸し切りの店の中は、なんと十三名の宴会だ。おみよは、大家鍵屋から飯机を三台借り、四台を狭い店内にびっしりと並べ、各台には野菜の煮しめ、人参とごぼうのきんぴら、小松菜のお浸しと漬物、なんと各人には姿のいい鯛のお頭焼きまでついている。

 奥の右側には、尾張屋長三郎、大家の鍵屋長兵衛、北町奉行所与力、権田十郎、は組の火消の頭、次郎。その左には尾張藩、田島牛ノ進、菊地三之丞、北町同心山内与十郎、飾り職の時次郎、入り口側の右には、深川の岡っ引き三次、芝の岡っ引き、琴屋の徳蔵と辰。その左が三ツ池屋の娘しのと老爺の弥助、なんとそこには・・・・三之丞の妹弥生までが勢ぞろいであった。

「しのさんの養父母はまことに残念であったが、大きな類焼もなく、つけ火の下手人らも捕縛してまずまずであった」

  と尾張屋が口火を切る。そこへ奥から店のおみよの威勢の良い声が飛んだ。

 「さあさあ、今日はゆっくり祝杯を挙げてくださいね。北町奉行所、飛騨の守様からは、灘の大たると金一封。田島様、三之丞様に十両。尾張屋様からも尾張の地酒二式の大樽、大家さんの鍵屋の旦那様から、立派な鯛の尾頭付きをいただきましたよ」

「いやあああそりゃ 豪勢だな」と芝の辰が大声で応じる。

「祝杯の音頭は尾張屋様から・・・・」と鍵屋長兵衛。

「いやいや、今回は公儀のお仕事である。市中のわれらではなく、与力の権田様からと心得ますが」

   促され権田十郎がゆっくり話し始める。

「まずは三ツ池屋のおしのさんに、哀悼の意を表します。まことに残念でありました。ここにいる腕の立つお二人の機転で、,下手人どもを早期に捕縛し、尾張藩の皆様のおかげもあって突風の中、類焼も最小限に抑えることができ、飛騨の守様からもお褒めの言葉をいただきました。付け火を自白した伊勢崎の流れ者三次は、火あぶりの刑。浪人大西と石橋の指示も判明し、二人は年明けの伊豆七島廻船でそれぞれ三宅島 神津島流しと決まりました。当分帰れないでありましょう。大元で指示した黒幕については、どうしても、二人は吐きませなんだ。ここからはご内聞に願いたいが・・探索から、深川の香具師の元締め経由で、同業の上野の呉服商吉野家が、客を取られた恨みからと目星はつけていますが 今のところ証拠がそろわぬために、日夜見張りを立てております」   と挨拶した。 

「え・・・・上野の吉野家様が・・・・」しのが絶句した。

   大樽から茶碗に酒が注がれ皆で乾杯した。腹にしみいるような。いい酒の味であった。あちこちでにぎやかな談笑が始まった。若衆髷と袴姿の弥生がしのを慰める。

「しの様これからいかがなされますか。掛川にお身内は」 

「もうおりません。考えましたが、お世話になった養父母三ツ池屋を、再建してやっていこうかと思います。田島様や吉野屋様が相談下さり、再建の資金は鍵屋様が貸し付けてくださるようです。幸い、店の者たちもほとんどが無事に残っておりますので」しのが決意を述べた。

「それにしても、あれだけの大店を、おひとりで切り回すのは大変でしょうね」

  その時しのは、奥の飯机に座る田島牛ノ進をじっと見つめていた。

「いやああ、田島殿。見事なお手並みでした。あの引く、詰める、引く、の間合いは大変参考になりました」と三之丞が感心する。

「いやいやおぬしこそ。両刀使いと、あの鋭い飛翔。左手での差し棒の技には目を見張りました」

   時次郎がきんぴらを口に運びながら、鋭い目でにやりと笑う。

「なに。万一の護身用にと差し棒に細工を。卍の細工は、ここの時次郎さんですよ」

   改めて田島牛ノ進は時次郎にいろいろ細工を聞いている。

その横では尾張屋長三郎が鍵屋長兵衛に礼を述べている。

「鍵屋様。この度の藩からのお役目も、無事に済みそうでありがとうございます。藩は天守閣、金の鯱の仕上げ細工に苦労いたしております。何人か推薦いただいた職人の、技と出来栄えを見させていただきましたが、ここの時次郎さんの技と簪はまことに見事なものでした。年明け来月から三ケ月ほど、時次郎さんに尾張まで出向いてもらうことになりました。また、縁あって、しのさんのために、三ツ池屋再建の資金も用立てていただけるようで、重ねてお礼申し上げます」

「いやいや。私も商人ですからな、見込みのないものに資金用立てはいたしませんよ。それに、しのさんには、尾張屋様が就ていなさるから安心ですよ」

  二人の商人としての絆はさらに一層深くなったようであった。

「あとはしのさんのことですがな・・蔵屋敷で半月暮らしてそこの田島に頼り切りでしたが、しのさんにその気があっても・・田島が・・どうもそちらは奥手のようで・・・・誘いみずを毎日かけておりますが・・」と尾張屋。

「やはりお武家様と町屋の娘では世界も違いますからな」と鍵屋。

「しかし昨今はそうしたものでもありますまい。商人が力を蓄え、武家以上の財力と見識を持つものも出始めましたからな」

「尾張屋様。ご自分のことをおっしゃっているようで」二人は笑う。

 十三人は飲み・・食い・・夜の更けるまで楽しく歓談していた。

煮売りやの北西の角からは、珍しく枇杷の良い香りが漂って来る。

 

 年が明けた睦月の八日、東海道を尾張に向かう宿場籠の尾張屋長三郎と、 徒で同行する飾り職時次郎の会話である。

「あの堅物の田島が、元旦に、とうとうしのさんと夫婦になる決意を述べおったわ・・早籠で尾張の上役に知らせ、藩主様からも、事情察しでお許しが出てな・・」

 うれしいそうな尾張屋である。

「それは、それは。ようございました」と時次郎が返す。

「田島たちが落ち着いたらな、豪華な名古屋帯も扱ってもらおうかと、かんがえておるところよ。わしも、名古屋帯の江戸での出店を探しておった。再建した三ツ池屋が、軌道に乗ってからのことだがな。時次郎さんの尾張の仕事も片付く、弥生の末ごろには、また江戸の婚礼に来られような・・」

 権太坂の緑の両側からは、梅の香りが漂い始めていた。

                    

                         完

                          

 

 

                            

 

 

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸元禄人模様 寺子屋師匠 菊池三之亟事件控え 火付け その2

2023年10月09日 10時54分33秒 | 時代小説

門前仲町を左に折れ、仙台掘り方向の万年町。代貸三蔵の家では、酒肴が準備され、肥前藩浪人大西主馬、同じく肥後浪人石橋一之介が歓待を受けている。二人は木場の先に巣食う、食い詰め浪人だ。もはや土地の無頼者と同じであった。

「・・というわけで。先生方に、やっていただくほどの仕事ではないんだがね。先生のところにいなさる・・伊勢崎の・・たしか・・」

「三平のことかね。奴はあれでなかなかK役に立つ。度胸もあるしな」

「ボヤ程度とはいえ、お調べは厳しいから、よそ者ですぐに江戸から出れる奴がいいんでね。どうかお願いいたしますよ。とりあえずこれは前金で」

  と大西の前に三蔵は四両を置いた。

「いいだろう。引き受けた。それでいつまでに・・」

「年内ですがね。できればここ四、五日で片を付けたいんでござんすよ。くれぐれもわしらの筋は・・・ご内聞に」

  うわ瞼の厚い三蔵は念を押す。 

 その晩、伊勢崎の三平は大西から薬研堀の船宿 井筒に呼ばれた。

「大西の旦那。簡単な仕事だ。五日以内にやってみせやしょう。江戸では旦那方にお世話になりましたし、ちょうど潮時で伊勢崎に帰ろうかと。し遂げた後・・すぐにご府内から消えておりますよ」

 と餞別の二両を受け取る。

 

 

  伊勢崎の三平は深川から永代橋を北へ渡り、神田から八丁堀に向かっている。 師走の南八丁堀のあたりに強い北風が時々吹き抜ける。

 仕掛けるにはまだ早い宵の口で、職人や棒手ぶりが行きかっている。

風の様子も見ながら、三平は、三池屋の表口から左に折れる路地の火桶置き

の傍らで、たたずみながら北風の様子を探っていた。 

ーーボヤ程度に収めるには・・少し周りに人がいる方がいいかもしれないなーー

  大西の旦那が言うには評判を落とす程度でいいと。表口はすでにしっかりと閉められていて、火桶置き場の上の松の木のあたりの二階には、明かりがともっていた。風が少し下火になった。よし。いまだ!

  このこのあたりがよかろう。三平は懐からすっかり乾いた紙と火打石をとりだし、あたりをを見回す。緩やかな冬風が吹く・・人通りはほとんどない。

 素早く火打石をたたき、乾いた紙に向ける。さっと、火が付く。さらに乾いた紙に火を移し、塀越しに投げこもうとした。 と。 その時、ーー強く北風が吹いて、三平のほお被りの手ぬぐいを飛ばすーー

 火はあっという間に乾いた松の枝に、燃え広がり、勢いよく三ツ池屋の二階の戸袋に燃え移る。

「これくらいで、よかろう」

  落ちた手ぬぐいを拾って、横丁から出ようとしたとき、

「あれ。火が。これは大変だ! 風がつよくなってきて」

  夕刻の商売から帰宅途中の、棒振り魚売りの男とぶつかりそうになる。

下あごのとがった顔の三平は、無言で男の傍らを走り抜け、永代橋の方向に走り抜ける。

 ーー顔をみられたかもしれねえなーーと右目の下の痣をなでる。

  火に気付いた奴がいる。まぁ、ぼや程度で済むだろう。こりゃ溜池の巳之助のところに隠した金をもって、すぐに伊勢崎に帰ったほうがよさそうだ。



 松の木に移った炎は、思いの外に大きく、、シューと音を立て、母屋二階の羽目板に、あっという間に燃え広がる。炎の周りがまことに早い。風が吹く。

北風にあおられ、炎は、瞬く間に上下にメラメラと燃え広がる。

 三ツ池の弥一郎は、ちょうど丁場の仕事を全て済まし、二階の居間に上がるところであった。

 二階の天井のあたりから糸を引くような白煙とミリミリという木が裂けるような音。これはいかん。二階が火事だ。慌てて駆け上ろうとしたとき、前方からものすごい黒煙がこちらに向かう。

 妻がたもとで口を覆い必死で階段にはいだしてきた。弥一郎も姿勢を低くしながら、左たもとで口を覆い、思い切り右手を伸ばし妻の腕をつかみ、下に引っ張る。その時乾燥した室内では、すでに大きな炎が上がっていた。急ぎ妻を引いて階段を降りようとしたまさにその時、すでに下に回った烈火のような炎が階段下に一気に迫る。

 二人は階段下に転げ落ちた。朦朧として意識が薄れ始める。阿修羅のごとく燃え広がる炎の中をそれでも必死に妻を引いて、正面戸口の土間に転がったが、そこでふたりは意識を失った。

ジャンジャンジャンと半鐘が急を告げる中、尾張藩蔵屋敷の蔵掛、田島牛乃進は、池之端の道場帰りで、役宅の長屋を目指して駆け出していた。尾張藩蔵屋敷の少し手前の商家三ツ池屋から、ものすごい黒煙が上がり、やがてあっという間に師走の北風にあおられて、暗い夜空に大きな炎が上がっている。まさに数軒先は蔵屋敷であった。店の正面戸口が、今まさに燃え落ちんとしていた。牛乃進は戸口にうずくまる二人の姿を見た。蔵屋敷まではまだ数軒あったので、とっさに動く。二人を通りまで何とか引きずり出した。

あたりはすでに野次馬が出始めていた。野次馬の若い男に、老女のほうを見るように声をかけ、牛乃進は主人と思われる男の呼吸を探った。黒煙と炎で真っ黒の男の胸前を大きく開いて、心の臓に耳を当てる。ほとんど反応がない。やむなく道場で会得した、心の臓に両手をあてがいグイグイと押す。依然反応がない。そこへ一番組、は組の頭と思われる男から声がかかる。

「お侍。ちーっと無理かもしれねえが、あとはお任せなさい」

「そこの妻女も頼んだぞ。拙者は、この先の尾張藩蔵屋敷の田島牛乃進!」

  叫ぶと蔵屋敷に向かって急ぐ。と 数歩先、店の勝手先から黒煙で真っ黒になりながら、若い娘と老爺が転がり出てきた。

「お嬢様もう無理でござんすよ。旦那様と奥様は、外に出たかもしれませんから」

 戻ろうとする娘を必死で引き戻す老爺。

身体中、煤と黒煙で真っ黒になった老爺が、これも真っ黒な娘をやっと引き戻す。それでも女は、燃え広がる正面戸口に向かって、養親を助けに行こうとしている。牛乃進は、通りの奥で介助されている二人のことを知らせた。ふたりは、は組の火消しの方向に急いで走った。あの老夫婦は助かるだろうか。

蔵屋敷では上役の指示のもと、若党他全員が類焼を防ごうと、は組の火消と相談中であった。火はこちらに向って、北風の中を衰える様子はない。 

「ここまで、火元からあと十数軒でござんす。中ほどの、ここから五軒を急ぎ取り壊し、日除け地を作るしか仕方ない!」

は組の屈強な若党の声に、蔵元上役と供に出張っていた尾張屋長三郎も、同感であった。上役が藩の全員に取り壊し手伝いを即刻命じた。それから一刻後、火は何とかおさまり類焼を防ぐことができた。

野次馬たちも三々五々引き上げる中、田島は店から引き出した二人の夫婦のことがきがかりで、三ツ池屋の向かいに戻ってみると、先ほどの娘と老爺が、横たわる二人に取りすがって泣いていた。いくら声をかけても、もう答えはない。

「お二人はだめでござんした。喉から黒煙を相当吸っていなさって・・」  頭がまことに残念そうに田島に声をかけた。この寒空に番所というわけにもいかず、手下に娘と老爺の今夜の宿の手配を言いつけていた。

「頭。わが蔵屋敷の長屋が空いています。しばらくでしたらそこにお連れしてもかまいませんが」

 と田島が声をかける。

「お武家様助かります。あまり身寄りもないようですので、そうしていただければ。後でそちらに土地の目明しなどから、お調べもあるとは思いますが。二人がしばらくは落ち着く場所が必要かと。わっちどもは、一番組。は組の次郎と申します」

そんな経緯で、田島はその場を去りがたい二人を、尾張藩蔵屋敷長屋へ引き取ることとなった。

この日はたまたま番頭、手代や通いの女中たちも、早めに引き上げた後であったため、三ツ池屋は亡くなった主人と妻、娘のしのと老爺弥助の四人だけであったのが、不幸中の幸いであったかもしれない。

煤で黒くなった姿で長屋に入った二人は、長屋の妻女たちの世話で、顔と身体を洗い清めたが、放心状態であった。田島と尾張屋は、その遅い宵、二人に必要なものと、様子を見るために長屋を訪ねた。尾張屋はまだ放心状態の娘の顔を見たとき・・・・・

ーーおや この顔は・・いずこかで・・・お。そうじゃ五年前のあの時の娘と老爺ではないかーー  

それでも必死に礼を述べようと、しのは二人に向かって顔を上げた。老爺のほうが先にきずいたようだ。

「あ 五年前、駿河の峠でお助けいただいた!」

 絶句する。その声に、しのも尾張屋と田島をじっと見る。驚きの表情であった。必死で両手をつくと、

「このように二度までお助けいただき誠に、まことにありがとう存じます。養父母は残念でございました。手塩にかけて可愛がっていただきましたのに」     思い出したのか整った顔から大粒の涙が光る。

「これも何かの縁じゃのう。江戸で暮らすと聞いてが、三ツ池屋であったのかのう。しばらくは落ち着かぬであろう。お調べや、御養父母の弔いなどもあろうから、何でもここの田島と長屋の妻女達に相談なされ」

ふたりは深く頭を下げた。

 

  翌日昼。九ツ。北町奉行所与力、権田十郎は同心山内与十郎と深川の岡っ引き三次を従えて、南八丁堀の尾張蔵屋敷を訪ねた。まずは家族で生き残った娘と老爺の聞き取りを開始するためであった。

「昨晩の火災では、尾張藩の皆様方にもお世話になり、日除け地で、何とか類焼も防ぐことができました。奉行からもお礼をということでございました。本日は、まず生き残りの娘さんと老爺に話を伺いに参りました。二人の藩長屋へのお引き取りにも感謝申し上げます」

  上役と田島牛之進に丁寧に申し述べる。

「ご苦労様にござりまする。娘たちは昨晩のことでまだ落ち着かないさまでござる。拙者が同行させていただいてもよろしいかな」

  と牛乃進であった。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第二話 その1 公開

2023年09月25日 11時45分51秒 | 時代小説

  第二話      火つけ

 

 

 

 

江戸中期。元禄元年。師走の話である。

 江戸は家康の江戸城建立から約百年。百万人の大都会になっていた。全国での米の生産が飛躍的伸び、乾田への切り替えで地方はまた、稲の他に、藍、桑、紅花等、多岐にわたる生産で豊かになりつつあった。

  、物流では1670年の初頭には、河村瑞賢が東回りと西回りの廻船を開き、特に大阪では両替、金融業が諸藩の蔵屋敷の管理や出納を行う、というような時代になってきた。

 当時の江戸、大阪は米の集積地の他に、大名の藩の財政を管理する重要な出先であった。武士階級においても二大都市は重要な拠点となっていた。

 一方、市民の生活は、武家の豪奢ぶりからはまだかけ離れてはいたが、一部の豪商達は江戸、大阪での米の管理ということで、急激に蓄財するものも多くなっていた。大阪、江戸の蔵屋敷とも大繁盛で一部の豪商が権勢を伸ばした。

 芝・七軒町・ 銭屋長屋を師走の北風が突き抜ける。
寺子屋では今日も、手習いの真っ最中である。

「おいおい・・・みの吉・・そんなに慌てて書くことはないぞ。今日はな、この壁に師匠が書いたーーいろはにほへとーーこれをしっかりと、ゆっくり見て書きなさい」

「長次・・少し墨が薄すぎるようだな。留吉は、きちっと座り姿勢を正して書きなさい。梅、それでいいよ・・そうそう筆の先はそっと入れ、しっかり伸ばす。止めるところはきっちり止める」

 さとがほっぺたに墨を付けて言った。

「梅はね、いつもなにかしゃべり方がおかしいんだよ。だってね・・イロハニフヘト・・・・て いうんだよ」

 前歯が一本抜けた梅はまだ少し空気が抜ける。

「少し筆を休めて皆聞きなさい。人間はその身体の特徴や、やや欠けた所があっても、皆同じように一人前なんだよ。欠けた所を笑ったりからかったりしてはいけない。誰もいいところと欠けた所をもっているのだからね」

 吉次は、左手で筆を持ち右止めに苦労している。右手の指が生まれついて固まっているのだ。左腕を支えしっかり右の筆止めを教える。

「吉次上手いぞ。その調子だ。左で何でもできるんだからな」

「はいお師匠様。うまく右にしっかり止めることができました」

「さあ。今日はここまでにしよう。筆先はしっかり紙で拭い、道具箱にしまいなさい」

 子供たちが嬉々として帰っていく。

「いつもあんなですか。今、水を飲みに行って、お師匠様の部屋の戸があいていたので中を見たらもうびっくり。書物や紙が部屋中に!」

「いや・・すぐにな・・・ちらしてしまうのだよ」

 頭に手をやる三之丞。

「では帰りに、はると、ちょっとかたずけておきますね」

 いととはるは、年長十三歳で来春には奉公に出る予定だ。

 

  三乃丞はーーこの、差し棒の仕掛けを直してもらおうかーーと長屋の北東角の厠の向かい、飾り職人 時次郎の家に向かった。

「時次郎さんいるかね」

 ちょうど河野屋に収める簪の最後の仕上げに真剣な表情の時次郎が、仕事台から顔を挙げた。

「この仕掛けだが少し緩いような気がする。うっかり寺子屋で外れたら大変だからな」

 と三之丞が差し出す差し棒を、時次郎は点検し始めた。

「鍵十字の仕掛けが・・少し・・緩いようですな。この簪がすんだらすぐに直しましょうよ」

 長身で、長い手足の時次郎だ。

「師匠は今日はこれからお出掛けですか」

「牛込の道場でひと汗流してこようかと」

「では、お帰りまでにはきっちり直しておきましょうよ」

「忙しい折にいつもすまないが、頼みましたよ」

「いつも、長屋中がお世話になっている師匠の頼みだ。何、簡単でござんすよ」

 


 尾張屋長三郎は、蔵元の仕事の合間に尾張藩から頼まれた仕事のために、江戸に向かって二日目のことであった。東海道島田宿からちょうど、宇津ノ谷峠にさしかかっていた。今回の仕事は城郭先端の尾張藩のシンボルともいうべき金のシャチホコの仕上げ細工で、腕の立つ職人を探すことであった。この分野ではやはり、江戸の職人が群を抜いて達者であり、藩主からの強い要請であった。鍵屋からの知らせで何人かの候補者に会いに行くところだ。 

ーーそうだ。ちょうどこの辺りであったーー 五年前に旅の娘を助けたことを思い返していた。あれから五年か。わしも年を取ったものだ。と白髪をなでる。

ーーあの時、峠の最後の切り通しのところで、突然女の悲鳴が聞こえ長三郎は、左手の茂みに走り込んだ。無頼者と浪人が、今まさに若い娘に襲いかかろうとしている。そばでは同行と思われる老爺が必死に娘をかばうが危ないーー

「おい。浪人。何をしようとしておる。ここは天下の街道だぞ」

「なんだ! お前は。文句あるのか。たたっ斬るぞ!」

 角顔がだみ声で脅す。

 浪人は刀を抜くと上段から長三郎に斬りかかる。右に体を交わし鍔先を浪人のひばらに打ち込む。大きくうめいた浪人んはそれでも下から突き上げる。長三郎は刀を抜き、峰を返すと、右肩を目にもとまらぬ速さで叩く。浪人と無頼者は峠の下に逃げ出していった。商人風と侮ったか、見事に撃退されたわけだ。年は取っても長三郎の腕に衰えはなかった。

 「お助けいただいて、まことにありがとうございます。お嬢様と江戸へ向かうところでございましたが、この峠で無頼浪人に突然襲われまして」

 娘と老爺は掛川から江戸への旅の途中であった。呉服屋を営んでいた片親の父をも亡くし、店を整理して遠縁にあたる江戸 南八丁堀の三ツ池屋弥一郎の元へ向かう途中であった。老爺・弥助一人の供であり、難儀な旅の様子であった。おっとりとした丸顔で目鼻立ちの整った娘は、

「おかげさまをもちまして助かりましてございます。掛川で呉服商をやっておりました前田屋の、しのと申します。お名前をうかがわせていただけませんでしょうか。次の安倍川の宿にて、ささやかでございますがお礼をさせていただきとうございます」

 しっかりとした口調での礼の言葉であった。

「いやいや、旅は相見互い。これからの峠越えなどでは宿の籠を使うようになさい。先を急いでおりますので、これにて失礼いたしますよ。尾張屋長三郎と申すものでございます」

 大柄で額の広い長三郎であった。

「では、あの尾張藩の蔵元の・・尾張屋様でございましたか」と老爺。

 ふたりに黙礼すると、長三郎はあしを速めて東に下って行った。

ーーあれから・・五年の歳月がたっていたのだーー  

   

師走のからっかぜが吹く中を上野の呉服商・吉野家吉政は、今日は供もつれずに深川富岡神宮の奥、あたりの香具師元締め・鬼屋の一八のところに向かっていた。日ごろから店でのもめごとなどの相談と処理人でもあった。

「吉野家の・・この師走も押し迫った中・・今日は何事だい」

「一八親分に手を煩わせるほどのことかどうかですがな・・実はちょっと困っておりましてな。少し痛めつけてやりたい店がありますので」

「ふーーーん。同業者だろう」おみとうしの一八であった。

「実は・・それです。最近やたらと南八丁堀の三ツ池屋に客を取られてましてな。弥一郎は最近すっかり何かコツをつかみ、魚をえたようでしてな」

 少し赤黒い丸顔。 どんぐり眼で下から一八を見上げる。

「お前さんもそのあたりを探って・・真似をしたらよかろうに」 

「それがどうもつかめんのでござんすよ。そこで・・ちょっと・・・店のあたりで火でも起こればと!」物騒な話だ。

「そいつはちっとな。お前様も知っていなさるだろうに。最近はボヤ程度でも、お調べが厳しいぞ。まして失火でなく付け火とわかったら・・・」

「そこですよ。大事にならない程度で。店先か横路地あたりで少し燃えてくれれば・・三ツ池屋の評判が落ちればこっちのもんです」

 と懐の袱紗から二十両を一八の前に置く。

「吉野家さんも恐ろしいことをおっしゃるお人だね。私どもが直接は・・できませんですよ。それにわしらの名前も絶対に表に出ないということですな。こう見えてもね、香具師の商売は脅しタカリより信用と顔ですからな」

「それは、親分十二分にこころえておりますですよ。何とかこの年内に。お願いいたします。年明けには同額で、お礼に伺わしていただきます」

「旦那にそこまで言われちゃ。考えておきましょうよ」と二十両を受け取る。

 一八は、吉野家が帰ると信用できる代貸の三蔵を部屋に呼んで密談だ。

「・・というわけで・・界隈の土地者は駄目だぞ。ボヤを起こしたらすぐに江戸を離れるよそ者でなくてはな。木場奥の太西先生のところに・・確か伊勢崎の流れ者がいて下働きをしていたな。奴に因果を含めるように先生にお願いしてこい。この十両でけりをつけてこい。くれぐれも用心するようにな。ボヤ程度でも御上のお調べは厳しいぞ」

 と煙管をくゆらせる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は 第二話 投稿します! 江戸元禄人模様 寺子屋師匠 菊池三之亟 事件控え

2023年07月16日 13時15分57秒 | 時代小説

第二話   火つけ

 

 

 

 

 

 

江戸中期。元禄元年。師走の話である。

 江戸は家康の江戸城建立から約百年。百万人の大都会になっていた。全国での米の生産が飛躍的伸び、乾田への切り替えで地方はまた、稲の他に、藍、桑、紅花等、多岐にわたる生産で豊かになりつつあった。

  、物流では1670年の初頭には、河村瑞賢が東回りと西回りの廻船を開き、特に大阪では両替、金融業が諸藩の蔵屋敷の管理や出納を行う、というような時代になってきた。

 当時の江戸、大阪は米の集積地の他に、大名の藩の財政を管理する重要な出先であった。武士階級においても二大都市は重要な拠点となっていた。

 一方、市民の生活は、武家の豪奢ぶりからはまだかけ離れてはいたが、一部の豪商達は江戸、大阪での米の管理ということで、急激に蓄財するものも多くなっていた。大阪、江戸の蔵屋敷とも大繁盛で一部の豪商が権勢を伸ばした。

 芝・七軒町・ 銭屋長屋を師走の北風が突き抜ける。
寺子屋では今日も、手習いの真っ最中である。

「おいおい・・・みの吉・・そんなに慌てて書くことはないぞ。今日はな、この壁に師匠が書いたーーいろはにほへとーーこれをしっかりと、ゆっくり見て書きなさい」

「長次・・少し墨が薄すぎるようだな。留吉は、きちっと座り姿勢を正して書きなさい。梅、それでいいよ・・そうそう筆の先はそっと入れ、しっかり伸ばす。止めるところはきっちり止める」

 さとがほっぺたに墨を付けて言った。

「梅はね、いつもなにかしゃべり方がおかしいんだよ。だってね・・イロハニフヘト・・・・て いうんだよ」

 前歯が一本抜けた梅はまだ少し空気が抜ける。

「少し筆を休めて皆聞きなさい。人間はその身体の特徴や、やや欠けた所があっても、皆同じように一人前なんだよ。欠けた所を笑ったりからかったりしてはいけない。誰もいいところと欠けた所をもっているのだからね」

 吉次は、左手で筆を持ち右止めに苦労している。右手の指が生まれついて固まっているのだ。左腕を支えしっかり右の筆止めを教える。

「吉次上手いぞ。その調子だ。左で何でもできるんだからな」

「はいお師匠様。うまく右にしっかり止めることができました」

「さあ。今日はここまでにしよう。筆先はしっかり紙で拭い、道具箱にしまいなさい」

 子供たちが嬉々として帰っていく。

「いつもあんなですか。今、水を飲みに行って、お師匠様の部屋の戸があいていたので中を見たらもうびっくり。書物や紙が部屋中に!」

「いや・・すぐにな・・・ちらしてしまうのだよ」

 頭に手をやる三之丞。

「では帰りに、はると、ちょっとかたずけておきますね」

 いととはるは、年長十三歳で来春には奉公に出る予定だ。

 

  三乃丞はーーこの、差し棒の仕掛けを直してもらおうかーーと長屋の北東角の厠の向かい、飾り職人 時次郎の家に向かった。

「時次郎さんいるかね」

 ちょうど河野屋に収める簪の最後の仕上げに真剣な表情の時次郎が、仕事台から顔を挙げた。

「この仕掛けだが少し緩いような気がする。うっかり寺子屋で外れたら大変だからな」

 と三之丞が差し出す差し棒を、時次郎は点検し始めた。

「鍵十字の仕掛けが・・少し・・緩いようですな。この簪がすんだらすぐに直しましょうよ」

 長身で、長い手足の時次郎だ。

「師匠は今日はこれからお出掛けですか」

「牛込の道場でひと汗流してこようかと」

「では、お帰りまでにはきっちり直しておきましょうよ」

「忙しい折にいつもすまないが、頼みましたよ」

「いつも、長屋中がお世話になっている師匠の頼みだ。何、簡単でござんすよ」

 


 尾張屋長三郎は、蔵元の仕事の合間に尾張藩から頼まれた仕事のために、江戸に向かって二日目のことであった。東海道島田宿からちょうど、宇津ノ谷峠にさしかかっていた。今回の仕事は城郭先端の尾張藩のシンボルともいうべき金のシャチホコの仕上げ細工で、腕の立つ職人を探すことであった。この分野ではやはり、江戸の職人が群を抜いて達者であり、藩主からの強い要請であった。鍵屋からの知らせで何人かの候補者に会いに行くところだ。 

ーーそうだ。ちょうどこの辺りであったーー 五年前に旅の娘を助けたことを思い返していた。あれから五年か。わしも年を取ったものだ。と白髪をなでる。

ーーあの時、峠の最後の切り通しのところで、突然女の悲鳴が聞こえ長三郎は、左手の茂みに走り込んだ。無頼者と浪人が、今まさに若い娘に襲いかかろうとしている。そばでは同行と思われる老爺が必死に娘をかばうが危ないーー

「おい。浪人。何をしようとしておる。ここは天下の街道だぞ」

「なんだ! お前は。文句あるのか。たたっ斬るぞ!」

 角顔がだみ声で脅す。

 浪人は刀を抜くと上段から長三郎に斬りかかる。右に体を交わし鍔先を浪人のひばらに打ち込む。大きくうめいた浪人んはそれでも下から突き上げる。長三郎は刀を抜き、峰を返すと、右肩を目にもとまらぬ速さで叩く。浪人と無頼者は峠の下に逃げ出していった。商人風と侮ったか、見事に撃退されたわけだ。年は取っても長三郎の腕に衰えはなかった。

 「お助けいただいて、まことにありがとうございます。お嬢様と江戸へ向かうところでございましたが、この峠で無頼浪人に突然襲われまして」

 娘と老爺は掛川から江戸への旅の途中であった。呉服屋を営んでいた片親の父をも亡くし、店を整理して遠縁にあたる江戸 南八丁堀の三ツ池屋弥一郎の元へ向かう途中であった。老爺・弥助一人の供であり、難儀な旅の様子であった。おっとりとした丸顔で目鼻立ちの整った娘は、

「おかげさまをもちまして助かりましてございます。掛川で呉服商をやっておりました前田屋の、しのと申します。お名前をうかがわせていただけませんでしょうか。次の安倍川の宿にて、ささやかでございますがお礼をさせていただきとうございます」

 しっかりとした口調での礼の言葉であった。

「いやいや、旅は相見互い。これからの峠越えなどでは宿の籠を使うようになさい。先を急いでおりますので、これにて失礼いたしますよ。尾張屋長三郎と申すものでございます」

 大柄で額の広い長三郎であった。

「では、あの尾張藩の蔵元の・・尾張屋様でございましたか」と老爺。

 ふたりに黙礼すると、長三郎はあしを速めて東に下って行った。

ーーあれから・・五年の歳月がたっていたのだーー  

   

師走のからっかぜが吹く中を上野の呉服商・吉野家吉政は、今日は供もつれずに深川富岡神宮の奥、あたりの香具師元締め・鬼屋の一八のところに向かっていた。日ごろから店でのもめごとなどの相談と処理人でもあった。

「吉野家の・・この師走も押し迫った中・・今日は何事だい」

「一八親分に手を煩わせるほどのことかどうかですがな・・実はちょっと困っておりましてな。少し痛めつけてやりたい店がありますので」

「ふーーーん。同業者だろう」おみとうしの一八であった。

「実は・・それです。最近やたらと南八丁堀の三ツ池屋に客を取られてましてな。弥一郎は最近すっかり何かコツをつかみ、魚をえたようでしてな」

 少し赤黒い丸顔。 どんぐり眼で下から一八を見上げる。

「お前さんもそのあたりを探って・・真似をしたらよかろうに」 

「それがどうもつかめんのでござんすよ。そこで・・ちょっと・・・店のあたりで火でも起こればと!」物騒な話だ。

「そいつはちっとな。お前様も知っていなさるだろうに。最近はボヤ程度でも、お調べが厳しいぞ。まして失火でなく付け火とわかったら・・・」

「そこですよ。大事にならない程度で。店先か横路地あたりで少し燃えてくれれば・・三ツ池屋の評判が落ちればこっちのもんです」

 と懐の袱紗から二十両を一八の前に置く。

「吉野家さんも恐ろしいことをおっしゃるお人だね。私どもが直接は・・できませんですよ。それにわしらの名前も絶対に表に出ないということですな。こう見えてもね、香具師の商売は脅しタカリより信用と顔ですからな」

「それは、親分十二分にこころえておりますですよ。何とかこの年内に。お願いいたします。年明けには同額で、お礼に伺わしていただきます」

「旦那にそこまで言われちゃ。考えておきましょうよ」と二十両を受け取る。

 一八は、吉野家が帰ると信用できる代貸の三蔵を部屋に呼んで密談だ。

「・・というわけで・・界隈の土地者は駄目だぞ。ボヤを起こしたらすぐに江戸を離れるよそ者でなくてはな。木場奥の太西先生のところに・・確か伊勢崎の流れ者がいて下働きをしていたな。奴に因果を含めるように先生にお願いしてこい。この十両でけりをつけてこい。くれぐれも用心するようにな。ボヤ程度でも御上のお調べは厳しいぞ」

 と煙管をくゆらせる。

 

 門前仲町を左に折れ仙台掘り方向の万年町。代貸三蔵の家では、酒肴が準備され肥前藩・浪人大西主馬、同じく肥後浪人・石橋一之介が歓待を受けている。二人は木場の先に巣食う食い詰め浪人だ。もはや土地の無頼者と同じであった。

「・・というわけで。先生方にやっていただくほどの仕事ではないんだがね。先生のところにいなさる・・伊勢崎の・・たしか・・」

「三平のことかね。奴はあれでなかなかK役に立つ。度胸もあるしな」

「ボヤ程度とはいえお調べは厳しいから、よそ者ですぐに江戸から出れる奴がいいんでね。どうかお願いいたしますよ。とりあえずこれは前金で」

 と大西の前に三蔵は四両を置いた。

「いいだろう。引き受けた。それでいつまでに・・」

「年内ですがね。できればここ四、五日で片を付けたいんでござんすよ。くれぐれもわしらの筋は・・・ご内聞に」うわ瞼の厚い三蔵は念を押す。 

 その晩、伊勢崎の三平は大西から薬研堀の船宿 井筒に呼ばれた。

「大西の旦那。簡単な仕事だ。五日以内にやってみせやしょう。江戸では旦那方にお世話になりましたし、ちょうど潮時で伊勢崎に帰ろうかと。し遂げた後・・すぐにご府内から消えておりますよ」

 と餞別の二両を受け取る。

 

 伊勢崎の三平は深川から永代橋を北へ渡り、神田から八丁堀に向かっている。 師走の南八丁堀のあたりに強い北風が時々吹き抜ける。

 仕掛けるにはまだ早い宵の口で、職人や棒手ぶりが行き交わしている。

風の様子も見ながら、三平は三池屋の表口から左に折れる路地の火桶置き

の傍らで、たたずみながら北風の様子を探っていた。 

ーーボヤ程度に収めるには・・少し周りに人がいる方がいいかもしれないなーー

 太西の旦那が言うには評判を落とす程度でいいと。表口はすでにしっかりと閉められていて、火桶置き場の上の松の木のあたりの二階には、明かりがともっていた。風が少し下火になった。よし。いまだ!

 このこのあたりがよかろう。三平は懐からすっかり乾いた紙と火打石をとりだし、あたりをを見回す。緩やかな冬風が吹く・・人通りはほとんどない。

 素早く火打石をたたき、乾いた紙に向ける。さっと、火が付く。さらに乾いた紙に火を移し塀越しに投げこもうとした。 と。 その時ーー強く北風がスウーと吹いて三平のほお被りの手ぬぐいを飛ばす。火はあっという間に乾いた松の枝に、燃え広がり、勢いよく三ツ池屋の二階の戸袋に燃え移る。

「これくらいで、よかろう」

 落ちた手ぬぐいを拾って横丁から出ようとしたとき、

「あれ。火が。これは大変だ!風がつよくなってきて」

 夕刻の商売から帰宅途中の棒振り魚の男とぶつかりそうになる。

下あごのとがった顔の三平は、無言で男の傍らを走り抜けて永代橋の方向に走り抜ける。

ーー顔をみられたかもしれねえなーーと右目の下の痣をなでる。

  火に気付いたやつがいる。まぁ、ぼや程度で済むだろう。こりゃ溜池の巳之助のところに隠した金をもってすぐに伊勢崎に帰ったほうがよさそうだ。



 松の木に移った炎は、思いの外に大きく、、シューと音を立て母屋二階の羽目板に、あっという間に燃え広がる。炎の周りがまことに早い。風が吹く。

北風にあおられ、炎は、瞬く間に上下にメラメラと燃え広がる。

 三ツ池の弥一郎はちょうど丁場の仕事を全て済まして、二階の居間に上がるところであった。

 二階の天井のあたりから糸を引くような白煙とミリミリという木が裂けるような音ーーこれはいかん。二階が火事だ。慌てて駆け上ろうとしたとき、前方からものすごい黒煙がこちらに向かう。妻がたもとで口を覆い必死で階段にはいだしてきた。弥一郎も姿勢を低くしながら左たもとで口を覆い、思い切り右手を伸ばし妻の腕をつかみ下に引っ張る。その時乾燥した室内ではすでに大きな炎が上がっていた。急ぎ妻を引いて階段を降りようとしたまさにその時、すでに下に回った烈火のような炎が階段下に一気に迫る。二人は階段下に転げ落ちた。朦朧として意識が薄れ始める。阿修羅のごとく燃え広がる炎の中をそれでも必死に妻を引いて、正面戸口の土間に転がったが、そこでふたりは意識を失った。

ジャンジャンジャンと半鐘が急を告げる中、尾張藩蔵屋敷の蔵掛・田島牛乃進は、池之端の道場帰りで、役宅の長屋を目指して駆け出していた。尾張藩蔵屋敷の少し手前の商家三ツ池屋から、ものすごい黒煙が上がり、やがてあっという間に師走の北風にあおられて、暗い夜空に大きな炎が上がっている。まさに数軒先は蔵屋敷であった。店の正面戸口が今まさに燃え落ちんとしていた。牛乃進は戸口にうずくまる二人の姿を見た。蔵屋敷まではまだ数軒あったので、とっさに動く。ふたりを通りまで何とか引きずり出した。

あたりはすでに野次馬が出始めていた。野次馬の若い男に、老女のほうを見るように声をかけ、牛乃進は主人と思われる男の呼吸を探った。黒煙と炎で真っ黒の男の胸前を大きく開いて心の臓に耳を当てる。ほとんど反応がない。やむなく道場で会得した心の臓に両手をあてがいグイグイと押す。依然反応がない。そこへ一番組・は組の頭と思われる男から声がかかる。

「お侍。ちーっと無理かもしれねえがあとはお任せなさい」

「そこの妻女も頼んだぞ。拙者は、この先の尾張藩蔵屋敷の田島牛乃進!」

叫ぶと蔵屋敷に向かって急ぐ。と 数歩先、店の勝手先から黒煙で真っ黒になりながらも、若い娘と老爺が転がり出てきた。

「お嬢様もう無理でござんすよ。旦那様と奥様は外に出たかもしれませんから」

戻ろうとする娘を必死で引き戻す老爺。

身体じゅう煤と黒煙で真っ黒になった老爺が、これも真っ黒な娘をやっと引き戻す。それでも女は燃え広がる正面戸口に向かって、養親を助けに行こうとしている。牛乃進は通りの奥で介助されている二人のことを知らせた。ふたりは、は組の火消しの方向に急いで走った。あの老夫婦は助かるだろうか。

蔵屋敷では上役の指示のもと、若党他全員が類焼を防ごうと、は組のものと相談中であった。火はこちらに向って北風の中を衰える様子はない。 

「ここまで、火元からあと十数軒でござんす。中ほどの、ここから五軒を急ぎ取り壊し、日除け地を作るしか仕方ない!」

は組の屈強な若党の声に、蔵元上役と供に出張っていた尾張屋長三郎も同感であった。上役が藩の全員に取り壊し手伝いを即刻命じた。それから一刻後火は何とかおさまり類焼を防ぐことができた。

野次馬たちも三々五々引き上げる中、田島は店から引き出した二人の夫婦のことがきがかりで、三ツ池屋の向かいに戻ってみると、先ほどの娘と老爺が、横たわる二人に取りすがって泣いていた。いくら声をかけても、もう答えはない。

「お二人はだめでござんした。喉から黒煙を相当吸っていなさって・・」  頭がまことに残念そうに田島に声をかけた。この寒空に番所というわけにもいかず、手下に娘と老爺の今夜の宿の手配を言いつけていた。

「頭。わが蔵屋敷の長屋が空いています。しばらくでしたらそこにお連れしてもかまいませんが」と田島が声をかける。

「お武家様助かります。あまり身寄りもないようですので、そうしていただければ。後でそちらに土地の目明しなどからお調べもあるとは思いますが。二人がしばらくは落ち着く場所が必要かと。わっちどもは、一番組・は組の次郎と申します」

そんな経緯で、田島はその場を去りがたい二人を尾張藩蔵屋敷長屋へ引き取ることとなった。

この日はたまたま番頭、手代や通いの女中たちも早めに引き上げた後であったため、三ツ池屋は亡くなった主人と妻、娘のしのと老爺弥助の四人だけであったのが、不幸中の幸いであったかもしれない。煤で黒くなった姿で長屋に入った二人は、長屋の妻女たちの世話で顔と身体を洗い清めたが、放心状態であった。田島と尾張屋はその遅い宵、二人に必要なものと、様子を見るために長屋を訪ねた。尾張屋はまだ放心状態の娘の顔を見たとき・・

ーーおや この顔は・・いずこかで・・・お。そうじゃ五年前のあの時の娘と老爺ではないかーー  

それでも必死に礼を述べようと、しのは二人に向かって顔を上げた。老爺のほうが先にきずいたようだ。

「あ 五年前駿河の峠でお助けいただいた!」絶句する。

その声に、しのも尾張屋と田島をじっと見る。驚きの表情であった。必死で両手をつくと、

「このように二度までお助けいただき誠に、まことにありがとう存じます。養父母は残念でございました。手塩にかけて可愛がっていただきましたのに」    思い出したのか整った顔から大粒の涙が光る。

「これも何かの縁じゃのう。江戸で暮らすと聞き置いたが、三ツ池屋であったのかのう。しばらくは落ち着かぬであろう。お調べや御養父母の弔いなどもあろうから、何でもここの田島と長屋の妻女達に相談なされ」

ふたりは深く頭を下げた。

 

  翌日昼。九ツ。北町奉行所・与力・権田十郎は同心・山内与十郎と深川の岡っ引き三次を従えて、南八丁堀の尾張蔵屋敷を訪ねた。まずは家族で生き残った娘と老爺の聞き取りを開始するためであった。

「昨晩の火災では、尾張藩の皆様方にもお世話になり、日除け地で何とか類焼も防ぐことができました。奉行からもお礼をということでございました。本日はまず生き残りの娘さんと老爺に話を伺いに参りました。二人の藩長屋へのお引き取りにも感謝申し上げます」

 上役と田島牛之進に丁寧に申し述べる。

「ご苦労様にござりまする。娘たちは昨晩のことでまだ落ち着かないさまでござる。拙者が同行させていただいてもよろしいかな」と牛乃進であった。 

「ご養父母を亡くされて誠に残念な折ではありますが、昨晩の様子を少し伺いたくて参っております。夕刻何か不振に気付かれたことはありましょうか」

 与力権田の問いかけに、しのも老爺も黙って首を横にするばかりであった。

「じつは・・火が上がった刻に・・表どうりで三ツ池屋さんの横辻から飛び出してくるやくざ風の男と、棒手ぶり魚屋が出会いましてな・・」

「お嬢様。何か恨まれるようなことに、こころあたりはございませんかねえ。若いやくざ風で、細い糸を引くような目と右目の下に大きな痣がある男のようですがね・・」

 深川の岡っ引き三次が改めて確認するが、

「そのような方は存じておりませんですね。お嬢様」と老爺。

 火が回った時、しのと老爺は勝手口で夕餉の支度中であった。ものすごい黒煙が二階から一気に降りてきて、養父母を助けられず残念であったことなどを娘は細い声で伝えた。

「四人だけが店とお宅にいらしたわけですな。今回は火つけとみております。一刻も早く下手人を探し追及するつもりです。いろいろご心労のところまことに恐縮でした」

 与力権田十郎は挨拶して引き上げる。

「権田様。娘さんも養父母を同時に無くし、身寄りもなく悲嘆にくれております。何とか事件のいきさつと下手人を捕縛してくださいませ」

 と牛之進言った。

 



  牛込の堀内道場では激しい竹刀の声が響き渡っている。堀内健太左衛門が師匠だ。この道場の使い手・師範代旗本の畑山光太郎、尾張藩の原田寅吉、松前藩の栗原右衛門などが稽古に汗を流している。

 上段から裂ぱくの気合いで原田寅吉が三之丞に打ち込んでくる。少し身体を開きながら両腕でうけるがグイーと押し込んでくる。原田とはほぼ互角の腕前だが、畑山にはやはり三本中一本くらいしか勝てない。堀内先生のおっしゃる、間合いがまだまだ未熟であると三乃丞は感じていた。稽古が終わり庭の井戸で身体を拭いていると尾張藩・原田寅吉がやってくる。

「おぬしは確か旗本の三男と聞き及ぶが。稽古は熱心だな」

「いや まだまだの未熟者です。原田さんや師範代にはまだまだ及びません」

「たしか芝の長屋で寺子屋とか・・またなんで・・」

「旗本の三男坊など刺身のつまにもなりません。それに堅苦しい武士の生活というのも私にはあいません。習い覚えた論語・大学、そろばんなどを生かして街中で自由に生活させてもらっています」と三之丞。

「よくお父上が許されましたな」

「私もびっくりでしたが、兄二人に万一あった時だけ戻ればよいとの一言でした」

 端正な顔を手ぬぐいで拭いながら三之丞は笑って答える。

「それは驚きましたな。しかし剣のほうもなかなかでおしいのう・・」

「剣術は大好きです。それと・・銭湯にゆっくりつかるのも・・」

 と笑う三乃丞。身体を拭き終わると、

「それにしても先日の池之端 塚原道場の田島牛ノ進殿はすごい腕前でした。三本のうちやっと一本打ち込めましたが」

 真剣な表情の三之丞だ。

「いや、田島は藩の同輩であるが、拙者も同じで、なかなか勝てませぬな。間合いがまことにうまい。引くとみせ来る。来るとみせてわずかに引く。堀内先生の説くーー間合いこそが剣の奥儀ーーそのままで。天性ものかもしれんな」

「一度是非加藤殿にお話を伺いたいものですが」と三之丞。

「わしは藩邸務めであるが、田島は勘定方で南八丁堀の蔵屋敷長屋に暮らしておる。まだ独り身じゃがな。おぬしと同年配であろう。今日藩邸で会うので話しておこう」

 がっしりとした長身の原田が答える。

「ありがとうございます。それであれば、明日夕刻にでも早速南八丁堀の役宅に伺わせていただきましょう」

「おぬしもこうときめたら気の早い男よのう」

 と原田が目じりを下げ笑う。

「ところで帰りに一杯やっていかぬか。のどがかわいてならぬてな」

「原田様 お供させていただきましょう」

 それを聞きつけていたのか松前藩の栗原右衛門が丸い身体を揺すって

「おうおう、それは良いのう。わしも一緒させていただこう」

 三人は連れ立って飯田橋から神楽坂方向に向かった。

 

  翌日。申の刻を告げる江戸の鐘が響き渡る北風の中を、三乃丞は南八丁堀に向かっていた。町火消は組の連中が、先刻の半鐘の先に向かって必死の形相で火消し車を引いて走る。はてこの辺りであろうか。鍛冶橋を超えるとあたりから煤と煙の臭いが風に乗って迫ってくるではないか。八丁堀から右に折れ呉服屋の前まで来ると店の向いの通りでは、町火消の連中が今まさに鎮火後の片付けの真っ最中で、焼け出された店のものが通りに横たわり家族が茫然自失の体であった。

 これは今日はまずかったかな。戻ろうかとも三乃丞は思案したが、すでに数軒先南側の商家は壊されて日除け地になっているのを見て、奥の尾張藩蔵屋敷に向かった。

 蔵屋敷は藩士達で騒然とする最中であった。

「菊池三之丞と申しますが、田島様のお住まいはこちらでようございましょうか」

 がっしりとして、額の立派に広い蔵屋敷の商人風の男が答えた。

「その左の奥側じゃが、ご覧のとうり近所の火消しの後で、皆忙しくしておるところじゃ。何か急用でござるかな」

「それは大変でございました。藩邸の原田様のご紹介で参りましたが、今日のところはご挨拶のみにて帰らしていただきましょう」

 と三乃丞は丁寧に言った。

 田島の長屋を訪れてみるとちょうど向い側の家から田島が戻ってくるところであった。先日立ち会った三之丞を田島も覚えていた。

「原田様にお願いいたしました。先日御指南いただきました堀内道場の菊池でございます。ご多用中に伺いまして誠に申し訳なく、本日はご挨拶のみにて失礼仕ります」

 田島は藩邸での原田の言葉を思い出した。

「夕刻、この先の呉服商 三ツ池屋で火事があり申して、今片付けの最中ですがよろしければ中へお入りください。話は原田様から聞いておりますゆえ」

「いえ本日はご挨拶のみにて。また改めましてうかがわせていただきます」

「わざわざのお立ち寄りまことに恐縮ですが、ではまた日を改めまして」

「火事の原因は・・付け火とかの声も聴きましてございますが」

「土地の役人や岡っ引きの申すには、やくざ風の細い、右目の下に痣のある男の仕業ではないかと・・早速探索するようですが」と田島牛ノ進。

 

   翌朝は朝早くから鍵屋長屋の寺子屋では、いつものようににぎやかな子供たちの声が響き渡る。

  「さあ 意味が分からなければいつでも質問をしなさい。お前達が大きくなって仕事を始めたり、迷った時に少しでも役に立つのがこの==商売心得じゃ==」   三乃丞は項目を白紙に書き出し始めた。

「お師匠様商売とは…何のことですか」

 甚五郎のところの幼い六歳の娘 里が問う。

「里や商売とはな、よい品物を仕入れて、少しもうけを載せて売ることさ。例えばな、里の大好きなスイカを八銭で仕入れて、汗水流して客を探し十銭で売る。二銭は里が頑張った褒美ということだ」 

真面目に答える三之丞。

「その二銭は里がもらえるの。うれしいいなあ。かかさまを助けてあげられる」

「おうおう、そのとうりよ。里はえらいのう」

 子供達が寺子屋から帰り部屋ががらりと空いた。その日の夕、申の刻。

長屋の北東奥の飾り職時次郎がやってくる。長い手足と鋭い眼だ。

「師匠。仕掛けができましたでござんすよ」

「もうできたかそれはありがたい。急がせてすまなかったな」

仕掛けは昨日よりしっかりしている。卍の留め金もカッチと入り今度はまことに具合がよい。シュシュと左右に振る。しっかりと卍で止まっていた。

「いかほどだな」

 巾着を取り出す三乃丞。

「旦那よござんすよ。いつも長屋じゅうがお世話になっておりやす。これくらいの仕事はお安い御用でござんすよ」

 時次郎は帰っていった。

 

 遅い昼餉をおえた三乃丞は牛込の道場に向かい溜池から麹町方向に向かって歩いていた。向こうから下ってくるやくざ風の男を見て、直感的に通りの隅によって男を目で追う。

   ーー昔からこのような直感がよくある三乃丞であったーー 

 伊勢原の三平は麹町から溜池に向かい坂を下っていた。麹町の同郷巳之助に別れを告げて帰る途中であった。ボヤのつもりが大事になって、これはもうはやく江戸を出るしかないだろうと、巳之助との悪さで稼いだ分け前の金をとっての帰り道だ。

 あたりはまだ明るかった。坂を下ったところに蕎麦屋が早くも店を出していた。江戸ともしばらくご無沙汰だ。いっぱいやっていこうと店の暖簾をくぐる。その様子を向かいの路地から三乃丞がじっと見ていた。そしていっとき。じっとたたずんで待つ三之丞であった。

三平が頬かむりのまま店を出て、虎ノ門方向に向かう。三乃丞は道場行きをあきらめて男の後を追う。昨日八丁堀ですれ違った男に間違いない。先ほど頬かむりの間から右目の下の痣も確認していた。寒い夕闇が迫る中を男は八丁堀から永代橋を抜けて深川方向に向かう。距離を置きながら三乃丞が男を追う。門前仲町の富岡神宮を越えた東、木場方向に向かう。細川越中守の下屋敷を左に折れた南西角が広い畑地になっていて、そこに浪人大西主馬と石橋一之介の住むしもた屋がある。あたりにはこの一軒家しかない寂しい場所である。木場の奥の隠れ家としてはまことに都合のよい場所であった。

男がその家に入るのを確かめ、しばらく見張っていた三乃丞は、気付かれないようにそっと、しもた屋の裏手の勝手口にうずくまる。中から三人の話声が漏れてくる。周囲を警戒している様子は全くない。

三ツ池屋の火災から四日後の宵であった。商家五件を全焼させ、死者二人を出す大火事となってしまった。伊勢崎の三平にしても軽いボヤ程度のつもりが大事になった。

「火つけで追及や詮議も厳しくなるだろう。一刻も早く江戸を抜けだしたほうがよさそうで、挨拶に参りやした。明日あける前に江戸を抜け出すつもりでおりますんで。わっしのようなやくざな田舎者をなかまにいれていただいて、あんまりいいことはしちゃいませんがね」

と浪人二人にお礼の金を渡す。 

「三平よ。人間にゃあな。いい奴と悪い奴。どっちつかずのその中間。三種類しかないのよ。俺たちはその悪のほうだがな。それでも生きていかねばならんのよ。ま。早く江戸を出たほうがいいだろう。半年や一年でほとぼりも覚めるだろうから、それまでは伊勢崎でじっとしていろ。餞別をやりたいところだがこのところ物入りですまんな」

 と大西も石橋も金を懐にしまう。

「明日早や立ちなら、今日はここに泊まっていけ。酒盛りでもしようではないか」

 それを聞いた三乃丞はそっと腰を上げ、木場の方向にゆっくりと、きずかれないように戻った。さて。すぐに番屋か奉行所に届けるべきかどうか。ここは取り急いで尾張藩蔵屋敷の田島殿に知らせようと思い立ち、寒風の中を永代橋を渡り南八丁堀へと急いだ。

  田島の家には三ツ池屋の娘しのと老爺弥助がいた。娘はすっかり牛乃進を信頼し、頼り切っている様子であった。今日も町方や奉行所の探索を心待ちにしていた。ここで話すべきか三乃丞は迷ったが、田島が娘を帰す様子もないのでやむなく、木場奥の見聞きした内容を手短に語った。娘が驚きの目を見張る。

「その三平というお人は、父母に何の恨みがありましたのか」当然の疑問だ。

「いや まだそこまではわからんが、そこには胡散臭い浪人が二人おって、その筋からのつながりかもしれん」

 田島牛ノ進は一瞬沈黙したがすぐに言った。

「明日明ける前に、その男が江戸を出てしまえば追及も難しくなる。相手は三人か。よし今宵中に捕まえねばならん。直ちに拙者は出向く」刀を取る。

「及ばずながら この菊池も同道いたしましょう」と三之丞。

「わたくしもお連れくださいませ。父母を亡き者にしたいきさつをどうしても知りとうございます」

 しのは気丈な娘であった。老爺弥助と二人が待つように説得しても、頑として聞かない。

「危険がござるぞ。それでもか・・やむをえまい」田島が折れた。

 三乃丞は木場の先の住処を老爺に詳しく話し、直ちに深川の岡っ引き三次に届けるようにと手配した。田島、菊地、娘しの三名は、永代橋を越え門前仲町から木場方向に向かった。時は夜 九ツ過ぎだ。猛烈な寒さの深夜であった。

 

 木場を東に下った一軒家につくと、左手の大きな松の木の下で田島は

「しのさん。合図があるまで決してここを出てはなりませんぞ。これだけはお守りください」

 しのは唇をかみしめ、黙ってうなずく。

  田島は正面入り口に、三乃丞は左手から回り込んだ勝手口へ向かった。

 三平はわずかな物音に目を覚まし、勝手口から外の様子をうかがう。面長で長身の男が月明かりの下に立っていた。

「なんだ てめえは!」

 月明かりの下で細い右目下の痣がはっきりと浮かび上がる。

「今日一日中、溜池からお前の後をつけて、すべて・・ここでの話も聞かせてもらったものさね。お前が三平さんかい。火つけの下手人はお前さんだな。罪は重いぞ。覚悟はできているのかね」

 三之丞が静かに三次に迫る。

「うるせい! さんぴんめ! それがどうしたい」とすごむ三平。

 奥から浪人大西主馬と石橋一ノ助が出てきた。すでに刀の鯉口を切っている。

「先生方。奴一人ですからわっちにお任せください。片付けちまいますから」

「話を聞かれたからには生かしておいてはまずいぞ」

 と顎のとがった太西主馬。 

その時表口から田島が回り込んできた。ちらっと横目で確かめ、ドスを抜いた三平は三乃丞に向って無言で鋭くドスをつきかかる。凶暴な男だ。 左に体を開いた三乃丞は小刀でドスを払う。二人の浪人は田島の正面に回り大西は下段。石橋は上段に構える。

 ム!と、 うなった三平は体を低く足場を固めて、飛び込むように再度三乃丞にドスを突き出す。右に下がると見せて宙に舞った三乃丞。左手で差し棒の卍仕掛けを外す。と。シューと鋭い針のように長い小刀が飛び出し、三平の左目を突く。どっと血がほとばしり三平は痛さに耐え兼ね、その場に膝から崩れ落ちた。完全に戦意は消失だ。

 石橋は上段の構えからじりじりと田島との間合いを詰める。石橋が少し下り一気に上段から斬り下ろす。左にわずかに体を寄せ田島の峰を返した刀が石橋の胴をガッキと払う。右腹を抑えながら石橋一ノ助が膝を折り倒れこんだ。

その直後。田島の後ろからまさに大西主馬の下段撥ね上げ切りが襲おうとした。大きく左に飛んで、三乃丞が撥ね上げ刀を受け止める。振り返った田島は一歩下がって太西に対峙する。長いにらみ合いと二人の間合い詰めが続く。 

三乃丞は二人の呼吸を横で見つめる。大西の息が上がってきた。耐え切れずに再度大西が下段から裂ぱくの気合で撥ね上げる。右に体を交わした田島の峰打ちが太西の左首筋の急所を打つ。一瞬の早業であった。その呼吸を三乃丞はしかと見届けた。大西も左ひざから崩れ落ちる。立てない。

 捕縛した三人のところへ松林の蔭からしのを呼ぶ。

「どのような恨みが父母にあってのことですか」鋭い声だ。

「頼まれ仕事さ・・・わしらに恨みはないのよ・・・」

 突かれた目の痛さに耐えながらも三平がつぶやく。

「では・・その依頼人は・・」

「それは言えねえな。それが掟だからな」

 二人の浪人も決して依頼人を口外しない。厳しい詮議を待つほかはなかった。 やがて老爺弥助に先導されて、深川の岡っ引き三次が北町奉行所同心・権田十郎と取り方二十数名をひきつれ到着した。

三人は捕縛され、明け前の寒空の中を北町奉行所に引き立てられていった。

 

 それから十日後の師走二十五日。将軍側用人・柳沢吉保の常盤橋の邸宅である。

 菊池左衛門吉行の妹秋乃は、柳沢二人目の側室であった。正親町家ゆかりの正室定子は健在であったが子女に恵まれない。側室飯塚染子を七年前に、はやり病で、秋乃もまた心の臓の病で、昨年なくしている柳沢であった。側用人はまことに多忙であり宵の登城も多い。子女に恵まれない吉保は、時々帰宅すると、父ほどの年配の菊池と茶を飲み碁を打ち、旗本たちの思いや話を聞くことを楽しみにしていた。碁盤に静かに黒石を置いた柳沢。

「そちの三男がまた活躍いたしたそうじゃのう。先日の南八丁堀・三ツ池屋の付け火の下手人どもと戦うて、尾張藩蔵屋敷の侍と捕縛したそうじゃ。北町奉行飛騨守が老中に報告しておった。お手柄お手柄」

「さようで・・・・・」

「なんだ。おぬしは知らんのか。まあ良い。よい子息をお持ちでうらやましい」

 

 同じ日。芝七軒町・鍵屋長屋 煮売りやおみよの店では貸し切りで大宴会の真っ最中である。おみよとつね婆も大忙しだ。

 貸し切りの店の中は、なんと十三名の宴会だ。おみよは大家鍵屋から飯机を三台借り、四台を狭い店内にびっしりと並べ、各台には野菜の煮しめ、人参とごぼうのきんぴら、小松菜のお浸しと漬物、なんと各人には姿のいい鯛のお頭焼きまでついている。

 奥の右側には尾張屋長三郎、大家の鍵屋長兵衛、北町奉行所与力・権田十郎、は組の火消 次郎。その左には尾張藩・田島牛ノ進、菊地三之丞、北町与力・山内与十郎、飾り職の時次郎、入り口側の右には深川の岡っ引き三次、芝の岡っ引き琴屋の徳蔵と辰。その左が三ツ池屋の娘しのと老爺の弥助、なんとそこには・・三之丞の妹弥生までが勢ぞろいであった。

「しのさんの養父母はまことに残念であったが、大きな類焼もなくつけ火の下手人らも捕縛してまずまずであった」

 と尾張屋が口火を切る。そこへ奥から店のおみよの威勢の良い声が飛んだ。

 「さあさあ、今日はゆっくり祝杯を挙げてくださいね。北町奉行所 飛騨の守様からは灘の大たると金一封。田島様、三之丞様に十両。尾張屋様からも尾張の地酒二式の大樽、大家さんの鍵屋の旦那様から立派な鯛の尾頭付きをいただきましたよ」

「いやあああそりゃ 豪勢だな」と芝の辰が大声で応じる。

「祝杯の音頭は尾張屋様から・・・・」と鍵屋長兵衛。

「いやいや、今回は公儀のお仕事である。市中のわれらではなく、与力の権田様からと心得ますが」

 促され権田十郎がゆっくり話し始める。

「まずは三ツ池屋のおしのさんに哀悼の意を表します。まことに残念でありました。ここにいる腕の立つお二人の機転で、,下手人どもを早期に捕縛し、尾張藩の皆様のおかげもあって突風の中、類焼も最小限に抑えることができ、飛騨の守様からもお褒めの言葉をいただきました。付け火を自白した伊勢崎の流れ者三次は火あぶりの刑。浪人大西と石橋の指示も判明し、二人は年明けの伊豆七島廻船でそれぞれ三宅島 神津島流しと決まりました。当分帰れないでありましょう。大元で指示した黒幕については、どうしても二人は吐きませなんだ。ここからはご内聞に願いたいが・・探索から深川の香具師の元締め経由で同業の上野の呉服商吉野家が、客を取られた恨みからと目星はつけていますが 今のところ証拠がそろわぬために、日夜見張りを立てております」と挨拶した。 

「え・・・・上野の吉野家様が・・・・」しのが絶句した。

 大樽から茶碗に酒が注がれ皆で乾杯した。腹にしみいるようないい酒の味であった。あちこちでにぎやかな談笑が始まった。若衆髷と袴姿の弥生がしのを慰める。

「しの様これからいかがなされますか。掛川にお身内は」 

「もうおりません。考えましたが、お世話になった養父母三ツ池屋を再建してやっていこうかと思います。田島様や吉野屋様が相談下さり、再建の資金は鍵屋様が貸し付けてくださるようです。幸い店の者たちもほとんどが無事に残っておりますので」しのが決意を述べていた。

「それにしても、あれだけの大店をおひとりで切り回すのは大変でしょうね」

 その時しのは奥の飯机に座る田島牛ノ進をじっと見つめていた。

「いやああ田島殿。見事なお手並みでした。あの引く、詰める、引くの間合いは大変参考になりました」と三之丞が感心する。

「いやいやおぬしこそ。両刀使いとあの鋭い飛翔。左手での差し棒の技には目を見張りました」

 時次郎がきんぴらを口に運びながら鋭い目でにやりと笑う。

「なに。万一の護身用にと差し棒に細工を。卍の細工はここの時次郎さん ですよ」

 改めて田島牛ノ進は時次郎にいろいろ細工を聞いている。

その横では尾張屋長三郎が鍵屋長兵衛に礼を述べている。

「鍵屋様。この度の藩からのお役目も、無事に済みそうでありがとうございます。藩は天守閣、金の鯱の仕上げ細工に苦労いたしております。何人か推薦いただいた職人の技と出来栄えを見させていただきましたが、ここの時次郎さんの技と簪はまことに見事なものでした。年明け来月から三ケ月ほど時次郎さんに尾張まで出向いてもらうことになりました。また、縁あってしのさんのために三ツ池屋再建の資金も用立てていただけるようで、重ねてお礼申し上げます」

「いやいや。私も商人ですからな、見込みのないものに資金用立てはいたしませんよ。それに、しのさんには尾張屋様が就ていなさるから安心ですよ」

  二人の商人としての絆はさらに一層深くなったようであった。

「あとはしのさんのことですがな・・蔵屋敷で半月暮らしてそこの田島に頼り切りでしたが、しのさんにその気があっても・・田島が・・どうもそちらは奥手のようで・・誘いみずを毎日かけておりますが・・」と尾張屋。

「やはりお武家様と町屋の娘では世界も違いますからな」と鍵屋。

「しかし昨今はそうしたものでもありますまい。商人が力を蓄えて武家以上の財力と見識を持つものも出始めましたからな」

「尾張屋様。ご自分のことをおっしゃっているようで」二人は笑う。

十三人は飲み・・食い・・夜の更けるまで楽しく歓談していた。

煮売りやの北西の角からは、珍しく枇杷の良い香りが漂って来る。

 

 年が明けた睦月の八日、東海道を尾張に向かう宿場籠の尾張屋長三郎と 徒で同行する飾り職時次郎の会話であった。

「あの堅物の田島が、元旦にとうとうしのさんと夫婦になる決意を述べおったわ・・早籠で尾張の上役に知らせ、藩主様からも、事情察しでお許しが出てな・・」

 うれしいそうな尾張屋である。

「それは、それは。ようございました」と時次郎が返す。

「田島たちが落ち着いたらな、豪華な名古屋帯も扱ってもらおうかと、かんがえておるところよ。わしも名古屋帯の江戸での出店を探しておった。再建した三ツ池屋が軌道に乗ってからのことだがな。時次郎さんの尾張の仕事も片付く、弥生の末ごろには、また江戸の婚礼に来られような・・」

権太坂の両側からは梅の香りが漂い始めていた。

                    

                         完

                          

 

 

                            

 

 

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸 元禄 人模様・・・・短編・・・五十三話

2023年07月13日 08時38分32秒 | 時代小説

 江戸 元禄 人模様  

         ーー寺子屋師匠 菊池三之丞 事件控えーー(短編)

作者:小出 健司   ペンネーム:多摩川 健

メイル:  kkoide492000@yahoo.co.jp

略歴:早稲田大学1967年卒業。 東芝入社 調査・企画・営業・海外・退職後

    マレーシア10年在住 2015年帰国現在に至る。

 

 

概略:現在の日本文化のある種の源。江戸時代中期・五代将軍綱吉・柳沢吉保の元禄時代。江戸・芝・七軒町、鍵屋長屋の寺子屋師匠・旗本三男坊・菊池三之丞を狂言回しに、この長屋と江戸周辺の庶民の生活と、義理と人情、侍と庶民、悪と正義、様々な事件に立ち向かう三之丞と妹弥生。華麗な文化の花の咲く中で 庶民の勇気と懸命な生きざまと、二人の成長をえがく。主人公は毎回、江戸の庶民、武士、農民、盗人等多様である。

短編の内容・・・・五十三話の予定  

      第一話 秋風        第十一話 時次郎の仕掛け 

       第二話 ひつけ      第十二話 与力 山内与十郎 

       第三話 泥棒村      第十三話 大八車 

       第四話 大山詣り     第十四話 久保田藩騒動 

       第五話 いかさま賭博   第十五話 三味線のお竜 

       第六話 作之進の仇討   第十六話 やっちゃばの峰吉

       第七話 板前 三次    第十七話 金春湯 

       第八話 座頭の和一    第十八話 絵師 梅島 彩庵 

       第九話 伊織の仇討    第十九話 学者 松永 宝来

       第十話 富くじ魚屋の松次 第二十話 金魚売の朝治

               

         各短編 WORD40文字 30行。 20から30頁である。

 

      感想やご意見を頂ければ幸いです。  多摩川 健 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感想を・・お待ちします!!

2023年05月22日 15時59分26秒 | 時代小説

 

感想をお待ちします!!

 

 

いまのところ、三十四話まで完結1

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来週以降 第二話 公開予定

2023年03月20日 15時16分21秒 | 時代小説

第二話 「火つけ」 を来週以降数回に分けて、投稿予定です。感想をお待ちします。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元禄 人模様 資料  PHOTO

2023年03月20日 15時09分19秒 | 時代小説

今日は少し、執筆資料の写真を紹介です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋風 第一話 その5(最終)

2023年03月01日 16時20分39秒 | 時代小説

「芝の目明し琴屋もしらねえといいますが・・どうも・・怪しい・・奴のところか、近所の長屋か裏の寺ではないかと。もう一度探ってきやしょう」

 三吉が、表に出ようとしたその時。

「それには及ばねえよ。神妙にしろ。そこの大葛籠、改めさしてもらうぜ」

 と琴屋の徳蔵と辰であった。

「しゃらくせい!岡っ引き、二人でやろうてのかい。よし来い」

 胸倉から長ドスを引き抜くと、三吉は一気に飛び出し、徳蔵、辰との間合いを詰める。徳蔵めがけて鋭くドスを突き出す・・と・・

 そこへ木陰から法円の長棒が飛び、三吉の右足膝を鋭く打つ。たたらを踏んだ三吉は簡単に捕縛される。それを見て橋本、上原も刀を構え岡っ引き二人の前に立つ。橋本は構えからも相当に腕が立ちそうだ。今度は左の木陰から、一ノ辰と三乃丞がスイーと前に出る。

「何奴だ。おぬしらは!」

 叫ぶ上原。すでに刀を抜いている。

「かどかわしを、見かねた者たちさ」

 と三乃丞は橋本の前に一ノ辰は上原の前に立つ。

 上原が裂ぱくの気合で一ノ辰に上段から斬りかかる。スーと間合いを詰めた一ノ辰は、わずかに腰をかがめ、右に開くと、左下から右上に鋭く上原の胴を切り割る。まことに鋭い一撃であった。

 上原が腹を割られても、橋本はちらと視線を寄せただけで、平静であった。ゆっくりと長刀を抜くと下段から、右八相に構え、ジリ・・ジリと三乃丞との間合いを詰める。三乃丞もわずかに右方向ゆっくり回りながら間合いを探る。しばらく両者は動かない。木の葉がハラリと廃寺の庭に舞う。

 その時ーー橋本は八相から一気に右から左へ・・鋭く切り込んだと・・見たとき・・三乃丞は橋本の頭上高く飛び上がって、左手に持った寺子屋差し棒を突き出す。棒の先からは、針のように細長い仕掛けの糸刀が橋本の右目を突く。赤く染まった右目ではあったが、踏みとどまった橋本は、上段から三乃丞に再び鋭く斬りかかる。今度は、三乃丞乃の右手刀が一閃すると、橋本の左腕を二の腕から断ち切った。まことに見事な両刀使いである。

 霜月十九日。芝大円寺の鐘楼からは、酉の刻を打つ鐘の音が、ゆっくりと響き渡る。庫裏に皆が集まる。

「幸いなことに・・ゆるやかだが、この娘御は思い出し始めておるよ。辰の話のように日本橋・両替商越後屋の娘、八重さんのようじゃ。名前も店も思い出しつつあるからな。もう心配はいらんだろう」

「和尚様。皆様。お助けいただき誠にありがとうござります。あれからもう四日もたつのでございますか。して、して・・女中のとよはいずこに・・・」

 皆は目くばせする。三乃丞は八重の耳元で何かささやいた。一瞬目を見張って驚愕の表情の後、八重はその場に泣き崩れた。つらい瞬間であった。

「南阿弥陀仏・・南無阿弥陀・・」法円和尚の念仏。

 芝の琴屋徳蔵が、

「越後屋さんも、お待ちでございますから、では、明日の昼八重さんをお送りして参りましょう。いきさつをお話ししたところ、旦那の幸之助様から和尚様他皆様にもぜひお会いしたいとのことで、是非お付き合いいただければ、わっしも助かります」

 翌日、昼四ツ、八重はもうしっかりした足取りで大円寺を出て、日本橋の我が家に向かった。今日は日差しもあり、新橋、銀座界隈もにぎやかな人通りである。念のため和尚、一ノ辰、三乃丞も徳蔵と辰の後ろからゆっくり歩いて日本橋越後屋へと向かう。

 

 日本橋本石町 越後屋の店先には、番頭数名をはじめとして、店の者たちが、ほっとした表情で八重を迎えに並んでいた。店の上り口では、越後屋幸之助とお内儀が平伏して帰りを待っていた。八重が母に向かうと、さすがにお内儀は縋りつくように娘を抱きしめる。言葉はない。ふたりはじっと抱き合ったままであった。ここ数日の心労からお内儀の髪は乱れたままであった。その様子を横から幸之助は見守る。

   一行は、まず二階の大広間に案内された。すでに祝い膳と酒肴の支度が整っている。一行を上座に誘うと、平伏した幸之助から丁寧な礼が述べられた。

「皆様の、ご支援のおかげで、このように無事に娘も戻り、これ以上の感謝の言葉もございません。広い江戸市中で、難儀する娘に、温情を賜り一生涯の恩人でございます。お礼はまた改めまして、今日は、ささやかではありますが御礼の祝い膳でございます」

 それからは、緩やかではあったが、仔細についての談笑と歓待が始まった。

 

 母と供に、着替えを済ませた八重が三乃丞に酒を注ぐ。

「皆様のおかげでこうして無事に、戻ることができました。女中のとよがわたくしをかばって・・」

  目には涙が浮かぶ。

「まことに・・残念なことであったな。八重さんは、とよさんの分まで、幸せに生きなければなりませんぞ」

 と三之丞が励ます。

「母とも相談いたしましたが、とよを、わたくしども越後屋の墓で供養しようかと・・父も許してくれると思いますので」

それまで黙って、盃を重ねていた、大円寺の法円和尚が、

「これも・・何かの縁であろう。とよさんはわが寺で永代供養をと考えておりますがいかがですかな。もちろんとよさんの実家と相談のうえでのことじゃがな」

「和尚様。この上にまた、まことに心聞くお話でございます」

  と亭主の幸之助は恐縮しながらも目礼した。

「ご亭主、それにしても、ご長男の罪は逃れられませんぞ」と和尚。

「それはもう。不憫な子ではありますが、お裁きのままに」

 親としてのつらさと悔恨からか、うっすらと涙がにじむ。

 その後越後屋からは、相当の供養料が大円寺に払われたことは申すまでもない。上総のとよの実家も異議はなく、こちらも相当の金子が、越後屋から、とよの両親に支払われ、八重が見舞いに出向いていた。

 

  ここは常盤橋の将軍用人・柳沢吉保屋敷の秋の宵である。居間では下城した吉保と、三乃丞の父・菊池左衛門吉行が盃を交わしている。左衛門は先年、柳沢がなくした妾妻「秋乃」の兄であった。激務の傍らであったが、柳沢は父のような菊池と、忌憚なく酒を交わすのを何よりの楽しみとしていた。

「ところで、そちの三男三乃丞とやらは、なかなかの腕前だそうだな。この度の越後屋の件で老中筋で話題になっておってな」 

「殿。まだまだの未熟者でございます。後妻の子でして。兄たちと違って、勝手気儘なところがあり、市中に出て寺子屋をやっております。堅苦しいことが大嫌いで」

 と困惑の表情だ。

「ほほう、真面目なそちとはだいぶにちがうな。後妻の、みと殿の血筋かのう」

 と屈託なく笑う。

「殿。して・・お裁きのほうは」

「重傷の浪人橋本の証言からな・・・妹を殺そうとした長男幸太郎、かどかわしを引き受けた、神田の香具師元締め泉屋六郎、深川の原田典膳とやらは、十日後に佃に着く伊豆七島廻船でそれぞれ、三宅、神津、八丈島に永年遠島と決まった。当分帰ってはこれまいて」

「ま、それはそれとしてすこし先になるやもしれぬが、妻の定子が大山詣りを希望しておってな・・わしが供もできまいて、若頭だけでは心配もある。警護を兼ねて、そちの息子殿に同行を頼めぬものかのう」     と吉保が菊池左衛門に酒を注ぐ。

 

 同じ宵ここは、鍵屋長屋の煮売り屋おみよの店である。三之丞、一ノ辰、徳蔵、辰、今日はなんと・・法円和尚もいる。

「それにしても、三乃丞殿のあの左手での差し棒には驚きました。間合いといいまことに見事。次なる一手も鋭かった!」

 と一ノ辰。

「いやいや、わたくしなど・・・まだまだです。一ノ辰殿の下からの胴撥ね上げ切りは、間合いの詰め方、腰の落とし方。とても及びません」

「ま ほめっこはそれぐれえにして、飲みましょうや。このイカ干し焼きも、とろろ汁も、うめええ。越後屋の膳もすばらしかったけど、やはり・・このほうが・・気楽ですね」

 徳蔵の本音だ。

「徳蔵さんよ・・この酒はな・・越後屋さんからの差し入れで、越後の鶴亀だよ」

 と和尚はもうほろ酔いだ。

「和尚が・・そんなに飲んじゃ・・いけませんやね・・」

 店の中の笑い声に合わせて・・秋風が・・ヒューと吹く。

 

                         

                        完

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

twiter

<script type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>