ベストセラーになった「国家の品格」におけるグローバリズムの扱いと、この著者の限界を考えてみます。
限界を考える、というと偉そうですが、あくまで僕の考えです。
この本の筆者である藤原さんという人は京大の数学者だそうです。理科系の人らしく「論理の限界」「近代合理主義の限界」を熱心に指摘しています。理科系の人ほど論理主義の限界は分かる。例としては最悪ですが、オウムの高学歴者はほぼ理科系でした。彼らは「近代合理主義の限界」がよく分かる立場にいました。だから「あっちの世界」に行ってしまった。私はそう思っています。ただ藤原さんは「あっちの世界」には行っていません。筆者の名誉のためにつけ加えておきます。
読んだ方も多いでしょうから内容紹介などしません。おおざっぱに言って「健全なナショナリズム」の必要性を説いています。
この本の26~27ページで著者はグローバリズム批判を行います。
「競争社会とか実力社会とかいうのは野放しにすると、必要以上に浸透していきます。究極の競争社会、実力主義社会はケダモノ社会です」
「共産主義が滅び、資本主義が勝利した、と思っている人が多いようですが、現行の資本主義さえ欠陥だらけの主義と、私は思っています。共産主義が机上の空論だったから勝利してしまっただけです。」
などが資本主義批判です。
さらに筆者は資本主義が今では「市場原理主義」になったと規定します。
この「市場原理主義」というがおそらくグローバル資本主義のことです。
市場原理主義経済の前提は「公平に戦う」ということで、公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。こういうのが「市場原理主義」だと筆者は解説します。
さてここからがグローバル資本主義にどう対抗するか、に対しての筆者の見解です。
「しかし、この論理は後ほど詳しく述べる武士道精神によれば、卑怯に抵触します。大きいものが小さいものをやっつけることは卑怯である。強いものが弱いものをやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし、市場原理主義ではそんなことに頓着しません。」
グローバル資本主義には「武士道における卑怯の精神を重んじて対応すべきだ」というわけです。
弱い者や小さいものをいじめてはいけない。ということで、ある世代より上の人間にとっては実にすんなりと受け入れられる意見です。「武士道」なんて言葉がなければ、さらに「すんなり」と受け入れられます。ちょっと前の日本人にとってはこれは当然のことだったからです。もちろん10代の人でもこう考える人は、今でも、たくさんいるでしょう。
しかし、これが現実的にグローバル資本主義に対する否定につながるでしょうか。
実際問題として、これを読んだ人間は、では、どうすれば良いのでしょう。武士道の倫理を守って卑怯なことはすまいと思っても、市場原理主義は「そんなことには頓着しない」わけですから、現実的には何の抵抗にもなりません。しかも「よき武士道精神」をもった人間は日本人でもめったにいない。まして世界にはたぶん、いない。
とすると、この考えもまた、現実に対しては全くの空論ということになります。現実はどうでもいいが、自分の心もちが大切なのだ、というなら別ですが。
「企業戦士」がこれを読んで共鳴したとしても、彼個人の力で何かできるでしょうか。合併、巨大化による競争力の向上を目指す会社組織を否定できるでしょうか。できるわけはありません。すると彼は「良心のうずき」みたいな重荷を背負って、でも家族のために働く、競争に邁進する、ということになります。そして精神的に疲れ果ててしまいます。
僕はこの本を「おとしめる」ためにこれを書いているのではありません。
グローバル化の悪い面を指摘することは簡単であるが、実効性のある対抗手段を提示することはほとんど不可能といえるほど難しいということを言いたいだけです。
資本主義における競争と格差と不平等に対抗するため、人間は200年も考えてきました。しかしその答えすら出ていない。そこにさらにグローバル資本主義という激しい流れが生じているわけです。
グローバル化にどう向き合うか。リアルで現実的な考察が必要だと思います。