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はてしなき流れの果てに

「対立と混乱」の「流れ」とどう向き合えばいいのかを考えます。コメントにはほとんど対応できないと思いますがお許しください。

「国家の品格」におけるグローバリズムの扱い

2006-08-23 | Weblog

ベストセラーになった「国家の品格」におけるグローバリズムの扱いと、この著者の限界を考えてみます。

限界を考える、というと偉そうですが、あくまで僕の考えです。

この本の筆者である藤原さんという人は京大の数学者だそうです。理科系の人らしく「論理の限界」「近代合理主義の限界」を熱心に指摘しています。理科系の人ほど論理主義の限界は分かる。例としては最悪ですが、オウムの高学歴者はほぼ理科系でした。彼らは「近代合理主義の限界」がよく分かる立場にいました。だから「あっちの世界」に行ってしまった。私はそう思っています。ただ藤原さんは「あっちの世界」には行っていません。筆者の名誉のためにつけ加えておきます。

読んだ方も多いでしょうから内容紹介などしません。おおざっぱに言って「健全なナショナリズム」の必要性を説いています。

この本の26~27ページで著者はグローバリズム批判を行います。

「競争社会とか実力社会とかいうのは野放しにすると、必要以上に浸透していきます。究極の競争社会、実力主義社会はケダモノ社会です」

「共産主義が滅び、資本主義が勝利した、と思っている人が多いようですが、現行の資本主義さえ欠陥だらけの主義と、私は思っています。共産主義が机上の空論だったから勝利してしまっただけです。」

などが資本主義批判です。

さらに筆者は資本主義が今では「市場原理主義」になったと規定します。

この「市場原理主義」というがおそらくグローバル資本主義のことです。

市場原理主義経済の前提は「公平に戦う」ということで、公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。こういうのが「市場原理主義」だと筆者は解説します。

さてここからがグローバル資本主義にどう対抗するか、に対しての筆者の見解です。

「しかし、この論理は後ほど詳しく述べる武士道精神によれば、卑怯に抵触します。大きいものが小さいものをやっつけることは卑怯である。強いものが弱いものをやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし、市場原理主義ではそんなことに頓着しません。」

グローバル資本主義には「武士道における卑怯の精神を重んじて対応すべきだ」というわけです。

弱い者や小さいものをいじめてはいけない。ということで、ある世代より上の人間にとっては実にすんなりと受け入れられる意見です。「武士道」なんて言葉がなければ、さらに「すんなり」と受け入れられます。ちょっと前の日本人にとってはこれは当然のことだったからです。もちろん10代の人でもこう考える人は、今でも、たくさんいるでしょう。

しかし、これが現実的にグローバル資本主義に対する否定につながるでしょうか。

実際問題として、これを読んだ人間は、では、どうすれば良いのでしょう。武士道の倫理を守って卑怯なことはすまいと思っても、市場原理主義は「そんなことには頓着しない」わけですから、現実的には何の抵抗にもなりません。しかも「よき武士道精神」をもった人間は日本人でもめったにいない。まして世界にはたぶん、いない。

とすると、この考えもまた、現実に対しては全くの空論ということになります。現実はどうでもいいが、自分の心もちが大切なのだ、というなら別ですが。

「企業戦士」がこれを読んで共鳴したとしても、彼個人の力で何かできるでしょうか。合併、巨大化による競争力の向上を目指す会社組織を否定できるでしょうか。できるわけはありません。すると彼は「良心のうずき」みたいな重荷を背負って、でも家族のために働く、競争に邁進する、ということになります。そして精神的に疲れ果ててしまいます。

僕はこの本を「おとしめる」ためにこれを書いているのではありません。

グローバル化の悪い面を指摘することは簡単であるが、実効性のある対抗手段を提示することはほとんど不可能といえるほど難しいということを言いたいだけです。

資本主義における競争と格差と不平等に対抗するため、人間は200年も考えてきました。しかしその答えすら出ていない。そこにさらにグローバル資本主義という激しい流れが生じているわけです。

グローバル化にどう向き合うか。リアルで現実的な考察が必要だと思います。

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「左派」さんの課題

2006-08-22 | Weblog

1990年から16年間、就職して忙しかったこともあり、ずっと「どうして社会主義は崩壊したのか」について考える余裕がありませんでした。

もっとも考えたとしても文学部出身の僕には無理だったかも知れません。まして今はさらに無理な頭になっているような気がします。

最近になって調べたのですが、僕が現実べったりになっていた間も、ずっとそれを考えていた方はいるようです。

「左翼」というのは言葉の原義としは「個人主義」「理性主義」「進歩主義」の立場にたつ人間だそうです。

小泉氏などは日本一の個人主義者であり進歩主義者、改革主義者ですから、まさに左翼そのものということになるのでしょう。(これは皮肉では全くありません)

ただ小泉氏は理性の信奉者ではなかった。竹中氏が起案した新自由主義(グローバル化)を推進しながら、一方では反グローバルの姿勢を強く強調した。たとえば靖国参拝などがそうです。

国民を「だまくらかした」とまでは言いませんが、グローバル化を推進しながら、自分は見事に反グローバル化の旗手のような役回りを演じた。本来なら反グローバルの立場にたつべき「右派」さんが、何故かみんな小泉支持になってしまった。そして「左派」さんの目ももっぱら改憲、ナショナリズムの台頭に向き、経済問題が二の次になってしまった。

もっとも「国家の品格」の著者は、「右派」さんですが、それを見抜いて、小泉氏の幻術をわかりやすく説明した。だから売れたのでしょう。

しかし小泉氏がもし「回顧録」を書くとしたら、「これしか方法はなかった」と書くのではないでしょうか。

「右派」さんは小泉氏を支持しましたが、新自由主義経済政策は支持しているのでしょうか?

これは素朴な疑問です。私はこのブログではなるべく誰も攻撃はしたくない。ただ純粋に疑問なのです。

もっとも課題はむしろ「左派」さんの方にあるのではないでしょうか。あくまで課題です。「問題」ではありません。批判などしていません。

新自由主義経済政策に対して「左派」さんがとった反論、反攻は「ナショナリズム復活反対」「靖国参拝反対」「福祉切り捨て反対、格差社会反対」「護憲、平和主義の維持」といったものでした。

経済政策に対する反論は「福祉切捨て反対、格差社会反対」だけ、とまでは言いませんが、どうもそれ以外は情緒的な反応にすぎず、小泉政策に対する有効な反攻は「格差社会反対」のみであったように思います。

もちろん僕も「格差社会」は非常に問題だと思います。

しかし「左派」さんの反応はもっぱら「情感」に流れ、新自由主義経済に代わる現実的な経済ビジョンを打ち出すことができないでいる。

これは全てソビエトの崩壊と真剣に向き合わず、あれはスターリン主義の崩壊であって、マルクス主義の崩壊ではない、などと言ってきたことに起因する失敗なのではないでしょうか。大企業は悪の元凶であるなどという、「善悪二元論の経済論」を共産党が唱えても、広範な支持を得られるとは思えず、実際得られてもいません。国際資本に対する分析が欠けているからです。

つまりグローバル資本主義、「国際資本の動き」に対して、現実的な分析ができないでいるのです。だから対応ができずにいる。(僕にはできるなどとは言いません)

グローバル化は文化の画一化を伴いますから、反グローバリズムとしてのナショナリズムが台頭するのは必然的な動きです。小泉氏はグローバリズムを推進しながら、彼個人としては反グローバリズムの姿勢にたつという「離れ業」を演じたのです。そしてナショナリストの目をグローバル経済からそらすことに成功しました。

僕は「左派」さんにエールを送っているつもりです。また僕がいう「分析」を行っておられるブロガー(たとえば晴耕雨読さん)の存在も知っています。しかしそれは大きな流れにはなっていないように感じます。

もう小泉批判を情感的に行うのはやめて、グローバル化と真剣に向き合う段階にきている、と僕は思います。

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新自由主義がもたらした対立と混迷

2006-08-22 | Weblog

アメリカを起点とするグローバル化の流れは、1990年初頭におこり、あっという間に日本社会を変質させてしまったと僕は思っています。

グローバル資本主義とはいわば「弱肉強食の資本主義」です。

今日、自民党の谷垣候補は「弱肉強食の日本にしてはならない」と熱弁をふるっていました。

私もそう思います。

竹中氏が進めた政策。企業競争力の強化。効率性の重視。規制の緩和。福祉の後退。つまり「新自由主義経済政策」

経済の専門家でない僕には具体的に論じる力はありませんが、直感として、「仕方がなかったかもしれないが、これからが大変である」ように感じます。仕方がない、と書いたのは、日本は欧州と違い、アメリカへの経済的、軍事的依存が激しいからです。

格差、地方の疲弊、精神の荒廃。

漱石は日本は小国であり、これからも息絶え絶えに「開化」を続けるよりほかはないと予言していました。

1980年代、やっと「息絶え絶えの発展」から抜け出して、さあこれからは心豊かに、と考えた矢先、ソ連崩壊とともにグローバル化の波がおしよせました。

時代はまた漱石の生きた時代と同じ「弱肉強食の時代」になってしまったのです。

しかし、犯人探しのごとく、小泉氏を責め、また竹中氏を責めていても、そこに「建設性」があるとは思えません。グローバリズムも反グローバリズム(ナショナリズム、民族主義)も、おこるべくして起こった事態のように僕には思えてならないからです。

さて、「これから」をどうしよう。

私は個人の問題としても、個人を超えた問題としても、それを考えるべきだと思うのですが、ネット界もまた「対立と混迷」の中にあるようです。

私にそれを仲裁する力量など少しもありませんが、たとえ「蟷螂の斧」であっても、何か発言しなくてはという気持ちはあり、そんなことを「徒然に」語ってみたく思っています。


グローバル化とどう向き合うか

2006-08-22 | Weblog

グローバリゼーションとどう向き合うか、今日においては、およそ政治や社会、そして文化、人間を考える場合、すべての議論はそこに収斂していかざるをえない、と個人的には考えています。

グローバリゼーション、グローバル資本主義は1990年代を境にして飛躍的に世界に浸透していきました。この「飛躍性」が世界と日本に様々な「混乱と対立」をもたらしています。

その問題点を素描するなら次のようになるでしょう。

①世界と社会の「二極化」を生んでしまうこと。

②世界規模の大量生産が可能になること。つまり世界規模で「廃棄物」が発生すること。それにより環境破壊が今までにない加速を見せること。

③様々な国家や共同体に「グローバリゼーションの受容」をめぐって「混乱と対立」が発生すること。

つまり

①国内外の「格差」をどう解消するか。

②環境の破壊をどうくいとめるのか。

③暴力の連鎖をどう断ち切るか。ナショナリズムにどう向き合うか。日本国内の対立をどう解消するのか。

が今日の社会では最も重要な課題になっていると私は考えています。

これはいわゆる「左派」にとっても「右派」にとっても共通の課題と言えるでしょう。

ただし私には「左派」や「右派」の方々に対立の解消を呼びかけるつもりはありませんし、そんな力量もありません。

私はただ「私自身の為に」、考えてみたい。そう思っています。