ここに1枚の紙があります。この紙の端をちぎって、水が入っているコップに入れたとします。果たして水に浮くでしょうか。もちろん浮きます。それでは次に、小石を入れてみます。これは浮くでしょうか沈むでしょうか。もちろん沈みます。それでは、この百倍の石(岩)を水に入れたらどうなるでしょう。「なにをバカなことを、沈むに決まっているじゃないか。」と言われるかもしれません。しかし、この石を浮かせることはできます。どうしたら浮かせることができるでしょうか、それは船というものに乗せることによって可能となるのです。そして、その石の重量が大きければ大きい程、それに見合った頑丈な船に乗せることによって水に浮くことができるのです。
私達はちょうど、この石と同じようなものです。よく人生の荒波とか、人生航路などという言葉がありますが、私達の一生は、大海原を渡っていくようなもので、穏やかな時ばかりではなく、荒波にもまれる時もあります。この大海を、先ほど言いました石が、一人で浮かんで渡っていくことは出来るはずはありません。やはりその荒波でも乗り越える、真実の船に乗らなければいけないのです。
何ゆえ私達は石なのでしょうか。それは、末法という今の世の中に生まれてくる人間は、総て、本未有善と言いまして、過去において善根を積む修行をしてこなかった人達ばかりが生れてきているからであります。正しい仏の教えに、ことごとく反対してきた人間なのです。ですから、苦しみの元となる罪障を、沢山この身に染み込ませているのが、実は今の私達なのです。この罪障のしみが、何十トン何百トンの石の重さに匹敵するのです。このような罪障という重さで、人生の荒波を渡っていくわけですから、この重さをしっかりと浮かせる、立派で頑丈な大船が必要なのです。
日蓮大聖人の仏法を行ずる信心の実践は、大船に乗るという、最大の楽を得る善行なのです。