ナラティブエシックス普及委員会

ナラティブエシックス(物語の倫理)の研究日誌。毎日の研究の中から「なるほど!」と思ったことを紹介します。

フロイトとナラティブアプローチ

2006-08-31 00:29:12 | ナラティブアプローチ
“At various points in his later career Freud went out of his way to deny that he was a genius. ~ He meant, I think, that much of what he had discovered had been tested in his own life and was the result of his experience. Indeed Freud’s writings are on one side properly considered as part of “the literature of experience.” Experience goes with great learning, which Freud wore very lightly; it goes as well with shrewdness in the analysis of character; and both are combined with brevity of phrase and irony. Such writing surprises the reader with a sense of its truth and simultaneously leads him to self-examination. And this brings me back to where I began. The notion of self examination ? and the value attached thereto ? is surely somewhere close to the center of whatever it is we think psychoanalysis may mean.”
Steven Marcus
Freud and the Culture of Psychoanalysis 19

フロイトは、物語を語ること自体が(物語という概念をしっかり利用しているという意味において)治療であると考えるラディカルナラティブアプローチ(と僕は呼んでいる)の先駆者である。(詳しくは、内田樹著・「ためらいの倫理学:戦争・性・物語」の35~36ページを参照)そして上で引用したMarcus氏のフロイトに関する評価は、的確になぜフロイトが物語論に縁のある人物であったかを示唆していると思う。Marcus氏によると、フロイトは精神分析を自らの体験を通して学んだのだから自分は天才ではないと考えていたというのがおもしろい。なぜフロイトがそう考えていたのかというと、彼の理論は全て自らの経験からintensively に学んだと考えていたからだという。これを踏まえてMarcus氏はフロイトの作品を「経験の文学」と称した訳である。無論、フロイトの作品が文学的であると考えられる理由は、フロイトの的確でウィットで皮肉じみたするどい切り口の文体もさることながら、もう一つ大事なのが、フロイトの作品は読者に解釈の自由を与え、「当たり前のこと」を再吟味することを促す能力に長けていたからであるとMarcus氏は考えたのである。

認知心理学者で物語論者でもあるブルーナーによると、物語が「よい物語」になるためには、それが読者にある程度の解釈の自由を与えるように書かれていなければならないと指摘している:「ストーリーをいいものにするためには、それをいくぶん不確定で、どうにかして多様な解釈に開かれているようにし、意図された状態からの思いがけない変化や非限定性にさらすようにすべきであろう。」(ジェローム・ブルーナー 意味の復権77ページ) 確かにこの基準によると、科学的説明は物語になりにくいということが理解出来る。例えば「脳死状態にいる患者が流す涙」は、科学的説明では「単なる生理現象」として描写される。この科学的説明がなぜ物語ではないのかというと、それはこの説明にはなんらかの不確定性や解釈の余地がなく(むしろ科学的説明は不確定性や解釈の多様性を少なくしようとすることに留意)、故に物語として発展する余地がない(ように見える)からである。ところが脳死患者の家族は、脳死患者の涙を見て「痛がっているのではないか?」とか「なにか苦しいのではないか?」といった具合に、時々医療従事者を困惑させるような「涙の解釈」をすることがある。そして、実際に本当に痛がっていたり苦しんでいるかを問うことは別として、このような解釈には様々な物語の多様性の可能性があるように思われるのである。つまり前述した「涙の解釈」をする脳死患者の家族のほうが、不確定性の少ない科学的説明を保持する医療従事者よりも「すぐれた物語の作者」である可能性が高いのである。☆1

前回の記事で指摘したように、意味は読者が創り出すものである。故に「すぐれた作家」とは、特定の意味を物語の中に仕込む作家ではなく、むしろ読者が多様な「読み(解釈)」が出来るような仕方で物語を作り上げる作家である。この意味でフロイトは確かに「すぐれた作家」だったと思う。なぜなら、たとえ彼の主張したことが今では「科学説明的」にその正当性を保持することが出来ないとしても、フロイトの作品は私達に自己吟味(self-examination)に従事することを促し、様々な解釈を促し、様々な物語の可能性を私達に提案しつづけているからである。同じことが医療従事者にも言えると思う。医療従事者がすぐれた作家になるということは、特定の意味をいかに能率良く提示できるか(診断等)だけではなく、それに付け加えて、患者や家族の人々の物語の多様さの可能性を、医療という実践の範囲内において、いかに保障できるか否かにかかっているのだとクリニカルナラティブエシックスは提案するのである。

☆1:詰まるところ、前述した脳死患者の家族にとって最もこたえることは、「この涙は生理学的反応ですよ」という科学的説明の事実性そのものではなく、むしろ科学的説明を理由に家族の人々の異なる解釈の可能性があっけなく一蹴されてしまうこと、つまり自分たちの物語を語ることを許されないことが彼等にとってもっともこたえることなのではないだろうか?