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フロイトとナラティブアプローチ

“At various points in his later career Freud went out of his way to deny that he was a genius. ~ He meant, I think, that much of what he had discovered had been tested in his own life and was the result of his experience. Indeed Freud’s writings are on one side properly considered as part of “the literature of experience.” Experience goes with great learning, which Freud wore very lightly; it goes as well with shrewdness in the analysis of character; and both are combined with brevity of phrase and irony. Such writing surprises the reader with a sense of its truth and simultaneously leads him to self-examination. And this brings me back to where I began. The notion of self examination ? and the value attached thereto ? is surely somewhere close to the center of whatever it is we think psychoanalysis may mean.”
Steven Marcus
Freud and the Culture of Psychoanalysis 19

フロイトは、物語を語ること自体が(物語という概念をしっかり利用しているという意味において)治療であると考えるラディカルナラティブアプローチ(と僕は呼んでいる)の先駆者である。(詳しくは、内田樹著・「ためらいの倫理学:戦争・性・物語」の35~36ページを参照)そして上で引用したMarcus氏のフロイトに関する評価は、的確になぜフロイトが物語論に縁のある人物であったかを示唆していると思う。Marcus氏によると、フロイトは精神分析を自らの体験を通して学んだのだから自分は天才ではないと考えていたというのがおもしろい。なぜフロイトがそう考えていたのかというと、彼の理論は全て自らの経験からintensively に学んだと考えていたからだという。これを踏まえてMarcus氏はフロイトの作品を「経験の文学」と称した訳である。無論、フロイトの作品が文学的であると考えられる理由は、フロイトの的確でウィットで皮肉じみたするどい切り口の文体もさることながら、もう一つ大事なのが、フロイトの作品は読者に解釈の自由を与え、「当たり前のこと」を再吟味することを促す能力に長けていたからであるとMarcus氏は考えたのである。

認知心理学者で物語論者でもあるブルーナーによると、物語が「よい物語」になるためには、それが読者にある程度の解釈の自由を与えるように書かれていなければならないと指摘している:「ストーリーをいいものにするためには、それをいくぶん不確定で、どうにかして多様な解釈に開かれているようにし、意図された状態からの思いがけない変化や非限定性にさらすようにすべきであろう。」(ジェローム・ブルーナー 意味の復権77ページ) 確かにこの基準によると、科学的説明は物語になりにくいということが理解出来る。例えば「脳死状態にいる患者が流す涙」は、科学的説明では「単なる生理現象」として描写される。この科学的説明がなぜ物語ではないのかというと、それはこの説明にはなんらかの不確定性や解釈の余地がなく(むしろ科学的説明は不確定性や解釈の多様性を少なくしようとすることに留意)、故に物語として発展する余地がない(ように見える)からである。ところが脳死患者の家族は、脳死患者の涙を見て「痛がっているのではないか?」とか「なにか苦しいのではないか?」といった具合に、時々医療従事者を困惑させるような「涙の解釈」をすることがある。そして、実際に本当に痛がっていたり苦しんでいるかを問うことは別として、このような解釈には様々な物語の多様性の可能性があるように思われるのである。つまり前述した「涙の解釈」をする脳死患者の家族のほうが、不確定性の少ない科学的説明を保持する医療従事者よりも「すぐれた物語の作者」である可能性が高いのである。☆1

前回の記事で指摘したように、意味は読者が創り出すものである。故に「すぐれた作家」とは、特定の意味を物語の中に仕込む作家ではなく、むしろ読者が多様な「読み(解釈)」が出来るような仕方で物語を作り上げる作家である。この意味でフロイトは確かに「すぐれた作家」だったと思う。なぜなら、たとえ彼の主張したことが今では「科学説明的」にその正当性を保持することが出来ないとしても、フロイトの作品は私達に自己吟味(self-examination)に従事することを促し、様々な解釈を促し、様々な物語の可能性を私達に提案しつづけているからである。同じことが医療従事者にも言えると思う。医療従事者がすぐれた作家になるということは、特定の意味をいかに能率良く提示できるか(診断等)だけではなく、それに付け加えて、患者や家族の人々の物語の多様さの可能性を、医療という実践の範囲内において、いかに保障できるか否かにかかっているのだとクリニカルナラティブエシックスは提案するのである。

☆1:詰まるところ、前述した脳死患者の家族にとって最もこたえることは、「この涙は生理学的反応ですよ」という科学的説明の事実性そのものではなく、むしろ科学的説明を理由に家族の人々の異なる解釈の可能性があっけなく一蹴されてしまうこと、つまり自分たちの物語を語ることを許されないことが彼等にとってもっともこたえることなのではないだろうか?
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よりよい共同作家へ

「もしも私が、ストーリーを話すことよりむしろストーリーの理解において、不確定のものや仮定法的なものを重視してきたのだとすると、それは、物語の叙法が、ある根元的世界における確実性についての結論ではなくて、経験を理解可能なものにするように構築される、変換するパースペクティブについての結論を導くからにほかなない。すぐれた作家の読者への贈りものとは、読者をよりよい作家にすることだと、バルトを超えて、私は信じている。」
ジェローム・ブルーナー 「可能世界の心理」62ページより

文学論の中心的テーマの一つに「テクストの意味がどこにあるのか・誰が決定するのか」がある。そして文学論(というか人類の思想の歴史)を紐解くならば、このテーマに関する流れは、作者→テクスト→読者という流れだった。長い間(これはプラトンの影響か、はたまたキリスト教の影響か)、テクストに意味を与えるのは、そのテクストの背後にいる(いた)作者だと考えられてきた。この考え方に楔を打ち込んだのが構造主義で、ロシアフォーマリズムに始まったテクスト分析がやがて「作者の死」を宣言し、テクスト自体が意味を生み出すのだという考え方に移った。しかしこの考え方は登場したと同時にすぐさま次の読者派(と僕はとりあえず呼んでいる)にバトンタッチしてしまう(バルト自身がそうだった)。読者派というのは、要するに意味は読者が創ると考える人々のことであり、上記で引用したブルーナーもその一人である。「読者をよりよい作家にすること」が作家の贈り物であるということはすなわち、読者が小説や書き物を読む中でそこから多様な意味や解釈が可能となる(この意味で読者は頭の中で再構成され意味を付与された作品の作者となる)ようなものを書くこと、それが作者が出来る贈り物であるということである。ブルーナーがなぜ「バルトを超えて・・」と言ったのかというと、恐らくバルトの場合は、この贈り物が「せいぜい作者が出来ることというのはこれぐらいのことだ」という態度で言ったのに対して、ブルーナーの場合はこの贈り物を肯定的に捉えていたからだと思う。なぜ肯定的に捉えていたかというと、恐らくブルーナーの中にはテクストを介した作者と読者が共同で意味を創り出しているというイメージを持っていたからに違いない。共同で創るからこそ「読者がよりよい作家にする」という言葉を使っているのであり、この部分は「共同著作」の概念を表明している箇所であるとも言えるのである。

臨床の場面ではどうだろうか? 患者の語りを物語として捉えるならば、患者は筆者、医師(を含めた聴き手としての医療従事者)は読者となる。前述したように、文学の中では 意味に権威を与えるのは筆者→テクスト→読者であったが、臨床では患者の物語に意味を付与する役割は(特に近代医学の出現以降)常に読者である医師だった。(ああ、あなたの言っていることはこれこれという病気ですね・・みたいな感じ。ここにフーコーが明らかにした権威の問題が絡んでくることは明らか)臨床は、皮肉なことだが、文学論よりも構造主義よりもバルトよりも先に(^_^;)、読者の読みが(患者の)物語の意味を決定するということを実践してきた場所だったのである(物語論ではこれを「患者の語りの譲り渡し」と呼んでいる)。

「読者が意味決定の主要な役割を担っている」ということは間違いがない事実であるように思う。故に臨床での問題点は、読者である医療者側が、目の前に筆者がいるにもかかわらずバルトが言うようにあたかも「作者は死んだ」かのように、その物語の意味を独自の意味体系で決定してしまう点にある。確かにテクストがすでに固定されてしまった小説などの物語では、読者は筆者に直接問うことが出来ないので、意味を自分たちで創り出さなければいけない。しかし患者の物語は違う。医師の場合患者は目の前にいて、医師は自由に患者の物語の意味を尋ねることが出来る。つまり臨床では「作者」は死んでいないのである。

(クリニカル)ナラティブエシックスでは患者と医師が共同で物語を紡いでいくことを奨励する。文学作品とは違い、臨床での患者の物語は確定されておらず、文学作品のように筆者としての患者は自分の物語の結末がどうなるのかすら分かっていないまま(分かっていないからこそ)臨床にやってくる。そこから患者の物語が豊かに発展し、患者が満足する結末に至るか至らないかは(文学作品ならば筆者次第なのだが・・)もう一人の共同作者である医師にかかっている。そういう意味で、読者である医師を「よりよい作家」にするのは、臨床では決して作家である患者ではなく、もう一人の作家である医師自身なのである。そしてクリニカルナラティブエシックスとは詰まるところ、医師が「よりよい共同作家」になれるように援助する方法論の可能性をいくつか呈示する学問なのである。

PS:ジェローム・ブルーナーは、物語を読み語る人間の心理を探求した心理学者であるが、ナラティブアプローチのことを知りたいと思っている人には是非彼の著作を読むことをオススメします。
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了解と説明

「物語的要素に支えられた了解理論は、了解から説明への移行をよりよく解明してくれるのである。他者の意図の直接的把握として解された了解を、説明はむりやりまげようと見えるのに対し、この理論は当然、物語を追っていく能力の行使として解された了解を延長させるように働く。なぜなら、物語はめったに自己説明的であることはないからである。受容可能性と組合わされる偶然は、疑問、質問をよび起こす。そうすると、つづきに対する興味はー「そしてそれから?」とこどもは訊くー次に、理由、動機、原因に対する興味につながるー「なぜ?」とおとなは訊く。物語はこうして、ひとりでに<何>から<何故>が発生してくるような隙間のある構造をもっている。しかしそのかわり、説明は自律性をもたない。説明は、自然発生的な第一度の了解が行きづまったときに、歴史にもっとうまく、もっと遠くまでついて行けるようにする力と効果をもっている。」
ポール・リクール 解釈の革新 42ページ


「説明は自律性を持たない」 実に的確で美的な表現ではないだろうか?

ここでリクールは決して説明(科学的説明)を否定している訳ではなく、むしろ説明と了解は相互に協力しあうものなのだと言っている(と思う・・)。そしてこのリクールの提案は臨床にそのまま当てはめることが出来る。もうお気づきだとは思うが、一般的に医師が臨床で患者に話す語りは「説明」的で、患者が医師に話す語りは「了解的」である。臨床実践にとって重要な示唆点は恐らく次のことだろう。すなわち、説明と了解それぞれ異なる役割があるということだ。了解は患者の物語を発展させ、説明は了解の行き詰まりを打破することが出来る。医学的説明が患者の物語の停滞を打破させ、その結果、患者の物語が「もっと遠くまでついて行ける」ようになる・・。これがリクールが思い描いている了解と説明の良好な関係なのだろう・・。
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限られているからこそ・・

私事で大変恐縮なのだが・・・・m(_ _)m

最近、ジョギングにはまっている。

ストレス発散といえば、以前京都にいたころは銭湯にサウナ(と水風呂♪)に入りに行っていたのだが、沖縄には銭湯がない・・orz
ので、一人で出来るジョギングを始めたという訳だ。

始めは、いやなことを忘れるためにただひたすら走っていたのだが、だんだん走ることが気持ちよくなってしまった。たっ、たっ、たっ・・とテンポよく走っているとなんだか心が落ち着く(ような気がする)のである。今では走っていないとなんだか落ち着かないくらいになってしまった。そして最近は、大分体力がついたからなのか・・、走りながらいろんなことを考えるようになった。

僕は走りながらiPodで音楽を聴いているのだが、iPodなどの大容量のデジタルプレーヤーの登場で「音楽の聴き方」が大分変わってきたなあとふと思った。小学生の頃、かなりアニメオタク(という言葉は当時は当然なかった)だった僕は、なんとテレビの横にマイク付きのテープレコーダーをスタンバイさせ、目的のアニメの主題歌を録音して楽しんだりしていた(当時のテレビにはラインアウトなんて便利な機能も無かったし、我が家にはビデオも無かった!)。考えてみれば僕が洋楽を聴くようになった中学の頃は、丁度CDが出始めた頃で、まだレコードのレンタル屋さんがあった。無論、中学生の僕が自分で借りれるわけなどなく、親戚のお兄ちゃんに頼み込んで借りてもらうという涙ぐましい努力をしていた・・(T_T) さらにお目当ての曲がFM局のリクエスト番組などでオンエアされるまで、ねばり強くラジオチューナー付きのステレオの前で録音解除ボタンに指をかけていた(エアチェックと呼んでいたような・・)・・という今から考えたらなーんとも不能率な努力をしていたのがかなりなつかしい。

それに比べたら今は高音質の音楽をワンクリックでインターネット経由で購入出来る時代になってしまった。 レコード・カセット→CD・MDへの変化もなかなか大きかったが、やっぱりデジタルプレーヤーを使うようになって、音楽の聴き方が変わってきたなあと思う。音楽がデジタルファイルとなり、メディア媒介が大容量になったことによって、一度に大量の音楽を持ち運ぶことが出来るようになった結果、曲をランダム(乱雑?)に聴くようになったのである。もちろんこれはこれでとても便利なことは間違いない。例えば旅行や出張など自宅を離れる時、どのCDを持っていくかを考えることはなかなか大変だったが、1000曲以上入るiPod(僕のはminiPodなので600曲ぐらいかな・・)だとそんな心配しないでいい。ランダムで再生していると、昔よく聴いていたが最近聴かなくなった曲も再生してくれるし、クラシックやJPOP、洋楽など様々なジャンルの音楽を入れておくことが出来るので、バランスよく音楽を楽しむことも出来る。iPodシャッフルという機種には、毎日コンピュータの中にある曲のライブラリの中から自動的に曲を選んでくれるという「シャッフル機能」があって、どの曲が選ばれているかは聴いてからのお楽しみという大変ありがたい(?)音楽の聴き方が可能になっている。もはや音楽はわざわざ「選ぶ」必要がないと感じるほど、自由に気楽にいつでも楽しめるものになりつつあるという訳である。しかしである。これらの便利さと引き替えに、やはり失っている、もしくはこれから失っていくこともあるのではないだろうか? 

例えば、デジタルプレーヤーが登場するまでは、僕は自分の大好きな曲を集めて一つのCDやMDにまとめて楽しんだりしていたが、このようなことはデジタルプレーヤーを使い初めてからやらなくなってしまった(☆1)。1000曲入るデジタルプレーヤーに比べて、テープやCD、MDは大体60分から70分ぐらいしか録音出来ない。これは曲数にしてせいぜい15曲ぐらいのものである。だからこそどの曲を選択すべきかを、特に誰かに編集したCDやMDをプレゼントする場合はいつも悩んでいたものだ。相手に伝えたいメッセージ(がんばれ!・残念!・ごめん・おめでとう!等々)によって曲の選択は大きく異なってくるし、相手の好みも考慮すべきだろう。CD(MD)全体としてのバランス(☆2)をどうするかもある。さらにこだわる人にとっては曲順をどうするかも悩みの種である。このようにして僕がさんざん悩んで編集したCDやMDは、僕の曲の選択とその並べ方によって、この世で唯一無比のものとなる。そしてそのCD(MD)を何回も聴くことによって、その当時の心境や雰囲気もまたその特定の曲と順番の中に刻まれていく。つまり限られた一つのCD(MD)に収められた曲たちのワンセットは、言ってみれば、ある特定の意味と価値を付与される物語のようなものなのである。誰にでもそのような当時のことを思い出させてくれるテープやCDアルバムがあるのではないだろうか?

これがシャッフル機能を得意とし、大量の曲の持ち運びを可能とするデジタルプレーヤーだと、話が違ってくる。デジタルプレーヤーではこの「限られた中で何を含めるか」という選択をする必要が無くなってしまったからだ。今、僕はシャッフル機能によって、iPodが選んでくれた曲を「聴かされている」(と解釈することも出来る)訳である。アルバムもすべてシャッフル機能に頼ってしまうので、どの曲がどのアルバムに入っているのかすら確認しなくなってしまう。これがよいことなのか、それとも悪いことなのか、それは僕にはよく解らない。ただ、昔、一生懸命テープやCDを編集して出来上がったCDを友達にプレゼントした時に感じた喜びや、大好きなCDアルバムを何回もその曲順にそって聞き込んだ思い出は、デジタルプレーヤーにはないように思う。

(再び臨床への応用の為にこじつけ的になってしまうが・・)
限られているからこそ「選択する」ことによって付与できる意味があるように思う。患者の物語(に限らず人が語る全ての物語)がなぜ重要なのかは(その内容以前に)まさにこの点に集約されると言っても良い。物語には全てを含めることは出来ない(テープやCDのように限られている)。僕らは常に意識的・無意識的に出来事を選別し関連づけつつ物語を語っているからこそ、語られていないものとの差異ゆえに意味が付与されるのである。今、貴方の前で語られている患者の物語がどんなに日常的で、表面上はそれほど重要な意味がない(世界が驚くような新しい発見だとか・・)ように見えたとしても、その物語は他の語られ得なかったことがあるという事実によって、すでに意味があることなのである。いや、限られているのは「物語に全てを含むことが出来ない」という点だけに於いてではない。僕らは自分の物語を自分以外の全ての人々に語ることは出来ない。故に僕らは自分の物語を誰に語るかという「選択」を常にしている。患者が貴方にその物語を語ると言うこと、それは患者が貴方を自分の物語の聞き手として「選んだ」ということであり、そこにこそ大事な「意味」があるとナラティブエシックスは考えるのである。

追記:ちなみに逆説的ですが、僕らの人生もまた限られているからこそ僕たち人間はそこに意味を見いだそうとするのかもしれませんね。これは多くの小説や映画のモチーフになったりしていることからも明らかなように思います。

☆1:デジタルプレーヤーでは大抵、主にプレイリストなどで自分のお気に入りの曲をグループ化して聴けるようにしておく。iPodでは曲ごとに五段階の評価をつけることが出来、例えば評価☆4つ以上の曲を再生するスマートプレイリスト(とアップルは称している)などを作ると、自分のお気に入りの曲をいつでも聴くことが出来るという具合で大変便利である。スマートプレイリストは他にも様々な曲の選び方を提供していて、例えば最近聴いていない曲を中心に再生するプレイリストとか、何日以降に転送した曲をプレイするリストなど、色々ありとても便利だ。しかしいずれにしてもそこには上で説明しているような「選択する」という行為から生じる何らかの価値や意味づけの感覚は薄れてしまうことは否めないような気がする。

☆2:元気な曲とスローな曲のバランスとか、いけいけ系で行くのかバラード系かそれともドラマ主題歌でいくかとか、沖縄関連の曲をあつめるとか・・最近ipodのプレイリストでやったのは「桜」をテーマにした曲を集めたプレイリストを作ったりしました。結構あるんですよね。桜の歌・・。
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博士の愛した数式(映画)

博士:
「ここに直線を引いてごらん。心がおちつく。」

(家政婦(深津絵里)が一本の線を引く)

博士:
「そうだ、それは直線だ。しかし考えてみてごらん。
君の書いた直線には始まりと終わりがあるよね。
だとするならばこれは二つの距離を最短で結んだ線分なんだよ。
本来、直線の定義には端がない。
無限にどこまでも続いていかなければならない。
しかし、一枚の紙には限りがあるし、君の体力だって限界があるから、
とりあえずの線分を(直線として)了解しあっているにすぎないんだ。」

博士:
「真実の直線はどこにあるのか? それは(胸をさして)ここにしかない。
物質にも、自然現象にも、感情にも左右されない永遠の真実は目に見えないのだよ。
目に見えない世界が目に見える世界を支えているんだ。
肝心なことは心でみなくちゃ。」

(おもむろに、さきほど彼女が書いた直線(線分)の左側に、ルート記号を完成させるあの独特の形を付け足して・・)

博士:
「大丈夫、安心していい。ルート記号は頑丈だ。
あらゆる数字を保護してくれる。」

映画「博士の愛した数式」より

解説:家政婦さんの息子は、頭が平べったいという点が、数学の記号のルートに似ているので、ルートと呼ばれていた。つまりここで博士はルート記号=彼女の息子を暗に意図して、息子がきっと大丈夫だと示唆した。


「博士の愛した数式」を見た。ほのぼのとしたとてもよいお話だった。80分しか記憶が残らない、数学と数字を心から愛する博士(寺尾聡)と、家政婦さん(深津絵里)とその息子の心温まる交流を描いた物語だったのだが、特に心に残ったシーンが上で引用した場面である。野球の練習でフライを捕ろうとしたルート(息子)が衝突し病院に担ぎ込まれ、家政婦さんがとても心配している姿を見た博士が彼女にかけたのが上の言葉である。

もちろん「目に見えない大切な真実は心で見なければいけない」等々の哲学的な教訓も大事だとは思うが、僕がここでいいなあと思ったのは、博士が学んできた数学の知識の使い方である。博士は彼女が深く深く自分の息子を心配しているのを見て、その心配を少しでも和らげたいと思って、この「直線と線分の話」をしたのである。そう、肝心なことは心で見なければいけない。そして博士は確かに肝心なことを心で見ていたと思う。もし博士が数学という学問にこだわるならば、この直線の話は決してこの状況で使われることはなかっただろう。なぜなら数学的に考えれば、彼女が「直線を書きなさい」と言われて「線分」を書いたことは、理論的には「間違ったこと」だからである。しかし彼はその間違いを「よし」とした。無論、彼が言ったように、現実的に限られた場所と限られた能力で直線を書くことは出来ないから「よし」とした訳だが、実はもう一つもっと本質的な理由がある。それは彼が数学という学問の先にこの家政婦さんを見たからこそ「よし」としたのである。博士がここで何をしたかったのか?それは息子を心配する母親(深津絵里)の心配する心を少しでも和らげたいと思ったからこそ、「大切なことは心でみなければいけないよ」ということを彼女に伝えるために、例え彼女が「直線をかけ」と言われて線分を書くという数学的には間違ったことをするだろうと予測しつつも敢えてあのような数学の話をしたのであり、この時点で彼にとって最も重要なことは数学ではなく彼女だったのである。

僕が日本に帰ってきて学問の世界を少しずつ見るようになって驚いたのは、他人の論文や意見を頭ごなしに否定したり、やっきになって(そういう風に少なくとも僕には見えた)問題点を指摘する人が結構いることだった(もちろんこれは学問に携わる全ての人がそうだとか、全ての研究会がそうだという意味ではありません。そうではない人も大勢います。ただその割合というか、結構多いのにはびっくりしたという意味です)。もちろん学問を発展させ、真実に近づくには(←使いたくないフレーズですが・・)、議論は必要かもしれない。そしてその為には相手の問題点を指摘することや相手の論文をこてんぱんにやっつけることも必要なのかもしれない。しかし学問は人のためにもあるのではないだろうか? 寺尾聡が演じた博士は、あの状況で最も重要なことが何であるか(誰であるか)を心で知っていたと思う。それは数学の直線の定義を彼女に「真実として」教授することでもなければ、いかに一般人が直線を線分と取り違えているかを強調することでもなかった。確かに博士は心の中で数学という学問の向こう側に、不安や苦しみを抱えているルートの母親を見ていたのだと思う。そして彼はその家政婦さんの為に「数学という学問」を利用したのである。こういう学問の使い方はとてもステキではないだろうか?

(ちょっとこじつけ気味だが・・)臨床にいる医療従事者の方々に対しても同じことが言えると思う。私たちは医療の為に医療を行っているのでは決してない。博士が自分が持っている数学の知識を用いてルート(息子)の母親を元気づけようとしたように、医療の知識や技術は患者を治療しまた癒すために用いられるべきである。しかしこの「当たり前」のことがなかなか難しくなっているのが現代の臨床の特徴でもある。医療技術が格段に進歩し、医療従事者にとっても患者にとってもやることがどんどん増えていっている。そのため医療の先にいるはずの患者が見えなくなり、いつのまにか「医療のために医療をしている」循環的状況に陥りやすい状況になってしまっているのである。ではどうすればよいか? ナラティブエシックスは患者の物語に耳を傾けることを提唱する。患者の物語を聴くことによって医療実践の先にいる患者の姿が再び見えてくる。そしてそれが「医療のために医療をしてしまう」悪循環を断ち切る為の第一歩になるかもしれないとナラティブエシックスは考えるのである。


PS:しかし寺尾聡演じる博士のチャーミングな数学の概念の用い方には心が温まりました。知識も議論も大事!でも知識や議論の先には常に「人」がいることを忘れないようにしたいものです。
PS2:倫理コンサルテーションのシンポジウム(@東京)に出席する為、数日更新が止まると思います。ご了承ください。あと↓前回の「フィクションである患者の物語をどう考えるか」のパート2、申し訳ありませんが帰ってきて後になります。m(_ _)m
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