ヒロシのぶらっとぶらぶら(パート2)

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 気のむくままの不定期ブログです。

小田川と福山城

2018-11-17 22:24:14 | ひとりごと
以前、井原の友人から、
 <昔、小田川は、井原から福山に流れとったらしい>
  の、話しを聞いたことがあります。

 その時は、私も、聞いたことがあったので、
  <そうらしいなぁ~>
   とだけ、生返事をしたように思います。
  
 その後も、複数のそういうお話を聞きましたが、
  それ以上、掘り下げませんでした・・




さて、今回の西日本豪雨での、<真備町水没事件>において、
 下馬では、侃々諤々といろいろなお話が出てきます。


 そこで、出てきたのが、
  <小田川の流れ>

 その昔、福山のお殿様が、
  <小田川の水はいらん!>
   と、言ったので、<井原で流れを変えた(?)>
    と、いうお話。


小田川は、
 神石高原町を源流としとるそうな。

 岡山県に入り、南に流れ、
  井原で<神辺・福山><矢掛・真備>
   と、二股だったのを、堰き止めて<一本>にした?

 あるいは、
  矢掛に<バイパス>を造り、井原を堰き止め、
   新しい流れを造った?



この二説の疑問を、物知りの知人にぶつけると、
 <私も、ずっと知りたかったんじゃ~>
  と、未解決事件になっとるそうな。

 
で、調査しに出陣じゃ!

 倉敷図書館で下調べをし、矢掛まで・・
  場合によっては、井原、また福山まで・・



先日、福山の<草戸稲荷神社>までぶらぶらしました。

 <福山駅、福山城>の位置は、よく見えました。
  <干拓地>という事もよくわかりました。

 以前、福山城を訪れた時、海に面したお城だったことも知っていました。


<福山城>
 家康の命により新しく築城されました。
  関ケ原、大坂の陣のあとです。
  (関ケ原のあと、大阪城を包囲するための築城時代の後です。)

 水野さんが、来られたそうな。

  福山城は、芦田川の河口。
   その少し上流は、井原からの川・・・

   地形を見ると、確かに井原からの水の流れ・・
    (<井原~神辺・福山>。左右は山です)
      川だったのでしょう。

   その水は、お城に悪影響を与えそうです。


  ナルホド・・・
   それで、堰き止めたのか・・・


 が、<井原>を調査してみると・・・

  時代が時代ですので、工事をするとすれば、
   <お上にお伺い>をしなければなりません。
    また、許可を得なければなりません。

  几帳面な日本人です。
   また当時の文書は、どこでもたくさん残っています。

  が、その工事については、何ひとつ、見つかりません。
   また、発掘調査においても、<物証>がありません。
    工事跡がないのです。


 では、<矢掛>。

  矢掛町小田地区チカクには<浅海地区>があります。

  福山城は、1600年過ぎた頃、
   酒津周辺は、1600年の少し前に干拓工事が始まりました。

   当時の、総社、清音、酒津は高梁川の河口でした。

   となると、真備、矢掛は、<入り江>だった?
    だから<浅海地区>の名前なのか?

 
 干拓の時期が、近いです。

  もしかしたら、井原から矢掛に<バイパス>を造り、
   <小田川>の流れを変えたのか?


  残念ながら、こちらでも<物証>はナシ!




 と、いうことで、現在の定説は、

  以前は、井原において<二股>ではあったものの、
   <かんな流し>によって、堆積されたものが、
    <神辺方面>の川を封じて、東への水路一本になった。
     (人工的なものではない)

  と、いう事じゃそうな。



 矢掛の図書館のロビーに居た方に、
  <すいません。ちょっと教えてください・・>
   と、声をかけました。

  <私も、ついこの間そのことを調べたんじゃ!・・>

   結論は、同様でした。

   
  楽しいお話を聞かせていただきました!



 はっきりした結論は出ていませんが、

   <そうらしい>という、定説にはたどり着けました!
    (福山の水野のお殿様時代ではない・・・)


一時期、
 福山のお殿様のせいで、真備町が水没したんじゃ!
  と、思う時もありましたが、それは、<誤解>でした。
   スイマセンでした!


<小田川>は、
 岡山県南を、西から東へ流れる傾斜の少ない不思議な<川>です。

  東で<北から南へ流れる傾斜のある高梁川>に合流しますが、
   高梁川の水量が多い時には、合流できず、
    <真備地区>では、過去、<大水害>が多発しています。

  普段は、<水たまり>の延長のようなのどかな風景です。



<矢掛>

   吉宗時代に、江戸に向かう<象さん>が矢掛に宿泊したそうな。
    橋の無い高梁川を渡る時は、たいへんじゃったそうな・・・

   八代将軍<享保の改革の吉宗>の唯一のわがままが、
    <象>じゃったそうな。

    長崎からお江戸まで1300Kmを歩かせると、
     みんなが喜ぶ、と思ったそうな。

    もちろん天皇さんも見られたそうな。

    当然、日本中の話題になったそうな。
     (約一ヵ月の旅じゃったそうな。)

   象は、室町時代(足利時代)から、
     献上品として日本に来ていたそうな。



  そんな歴史を、知ることも出来ました!

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