以前、井原の友人から、
<昔、小田川は、井原から福山に流れとったらしい>
の、話しを聞いたことがあります。
その時は、私も、聞いたことがあったので、
<そうらしいなぁ~>
とだけ、生返事をしたように思います。
その後も、複数のそういうお話を聞きましたが、
それ以上、掘り下げませんでした・・
さて、今回の西日本豪雨での、<真備町水没事件>において、
下馬では、侃々諤々といろいろなお話が出てきます。
そこで、出てきたのが、
<小田川の流れ>
その昔、福山のお殿様が、
<小田川の水はいらん!>
と、言ったので、<井原で流れを変えた(?)>
と、いうお話。
小田川は、
神石高原町を源流としとるそうな。
岡山県に入り、南に流れ、
井原で<神辺・福山><矢掛・真備>
と、二股だったのを、堰き止めて<一本>にした?
あるいは、
矢掛に<バイパス>を造り、井原を堰き止め、
新しい流れを造った?
この二説の疑問を、物知りの知人にぶつけると、
<私も、ずっと知りたかったんじゃ~>
と、未解決事件になっとるそうな。
で、調査しに出陣じゃ!
倉敷図書館で下調べをし、矢掛まで・・
場合によっては、井原、また福山まで・・
先日、福山の<草戸稲荷神社>までぶらぶらしました。
<福山駅、福山城>の位置は、よく見えました。
<干拓地>という事もよくわかりました。
以前、福山城を訪れた時、海に面したお城だったことも知っていました。
<福山城>
家康の命により新しく築城されました。
関ケ原、大坂の陣のあとです。
(関ケ原のあと、大阪城を包囲するための築城時代の後です。)
水野さんが、来られたそうな。
福山城は、芦田川の河口。
その少し上流は、井原からの川・・・
地形を見ると、確かに井原からの水の流れ・・
(<井原~神辺・福山>。左右は山です)
川だったのでしょう。
その水は、お城に悪影響を与えそうです。
ナルホド・・・
それで、堰き止めたのか・・・
が、<井原>を調査してみると・・・
時代が時代ですので、工事をするとすれば、
<お上にお伺い>をしなければなりません。
また、許可を得なければなりません。
几帳面な日本人です。
また当時の文書は、どこでもたくさん残っています。
が、その工事については、何ひとつ、見つかりません。
また、発掘調査においても、<物証>がありません。
工事跡がないのです。
では、<矢掛>。
矢掛町小田地区チカクには<浅海地区>があります。
福山城は、1600年過ぎた頃、
酒津周辺は、1600年の少し前に干拓工事が始まりました。
当時の、総社、清音、酒津は高梁川の河口でした。
となると、真備、矢掛は、<入り江>だった?
だから<浅海地区>の名前なのか?
干拓の時期が、近いです。
もしかしたら、井原から矢掛に<バイパス>を造り、
<小田川>の流れを変えたのか?
残念ながら、こちらでも<物証>はナシ!
と、いうことで、現在の定説は、
以前は、井原において<二股>ではあったものの、
<かんな流し>によって、堆積されたものが、
<神辺方面>の川を封じて、東への水路一本になった。
(人工的なものではない)
と、いう事じゃそうな。
矢掛の図書館のロビーに居た方に、
<すいません。ちょっと教えてください・・>
と、声をかけました。
<私も、ついこの間そのことを調べたんじゃ!・・>
結論は、同様でした。
楽しいお話を聞かせていただきました!
はっきりした結論は出ていませんが、
<そうらしい>という、定説にはたどり着けました!
(福山の水野のお殿様時代ではない・・・)
一時期、
福山のお殿様のせいで、真備町が水没したんじゃ!
と、思う時もありましたが、それは、<誤解>でした。
スイマセンでした!
<小田川>は、
岡山県南を、西から東へ流れる傾斜の少ない不思議な<川>です。
東で<北から南へ流れる傾斜のある高梁川>に合流しますが、
高梁川の水量が多い時には、合流できず、
<真備地区>では、過去、<大水害>が多発しています。
普段は、<水たまり>の延長のようなのどかな風景です。
<矢掛>
吉宗時代に、江戸に向かう<象さん>が矢掛に宿泊したそうな。
橋の無い高梁川を渡る時は、たいへんじゃったそうな・・・
八代将軍<享保の改革の吉宗>の唯一のわがままが、
<象>じゃったそうな。
長崎からお江戸まで1300Kmを歩かせると、
みんなが喜ぶ、と思ったそうな。
もちろん天皇さんも見られたそうな。
当然、日本中の話題になったそうな。
(約一ヵ月の旅じゃったそうな。)
象は、室町時代(足利時代)から、
献上品として日本に来ていたそうな。
そんな歴史を、知ることも出来ました!
<昔、小田川は、井原から福山に流れとったらしい>
の、話しを聞いたことがあります。
その時は、私も、聞いたことがあったので、
<そうらしいなぁ~>
とだけ、生返事をしたように思います。
その後も、複数のそういうお話を聞きましたが、
それ以上、掘り下げませんでした・・
さて、今回の西日本豪雨での、<真備町水没事件>において、
下馬では、侃々諤々といろいろなお話が出てきます。
そこで、出てきたのが、
<小田川の流れ>
その昔、福山のお殿様が、
<小田川の水はいらん!>
と、言ったので、<井原で流れを変えた(?)>
と、いうお話。
小田川は、
神石高原町を源流としとるそうな。
岡山県に入り、南に流れ、
井原で<神辺・福山><矢掛・真備>
と、二股だったのを、堰き止めて<一本>にした?
あるいは、
矢掛に<バイパス>を造り、井原を堰き止め、
新しい流れを造った?
この二説の疑問を、物知りの知人にぶつけると、
<私も、ずっと知りたかったんじゃ~>
と、未解決事件になっとるそうな。
で、調査しに出陣じゃ!
倉敷図書館で下調べをし、矢掛まで・・
場合によっては、井原、また福山まで・・
先日、福山の<草戸稲荷神社>までぶらぶらしました。
<福山駅、福山城>の位置は、よく見えました。
<干拓地>という事もよくわかりました。
以前、福山城を訪れた時、海に面したお城だったことも知っていました。
<福山城>
家康の命により新しく築城されました。
関ケ原、大坂の陣のあとです。
(関ケ原のあと、大阪城を包囲するための築城時代の後です。)
水野さんが、来られたそうな。
福山城は、芦田川の河口。
その少し上流は、井原からの川・・・
地形を見ると、確かに井原からの水の流れ・・
(<井原~神辺・福山>。左右は山です)
川だったのでしょう。
その水は、お城に悪影響を与えそうです。
ナルホド・・・
それで、堰き止めたのか・・・
が、<井原>を調査してみると・・・
時代が時代ですので、工事をするとすれば、
<お上にお伺い>をしなければなりません。
また、許可を得なければなりません。
几帳面な日本人です。
また当時の文書は、どこでもたくさん残っています。
が、その工事については、何ひとつ、見つかりません。
また、発掘調査においても、<物証>がありません。
工事跡がないのです。
では、<矢掛>。
矢掛町小田地区チカクには<浅海地区>があります。
福山城は、1600年過ぎた頃、
酒津周辺は、1600年の少し前に干拓工事が始まりました。
当時の、総社、清音、酒津は高梁川の河口でした。
となると、真備、矢掛は、<入り江>だった?
だから<浅海地区>の名前なのか?
干拓の時期が、近いです。
もしかしたら、井原から矢掛に<バイパス>を造り、
<小田川>の流れを変えたのか?
残念ながら、こちらでも<物証>はナシ!
と、いうことで、現在の定説は、
以前は、井原において<二股>ではあったものの、
<かんな流し>によって、堆積されたものが、
<神辺方面>の川を封じて、東への水路一本になった。
(人工的なものではない)
と、いう事じゃそうな。
矢掛の図書館のロビーに居た方に、
<すいません。ちょっと教えてください・・>
と、声をかけました。
<私も、ついこの間そのことを調べたんじゃ!・・>
結論は、同様でした。
楽しいお話を聞かせていただきました!
はっきりした結論は出ていませんが、
<そうらしい>という、定説にはたどり着けました!
(福山の水野のお殿様時代ではない・・・)
一時期、
福山のお殿様のせいで、真備町が水没したんじゃ!
と、思う時もありましたが、それは、<誤解>でした。
スイマセンでした!
<小田川>は、
岡山県南を、西から東へ流れる傾斜の少ない不思議な<川>です。
東で<北から南へ流れる傾斜のある高梁川>に合流しますが、
高梁川の水量が多い時には、合流できず、
<真備地区>では、過去、<大水害>が多発しています。
普段は、<水たまり>の延長のようなのどかな風景です。
<矢掛>
吉宗時代に、江戸に向かう<象さん>が矢掛に宿泊したそうな。
橋の無い高梁川を渡る時は、たいへんじゃったそうな・・・
八代将軍<享保の改革の吉宗>の唯一のわがままが、
<象>じゃったそうな。
長崎からお江戸まで1300Kmを歩かせると、
みんなが喜ぶ、と思ったそうな。
もちろん天皇さんも見られたそうな。
当然、日本中の話題になったそうな。
(約一ヵ月の旅じゃったそうな。)
象は、室町時代(足利時代)から、
献上品として日本に来ていたそうな。
そんな歴史を、知ることも出来ました!
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