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深見伸介の読書日記

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2冊の独学本

2025-03-25 16:32:13 | 歴史・文章
いま、私の眼の前に、2冊の本が置かれている。

主に文芸批評などで活動している荒木優太氏の「これからのエリック・ホッファーのために」と、グーブログでも活躍中の礫川全次氏の「独学の冒険」の2冊である。どちらも面白い。お2人とも、在野研究者である。

荒木氏の本では、総勢16人の在野研究者が紹介されている。谷川健一・小室直樹・南方熊楠といったメジャーな人たちから、野村隈畔(哲学者)といった埋もれた独学者まで。軽快かつユーモア溢れる文章で読ませる。附録として「在野研究の心得」までついていて、参考になる。ただ、出来れば独学者に向けてのブックガイドもほしかった。

礫川氏の本は、どうか。冒頭のQ&Aが非常に親切である。そしてこの本、随所に独学者への名言がちりばめられている。一部、紹介する。

「独学者は、学問の世界においては、まさにズブの素人です。そのズブの素人が、学問の世界で「強み」を発揮しようとすれば、ほとんど唯一の武器は、大胆な発想、ユニークな発想だといっても過言ではないでしょう」。P64

「そうです、どんな人間にも、文学や学問を目指そうとするときがあるのです」。P151

そして驚かされたのは、第6章「独学者にすすめる百冊の本」だ。谷崎潤一郎「文章読本」や吉本隆明「共同幻想論」、三島由紀夫「文化防衛論」といったメジャーなものもあるが、山上八郎、福田定良、後藤興善、綿谷雪などなど、取り上げられている人物が、ユニークなのだ!とにかく紹介されている人たちの分野が幅広い。この百冊のリストから異様なパワーを感じ、圧倒された。礫川氏はグーブログで活躍中だから、お世辞で書いているのだろう、と疑う人もいるかもしれない。でもお世辞なんかではない。本当に怪しい光を放つ名著なのだ。















読書日記 3月21日

2025-03-22 18:12:09 | 歴史・文章
目が覚めたのは、夜中の2時。というのも、前の日に夕方5時に寝たからで。目が覚めてから、猛烈にチキンライスが食べたくなってた。ケチャップご飯は、好きだ。たまに食べたくなる。

「しかし本というものは、所有した以上は必ずすべて読まなければならないというものではありません。また一冊一冊はじめから最後まで読み通さなければならないものでもない。なぜかというと、本のなかのある断片をとりだして読み、それを別の本のなかのある断片をつなぎあわせながら読み継ぐというのも本質的な読書行為だからです」今福龍太「身体としての書物」34ページ

まさに僕の読書は、こんな感じである。断片を読み、また別の断片を拾って読む。今日だってリチャード・ドーキンスとメルロ・ポンティと吉本隆明と佐渡優を拾い読みしていた。最初のころは、邪道な読み方だと思ってたけど、すっかり慣れてしまうとなんともなくなる。

荒俣宏が、子供の頃、鮭の缶詰がご馳走だったと何処かで書いていた。お皿に鮭の肉を入れ、家族みんなで食べたそう。美味しかった、と書いていた。こちらのお腹もなってしまいそう。質素なおかずが一番、おいしい。





雑感

2025-03-19 10:15:59 | 歴史・文章
久しぶりに投稿する。つい最近まで、ツイッター(Xか)をやっていたのだが、一部の人文学系の学者、及び元・研究者たちの発言の意地悪さに驚いてしまい、結局辞めてしまった。例えば誰かが或る本の感想を述べたとする。すると、一部の人文系の人たちは、「その本の学説、すでに古いんだけど(笑)」とか、「その本の翻訳、間違いだらけ(笑)」などなど、紹介した人及び紹介された本をけなしまくりな訳である。読んでいて、なんだかゲンナリしてしまった。
要するに、学問しているというよりも単なる「情報屋」になっている、というか。新しい外国の学説をせっせと吸収してるだけ。そういう発言をする人たちは、自分の頭で物をかんがえる習慣がないのではないか。もちろん、真摯に学問に取り組んでおられる方も多数いるが。

フランス現代思想、及び西洋思想に詳しければ、偉い。そんな雰囲気が濃厚にある。恐らく、研究者どうしの人間関係なんかもそこに絡んでいるのかもしれない。

独学者(私)はそういう意味では自由である。その点を生かしていきたい。



勉強の方法

2025-03-10 13:58:51 | 歴史・文章
先日、「立花隆の本棚」という本を購入。立花隆の仕事部屋に置かれた、膨大な量の書物の写真と、立花へのインタビューで構成されている。蔵書のジャンルが幅広い。文学、思想、歴史、民俗、数学、物理、宇宙、サル学、美術、宗教、政治、エネルギー関連などなど。春画もあった。語学の入門書も。写真を眺めているだけでも、刺激的である。

インタビューによると、蔵書は約10万冊だという。最後まで読み通した本は、いったいどのくらいあるのだろう?おそらく、拾い読み・飛ばし読みした本も沢山あるはずだ。そんな断片的な読書も、もちろん読書のうちである。むしろ断片的読書の威力、という事を考えたりした。

ところで立花隆は、読書ノートは作っていたのだろうか?あれだけ膨大な量の蔵書だと、ノートを書きながら読書するのは難しいだろう。わたしの場合は、手書きで読書の抜書き帳を作る。時間がかかるので、多読は難しい。精読するのか、多読するのか。難しいモンダイである。

吉本隆明は生前、沢山の読書ノートを作っていたそうである。手書きでコツコツ書いていたに違いない。吉本の書斎の写真を見たことがあるが、立花隆よりもはるかに少ない蔵書だった。(それでも一般の人よりは多いだろうが)。「精読」の人だったのだろう。吉本の作品の内容はバラエティに富んでいる。「言語にとって美とはなにか」では、フロイト、マルクス、ソシュール、時枝誠記が絶妙にミックスされていた。「手書き」の力だったのだろうか、と思ったりする。




独学日記 2月20日

2025-02-20 02:55:04 | 歴史・文章
今日は、「世界の名著・第25巻」を手でノートに書き写す。スピノザの「エチカ」という作品である。内容が難しい。

それにしても、先日読んだ吉本隆明「共同幻想論」は不思議な作品だ。吉本は、柳田國男・フロイト・マルクス・ハイデガー・古事記などを組み合わせて、しかもオリジナルな作品としてしっかりと成立させている。文体も引き締まっており、説得力がある。これを真似するのは不可能だ。だが、学ばねば。

筆写はとにかく時間がかかる勉強法だ。なにしろ、紙にボールペンで手書きである。だから手が疲れる。もっと効率のよい勉強法はないものだろうか。模索中である。