平らな深み、緩やかな時間

332.『サロメ』平野啓一郎訳と、モロー『出現』について

友人から、作家の平野啓一郎さんの『サロメ』論が面白い、というメールをもらいました。調べてみると、平野さんはオスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854 - 1900)作の『サロメ』を翻訳していて、「訳者あとがき」に彼の考えを書いているのですね。もう10年以上前のことです。

https://www.kotensinyaku.jp/books/book146/

ところがちょうど今、『マティス展』が開催されていますが、「サロメ」をモチーフとした絵画で最も有名なものは、マティス( Henri Matisse, 1869 - 1954)さんの師であり、恩人でもあったギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826 - 1898)さんが描いた『出現』という作品でしょう。

https://mainichi.jp/articles/20200505/org/00m/070/001000d

(このリンクには、興味深い解説が書かれていますので、後で参照することにしましょう。)ということで、これも何かのご縁かな、と思って『サロメ』をめぐる文学、演劇、絵画について、最後にはモローさんとマティスさんとの師弟関係について考えてみましょう。

それでは、まず「サロメ」という女性はどういう人だったのでしょうか?ここで、平野さん翻訳の『サロメ』の紹介文をみてみましょう。

 

妖しい月光の下、継父へロデ王の御前で艶やかに舞ってみせた王女サロメが褒美に求めたものは、囚われの美しき預言者ヨカナーンの首だった----少女の無垢で残酷な激情と悲劇的結末を鮮烈に描いた傑作が、作家・平野啓一郎の新訳で甦る!

宮本亜門による舞台化原作。

(『サロメ』平野啓一郎訳 本の紹介文より)

 

だいたいお分かりでしょうか?物語の舞台となる時代は「新約聖書」の頃になります。「新約聖書」の「マタイ福音書第14章」などが、この物語の原典になるそうですが、ここで「ヘロデ王」として書かれているのは、ヘロデ大王の子のヘロデ=アンティパスのことだそうです。身分としてはローマ統治下におけるユダヤの王様ということになります。

そして聖書に書かれているのは次のような物語です。

 

「ヘロデ王」は、妻がいながら兄の妻「ヘロディア」を奪いました。預言者「ヨカナーン」(ヨハネ)はそれを非難したので、「ヘロデ王」は「ヨカナーン」を捕らえ、投獄しました。彼を殺そうと思ったのですが、民衆の怒りを恐れ、あるいは預言者を殺すことが怖くて実行できないでいたのです。その「ヘロデ王」の誕生祝いの席で「ヘロディア」の娘「サロメ」が美しい舞を舞ったので、「ヘロデ大王」は彼女の願うものは何でも与えよう、と約束しました。「サロメ」は母に言われるがままに、「ヨカナーンの首を盆に載せて、ここに持ってきてください」と言ったのです。「ヘロデ王」は困惑しますが、娘と誓った手前、部下に命じて獄中の「ヨカナーン」の首を切り、盆に載せて「サロメ」に与えました。

 

これが聖書に書かれた物語です。

これを原典として、その後の「サロメ」像ができてきて、ワイルドさんはさらにそこに自分なりの創作を加えた、ということになります。ところが、その聖書の物語にも、別の文献にはない創作がなされていたようです。ここで、先ほどのリンクに書かれていた解説を読んでみましょう。そこには、次のように書かれています。

 

ヘロデヤの連れ子の娘がヘロデの誕生日に舞いを舞ったところ、ヘロデは喜んで望みの褒美を取らせると言ったので、ヨハネを憎むヘロデヤは「盆に載せたヨハネの首」を望むよう娘に命じた。ヨハネは獄中で斬首され、盆に載ったその首は娘を経てヘロデヤに渡された。つまりヨハネ斬首の主役はヘロデヤであって、娘ではないのだ。聖書以前に、ヘロデヤの娘「サロメ」について語った文献もあるが、ここでのサロメは踊りもしなければヨハネの処刑に関係してもいない。ちなみに「サロメ」は、ヘブライ語で「平和」を意味するという。

(加藤浩子「名画が語る名作オペラ」毎日新聞 2020/5/6)

 

この加藤さんの解説を読むと、「サロメ」の物語の変遷は概ね次のようになります。

「ヘロデ王」は、預言者「ヨカナーン」を処刑しました。しかし、はじめの物語では、そこに「サロメ」は登場しません。

その後、新約聖書の物語で「サロメ」は「ヘロデ王」の前で舞を舞い、母親の「ヘロディア」の言うなりに預言者「ヨカナーン」の首を所望したことになっています。

それがその後の物語や絵画において、「サロメ」は自ら「ヨカナーン」の首を欲しがったことになり、その恐ろしい所業に応じて妖艶な美女へと変わっていきました。モローさんの絵画は、この流れのもとに描かれた作品ということになります。

「サロメ」の物語のその後の変遷について、加藤さんは続けてこう解説しています。

 

いつの間にか古代の名前「サロメ」で呼ばれるようになった少女は、初めは聖人を殉教させた悪女として非難されるが、次第に「首と美女」というグロテスクな取り合わせが芸術家たちの想像力を刺激するようになり、多くの画家が取り上げるようになった。とはいえ、その扱いはあくまで聖書のエピソード上の人物にとどまっていた。

 そんなサロメが「主役」に躍り出たのが、モローのサロメ画である。もっとも有名な「出現」(同じシーンを描いた同名の作品が複数ある)では、踊るサロメがヨハネの首の幻を見て驚愕(きょうがく)する様子が描かれている。流行のオリエント趣味を反映したきらびやかな耽美(たんび)性は、世紀末の入り口にふさわしかった。

 モローのサロメ画はユイスマンス、フローベールら多くの芸術家に影響を与え、名作を書かせた。その代表格がオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」である。サロメが「恋」のあまりヨハネの首を望むという衝撃的な内容は、ワイルドの想像力の賜物(たまもの)だ。ワイルドの戯曲のドイツ語版をみたリヒャルト・シュトラウスは「この戯曲は音楽を求めている」と直感し、3作目のオペラ「サロメ」を創って、オペラ作曲家として初の大成功を収めた。

(加藤浩子「名画が語る名作オペラ」毎日新聞 2020/5/6)

 

このように、ワイルドさんの戯曲は、新約聖書の後の流れに沿った筋書きになっています。さらに付け加えておくと、戯曲の一番最後にワイルドさんは「ヘロデ王」に「サロメ」を殺させてしまいます。それは、それまでの「サロメ」の物語にはない、ワイルドさん独自の創作ということになるそうです。そして、モローさんからワイルドさんへと流れていった物語は、ドイツの後期ロマン派の作曲家、リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864 - 1949)さんに有名な歌劇を書かせることになるのです。

この複雑な物語のダイジェストについてわかりやすく解説した動画があります。

https://youtu.be/qqKLghWGBdU

また、歌劇のだいたいの様子をご覧になりたい方は、次の動画をどうぞ。

https://youtu.be/DxT_lBCHcnM

クラシックのロマン派は私が最も苦手な分野ですので、私も歌劇『サロメ』を見たことも、聞いたこともありません。

 

さて、これでワイルド作『サロメ』の概要がわかったと思いますが、平野啓一郎さんは、なぜこの『サロメ』という戯曲を自ら翻訳したのでしょうか?

このことについては、平野さんご自身が「訳者あとがき」の中で次のように書いています。

 

今回、私に《サロメ》の新訳を依頼したのは、演出家の宮本亜門氏である。新しい舞台のために、どうしても旧訳では難しいという宮本氏の判断を、私は尤もだと感じた。 《サロメ》の原作には、元々、ただ一つの〝昔〟しかなかった。  

ワイルドがこの作品を書いた十九世紀末には、その〝昔〟とは、作品の舞台となっている古代オリエントである。ところが、更に時を経ると、ワイルドが生きていたその世紀末自体が、もう一つの〝昔〟になって、作品は二重の〝昔〟を帯びることとなった。

(『サロメ』「訳者あとがき」平野啓一郎)

 

それまでの『サロメ』の日本語訳は、時間の経過とともに古めかしくなってしまいました。さらに現代においては、物語の舞台となった古代の時代と、原作が描かれた19世紀末という時代と、二重の「昔」を感じるようになり、そのような意識で新たに翻訳が書かれるべきだというのが、平野さんが翻訳を引き受けた動機の一つだったようです。

また、原作が世に出た時にはイギリスのイラストレーター、ビアズリー(英語: Aubrey Vincent Beardsley, 1872 - 1898)さんの連作イラストの印象が強く、その後もワイルドさんの『サロメ』というとこのイラストのイメージがつきまとうようです。

https://www.artpedia.asia/aubrey-beardsley/

しかし平野さんによれば、ワイルドさんはこのビアズリーさんのイラストに違和感を持っていたそうで、モローさんの絵画からビアズリーさんのイラスト、シュトラウスさんの歌劇まで、『サロメ』をめぐるいろいろな雑念を取り除いたところで『サロメ』を翻訳してみたい、という気持ちになったそうです。

 

・・・実際、ビアズリーの──元々は挿絵として描かれたわけではなく、ワイルド自身も気に入っていなかった──連作が、あまりに傑作であるがために、それ抜きにしてはこの戯曲を語れないという人もいるだろう。  

しかし、私は今回、原作を読み返しながら、両者(ワイルドさんと、ビアズリーさん)はやはり随分と違うと感じた。ワイルド本人が感じていた違和感をこそ尊重すべきだと思った。モローとも違う。リヒャルト・シュトラウスとも違う。日夏耿之介とも違う。それらが嗅がせる馥郁たる、幻惑的な香りが心地いいのも事実だが、新訳では、そもそもワイルドが何を表現したかったかに集中することにした。

(『サロメ』「訳者あとがき」平野啓一郎)

 

それでは、平野さんは「そもそもワイルドが何を表現したかったか」と考えたのでしょうか?

平野さんに言わせれば、「サロメ」は「少女的で愛らしい」、「強いて言えば純真である」という女性です。その「純真」である女性が、自分が愛した預言者の首を欲するところに、誰にでも共通する人間の普遍的な性格が表れている、と平野さんは考えたようです。

平野さんは次のように説明しています。

 

サロメは、最後には恐ろしい残酷さを発揮する。それが不気味であるのは、彼女が無邪気であるからに外ならない。彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその口唇にキスがしたいからである。それは、ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかなわがままの延長上にある。サロメは、我々の誰しもと同じように「悦び」に「呪われている」。ただ、典型を逸脱するほどに過剰であるに過ぎない。

(『サロメ』「訳者あとがき」平野啓一郎)

 

いかがでしょうか?

この説明では食い足りない方は、次のリンクの宮本亜門さんと平野さんの対談をお読みください。平野さんの新しい「サロメ」像について、戯曲の依頼主と作家が語り合っています。短い対談ですが、読んでみると文学と演劇がこのように切磋琢磨して相乗効果を生むのだなあ、ということがよくわかります。私は実際に、宮本さんの演出した演劇を見ていないので、軽々しいことは言えませんが、この対談を読んだだけでも、これらの仕事が意義のあることだということがわかります。

https://www.nntt.jac.go.jp/play/salome/translation/index.html

 

さて、最後になりますが、モローさんについても少し触れておきましょう。

今回は、モローさんの描いたサロメが、妖艶な「サロメ」像の典型例のようになってしまいました。つまり、彼の作品がステレオタイプのような「サロメ」を形作ってしまったのです。しかしモローという画家は、本来、美術評論や美術史で分類される流派やタイプに収まらない画家です。彼は存在そのものがユニークな芸術家であり、また優れた教師でもあったのです。

例えば、先の『出現』という絵ですが、皆さんはこの絵を見て、新しい絵だと思いますか?それとも古い古典的な絵だと思いますか?

人物の立体的な描写方法を見ると、モローさんは古典的な画家に見えます。それに古代の物語に題材をとったモチーフも、伝統的な歴史画のジャンルに収まるアカデミックな画家として捉えられる原因になるでしょう。

しかし、サロメの衣装の色彩の輝き、浮遊する首の光の描写、背景の建物の装飾的な線描表現を見ると、これは現代絵画に通じるような、象徴主義、表現主義の絵画のようにも見えるのです。

ここで、モローさんの美術史的な位置付けが、にわかに気になります。

実はモローさんは、印象派のクロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんと比較すると、モローさんの方が14歳年上ですが、エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)さんと比べると6歳しか違いません。モローさんは印象派の第一世代の人たちと、ほぼ同時期の画家なのです。

その印象派の画家たちは、当時の色彩に関する科学的な理論を取り入れて、色彩表現の革新を行いました。さらにモチーフの選び方も、歴史や物語に題材をとることやめて、現実に見えるものを描くようになりました。当時の流行は近代の幕開けに相応しく、科学主義、写実主義だったのです。

この点において、モローさんは敏感な画家であったとは言えません。むしろ幻想的な物語や歴史的な場面を題材にしたことから、アカデミックな画家だと目され、一時期は保守的なサロンでの評判も良かったようです。

しかし、冒頭でも書いたように、彼の弟子の中にはマティスさんがいて、さらに新しい宗教画を描いたジョルジュ・ルオー(Georges Rouault, 1871 - 1958)さんもいました。彼らは印象派の科学的な色彩表現とは違った色彩を模索し、それがフォーヴィズムと呼ばれることになるのです。フォーヴィズムの色彩表現は、印象派の科学主義とは相容れないもので、実際にマティスさんは新印象派の点描表現を一時期試みていますが、それがジョルジュ・スーラ(Georges Seurat , 1859 - 1891)さんやポール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863 - 1935)さんたちの作品とは違ったものになってしまいました。開催中の『マティス展』では、その当該作品が展示されています。

 

《豪奢、静寂、逸楽》

1904年 油彩/カンヴァス 98.5×118.5cm

ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

ポール・シニャックの招きでひと夏をサントロペで過ごしたあとに、その影響下で新印象主義の原理を援用して光に満ちた理想郷ともいうべき風景を描いた作品。彼はこの直後に、筆触を荒々しく変化させ「フォーヴィスム(野獣派)」と呼ばれる様式に進むことになります。

(『マティス展』「1章 フォーヴィスムに向かって」より)

https://matisse2023.exhibit.jp/highlight/

 

どうやらマティスさんは、「新印象主義の原理」に基づく表現が、しっくりとこなかったようです。結局のところ、マティスさんは科学的な根拠による色彩表現よりも、自分の感覚が求める自由な色彩表現へと向かっていったのです。

 

ここで、私たちは美術表現の発展について考えておかなければならないようです。

私たちは通常、美術史の流れを時系列に並べて、その辻つまを合わせようとします。例えば古典主義からロマン派へと美術史は流れていき、その後、自然主義、写実主義、印象派、後期印象派と続き、それが表現主義や象徴主義、あるいはフォーヴィズムやキュビズムへ発展していく、と思い込むのです。

しかし、一枚の絵にはいろんな要素があって、どんなモチーフを描くのか、どのような形体描写をするのか、色彩表現はどうするのか、ということなどが、ある程度お互いに関連しつつも、それぞれ別々に発展していく、ということがあります。近代的な科学主義の立場に立てば、写実主義から印象派へという流れが最も正当な美術史の発展である、と断定することができますが、後期印象派あたりから、その立場は崩れていきます。

例えば後期印象派のポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin, 1848 - 1903)さんは、印象派の点描表現から平面的な色彩表現へと移行しました。それと同時に物語的な絵のモチーフに回帰した、とも言えます。彼の絵は、平面的な色彩表現が現代美術と繋がるという意味では印象派よりも新しい、と言えますが、古い物語的なモチーフに依存したということで言えば、先祖がえりしたとも言えるのです。

 

話をモローさんとマティスさんの師弟関係に戻すと、マティスさんはモローさんに師事することによって、印象派の科学的な色彩表現や、写実主義のようなモチーフの選び方にこだわらない自由な絵画表現を学びえた、と言えるのかもしれません。言ってみればマティスさんは、印象派、自然主義、写実主義を括弧に入れて、次の時代の表現へと飛躍できたのです。モローさんは、弟子たちに自由に描くことを勧めた、という話を聞きますが、マティスさんやルオーさんは理想的な先生に就いたと言えるのかもしれません。

そのモローさんは、晩年になって、サロンとも距離をおいて独自の制作を続けた、ということです。おそらく時代と歩調を合わせることに限界を感じたのでしょう。先ほども書いたように、『出現』を見てもそこには新しさと、古典的な佇まいとが同居しています。平野さんは「モローのサロメは、豪奢で耽美的な幻想に包まれている」と書きましたが、逆に言うと、そのような「サロメ」像を描くには、モローさんのような画家でなければできなかった、とも言えるのです。私はモローさんの絵画を見ると、近代という時代を超越した不思議な魅力を感じます。そのような魅力的な世界は、幻視の中にしかないのかもしれません。



さて、今回は平野啓一郎さんの『サロメ』の翻訳と独自の「サロメ論」から考察を始めて、一つのモチーフをめぐる芸術表現について、文学から演劇、歌劇、そして絵画とジャンルをまたいで考えてみました。私の手に余る仕事でしたが、それだけになかなか面白かったです。

これからも、一つの芸術表現について古いとか新しいとかいう価値観で決めつけず、さらに「純真」と「妖艶」という真逆の魅力が同一のモチーフに見出すことができるということを教訓として、その都度新鮮な眼差しでものごとを見ていくことにしましょう。

 

それにしても、『マティス展』の明るい表現を見てきた身では、暗く幻想的な『出現』を描いた画家がマティスの師匠であった、ということが不思議です。そうだとわかっていても、意外に感じてしまうのです。そこには、19世紀から20世紀の短い期間に時代が目まぐるしく変わった、ということがあらわれてもいるのでしょう。それまでの数世紀かけた表現上の変化に値するものを、私たちはあっという間に体験してしまったのです。そのような時代の流れの中に生きているという異様な経験について、私たち一人ひとりがどのように考えていくのか、その答えを求められているような気がします。

私自身は、とにかく時々足踏みするぐらい、ゆっくりと進んでいきたいです。

皆さんはいかがですか?

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