とりたてて何もない日々のらくがきノート

からだに関することや昭和の懐古、たまに俳句など

叔父が若かった頃の話

2024-11-13 21:04:54 | 日記

(↑香川の漫画から出て来たような山)

私の母親の兄弟は七男三女で、長女で上から6番目で
あるが、今日書くのは5日に載せたショートショートの
モデルになってもらった「治」で、一番末の弟の叔父の
ことである。

高齢者にありがちな腰や膝が少し悪いが、元気で今年
85歳になられた。上の男兄弟が次々先に都会へ出て
行ってしまったので、選択の余地なく母親の実家を
継がざるを得なかった人である。

昔、祖父は毎日晩酌をしたらしいが、祖母が一升瓶を
買っておくとどうしても飲み過ぎるということで
叔父が中学・高校生の頃、自転車で10分ぐらいの
距離ではあるが、毎日夕方になると酒屋へ酒を2合だけ
買いに行かされていたらしい。これは当人にとって随分
面倒な用事だったらしく、祖父が亡くなった後でも他に
言う人がいないのか、愚痴というか文句を聞かされたもの
だ。

それで、伯父の一人に商売に手を出しては失敗し、という
のを繰り返していた人がいて、祖父母も当然あおりを受け
て、その時高校生だった叔父は小遣い銭のために、すでに
結婚してまだ事務員をしていた母親の会社を訪ねてきた事
が、度々あったそうだ。
叔父は就職してもしばらくは、給料をほぼ全額祖母に渡し
ていたらしい。何もこのことは聞かされたことはないが、
兄弟の事とはいえ、いくばくか苦労はあったようである。

私がちょっと迷惑だったかなと思うのは、結婚前にデート
なんだから二人だけでどこにでも行けばいいものを、叔父は
なぜか何回か私を引っ張り出して、同行させたことで
お邪魔虫で気まずく感じるのは子供でも同じことである。
(柄にもなく二人だけだと間が持たないとか、恥ずかし
かったりしたのかしらん・・笑)

そして一番私の記憶に残っているのは、なんと言っても
叔父の最初のクルマ、スバル360である。当時としては
画期的な丸っこいフォルムで、軽自動車としてもいい
性能だったらしい。世間では、スバル360をてんとう虫と
呼び習わしたらしいが、叔父は「ケロヨン」と呼んでいた。
私は、この名前の方が雰囲気としてピッタリ来ている
ような気がしてしまう。
叔父が意気揚々と「ケロヨン」を駆って、妻の実家の
ある香川県へのドライブに出かけた時に、私も同乗させて
もらったのを今でもありありと思い出すのである。

ちょっとサツバツとした話が続いたと思ったので、今日は
趣を変えてみたけれど、だからどうしたんだ、みたいな
話になってしまったようだ(笑)





和紙で作られた風船爆弾

2024-11-10 19:49:46 | 日記

(石蕗の花 11月3日 城山公園)

風船爆弾とは、戦争末期に高等女学校の女学生達が和紙を
貼り合わせて作った兵器で、水素ガスで膨らませた
直径10mほどの気球に爆弾を吊して、偏西風に乗せて
飛ばし、約8000km先の米本土を攻撃する、というもの。

この話は本になっていて、実際にこの作業を経験した作家の
髙橋光子さんが中心になり、同級生48人の手記をまとめて
2007年に「風船爆弾を作った日々」(鳥影社)として出版
されている。

攻撃の実施は1944年から翌年にかけて千葉・茨城・福島から
約9300個が放たれ、その内361個が米国で目撃されて、山火事
や死者を出したそうである。

和紙の産地だった川之江町でも風船爆弾作りが命じられ、
町内の紙工場や学校内で、原料の楮(コウゾ)の皮はぎから
始まって、和紙の加工・こんにゃくのりでの貼り合わせ・風船
を膨らませる作業などが女学生達によって行われたらしい。

長時間の労働を強いられた作業場の環境は、気温や湿度など
劣悪なものだったそうで、指に血がにじんて手は荒れ、指紋も
消えてしまうほどだったとか。

私の母親は当時、13歳ぐらいで女学生達より年下だったが、
学年全員が楮の皮はぎの作業を、毎日毎日やらされて、授業
など皆無だったそうである。そして誰か一人さぼり気味の
生徒が見つけられると、全員一列に並ばされて頬にビンタを
くらったらしい。そんなだったから勉強は何にもしてないんよ、
そういう時代だったから、と母親が言うのを半ば呆気に取られ
て、若いとき聞いたものである。

2019年10月に埼玉県の中学校で、髙橋光子さんはこの話の
講演を行い、それを聞いた3年生の女子生徒は「学校で人を
傷つける兵器をつくっていたなんて・・・」と、学びの場が
兵器工場だったことに、とても衝撃を受けたそうである。

伯父の話

2024-11-07 22:26:46 | 日記


火曜日のブログに載せた、昔書いたショートショートの中で
「姉の話では」と出て来るが、この話の元は中支(中国の中部)
で戦死した母親の長兄の伯父がいた部隊の上官だった人が、
戦後すぐの頃、母親の実家を訪ねてきて伯父の最後の様子などを
祖父母に話したのを、母親が祖父母に又聞きしたものである。

もう何年か前に、中支から生還した兵士だった人の手記を
いくつかネットで見つけて読んでみたが、母親から聞いた話と
そっくりそのままの描写があるのを見つけて、ちょっと身震い
がした。

この上官が訪ねてくる前のことだと思うが、中支から
伯父の遺骨を入れてあるらしい骨壺が実家に帰って来た時、
祖母が泣き叫んで骨壺を開ける、と言うのを祖父は押し
とどめて、絶対に開けさせなかったらしい。

後で祖父がひとりの時に、そっと見てみたら中には紙切れが1枚
入っているだけだった、と祖父から聞いた母親がそう言っていた。

伯父は出征前は、酒造会社というか酒蔵で蔵人の仕事をして
いたらしい。母親の記憶では、蔵人のころ自転車の横にくっつけた
リヤカーに酒粕の入った樽をいっぱい積んで、実家に帰って来た姿が
とても印象的だったそうで、忘れられないと言っていた。

6年前に書いたショートショート

2024-11-05 20:34:56 | 日記

(去年11月下旬、お墓参りの際に撮影 キク科?)

日曜日に父親の戦争の頃の事を書いたら、6年前に
南海放送主催の坊っちゃん文学賞に応募して
優秀作はおろか、佳作にも引っかからなかったのを
思い出した。

この文学賞で割と有名なのは、女子高校生のボート部
での頑張りを描いた「がんばっていきまっしょい」
だろうか。これは映画にもなったし、今年は劇場
アニメーションにもなったようだ。

この文学賞は、令和になってから作品の形式が
ショートショートに変更になり、6年前は文字数が
400字でひとり3編まで、という決まりだった。

それでこの時のテーマは「家族」で、しかもショート
ショートだから「不思議」な話でないとダメだそうで
たった400字にまとめるのに随分骨が折れたが、なんとか
3編書いて、向こう見ずにも応募してしまったのである。

3編とも戦争の頃もしくは、それに関連した事を背景に
書いたが、読み返してみるとどうも無理矢理に短くして
しまっている感じがして、それに「不思議」さも消化不良
のような印象がした。これでは賞などダメなはずと思った。

今日は恥を晒すみたいになって、とても恥ずかしいが
1編だけ以下に載せてしまう。一読笑ってもらえれば
十分で、それで作品も成仏出来るのでは、と思う。

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桜の花弁

およそ半世紀前のこと。城山公園に四年前建立された
戦没者芳名の石碑へ向かう治は、坂道に降り敷く桜の
花弁を眺め、些細な事で律子と別れてしまって一年
経ったことをふと思った。

十日前、終戦を描いた映画を見た治は、十八歳上の写真
でしか知らない兄の一郎が頭に浮かんで、隣町の姉の
嫁ぎ先を訪ねた。姉の話では、兄のいた部隊は、華中での
胸まで浸かる渡河や昼夜の行軍・戦闘が続き、感染症で
亡くなる兵士が多数出て、兄もその一人ということだった。
その夜、全く眠れなかった治は、海まで歩き朝までじっと
座っていた。

治が石碑に歩み寄ると、一人の女性が屈んで手を合わせている。
そこは丁度、一郎の名前の前だったので立ち止まっていると、
さっと女性が治の方へ振り返った。その人は律子だった。
しばしの沈黙のあと、治が戦死したのは誰なのか聞くと、
律子は写真でしか知らない父だと答えた。一郎と律子の
父親の名前は、隣合わせに肩を並べていた。


(モデル 姉:母親 治:母方の叔父)

境内での思い出・「秋日」などの句

2024-11-03 21:54:46 | 日記


そう言えば小学生低学年の時に、普段は子供なんかを遊ばせ
なかった父親が、珍しく私と友達のW君を連れて八幡神社の
境内でボール遊びをしたことが確かにあった。

野球の真似事だったと思うが、W君が父親の投げたボールを
打って走り出したので、うれしくなって私もW君の後ろを
走り出したら、走るのはボールを打ってからだ、とかなんとか
言われて、えらく怒られた記憶がある。
ただの遊びではあるが、一応ルールを教えようとする気持ちが
強かったのかなと今にして思う。

父親は無口な方だったので、これは母親から聞いた話である。
戦前・戦中の時代は、まだまだ結核とか胸の病気が多かった
らしいが、父親は10代後半ぐらいから肋膜炎に罹ってしまい
結構大変だったみたいである。

年齢からして戦争末期ごろと思うが、徴兵検査では当然
不合格で、その時面接官?から、国家の大事な時にそんな
身体でどうするんだ、などとひどく叱られたそうで、時代と
はいえ何とも無慈悲で理不尽な話ではある。

父方の祖母は医者から、息子さんはもうそう長くは、と宣告
されてから、お寺(三角寺 四国八十八ヶ所65番札所)に、
昔の事だから徒歩でお百度参りしたそうである。祖母がそう
して祈願してくれなかったら、もしかして私は生まれて
来られなかったのかもしれない。


(↑川之江町 城山公園)

また下らない事をぐだぐだ書いてしまったが、今日は最近
作った句を少しだけ。


産土(うぶすな)の境内の森秋日濃し

岨道(そばみち)を無心にゆくや秋遍路

木椅子古(ふ)る海辺の橋や秋の暮