”佐藤多一”

豊橋市のイベントなど

箱舟

2009-05-08 18:08:06 | つれづれ草
ユーフラテス川の上流、トルコのアララト山の中腹に長方形の船形のような跡があり、その一部らしき木片を鑑定したところ、材質は糸杉で今から5千年~6千年前のものであり、船形の大きさも150m×40mで、旧約聖書に書かれたノア箱舟の大きさと一致するという。

ヘブライ人がまとめた旧約聖書は、最初に文明を生んだと考えられるシュメール人の影響を受けているといわれています。旧約聖書のノアの箱舟に関する記述には、シュメール人によって書かれたギルガメッシュ叙事詩と共通点があります。最近の発掘調査では、シュメール人の築いた都市国家では、実際に大きな洪水に見舞われていることがわかってきています。シュメール人は、イラン高原もしくはインド付近から、メソポタミア地方に移り住んできたのではないかと考えられています。移住の手段としては、船が考えられインダス川流域などから"箱舟"に乗って移ってきたものと思われます。紀元前6,500年頃にはいくつかの集落が形成され、互いに交流が図られていたものと思われます。紀元前3,500年頃には大村落が形成されるまでになり、やがて都市国家へと成長していったものと考えられています。種族はわかりませんが、地中海のマルタ島には、紀元前3,750年の頃、新たな人々が移り住んできて、ちょうど1,500年間定住し、その後、忽然と姿を消してしまったと言われています。マルタ島には彼らによって建造された巨大な神殿の遺跡が残されています。

シュメール人もメソポタミアに留まらず、さまざまな地方へ移り住んでいったものと思われます。同じ頃"箱舟"に乗って東へ移り住んでいったシュメール人が、日本にたどり着き、紀元前3,500年(今から5,500年前)のころ、石川県能都町の"真脇遺跡"や青森市の"三内丸山遺跡"さらには北海道南かやべ町の"大船遺跡"などを築いたのではと思います。三内丸山遺跡では、秋田県のアスファルトが使用された痕跡が残されていますが、メソポタミアでは紀元前3,000年の頃、彫刻の接着剤にアスファルトが使用されていたと言われていますし、エジプトでもミイラの防腐剤にアスファルトが使われていました。シュメール人は船(箱舟)を用いて広域に交流していたものと思われます。さらに紀元前2,500年の頃になると古代エジプト人によって「帆掛け舟」が発明され、より早く海上を行き来できるようになりました。

シュメール人は、日本で使われていた暦、(月の満ち欠けで年月を図る)太陰暦を考案しました。60進法や印鑑もシュメール人の考案であります。シュメール人の風貌は目がくりくりとして大きく、立派なあごひげを蓄えています。同じくひげを蓄え、顔の彫りが深く、目鼻立ちが大きいアイヌ民族とよく似ています。