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徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

徒然なるままに~

2020-02-13 15:45:36 | 随想

仏道を習うと言うは、自己をならうというなり。

自己を習うと言うは、自己をわするるなり・・・・・

自己の心身及び他己の心身をして脱落せしむるなり。

 

これは道元の著書の正法眼蔵の現成公案の一説である。

若かりし頃、座禅を覚えて、道元の正法眼蔵の弁道話や現成公案を貪り読んだ頃の記憶を頼りに書いてみたのだが・・・・・

もう記憶を引き出すのが億劫になっているので、間違っていることがあるかもしれない。

読み返して確かめればいいのであるが・・・・・とは言っても、あの難しい正法眼蔵を読み返す気力もない。

気が向いたら読んで、読み捨てていただきたい。

 

自己を習うなりと言うのは己を知れと言うことに他ならないが、哲学はすべてここを出発点とする。

かの有名なソクラテスの、汝自身を知れ、と言う座右の言葉を思い起こすであろう。

とはいってもこの言葉ソクラテスが座右の言葉としたのであって、吐いた言葉ではない。

この言葉、デルフォイの神殿に刻まれていたといわれる有名な格言ではあるが、誰の言葉かははっきりとはしないらしい。

ソクラテスは偉大な哲学者、世界のみんなが思っているほどソクラテスは偉大な哲学者であったとは思っていないのだが・・・。

あのソクラテスの弁明やそれに続くクリトーン、パイドーンを読むといい加減イライラしてくるほど,馬鹿々々しい言葉の羅列である。

弁明などはプラトンが裁判の弁明の様子を一字一句丁寧に記録したものだとは言うが、

それなら尚の事あのばかばかしい長広舌には聞いている方がウンザリしてくる。

仕舞には、このソクラテスという男、阿呆じゃないかとさえ思ってしまう。

 

閑話休題、殆どの人は、自己を習うと言う言葉にこだわって、己を知るために、自己を対象化して自己を吟味することを思いつくであろう。

自己分析、それが自己を知る、自己を習うと受け取りがちではあるが、道元は自己を習うと言うは自己をわするるなりと言う。

現代の人間にはとても考え及ばない、発想である。

自己をとことん考えていると、自分と言うものを随分と大切に扱っていることに気が付かない。

そんなに自己を大切に扱ってはダメだと言っているのである。

即ち自己など忘却の彼方へ捨て去れ、と言うことなのである・・・・自己を捨ててしまえと言うこと・・・・

自己を大切にすると言うことは我執、妄執や執着にこだわること、それを捨ててしまえと言っているのである。

捨てて、捨てきることによって、自意識がなくなり、広い宇宙と一体化すると言うのである。

と道元は云うのであるが、道元自身は宇宙などと言う言葉は一言も使っていない。

ただ注釈者が説明の弁のために、意味不明の宇宙などと言う言葉を持ち出してくる。

哲学的思考をするものは、何かと言うと宇宙と言う言葉を持ち出してくる。

これがどうにもわからない。

自意識がなくなると何故宇宙と一体化することになるのか、宇宙とはいったい何を意味しているのか、単なる言葉の遊びではないのか、と思ったりもする。

観念的な、頭の中の事を言葉で表現しようとすると、必然宇宙とか深淵な奥底などと言う意味不明な、具体的に説明のできない言葉を使わざるを得なくなるのだろう。

だが、宇宙など持ち出さなくとも確かに、自我や我執を捨て切り、自意識がなくなると、人間すっきりする。

 

捨てて捨てきると言うことに己を賭けた人に一遍上人がいる。

この人は南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで、念仏の境地が判ったと言ったと言って、そして次のような和歌を作ったのだが・・・・・

 

となうれば、仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして・・・・

 

だがこれでは不徹底だとして除けられてしまった。

何故だろう、声ばかりしてと言うのは、この声を聴く自己がいる。

自己がいる限り捨てきったことにはならないと言うのである。

 

この念仏を聴く自己を捨てきるには・・・・・・・

昔の、名のある人の努力は荒ましい・・・・

現代のものでは到底太刀打ちできない。

 

だがとうとう自己を捨てきってしまった。

 

となうれば、仏も我もなかりけり,南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・

 

おわかりだろうか・・・・・

あるのは名号ばかり、仏も自分も乗り越えた境地に達したと言うこと。

これは何も、仏教とはかかわりなく現代においても人間完成に必要な境地だと言えるのではなかろうか。

現代に生きるわれ等であっても、少なくとも自我や妄執を捨て去りたいものである。

自我や執着を捨てた自己はすっきりとすがすがしい。

とは言っても浅はかな人間の悲しさ、幾許もなく忽ちにして、妄執にとらわれてしまう。

宇宙の真理に合致することは自己の心身だけではなく、他人の心身も脱落せしめることだと道元は言う。

ここでも宇宙の真理などと言う言葉が出てくる。

だが道元自身は宇宙などと言う言葉は使っていない。

ただ、自己と他己の心身脱落と言っているだけである。

注釈者が道元の頭の中を押し合はかったつもりなのであろう。

では宇宙の真理とは一体何~~だと注釈者は思っているのか~~

何も道元自身が、宇宙などと言う言葉を使ったわけではなく、道元を注釈する人間が、表現する言葉が無くて、宇宙と言う文字に託した。

宇宙という言葉で道元の言わんとすることを表現できたと思っているのだろうか。

いつも読み進んでいるうちは意味不明の言葉に騙されて分かったような気持ちさせられるけれど、ひと段落したところではどうにもすっきりとした感覚にはならない。

哲学をするものは観念的には分かっているが、頭で考えたことを表現する適当な言葉が見当たらないのか、

己も理解不能のまま宇宙などという言葉を使うことによって解ったつもりになっているのか・・・・・

その様な時は直ぐに宇宙だとか、深遠なとかとか、根源的的な心理、更には天と地の間などと言う言葉を使いたがる。

書いているものも、何を言わんとしているのかは漠然とは解っても、はっきりと言葉では表現できない。

宇宙的な真理、などと言う言葉を使われると、真意は分からなくても何かわかったような気になる。

 

老子なども、儒教でいう道を否定するために、道と言う言葉を使っている。

道とすべきは常の道に非ず、名とすべきは、常の名にあらず、

名無きは天地の初め、名あるは万物の母

 

等と言って現象の奥底に潜む微妙な言葉では、はっきりとは説明不能な世界を表現している。

道とはもともと道路を意味し、点と点を結ぶ長さの世界。

孔子の言う儒教の世界ではその道を仁,義、礼、智などの道徳が人の依るべきものを人の道としている。

それを老子は否定するために、道は常の道に非ずと言って、説明しようとするが、観念的には判っていても、文字にする適当な言葉が見当たらない。

そこで、注釈するとなると、道とは単なる人間世界の約束事ではなく宇宙の自然をも併せ持つような唯一絶対な根源的な道などと、

普通のものには理解不能な言葉を使わざるを得なくなってくる。

 

では、宇宙の自然を併せ持つ唯一絶対的な道ってどんな道、具体的に説明すると・・・・と言っても説明できない。

哲学などと言うものは意味不明な言葉を使う言葉の遊び、観念的に、おぼろげに、解っているならそれでいい。

訳の解らぬ言葉を使って、人を煙に巻くことはないと思うのだが・・・・・

観念的にわかっていても言葉と言うものは、表現しようとするとなかなか難しい。

 

表現しえないと判ると、すぐに根源的とか宇宙とか深淵な奥底などと言う言葉を使いたがる。

思考することと言葉での表現のギャップがあまりに大きすぎる。

哲学的なものの考え方を書いた書を注釈しようとすると、こんな言葉で書くより説明のしようがない。

だから哲学などと言うものがごく普通にものを考える人々に敬遠されるのであろう。

頭の中で考えたことを、平易な言葉で伝えるには思考と言葉の表現とのギャップが余りにも大きすぎる。

思考したものの真意が奈辺にあるのか定かではないが、注釈する者にとってはこんな意味不明の言葉でしか、説明できないのであろう。

因みに、宇宙って何を広辞苑に聞いてみよう。

一般的には、世間または天地の間。万物を包容する空間。

時間、空間内に存在する事物の全体、またはそれら全体を包む広がり、もっと狭い限られて範囲の事物全体を指して言う。

これが哲学的意味の宇宙だと広辞苑は言う。

 

広辞苑が言葉でこのように説明してもそれがどんな世界なのか、IQ160ぐらいの人では推測でいないのではと思ったりもする。

宇宙などと言ったところで、誰もその真実は知らない。

宇宙飛行士にしたって、地球から、たかだか太平洋の端から日本海の端程度ぐらいの距離しか離れていない、

空間を地球を中心に、ただぐるぐる回っただけに過ぎない。

宇宙の真実など何にも分かるはずもない。

只々、地球を外から眺めて、きれいだった・・・・に過ぎなかろう。

宇宙衛星といったところでその高度、すなわち地球からせいぜい2~3万キロ遠くて5万キロ程度のものだろう。

それで広大無辺の宇宙を旅したなどはとてもとても不遜な考えである。

本当は何が言いたいのかと言えば、注釈者の己でさえも理解不能な言葉を平然と使う、不勉強さ

翻訳者の意味不明な日本語を平然と並べて満足しているその厚かましさ、哲学書は難しいのではないか、とっつきにくいのではないか、

というイメージは今ますます強くなっている様な気がする。

読んでもすらすらと理解できないような原作が難しのならそれも致し方ないであろう。

原本が哲学書ではあっても、平明であって、わかりやすい物であれば、日本語として成熟していない文章なら、

翻訳者が手間暇かけてわかりにくい翻訳にしているという事になる。

それが歴然とするのは、何人かで共訳している場合、ある項目を境に突如訳の解らぬ文章になることを、しばしば経験する。

翻訳や注釈本を読むときはよほど心してかかる必要があるようである。