公開文献 森正蔵 旋風二十年

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3 日本改造法案 宮内省怪文書事件

2005-07-24 09:42:31 | (上巻) 二、ファッショ団体を衝く
 時は昭和四年六月二十六日、所は東京地方裁判所。四年前に起った北海道御料林払下げ問題にからむ宮内省怪文書事件の公判廷。西田税は羽織姿、北一輝は黒の背広といういでたちである。

 古川裁判長『被告は牧野内府が収賄したとの文書をつきつけ辞職を勧告したというが、そういうことは事実あったのか』

 西田『全然事実と信じていました。現在も信じています』

 裁判長『一体その材料はどこから得たのか』

 西田『問題の神楽村御料地小作争議の方は、中心人物として働いていた杉木弥助の部下田中・水沼から聞き、証拠となる文書、手紙その他も見ました』

 裁判長『これを謄写して世論に訴えるとき北にも相談したか』

 西田『直接相談したことなどありません。あの問題について辰川龍之助君が賛成してくれたという意味のことを北氏に伝えました』

 裁判長『それでも予審では北に直々謄写物を見せて相談したとあるではないか』

 西田『いいえ、ちがいます』

 この宮内省怪文書事件によって日本ファッショ陣営に相反目する二大潮流ができたのである。猶存社にあった北と大川は互に偏狭・矯激のために次第に意思の疎通を欠きついに大正十二年春大川の脱退となり同時に解散したのであったが、その秋大川は安岡正篤・小尾晴敏の『社会教育研究所』に居を移し、牧野内府・宮内次官関屋貞三郎・荒木貞夫・秦真次・渡辺錠太郎らを講師として、日本主義の鼓吹につとめた。間もなくそれは『大学寮』と改名された。騎兵少尉西田税は肺を病んで十四年六月予備役となってこの大学寮に入り、西田を通じて陸士の士官候補生や青年将校が大学寮に出入し、また海軍側も藤井斎(海軍少佐、上海事変で戦死した)をはじめ古賀清志(五・一五関係者)らが出入したのである。当時は軍縮熱・軍部蔑視の空気が日本をおおい、こうした社会不安の解決を求めて陸海の青年将校がアンチ・デモクラシーを叫ぶここ大学寮に集まったのである。大学寮は宮内省より建物の取払いを要求され廃止されたが、大川は既に則天行地の理想に向って行地社を組織していた。機関紙『日本』は

『行地社の名は古人の所謂則天行地に由来し、まさしく天に則り地に行わんとする同志の団結である。天に則るとは明らかに理想を認識し、堅く之を把持する事である。地に行うとは此の理想を現実の世界に実現する事である。然るに天則ち理想は、此処に在り彼処に在りと探し求むべきものに非ず、実に潜んで我等の魂の裡にある。然して我等は紛るべくもなく日本の臣なるが故に、我が魂に求め得たる天は必然日本的理想でなければならぬ。魂の奥深く探り入れば入る程此の理想はいやが上にも日本的となる。斯くて我等の則る天は純乎として純なる日本的理想である。日本的理想を行うべき地は云う迄もなく日本国である。然るに現実の日本国家は断じて日本的理想の具体的実現ではない。それ故に我等は是の如き国家の改造革新に拮据する。従って行地運動は国家改造運動である。我等は日本の精神的・政治的・経済的生活を純乎として純なる日本的理想に則りて根本的に改革せむことを期する』

とその指導精神を述べ、大川を盟主とし

 満川亀太郎、綾川武治、西田税、中谷武世、狩野敏、笠木良明、島野三郎、千倉武夫、柳瀬薫、金内良輔、安岡正篤、松延繁次、清水行之助

らは全国の中堅的人物・小学校教員・学生らに働きかけ、殊に参謀本部を中心とした中堅将校を獲得することにつとめたのであった。大川は山形県庄内中学・熊本五高を経て明治四十四年東大哲学科を出たが、学生時代、参謀本部の委託をうけてドイツ語の翻訳をやっており、その頃から当時の青年将校たる

 小磯国昭、岡村寧次、板垣征四郎、土肥原賢二、多田駿、河本大作、佐々木到一、重藤千秋

らと親交ができていたのである。

 牧野内府に収賄の事実ありとの怪文書事件によって従来離れ離れになっていた北、大川の巨頭の間に超え難き溝を生じ、行地社も亦分裂したのであった。

 行地社に残ったものは大川・金内・千倉・柳瀬で、安岡は戦線より一歩退却しのち精神教化運動のため金雞学院を起し、西田・満川は北一輝に走り、綾川・中谷は上杉慎吉博士門下の天野辰夫(神兵隊事件)と結び、のちに高畠素之門下の津久井龍雄らと共に愛国勤労党を組織し、笠木・島野は行地運動より手を引き満鉄大連本社に転勤した。この北・大川両派の分裂により、北一派は尉官級青年将校を中心にし、大川一派が佐官級以上の中堅高級将校にむすびついたいわれを見ることができ、しかも両巨頭は相敵視、反目したがために軍部の中に大川系の中堅高級将校と北・西田派の尉官級将校の二派が同じく国家改造を目的としながら相対立するにいたったのである。この淵源を深く見なければならない。

 行地社を出た西田は北一輝と連絡をとりつつ代々木の自宅に士林荘なるものをつくり更に『天剣党』なるものを組織し『天剣党は軍人を根基として普く全国の戦闘的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社にして、日本改造法案大綱を経典とせる実行の剣なりとす』という戦闘指令綱領を同志に送った。昭和二年の同志録には藤井斎(海軍少尉、佐世保、軍艦由良乗組)・末松太平(青森、歩兵五連隊、見習士官陸士三十九期)・大岸頼好(仙台、陸軍教導学校教官、中尉三十五期)・渋川善助(陸士三十九期中退)・村中孝次(旭川、歩兵二十六連隊、少尉三十七期)・菅波三郎(鹿児島、歩兵四十五連隊、少尉三十七期)・野田又男(朝鮮、会寧七十五連隊、三十五期)の名が見られた。

 また、藤井斎は昭和三年春、海軍部内の青年士官の同志を集め

『日本海軍一切の弊風を打破し、将士を覚醒奮起せしめて世界最強の王師たらしむべし』

との綱領のもとに王師会を組織し、発会当時の同志は、藤井のほか

 鈴木四郎、花房武蔵、浜勇治、上出俊二、後藤直秀、河本元中、福村利治、林正蔵

らであったが、その後、五・一五事件を惹起した

 古賀清志、中村藤雄、三上卓、伊藤亀城、古賀忠一、村上功、村上格之、山岸宏

が参加している。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 二、ファッショ団体を衝く 3 日本改造法案 宮内省怪文書事件 52頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔2〕 3 ニッポン改造へのゆめ 宮内省怪文書事件 62頁
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