公開文献 森正蔵 旋風二十年

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6 建国工作の内幕 日本主義の前衛・自治指導部

2005-08-06 15:38:46 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
 吉林を攻略した翌九月二十三日、多門第二師団長は熙洽中将に会見、吉林省長就任を勧誘した。煕洽は日本陸士騎兵科の出身で吉林軍参謀長であり、張作相(吉林省主席)が錦州に逃亡したので省主席代理をやっていた。時勢の赴くところと観じ、早くも二十八日省政府を樹立し地方政府独立の魁をなした。一方特別区行政長官として不遇をかこっていた張景恵中将はこれまた二十九日学良政権より分離し完全なる独立自治制を布いた。彼は張作相とともに張作霖の義兄弟の間柄であるから緑林出身というわけだ。作霖の爆死後旧派武将がいずれも没落の悲運に会っているのに彼が現地位を保っていたのは作相と相扶け合って来たがためである。後輩の万福麟や湯玉麟がのさばっていたのに不快の念を抱いていた。張景恵の独立計画に対し特務処長王瑞華中将、護路軍司令の丁超少将や同参謀長超金麟少将の実力派が大いに支持した。つづいて洮南鎮守使の張海鵬中将も独立を宣言した。

 こうして満州独立運動は逐次地方に拡大されたが北平の学良は十月三日錦州の作相を呼び夜十時というに顧維釣・万福麟・王樹翰らと共に最高会議を開き対日対策につき翌払暁四時まで協議を続け

 一、満州各地の独立運動は日本軍が撤退しない限り継続され、誇大に宣伝されるであろうが、日本政府が積極的に援助するが如きことは絶対にあるまいから、日本軍の撤退と共に雲散霧消するであろう。

 二、奉天の袁金鎧らは金も軍隊も持たないから彼らには治安維持会を政府に発展せしめ政権・軍権を掌握するが如きことは絶対に出来ない。従って奉天の独立運動は大して心配でない。

 三、吉林の熙洽の新政府樹立の声明は便宜上の措置で、熙洽はその人柄から見るも従来の関係から見るも、張学良や張作相に叛き楯つくとは思われない。事態が旧に復し張作相が帰れば彼は政権を返還するに相違ない。

 四、これを要するに、満州の独立運動は実質上大したことはないが、日本軍の撤退が遅れれば遅れるほど根を張る恐れがある故、この際何を措いても日本軍を速かに撤退させる方法を講じなければならぬ。同時に袁金鎧・熙洽らとも連絡策を講じ内部から運動の成長を抑える必要がある。

 五、日本軍撤退交渉問題は顧維釣が主となり吉林・奉天との連絡には万福麟が当る。

ということに意見の一致を見たが、彼らは国際連盟の圧力で早晩日本政府が参ってくるという見透しを持っていたのであった。だが現地関東軍が日本政府の訓令を無視或は軽視するところまでは気がつかなかった。寧ろ関東軍が日本政府を引きずり、軍部ファッショ化の動因をつくろうとは思いも及ばなかったのであった。

 一方、東北四省における中心政権ともなるべき遼寧省政府の樹立問題は政府委員の人選難・財源問題のほか学良の便衣隊の暗躍、作相の錦州政府に対する立場からデッドロックに逢著していたが、今まで維持会委員として名を連ねただけで一度も顔を見せなかった于沖漢が病躯をひっさげ四日(十一月四日)遼陽から出馬したので雲行は一変し、省政府の樹立は鮮明となって来たのである。

 于沖漢が明晰な日本語を話すのは光緒二十三年(明治三十年)東京外国語学校で教授をする傍ら日本事情を研究したためであり日露戦争のときわが満州軍に従い特別任務に服し、民国九年(大正九年)十一月張作霖の特使として日本に来り、時の首相原敬をはじめ上原参謀総長・内田外相・田中陸相らと会見するなど奉天派唯一の老日本通であった。彼は早くから保境安民主義を唱道した。それは

『排日政策は満州を保全する策ではない。満州は日本と親善を結んでこそ自立が出来る。国防の如きは宜しく日本に委任し、経済の如きは提携共助して国利民福を招来することが必要である』

とするのである。奉天文治派の多くはこれに共鳴したのであるが、新人及び武断派は三民主義を奉じたのであった。

 ともかくこの于沖漢が自治指導部長に就任、建国を促進したのであるが、彼を引っ張り出したのは守田福松という市井の一開業医である。この医師は食道癌に冒されていたにも拘らず健国工作に挺身した日本人である。医者といえば社会現象に暗いもののように思えるが中々どうして医者にはくせものが多い。後藤新平は別としても満州では上述の金井章次がある。

 満鉄文書課長中西敏憲のところへ金井から、『スグホウテンニコイ』という電報が届いた。十月下旬のことである。中西は関東軍の要求ということはわかっていたが、何のために自分を呼出し、何をやれというのか一向に見当がつかなかった。或は新国家の憲法でも考えろというのかも知れぬと強いて想定した。奉天に着くと金井は

『何はともあれ板垣さんに会え』

という。そこで板垣高級参謀に会うと

『新しい政権がいつ出来るか今のところ一寸見当がつかん。ついては統一新政権の確立するまでの間、それぞれ各県において支障なく、各県が細胞的に生きて行くような方法を一つ考えて貰いたい。一日も早く秩序を回復し治安を維持し、中央政権の如何に拘らず各地方・各県がそれぞれ独立して生きて行けるようにしなければならぬ。その方法を考えて貰いたい。詳しいことは花谷君に会ってきいてくれ』

という。そこで奉天特務機関に花谷少佐を訪問、中野琥逸らの意見をきいて作りあげたのが自治指導部の方針及び要領であった。それは軍国汚吏を排し県行政の自治運営をなすというのが狙いであった。自治指導部は于部長の外は殆ど日本人で固められ、結城清太郎、和田到、小山貞知、橘樸、野田闌蔵、それに甘粕正彦まで関係し建国劇を演じたのである。

 あの満州国官吏の指導精神となった『自治指導部佈告』(十一月十日)即ち

 自治指導部の真精神は、天日の下に過去一切の苛政・誤解・迷想・紛糾等を掃蕩し竭くして極楽土の建立を志すに在り。茲に盗吏あるべからず。民心の離反又は反感・不信など固よりあらしむべからず云々

は大川周明系の日本主義者笠木良明が于冲漢の名をもって発したのである。

 自治指導部は事変前からあった満州青年連盟と大雄峯会が合流して出来たもので、青年連盟は青年満鉄社員たる小日山直登・平島敏夫・金井章次・保口隆矣・松島繿らを中心にして集った。青年社員といっても何れも四十前後の中堅どころであった。その主張は『満州におけるわが大和民族の発展を期す』というのである。大雄峯会は満州において少壮の人材を大いに徴発し一朝事あるときに備えるという考えの下に国家改造型少壮有志が集り中野琥逸・笠木良明を指導者とした。この二つが合流して自治指導部を組織し全満に活躍したのである。そして建国後解散したが青年連盟の流れは協和会の主流となり大雄峯会関係は賛政局に入りその後解散した。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 日本主義の前衛・自治指導部 89頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 続く中国軍閥の独立宣言 99頁
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6 建国工作の内幕 修辟の夢破れた恭親王

2005-08-05 15:37:02 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
『四十日前にこの奉天駅に着いたときはわしのこの心臓はおどったがな──』

 恭親王は傍らの憲奎(粛親王の遺子)に語るのであった。彼は満蒙独立国家の盟主を夢見たのであったが、寒風吹きすさぶ十一月十六日、紀平与右衛門に見送られて寂しく奉天を去るのであった。彼は清朝末期、光緒三十四年五月禁煙大臣となり八月北京崇文門監督となり、辛亥第一革命以後青島に隠棲、時の来るを待っていたが民国六年七月張勲の復辟(清国の復興)運動が失敗して以来、全くその実力を失い大連に隠棲していたのである。復辟の夢をいつまでも棄てぬ彼が満州独立運動を復辟の機再来せりと見たのは尤もなことである。九・一八事件の応急対策として闞朝璽中将を会長とする支那側の警備団体たる遼寧四民臨時維持会が設けられたが、十月上旬闞に代って恭親王溥偉が会長に推戴された。闞は治安維持会副委員長として活躍する一方、四民臨時維持会を牛耳っていたのである。同維持会は徴弱なりと雖も『武力』を持っていた。彼らは袁金鎧は独立政府の首班たらんと陰謀を企てていると宣伝した。これがために袁は治安維持会を解散したいと土肥原奉天市長に申し入れなどし、支那政局にありがちな激しい暗闘が演ぜられた。袁と闞とはぴったりいかなかったのだ。

 十一月二十六日、白雪の降りしきる道を恭親王は奉天郊外の北陵に展墓した。午前十一時半、馬車・自動車数十台を連ね、遼寧・吉林・黒竜江・熱河四省及び内外蒙古の各代表をはじめ各種の商工団体が親王に従い、数十本の旌旗をなびかせ、ラマ教・回々教・仏教・道教の各僧侶・同志が数百名、色模様の服装で太鼓や鉦、笛やチャルメラを吹き鳴らし打ち鳴らして賑かなデモ行進をし正午北陵に到着した。時局の不安にすっかり縮み上った市民達もこのお祭り騒ぎに『新代表』とか『四民父母』と書いた小旗を振って北陵に集った群衆二万余。午後二時便服の恭親王は群衆を押分けて霊陵の前に進み出で

『既に平民として、皇帝になるのでないから』とて中へ入らず恭しく三拝九拝し

 久しく僻陬の地にあり、展墓もなし能わず、祖廟荒廃に傾く、断腸に堪えず。この度善隣日本の正義により盤踞二十年の奸党ここに忽然として滅ぶ、ために天日光華を放つ。ここにおいて藩陽古都の市民は予を挙げて四民維持会長となす、臣溥偉感泣に堪えず。天の霊位、東四省全臣民の援助によって往時の大勢を致し永く諸民と福祉を共にすべく全力を傾倒せんことを誓う。

と四民維持会長就任奉告文を朗読し、それを火に投じて劇的な式を終ったのであった。同維持会は宣統帝から

『余は内外の事情に暗くまたその器に非ず、独立国建設のことは全て一任する』

との意を寄せられていると発表した。彼自ら帝王となり清朝を興さんと企てたのであった。

 だが、関東軍片倉参謀に『溥偉の復辟運動まかり許さず』の断定を下され、すごすごと旗を巻いて大連に去ったのはそれから十日後であった。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 修辟の夢破れた恭親王 87頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 復辟の夢やぶれた恭親王 97頁
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6 建国工作の内幕 本庄中将と袁金鎧の会見

2005-08-04 15:35:10 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
 張作霖が爆死し、若き学良が満州の天下を継いでより、新人・旧人・文治派・武断派等々、その派閥関係に著しい変動が起った。浮きつ沈みつが世の習いとはいえば得意の人、失意の人が相錯雑していたことは満州政界も変りなかった。楊宇霆なき後は張学良・張作相の天下であった。この枠が外部の力、関東軍の武力ではずれてしまったのだから、野心家或は親日家がぞろぞろと這い出し、関東軍が、誰が一番利用価値があるか、自薦他薦多数の中からこれを決定するのは伯楽にも似た仕事であった。抗日派は逸早く熱河・北平方面さして逃亡し、踏み止った要人は日本軍に悪感情を持たれていない連中であった。それだけにまた衆望を担っているとはいい得ない連中である。

 関東軍が最初に目をつけたのが、臧式毅である。彼は学良に暗殺された楊宇霆系に属し遼寧省主席で陸軍中将、中村大尉事件で日本の交渉相手となった人物であることは前述の通りである。彼が土肥原大佐から『省政府を組織し南京政府から独立してくれぬか』という交渉をうけたのは九月二十日。臧はこの勧誘を拒絶したので直ちに逮捕された。そこで次に目をつけられたのが袁金鎧と闞朝璽であった。この両人に独立政権を樹立させ、南京政府離脱・学良政権打倒の旗を飜えさせんとしたのである。袁は張作霖時代から専ら東北四省の政治方面に文官派の巨頭王永江と肩をならべて敏腕を振い、軍事における呉俊陞(作霖とともに爆死した)・張作相らと共に奉天派最高首脳部の一人として重きをなし、民国十一年奉天省長・東支鉄道督弁の要職につき奉天勢力の関内進出の時には外交方面にも活躍したが、張作霖爆死後は武力を持たざる政治家として、また学良をめぐる新派勢力の抬頭によって往年の如く重視されず最近は僅かに東北政務委員会委員としてむしろ敬遠されている人物である。また闞はかつて熱河都統の要職にあったが民国十四年郭松齢事件に連座して一時失脚した。これを機会に軍権から離れ、間もなく日本に来り政治・経済を研究し新知識を持ち帰り、後復帰したが東北軍総執法処長(軍法会議所長))の閑職につき学良の新人起用を快からず思っていた一人である。そこで遼寧省治安維持会なるものが二十四日袁を委員長、闞を副委員長、土肥原大佐を最高顧問として組織された。のち土肥原大佐に代って満鉄衛生研究所長であり満州青年連盟を率いていた金井章次が最高顧聞となった。この金井が、袁金鎧を引っぱり出したのだ。

 金井 『あなたは、張学良や張作霖のような政治をとらないで、王道文治制をとったらどうか』

 袁 『一体、そういうことを関東軍が許すのか』

 金井 『それは絶対に間違いない』

 袁 『それなら本庄閣下にお会いしたい』

 それから間もなくして本庄中将との会見が行われたが、本庄中将は

『閣下のような方が本当に人民のための政治を執られるならば関東軍は絶対にこれを支持します』

と激励しネジを巻いたのであった。

 当時は所謂支那ゴロ・利権屋が横行し反袁派の日本人から金井はピストルで狙われたことがあり、甘粕大尉(無政府主義者大杉栄を扼殺した憲兵)を金井と間違えて一喝された支那ゴロもあった。

 一方学良は北平におり作相が錦州に仮政府を樹てて対満反日工作の糸を操り、対日接近者にテロを加えんと脅していたので折角組織した治安維持会も積極的に活動しなかった。のみならずわが方にも実は内心学良政権の帰奉を望んでいたものもあり維持会が日和見的であったことは当然であった。しかしそれが実現不可能という見通しがついたので二十八日に至り、東北人民時局解決策討論会の名をもって次の宣言を発表させ、態度を明確にしたのである。日く

『わが東北民衆は軍閥暴政の下に困厄なること十数年、今回幸いにかくの如き万悪の勢力は已に一掃せられて遂に空に帰せり。これ誠に千載一遇の好機なり。現在吾人は正義を擁護し地方人の福利を増進するの見地より理想政治を実現せんと欲し独立政権の樹立を図らんとす。依って本日本会は張学良の関係する錦州政府を死を誓って否認するのみならず軍閥の禍首蒋介石の声明・蠢動に対してもまた絶対反対す。わが東北民衆は友邦官民(日本)がかくの如き真正なる民意の決議に対して必ずこれを尊重し且つ真摯適当なる援助を与うるものと確信し茲に宣言す』と。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 本庄中将と袁金鎧の会見 85頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 本庄中将と袁金鎧の会見 95頁
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6 建国工作の内幕 参謀石原莞爾の独立構想

2005-08-03 20:22:54 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
 石原莞爾中佐は関東軍の作戦主任であった。石原こそは当時の関東軍の推進力であった。高級参謀板垣(征四郎大将)大佐・石原中佐・片倉大尉(衷大佐)、この三人を枢軸として満州事変は転回して行ったのだ。軍司令官の本庄繁中将、参謀長の三宅光治少将はロボットに過ぎなかった。石原中将はいま郷里の山形県鶴岡で石原宗の本尊としておさまり、時に東亜連盟の旗印をかかげて演壇に上っているが彼は終戦後彼を訪ねた重慶記者宋徳和(中央通訊社)の『日本は何故満州を独立させる必要があったか』との質問に対しその真相を次のように答えた。

『私が満州の独立を主張したのは二つの理由からであった。その一つは軍事的見地よりして東亜防衛の根拠地としての満州より出発している。日本はソ連の南下に対し極めて重大な関心を有っていたが、当時の満州実力者の防衛力は極めて手薄であった。他の一つは主として政治的原因によるもので、この点支那人は憤慨するかも知れないが、当時支那と日本とは連続的に紛争が絶えず、支那本部では屡々日本との政治的・経済的親善が反対された。ところが満州はその歴史的関係においても日本と非常に密接である。従って満州を支那本部と切離すことは日支間の紛争を少くし、更に日支提携を促進すると共に同地にソ連に対する防衛力としての基礎を固めることが出来ると考えたからだ。この私の見解は在満支那人の同意の上で実行に着手されたわけである』

 かように石原によれば満州独立工作はアジヤから赤いソ連勢力を駆逐するという対ソ戦略思想から強行されたのであった。

 彼は人も知るごとくナポレオン戦術の権威であり、彼自身又ナポレオンに一脈通ずる天才的戦術学者である。彼の全精神は対ソ戦に集約されていた。そして彼は世界最終戦論を説くのだがそれは要するに、欧州においては英仏独の老衰各国が勢力争いの為に精力を消耗させているから欧州はまず共倒れで問題はない。アジヤに於ては日ソの争いは必然的だ。日本の勝利に帰すれば、いや絶対に日本の勝利に帰せねばならぬが、その次に来るものは天皇と米国大統領との世界争覇戦となる。かくて大統領を打ち破り王道を全世界に宣布するのだ。これが石原戦争の図式であった。従って彼が参謀本部第一部長という陸軍作戦面の最重要ポストにあった時、日華事変に対し絶対反対を主張したのは、支那よりもソ連を先に叩かねばならぬという考えから来たのであった。それはともかくとして、更に事変誘発の動機について彼自身の言葉をきけば

『日支兵の衝突は満州では二、三年に一回位ずつ起きていた。日本はその都度我慢していたが、正直のことを申すと我々満州にいた者としては形勢の切迫と共に「今度無礼なことをしたならば承知出来ない」という気持が日一日と盛んになっていた。私は、一部の人々から非常に乱暴な人間のように誤解されていたので、中村大尉の事件が起ってからは、私が汽車で旅行などすると「あんな無礼なことをするのに何で黙っているのか」と非常に攻撃をうけ、宿屋に着くと「今度戦争があるそうですね」という有様だった。兵隊は浮世離れした商買をやっているから元来理想主義者である。満州を取るというのも、決して利己主義ではない。あの暴虐な軍閥を追い除けて簡明公正な政治の下に満州人に自治を施行させたならば三千万民衆が幸福になる。否、彼らをして幸福ならしめるのもこれ以外に途がない。同時に我々日本人も初めて満州に安住出来る。そういう考えが満州を平げるという気持になって居ったのである。そして我々兵隊どもは素晴らしい民族協和運動に刺激されて、殊に独立運動の元勲であった于冲漢の決心に刺激されて満州は独立国にすべきものであるという気持になったのである』と。

 彼はまた熱心な日連の崇拝者である。従って非常な理想主義者である。彼の理想に燃える魂は炬火となって冲天するばかりであるが満州独立に際して見せた熱情はまさに理想境実現にあった。彼は満州に住む日鮮満漢蒙露、凡ゆる民族が全く平等で美しく協和した『王道楽土』をうち建てようとした。日本が飽くまで手離そうとしないところの、否、これを根城にして侵略の手を伸ばそうとしたところの満鉄をはじめ旅順・大連を即時満州国に返還し、同時に支那にある凡ゆる政治的権益は無条件で支那に返還し、かくすることに依ってこそ日満共同してソ連に対抗出来るものと信じたのであった。しかし現実は凡そ反対のものが出来上ったのだ。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 参謀石原莞爾の独立構想 83頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 参謀石原莞爾の独立構想 93頁
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6 建国工作の内幕  ──

2005-08-02 21:04:02 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
 日本人ほど言行一致を強調する国民はいない。それにも拘らず、個人生活においてもまた対外政策においても、日本人ほど言行不一致を見せるものはない。悲しい時に笑い、空腹のときにひもじうないと言うのが日本人であり、日本の道徳だ。そして、実際にやることを見れば決してそうではない。心に感じた通りにやっている。満州建国にしても、あれは満州民衆の自発的意思、三千万民衆の民意によって出現したもので、日本人はそこに何ら介在しているものではないと世界に主張する。これが真ッ赤な嘘であることは誰の眼にも一目瞭然である。日本人がプランを樹て、利用価値のある支那人を踊らせたのだから、その通り、ありのままにいえばよいのだ。つまり日本人は『こうありたい』という希望と『こうである』という現実とを混同する。白は白、黒は黒といわねばならぬ。好きな恋人をいやだという必要は毫もない。リットンは

『一九三一年九月十八日以来、日本官憲の軍事上及び民政上の活動は本質的に政治的考慮に依ってなされた。日本の文官及び将校の一団は九・一八事件後における満州の事態の解決策として独立運動を計画し、組織し且つ遂行した。彼らはこの目的のために支那人の名前、及びその行動を利用して前政権(学良)に対し不平を抱く住民中の少数のものを利用した。だから現在の政権は純粋且つ自発的な独立運動によって出現したものではない』

といい、世界はそれに賛同したのである。臭いものには蓋をしようとするから却ってバケの皮が剥げるのだ。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 83頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 92頁
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5 小心翼々の林越境将軍

2005-08-01 21:02:23 | (上巻) 三、「宝刀」を抜いた関東軍
 林大将(銑十郎)といえば良い意味では『越境将軍』といわれ、悪い意味では『喰い逃げ大将』といわれる。喰い逃げ大将というのは、林内閣が昭和十二年二月二日宇垣内閣の流産のあとをうけて成立し直ちに第七十議会に臨んだのであるが、政民両党をなだめすかしながら予算案を通過せしめるや否や、三月三十一日にさッと議会を解散してしまった。まんまと騙されたのが政民両党だ。これを人呼んで喰い逃げ内閣といい、彼のことを喰い逃げ大将といったのである。軍人らしくない誠にもってずるい手を使ったものだ。いやこれが彼の本性だったのだ。

 越境将軍というのは満州事変勃発直後のこと、関東軍から『援兵を乞う』の急電が入った。参謀本部からすでに数日前待機命令が来ていたが、未だ満州に出動せよとの命令はない。しかし事態は一刻の躊躇も許さぬ。

『ム、出そう、出動命令』

 副官は驚いて

『中央の命令を待たずに軍事行動を起すのは不穏だと思いますが』

といえば

『断の一字あるのみじゃ』

 この一言で嘉村少将率いるところの第二十師団(竜山)所属第三十九混成旅団(平壌)は鴨緑江を越えて関東軍の急を援けた。そして自分は白装束に身を固め、中央から無断で軍を動かした責を問われたなら割腹してお詫びをする覚悟を決めていた、と芝居にでもなりそうなことが喧伝され越境将軍とか独断専行将軍とかとても普通人には真似の出来そうにない芸当をやってのけたようにもてはやされたものであるが、彼ぐらい小心な、そして用心深い、且つまた周囲を見まわす大将はいない。

 同混成旅団は演習と称してすでに十六日に満鮮国境新義州に集結していたのだ。参謀本部は林軍司令に対し十九日午前八時独立守備隊応援のため直ちに一ヶ旅団出動せしむるよう訓電を発したが、当日の緊急閣議は『不拡大』に決定したので午後一時旅団派遣を一時見合わすよう再訓電した。ただ飛行第六連隊(平壌)が朝六時二十四分出動したのみで、出動部隊は待機した。

 二十一日の緊急閣議は南陸相から

『今回の事件は「事変」と見做すべきである。その前例としては山東出兵等がある』

と提議して、戦争でなく事変と見做すことに決定。更に陸相より

『間島方面の形勢激化によって邦人は多大の不安に曝されるに至った。これがため省部協議の結果、支那吉林軍の兵力集結の目的如何を問わず居留民保護の大義に立脚して朝鮮軍の一部を同地方に出動せしむる方針を決定した。何卒御諒承を乞う』

と越境軍事行動に関する閣議の承認を求めた。内地又は朝鮮から出兵するについては閣議を経て上奏御裁可を経なければならぬのである。これに対し幣原外相は起って

『満州におけるわが帝国の駐兵権はすでに確乎たるものである。この際帝国政府の執るべき方針としては出来るだけ事態を拡大せしめざるよう努力するにある。しかるにいま陸軍大臣のいわるる如く国境を越えて増兵を断行するについては余程慎重に考慮する必要があると思う。幾多の満蒙懸案の解決を策する上において越境増兵が復雑なる国際関係の点から支障を来すが如きことがあってはならぬ』

と反対の意を表明、井上蔵相も同様意見を開陳した。南陸相はこれに反駁を加え

『今回の軍事行動は何れも自衛権の発動に基くものであって、たとえ今回要求する増兵が外地出兵に該当するものであっても、それは断じて不戦条約に牴触するものではない。軍部独断の行動であるも当然の責務を遂行したまでである。また今回の事件は幾多の満蒙懸案解決を策する上に極めて重大なる意義を有つものであるから解決するまで駐兵すべきである』

と主張、外相の適時撤兵論に反対し、閣議は議論沸騰したので若槻首相から

『本問題は極めて重大であるから明日の閣議において熟議することとしたい』

と方針決定を留保した。

 さて、翌二十二日の閣議は午前十時から町田農相を除く各大臣出席して開かれたが、南陸相より

『間島地方に於ては今の所国境を越えて出動していないが昨日の閣議後、朝鮮軍司令官は事情急迫せりとして朝鮮師団の一部を吉林方面に出動せしめたとの報告電報を寄越した』

とて閣議の諒解を求めた。これに対し各閣僚は

『既に軍事行動として出動になった上はやむを得ない』

と事後承諾したのであった。

 混成第三十九旅団が林軍司令官より出動命令を受けたのは二十一日午前零時、漸く『断』の一字を実行したのである。しかも林をして軍命令を発せしめたのは神田参謀であったのだ。宇垣総督は『林は何をぐずぐずしているのだろう』とその優柔不断を歯がゆがっていたくらいだ。髭の越境将軍が嘉村旅団をして江を越えさすまでには四十九時間以上もかかり、その間に参謀本部の密電は幾回となく飛んだわけだ。



▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 5 小心翼々の林越境将軍 80頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 5 参謀本部からの密電 90頁
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