吉林を攻略した翌九月二十三日、多門第二師団長は熙洽中将に会見、吉林省長就任を勧誘した。煕洽は日本陸士騎兵科の出身で吉林軍参謀長であり、張作相(吉林省主席)が錦州に逃亡したので省主席代理をやっていた。時勢の赴くところと観じ、早くも二十八日省政府を樹立し地方政府独立の魁をなした。一方特別区行政長官として不遇をかこっていた張景恵中将はこれまた二十九日学良政権より分離し完全なる独立自治制を布いた。彼は張作相とともに張作霖の義兄弟の間柄であるから緑林出身というわけだ。作霖の爆死後旧派武将がいずれも没落の悲運に会っているのに彼が現地位を保っていたのは作相と相扶け合って来たがためである。後輩の万福麟や湯玉麟がのさばっていたのに不快の念を抱いていた。張景恵の独立計画に対し特務処長王瑞華中将、護路軍司令の丁超少将や同参謀長超金麟少将の実力派が大いに支持した。つづいて洮南鎮守使の張海鵬中将も独立を宣言した。
こうして満州独立運動は逐次地方に拡大されたが北平の学良は十月三日錦州の作相を呼び夜十時というに顧維釣・万福麟・王樹翰らと共に最高会議を開き対日対策につき翌払暁四時まで協議を続け
一、満州各地の独立運動は日本軍が撤退しない限り継続され、誇大に宣伝されるであろうが、日本政府が積極的に援助するが如きことは絶対にあるまいから、日本軍の撤退と共に雲散霧消するであろう。
二、奉天の袁金鎧らは金も軍隊も持たないから彼らには治安維持会を政府に発展せしめ政権・軍権を掌握するが如きことは絶対に出来ない。従って奉天の独立運動は大して心配でない。
三、吉林の熙洽の新政府樹立の声明は便宜上の措置で、熙洽はその人柄から見るも従来の関係から見るも、張学良や張作相に叛き楯つくとは思われない。事態が旧に復し張作相が帰れば彼は政権を返還するに相違ない。
四、これを要するに、満州の独立運動は実質上大したことはないが、日本軍の撤退が遅れれば遅れるほど根を張る恐れがある故、この際何を措いても日本軍を速かに撤退させる方法を講じなければならぬ。同時に袁金鎧・熙洽らとも連絡策を講じ内部から運動の成長を抑える必要がある。
五、日本軍撤退交渉問題は顧維釣が主となり吉林・奉天との連絡には万福麟が当る。
ということに意見の一致を見たが、彼らは国際連盟の圧力で早晩日本政府が参ってくるという見透しを持っていたのであった。だが現地関東軍が日本政府の訓令を無視或は軽視するところまでは気がつかなかった。寧ろ関東軍が日本政府を引きずり、軍部ファッショ化の動因をつくろうとは思いも及ばなかったのであった。
一方、東北四省における中心政権ともなるべき遼寧省政府の樹立問題は政府委員の人選難・財源問題のほか学良の便衣隊の暗躍、作相の錦州政府に対する立場からデッドロックに逢著していたが、今まで維持会委員として名を連ねただけで一度も顔を見せなかった于沖漢が病躯をひっさげ四日(十一月四日)遼陽から出馬したので雲行は一変し、省政府の樹立は鮮明となって来たのである。
于沖漢が明晰な日本語を話すのは光緒二十三年(明治三十年)東京外国語学校で教授をする傍ら日本事情を研究したためであり日露戦争のときわが満州軍に従い特別任務に服し、民国九年(大正九年)十一月張作霖の特使として日本に来り、時の首相原敬をはじめ上原参謀総長・内田外相・田中陸相らと会見するなど奉天派唯一の老日本通であった。彼は早くから保境安民主義を唱道した。それは
『排日政策は満州を保全する策ではない。満州は日本と親善を結んでこそ自立が出来る。国防の如きは宜しく日本に委任し、経済の如きは提携共助して国利民福を招来することが必要である』
とするのである。奉天文治派の多くはこれに共鳴したのであるが、新人及び武断派は三民主義を奉じたのであった。
ともかくこの于沖漢が自治指導部長に就任、建国を促進したのであるが、彼を引っ張り出したのは守田福松という市井の一開業医である。この医師は食道癌に冒されていたにも拘らず健国工作に挺身した日本人である。医者といえば社会現象に暗いもののように思えるが中々どうして医者にはくせものが多い。後藤新平は別としても満州では上述の金井章次がある。
満鉄文書課長中西敏憲のところへ金井から、『スグホウテンニコイ』という電報が届いた。十月下旬のことである。中西は関東軍の要求ということはわかっていたが、何のために自分を呼出し、何をやれというのか一向に見当がつかなかった。或は新国家の憲法でも考えろというのかも知れぬと強いて想定した。奉天に着くと金井は
『何はともあれ板垣さんに会え』
という。そこで板垣高級参謀に会うと
『新しい政権がいつ出来るか今のところ一寸見当がつかん。ついては統一新政権の確立するまでの間、それぞれ各県において支障なく、各県が細胞的に生きて行くような方法を一つ考えて貰いたい。一日も早く秩序を回復し治安を維持し、中央政権の如何に拘らず各地方・各県がそれぞれ独立して生きて行けるようにしなければならぬ。その方法を考えて貰いたい。詳しいことは花谷君に会ってきいてくれ』
という。そこで奉天特務機関に花谷少佐を訪問、中野琥逸らの意見をきいて作りあげたのが自治指導部の方針及び要領であった。それは軍国汚吏を排し県行政の自治運営をなすというのが狙いであった。自治指導部は于部長の外は殆ど日本人で固められ、結城清太郎、和田到、小山貞知、橘樸、野田闌蔵、それに甘粕正彦まで関係し建国劇を演じたのである。
あの満州国官吏の指導精神となった『自治指導部佈告』(十一月十日)即ち
自治指導部の真精神は、天日の下に過去一切の苛政・誤解・迷想・紛糾等を掃蕩し竭くして極楽土の建立を志すに在り。茲に盗吏あるべからず。民心の離反又は反感・不信など固よりあらしむべからず云々
は大川周明系の日本主義者笠木良明が于冲漢の名をもって発したのである。
自治指導部は事変前からあった満州青年連盟と大雄峯会が合流して出来たもので、青年連盟は青年満鉄社員たる小日山直登・平島敏夫・金井章次・保口隆矣・松島繿らを中心にして集った。青年社員といっても何れも四十前後の中堅どころであった。その主張は『満州におけるわが大和民族の発展を期す』というのである。大雄峯会は満州において少壮の人材を大いに徴発し一朝事あるときに備えるという考えの下に国家改造型少壮有志が集り中野琥逸・笠木良明を指導者とした。この二つが合流して自治指導部を組織し全満に活躍したのである。そして建国後解散したが青年連盟の流れは協和会の主流となり大雄峯会関係は賛政局に入りその後解散した。
▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 日本主義の前衛・自治指導部 89頁
http://www.admin-man.net/modules/quote/index.php?ID=T8006401230100650000000000008900
▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 続く中国軍閥の独立宣言 99頁
http://www.admin-man.net/modules/quote/index.php?ID=T8006401230300750000000000009900
こうして満州独立運動は逐次地方に拡大されたが北平の学良は十月三日錦州の作相を呼び夜十時というに顧維釣・万福麟・王樹翰らと共に最高会議を開き対日対策につき翌払暁四時まで協議を続け
一、満州各地の独立運動は日本軍が撤退しない限り継続され、誇大に宣伝されるであろうが、日本政府が積極的に援助するが如きことは絶対にあるまいから、日本軍の撤退と共に雲散霧消するであろう。
二、奉天の袁金鎧らは金も軍隊も持たないから彼らには治安維持会を政府に発展せしめ政権・軍権を掌握するが如きことは絶対に出来ない。従って奉天の独立運動は大して心配でない。
三、吉林の熙洽の新政府樹立の声明は便宜上の措置で、熙洽はその人柄から見るも従来の関係から見るも、張学良や張作相に叛き楯つくとは思われない。事態が旧に復し張作相が帰れば彼は政権を返還するに相違ない。
四、これを要するに、満州の独立運動は実質上大したことはないが、日本軍の撤退が遅れれば遅れるほど根を張る恐れがある故、この際何を措いても日本軍を速かに撤退させる方法を講じなければならぬ。同時に袁金鎧・熙洽らとも連絡策を講じ内部から運動の成長を抑える必要がある。
五、日本軍撤退交渉問題は顧維釣が主となり吉林・奉天との連絡には万福麟が当る。
ということに意見の一致を見たが、彼らは国際連盟の圧力で早晩日本政府が参ってくるという見透しを持っていたのであった。だが現地関東軍が日本政府の訓令を無視或は軽視するところまでは気がつかなかった。寧ろ関東軍が日本政府を引きずり、軍部ファッショ化の動因をつくろうとは思いも及ばなかったのであった。
一方、東北四省における中心政権ともなるべき遼寧省政府の樹立問題は政府委員の人選難・財源問題のほか学良の便衣隊の暗躍、作相の錦州政府に対する立場からデッドロックに逢著していたが、今まで維持会委員として名を連ねただけで一度も顔を見せなかった于沖漢が病躯をひっさげ四日(十一月四日)遼陽から出馬したので雲行は一変し、省政府の樹立は鮮明となって来たのである。
于沖漢が明晰な日本語を話すのは光緒二十三年(明治三十年)東京外国語学校で教授をする傍ら日本事情を研究したためであり日露戦争のときわが満州軍に従い特別任務に服し、民国九年(大正九年)十一月張作霖の特使として日本に来り、時の首相原敬をはじめ上原参謀総長・内田外相・田中陸相らと会見するなど奉天派唯一の老日本通であった。彼は早くから保境安民主義を唱道した。それは
『排日政策は満州を保全する策ではない。満州は日本と親善を結んでこそ自立が出来る。国防の如きは宜しく日本に委任し、経済の如きは提携共助して国利民福を招来することが必要である』
とするのである。奉天文治派の多くはこれに共鳴したのであるが、新人及び武断派は三民主義を奉じたのであった。
ともかくこの于沖漢が自治指導部長に就任、建国を促進したのであるが、彼を引っ張り出したのは守田福松という市井の一開業医である。この医師は食道癌に冒されていたにも拘らず健国工作に挺身した日本人である。医者といえば社会現象に暗いもののように思えるが中々どうして医者にはくせものが多い。後藤新平は別としても満州では上述の金井章次がある。
満鉄文書課長中西敏憲のところへ金井から、『スグホウテンニコイ』という電報が届いた。十月下旬のことである。中西は関東軍の要求ということはわかっていたが、何のために自分を呼出し、何をやれというのか一向に見当がつかなかった。或は新国家の憲法でも考えろというのかも知れぬと強いて想定した。奉天に着くと金井は
『何はともあれ板垣さんに会え』
という。そこで板垣高級参謀に会うと
『新しい政権がいつ出来るか今のところ一寸見当がつかん。ついては統一新政権の確立するまでの間、それぞれ各県において支障なく、各県が細胞的に生きて行くような方法を一つ考えて貰いたい。一日も早く秩序を回復し治安を維持し、中央政権の如何に拘らず各地方・各県がそれぞれ独立して生きて行けるようにしなければならぬ。その方法を考えて貰いたい。詳しいことは花谷君に会ってきいてくれ』
という。そこで奉天特務機関に花谷少佐を訪問、中野琥逸らの意見をきいて作りあげたのが自治指導部の方針及び要領であった。それは軍国汚吏を排し県行政の自治運営をなすというのが狙いであった。自治指導部は于部長の外は殆ど日本人で固められ、結城清太郎、和田到、小山貞知、橘樸、野田闌蔵、それに甘粕正彦まで関係し建国劇を演じたのである。
あの満州国官吏の指導精神となった『自治指導部佈告』(十一月十日)即ち
自治指導部の真精神は、天日の下に過去一切の苛政・誤解・迷想・紛糾等を掃蕩し竭くして極楽土の建立を志すに在り。茲に盗吏あるべからず。民心の離反又は反感・不信など固よりあらしむべからず云々
は大川周明系の日本主義者笠木良明が于冲漢の名をもって発したのである。
自治指導部は事変前からあった満州青年連盟と大雄峯会が合流して出来たもので、青年連盟は青年満鉄社員たる小日山直登・平島敏夫・金井章次・保口隆矣・松島繿らを中心にして集った。青年社員といっても何れも四十前後の中堅どころであった。その主張は『満州におけるわが大和民族の発展を期す』というのである。大雄峯会は満州において少壮の人材を大いに徴発し一朝事あるときに備えるという考えの下に国家改造型少壮有志が集り中野琥逸・笠木良明を指導者とした。この二つが合流して自治指導部を組織し全満に活躍したのである。そして建国後解散したが青年連盟の流れは協和会の主流となり大雄峯会関係は賛政局に入りその後解散した。
▼森 正蔵 旋風二十年 上巻 三、「宝刀」を抜いた関東軍 6 建国工作の内幕 日本主義の前衛・自治指導部 89頁
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▼森 正蔵 旋風二十年(復刻版) 〔3〕 6 満州建国工作の内幕 続く中国軍閥の独立宣言 99頁
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