矢・島・慎・の小説ページです。

「星屑」
    沖縄を舞台にした若者のやまれぬ行動を描くドラマです。
    お楽しみ下さい!

「星 屑」 目 次

2005年04月08日 | Weblog
序章   和昭の彼女、安江が捕まった。和昭と宏志はある決意をする。
二章   和昭と宏志の二人は那覇少年鑑別所に向かった。目的は・・。
三章  目的を果たした和昭の逃走が始まった。果たして……。

四章  手助けした宏志だがなぜか部屋に戻った。

五章  コザの潤の店 

六章 執念に燃える沖縄県警・知念刑事登場!

七章  山里のアパートでついに二人は捕まるのか。何とか逃がしてやりたいのだが‥

八章 二人は名護に向け一路進路をとった。しかしそこには何が待っているのか。

九章  賢吉の誘い、それはどんなものであろうが断ることはできない。

十章  安江は電話ボックスに入る。雑誌の広告の番号を回す。果たして何が……。

十一章 賢吉の身に大変なことが起こった。やがて和昭にも手が回る。さあどうする。

十二章 初めて二人に幸運が訪れた。タイミングよく別の事件が発生したのだった。

十三章 二人は一大決心をする。那覇新港から脱出を試みるのであった。

十四章

終 章

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序章

2005年04月02日 | Weblog
「里美、じつはな……」
 宏志は、ベッドでタバコを吸い始めた里美に、改まった口調で話しかけた。
「どうしたの深刻そうな声出して……」
 里美は仰向けになってタバコの煙を揺らせた。いつもなら愛を交わした後、二人揃ってベッドに仰向けになり、タバコの煙を立てるのだが、今夜に限って宏志はうつ伏せになり、息遣いで肩が上下する。
「和昭の女がな……」
「安江ちゃんていったよね」
「できたらしいんだ」
「えーっ、だってまだ中二じゃなかった?」
「そうなんだが、どうする積もりなんだか、和昭のやつ」
「産むか堕すかで?」
 里美はタバコを灰皿に押し付けると、宏志に向きを変え言葉を続けた。
「で、安江ちゃんは今どこにいるの? たしか家はでていたよね」
「鑑別所だ。仲間がパクられた時に一緒にいたからやられた」
「それで、話って?」
「電話があって、和昭から。今夜来てくれって、やる腹じゃねえのかなあいつ」
「一緒にやるの?」
「もし和昭が、腹くくったら、見てみぬ振りはな」
「もっと早くいってくれよな、そういう大事なことは。もう何にも用意できないだろ」
「和昭と話して、やることが決まったら直ぐ電話する。ちょっと厄介かけるけど頼む」
「もうしょうがないね。できるだけ用意するよ」
 宏志はベッドから起きると身支度にかかった。里美は仰向けになり今後のことなどを考え始めた。掛け時計は夜の十時をまわっていた。
 
 宏志は夜の街を、西原に向け車を走らせた。行き交う車も、かすかに浮かび上がる夜景も、まったく目に入らなかった。やがて和昭の住むアパートの前に車を停めた。階段を駆け上がり、二階の和昭の部屋のドアを叩く。
「俺だ、いるか?」
 鍵が外される音が鳴り、ドアが開いた。宏志が部屋に入ると、和昭は首をドアから突き出し、辺りの人影を確かめた。那覇市の東部に位置する西原。幹線道路から百メートルほど中に入ってるせいか、車の音もなくシーンと静まり返っている。
 和昭の部屋は、居間とキッチンの二部屋。和江と半同棲のような生活だったから、部屋の整頓はよくなされこぎれいな感じだ。居間の中央のテーブルにはウイスキーとコップがあった。二人は向かい合い畳に腰を下ろす。
「宏志、どうしよう」
 和昭の弱々しい声だった。
「どうしようだと? お前らしくないな。それで和、安江はどうなるんだ? 連絡はあったんだろ?」
 和昭と向かい合う宏志は、タバコに火をつける。「相談がある」と頼まれたにしては弱々しい和昭の態度だった。宏志はじれったさを感じた。
「中で、おとなしくしているようだ」
 宏志は、和昭の返事を聞きながら、すでに自分の意思を固めていた。
「鑑別所に入れられて、何日だ?」
「今日でちょうど一週間」
ーーこうなりゃあ、鑑別所破りしかねえだろーー
 宏志は腹を括った。決断さえしてしまえば、後は迷うことはなかった。手はずはさして問題ではなかった。タバコの煙をふっと吐き宏志が聞く。
「捕まったとき、他の奴らは何やったんだ? 盗みか?」
「そうらしい。巻き添えくったんだ」
「それで一緒にパクられたのか。巻き添えもへったくれもないだろう、パクられちゃ」
 比嘉安江、十四歳。この春から三年生に進級していたが学校は休みがちで、友達と那覇の街を遊びまわっていた。昨年の秋に金城和昭と那覇市内のゲームセンターで知り合い、付き合うようになった。時々和昭のアパートに寄り半同棲生活を送っている。金城和昭と大嶺宏志はともに二十二歳、職業は那覇のコンビニでアルバイトをしている。
 宏志は和昭に、鑑別所破りを迫った。ジーンズの後ろポケットにはナイフの膨らみがあった。
「鑑別所はせいぜい二、三週間だろ?」
 そう聞く宏志はいらだち、早く決心せよと睨みつけるような目を天井に向けた。宏志の燃えるような目に反応するかのように和昭が話す。
「少年院に送られたら終わりだ。もしシャバに帰されても、あいつら、安江をどこかに隠すだろうな」
「中三で少年院はない。そんなことより腹の子はどうするんだ。和昭、お前のガキだろう」
「昨日、安江のダチから連絡があって、堕ろすことに決めたらしい」
「承知したのかそのことを、彼女は。もっともお前が堕ろしたければ、病院代も向こうがやってくれるんだから問題はないだろう」
「周りで決めたんだ。中三の女が、産みたいって言ったって、誰が聞くもんか。寄ってたかって堕ろすことに決めたんだ」
「お袋がいただろ、彼女の」
「電話したら、怒鳴りまくって…」
「和、お前本気なのか?」
「……」
「面倒なだけだぞ、ガキつくったら」
 和昭は、宏志の言葉に、ギクッとなった。自分の気持ちが整理できてないこともあった。
「安江が俺に、生理が止まったって話したときは、そのときはできていたら堕ろせ、と言ってやった。だけど今はできたんだったら、育ててほしいって思う」
「お前二十二だろ、まあ俺も一緒だけど。彼女は中二か三だ、問題あるぞ」
「もうこの春で中三だ。結婚は難しいことがあるけど、堕ろしたらたぶん俺たち付き合いがなくなっちまう感じがするんだ。きっと相手の親はどこかへ安江を隠すだろうし」
「分からねえな、お前の気持ち。遊びだろ? 放っておけば、そのうち鑑別所から出て、またつきあえばいいだろう。親が隠すって言ったって、鎖つけてつないでいるわけじゃないんだから」
「俺、安江のことかわいいやつだって思ってるんだ。料理がうまいんで、俺と一緒に店やったらって考えたこともある」
「お前の親、どっかで居酒屋やってたな」
「峨謝で一人でやってる」
「たしかに鑑別所に入ってりゃ、出ると同時に病院いきだろうな。彼女の親が怒ってりゃやることは決まってらあ。ま、お前の気持ちしだいだ。俺はいつでも腹、括ってるんだ」
 確かに宏志の言うとおりだった。ひと月もすれば、安江は鑑別所をでて、しばらくは親の所にいるだろうが、親のすき見つけて和昭のもとに戻ってくるだろう。たった二、三ヶ月じっとしていれば、それですむことだった。和昭は神妙な表情になった。
「安江は複雑な家庭で育って、ま俺もそうなんだけど、小さいときに養護施設にいたことがああって、子供に対してはあいつなりの、思いがあるって話していたんだ。詳しくは聞いてないが、たぶん自分の子を堕ろすことはしないやつだって気がするんだ。だから無理やり手術したらどうなっちまうか……」
「堕ろしたら彼女が傷つくのか?」
「俺もほしいんだ。安江とは会ったばかりのころはガキっぽかったんだが、付き合い始めると女っぽくなって、結構しっかりしたところもあるんだ」
「中三にしては背も高いし、かわいいな彼女」
「一緒にメシつくって食ってると、ずっと一緒にいたいと思って。相性もいいし……」
「それでいいんだ。難しい話はいらないんだ。それで堕ろすのは鑑別所をでてからか?」
「いや、日がたつと難しくなるって、明日だ。どっかの病院へ移すらしい。この俺に何の相談もなく、勝手に決めやがって。鑑別所にいるときにやれば、誰も手出しができねえこと承知でやってるんだ。やつらは」
「それで和昭、お前どうする?」
「俺の子だ、勝手にされてたまるか」
「そんなこと言ったって、明日になれば皆んな済んじまう。そうだろ和昭」
「お前、いいのか?」
「バカ野郎! 決まってるだろ」
 宏志は気持ちを爆発させた。
「こおうなりゃ答えは一つだ。あんな鑑別所なんてチョロイもんだ」
 宏志の言葉に和昭はゴクリと息を呑んだ。
ーー自分もそうだが、宏志も少年院の過去があった。そんな前科のあるものが、鑑別所に押し入って捕まったら、五年や十年、刑務所いきだ。
「宏志……」
「心配するな、お前がマジだということがわかった。だったら迷うな、らしくないぞ」
ーー宏志にだって女がいるじゃないかーー
 和昭がそう口にしようとするのを、宏志の気迫が制した。
「和、俺たちにとってどっちに転んだって同じだ。そのとき、こうだと思ったことをやるしかねえんだ」
「宏志、手貸してくれるか」
「当たり前だ。手はずは俺に任せろ。今夜だ、やるのは」

 二人が和昭のアパートを後に、那覇市の少年鑑別所に向かったのは午前零時を過ぎていた。生温かい風の吹く四月十日のことであった。


二 章

2005年04月02日 | Weblog
キィーッっとタイヤが鳴った。ガチャッとドアが開き二人の男が降り立った。
 波の音が耳に届く。海岸が近いことをにおわせた。
「和、車の予備キーだ。どちらかが何かあったら残ったほうが車で逃げる、いいな」
そういって宏志がポーンと和昭に鍵を投げた。
「分かった。もしばらばらになったら落ち合う場所はここにしよう」
 二人ともジーンズのズボンに薄地のジャンパーを着ている。和昭が160センチ程の背丈でやや痩せ型。宏志は170センチでがっしりした体格だ。皮膚に張り付くような薄手の手袋をはめ、スニーカーの紐を締めなおす。空に月はなく、生温かい風が二人を吹き抜ける。
「モデルガンは俺が持つ、ナイフは持ってるな、和」
「大丈夫だ。宏志、ストッキングだ」
 二人はナイロンストッキングを頭からかぶる。顔にあたる風が遮断され、頬に火照りがきた。
「よし、行くぞ」
 波音を背に暗闇の道を進んだ。あたりの民家はすっかり寝静まり、犬の声すらなかった。しばらく歩くと、前方に丸いガスタンクが見えてくる。そろそろ近づいてきた。やがて水銀灯に照らし出された鑑別所のブロック塀が見える。
「ついたな」
 宏志の行動開始の合図だった。鑑別所は、正面入り口が鉄格子の門で閉ざされ、その中に灰色に浮かび上がる鑑別所収用棟があった。二人は鉄格子の門を通り過ぎ、ブロック塀の角まで進む。あたりに人影はなく静まりかえっている。
 二メートルの高さの塀の上には有刺鉄線が張られている。宏志は和昭の肩に登り、塀の先端に手を掛け、一気に上に上がった。かがむように手を伸ばし、下にいる和昭の手を掴むと、ぐいと引き上げた。まるで猫が塀を駆け上がるように、宏志の横に登る。有刺鉄線は潮風でぼろぼろになっていた。
 人影のないのを確かめると、二人はポーンと内側に飛び降りる。足音を殺し、背をかがめ、するするっと鑑別所収用棟のドアに張り付いた。水銀灯の明かりに、灰色に映えるドア。その横に、すりガラスのはまった、ドアの半分ほどの幅の板が建て付けてあった。和昭はナイフを取りだし、ガラス切りチップを引き出すと、すりガラスを円形に切った。続いてナイフの底をカーンとガラスに当てる。ガラスがこぶし大割られ、ぽっかりと穴があいた。
 手慣れた作業だった。和昭はあいた穴に手を差し込み、内側のサムターンを回す。カチッとロックが外れ、ノブを回す。ドアはかすかな軋みをたて開いた。まるで吸い込まれるように二人は中に入った。
「こっちだ」
 宏志が低い声で手招きし、足音を忍ばせ、宿直室のドアの前で止まった。二人は鑑別所内のレイアウトを調べていた。宿直室のドアに耳を当て、中の様子をさぐっていたが、物音がないのを確かめると、取っ手を静かに引いた。
 身をかがめた二つの影が、すっと部屋の中に忍び入った。中は豆電球の明かりがあった。畳敷きの部屋に布団が敷かれ、男が二人眠っている。二人とも気づいていなかった。小さな寝息が聞かれた。宏志が一人の男の横に屈みこむと、眠っている男は人の気配を感じ、うっすら目を開ける。だがまだ意識がぼーっとしているせいか、宏志の顔を怪訝な表情で見る。その瞬間、宏志は手のモデルガンを男のでこに当てた。
「騒ぐな、騒ぐと撃つぞ」
 宏志の低い声ではあったが、男は顔を引きつらせた。もう一人の男の脇には和昭がいた。こちらの男も目を覚まし、がたがた震えている。男の咽には和昭のナイフが当てられ、その恐ろしさから唸り声を出している。年は五十前後に見えた。
 宏志に銃を突きつけられた男は、髪を短く刈り上げ、二十四五の青年だった。
「収容棟の鍵を開けろ。死にたくなかったら騒ぐな」
 宏志が拳銃に力を込めると、若い男は恐る恐る立ち上がる。パジャマ姿の男がそのままドアに向かおうとすると、宏志は男の後頭部に拳銃の底でガーンと一撃を加えた。
「鍵も持たずに行くのか、この野郎!」
 宏志の声に男は、後ずさりし壁の鍵束を掴んだ。和昭にナイフを当てられた男も立ち上がる。若い男を先頭に宏志が続き、その後をナイフを当てられた男と和昭が続いた。男の持った鍵束がカシャカシャ鳴った。二人の宿直員の目には、ストッキングで覆った無表情な宏志らの顔が不気味に映った。
 四人が廊下に出たとき、二階からパタパタと駆け下りてくる者がいた。下の宿直室の物音に気がついて走り降りてきた男だった。階段を下りたとたん、四人が突っ立っているのでびっくりした。
「誰だ!」
と叫んだときだった、和昭が息づくまもなく、二階から来た男の背後に回る。和昭は男の胸を手で抱えると、右手のナイフを男の頬にピタリと当てた。
「静かにしろ!」
 和昭の声に驚いた男は、手を振りほどこうと身をよじらせた。その瞬間、急に身動きを止め、顔を引きつらせた。ナイフの刃先が男の頬を切り、赤い血筋が刃に沿ってついた。男の顔は顔面蒼白。その光景を見たほかの宿直員も氷のように立ち尽くした。
「廊下にうつ伏せになれ! ぐずぐずするな。聞かんと殺すぞ!」
 宏志が威圧した。三人の宿直員は廊下に腹ばいになった。
「腕を上に伸ばせ! 指も開くんだ!」
 うつ伏せの男たちの上から声が飛ぶ。
「早くしろ!」
 和昭は、若い男の手首を掴むと、力を込めて腕を引っ張った。瞬間、男の手首の腕時計がはじけ飛び、カシャーンと廊下を滑った。
 宏志は鍵束を持った若い宿直員を足で蹴り、
「立て! 立って女の部屋を開けろ」
 若い宿直員は、立ち上がり、宏志の拳銃に押され廊下を進む。和昭は廊下でうつ伏せの男を見張った。若い男は、女子収容室の前で止まり、ドアを開けた。
 中では、廊下の物音に気づいた収容者が立ち上がっていた。
「安江はいないか?」
 宏志が収容者に声をかけた。パジャマ姿の数人の収容者中から一人の女が進み出た。安江はストッキングで顔を覆った宏志を、目を凝らし見ていたが、すぐ宏志だと分かった。
「わたし、安江」
と小声で答えた。宿直員はやっと事情がつかめた。
ーーこいつら、比嘉安江を連れ出しにきたのかーー
宿直員は胸の中でつぶやいた。安江はパジャマ姿のまま廊下に出る。
「閉めろ」
 宏志の声に宿直員は収容室のドアを閉め、鍵を掛けた。
 身長160センチ。長い髪を後ろで束ね、素足の安江は廊下にでると事情を掴んだ。薄暗い明かりの中ではあったが、和昭の姿は容易に区別がついた。言いようのない嬉しさが身体を駆け巡る。
 宏志は廊下二うつ伏せの宿直員に
「立て! 手は頭の後ろに組め!」
 と叫んだ。立ち上がった宿直員3人刃スリッパを履き、宏志らに後ろから押されるように表にでた。
「騒いだら、お前ら頭をぶち抜くぞ!」
 宏志は宿直員を脅し続け、海岸に向かって黒い行進が続いた。
 暫く進むと、六人の耳にザーッザーッと波音が聞こえた。と同時に潮の匂いが鼻をつく。前方に見上げるような防潮堤が現れた。高さは数メートルもあり、六人は一歩一歩コンクリートの登り階段を踏みしめた。
 周りは暗闇に包まれ、防潮堤を進む六人は、足先で窪みを確かめながら摺り足を続ける。十分も歩くと人家の影はまったく消え、辺りは墨色の海原と暗闇に包まれた。
「腹ばいになれ!」
 宏志が海鳴りの中で、叫んだ。だが一人の宿直員が突っ立ったままでいるのをみて、
「ぐずぐずするな!」
というなり、宏志は男の膝を後ろから蹴った。ゴツンと男の膝頭がコンクリートに当たった。
「うつ伏せになれ!」
 宏志は宿直員全員をコンクリートの上に腹ばいにさせた。拳銃を宿直員の頭にむけつつ、和昭と安江に合図をおくった。和昭は手のナイフをたたみ、安江の手を取り止めてある車めがけて駆けた。
 防潮堤の上では宏志が宿直員を脅し続けた。腹ばいの宿直員のパジャマをはがし、頭にかぶせた。
「いいか、少しでも動いたら、ぶっ放すぞ! ここでぶっ放しても銃声は誰にも聞こえねんだ」
 騒がれず、少しでも永く時間を稼ぐ宏志の作戦だった。まだ頭上に銃を持った男がいると思わせ、宏志は一歩一歩、摺り足でその場から離れた。

三章

2005年04月02日 | Weblog
「ほんと、びっくりした。まさか来てくれるなんて」
 安江は興奮した表情で和昭にいう。
「ダチが、明日手術だって、知らせてくれなかったら、行ったかどうか分からなかった」
「ひどいの、鑑別所の教官が二、三日したら病院に移すって言ってただろ。もうどうにでもなれって思っていたけど、和が来てくれたので、もう迷わない。産む。どんなことがあっても」
 安江の決意だった。相手の男が自分に見せた鮮やかな誠意に、安江は「和昭についていこう」と心に決めた。
「着替え用にジーパンと、上に着るものを持ってきた」
と言って和昭は、後ろ座席の紙袋をとった。安江は、背中に番号の入ったブルーのパジャマを脱ぐと、半そでのトレーナーに着替え、足を伸ばしジーンズに履き替えた。隣のハンドルを握る和昭の手に、血の流れを見た安江は、
「あ、血が。どこで切ったの?」
「防潮提の所でだろう、だが大したことはない」
 安江はティッシュを探したが見当たらなかった。
「宏志さん無事に戻ってるだろうか」
「戻るといっても、俺達のことは察にはもう割れるだろうから、うまく逃げてくれればいいが」
「里美さん、夜仕事してるんだろ、どうするの、この後」
「あいつのことだ、彼女には関係ないようにするだろう。暫くは宏志一人で、どこかに潜んでいるだろう」
 車は安謝川を渡り浦添市に入った。車の数が減るに従い、和昭はスピードを上げた。
 暫く走り、コンビにの明かりが見える交差点でハンドルをきると、細い道にに入った。木陰の薄暗い場所で車を止め、ライトを切った。
 エンジンが止まると、鳴っていたラジオの音がく急に大きく感じられた。
「ラジオで何か言うかな?」
 安江は選局ボタンを押す。
「まだ分かるわけないだろ」
 和昭は、上着のポケットからタバコを取り出した。駐車した場所はめったに車は通らなかったが、時おり車のライトが走ると、二人は身をかがめ、過ぎ去るまで目を離さなかった。
「それで和、どうするのこれから?」
 安江の心配そうな表情だった。
「宏志が、浦添にいる宮城に連絡を取ってくれてるはずだ」
「来るだろうか?」
「三十分経って来なかったら、宏志に何かあったことになる。その時はこのまま逃げる」
「場所は確かなんだろうな」
 安江は心配だった。暫くするとライトの光が車内をよぎった。二人は振り向いてリアウインドウ越しに目を凝らした。
「あの車じゃない?」
「そうだ、宮城だ」
 和昭はダッシュボードに手を伸ばし、ハザードをつけた。宮城もそれに気づき、速度を落とし近づいた。宮城は和昭の車に、ピタリと横付けた。和昭がサイドウインドウを下げると、宮城の車のエンジン音がやかましく聞こえる。宮城もウインドウを下げた。
「和、事情は宏志から聞いた。今頃警察が動き始めたころだ。国道は検問が張られているから今夜は動くな。お前の車は察に見られてないか?」
「大丈夫だ」
「動くのは交通量が多くなってからの方がいいだろう。どっちへ行くつもりだ?」
「コザにダチがいる」
「そうか。俺は今から那覇に行き、お前たちが那覇にいるよう細工してきてやる。これ弁当と飲み物だ。適当に揃えた。それとお前たちの着替えた者をこっちによこせ。捨ててやる」
 和昭は、食料を受け取り、安江の鑑別所でのパジャマや、不要になったものを紙袋に入れ宮城に渡した。
「お前たち、逃げ切るんだぞ。いいな」
「宮城さんも気をつけて、逃げ切れたら連絡するから」
 安江は感謝で一杯だった。自分たちが警察に追われるのは当たり前だが、宏志や宮城さんまでもが、と思うと安江は口を真一文字に結ぶ。
「これ何かの足しにしてくれ」
 宮城はポケットから財布をだすと、そのままポンと和昭に投げた。
「すまん宮城」
「宮城さん、私絶対産むから……」
 窓から身を乗り出さんばかりに安江は自分の決意を表せた。
「何かあったら俺に連絡してくれ」
 宮城はライトをつけるとアクセルを踏んだ。和昭と安江は無言のまま見送る。和昭らは再び闇の中にうずくまった。
「和、これからどうするの?」
「今夜はここで眠る。動くのは日が上がってからだ」
 二人はリクライニング・シートを倒し、体を横たえた。

 浅い眠りをむさぼった和昭は、うっすらと目を開いた。隣の安江は、すでにシートを立てて起きていた。
「和、だいぶうなされていたよ」
「うーん、背中が痛え」
 そういいながらシートを立てる。フロンとガラスの向こうに、木立をぬう朝日の帯があった。和昭はダッシュボードのタバコをとり、口にくわえ火をつけた。安江がラジオのスイッチを入れた。
ーーでは次のニュースです。今朝午前二時ごろ、那覇市西三の那覇少年鑑別所に、ストッキングで覆面をした男二人が、拳銃とナイフを持って侵入しました。二人の賊は、宿直室で仮眠中の宿直者二人と、途中物音に気づいた宿直教官一人を脅し、鑑別所に収容中の十四歳の少女を連れ出し、現在逃走中です。犯人は二人とも身長百六十から百七十センチで、暴力団風ということです。犯人らは少女を連れ出す際に、教官の頬に五センチの切り傷を負わせ、二人の宿直者にも殴る蹴るの暴行を働きました。警察では市内全域に非常警戒をしき、犯人の行方を追っています。--
「とうとう手が回ったな」
 和昭は両手を後ろに回し、安江も心配気名表情を和昭に向けた。
「どうするの、和」
「ちょっと黙ってろ」
「……」
「コザの糸数だ。あいつなら手を貸してくれる」
 そういってポケットのコイン入れを確かめると、
「安江、糸数に連絡とってくる。ここで待ってろ」
と、ドアを開け、近くの店先の公衆電話まで駆けていった。糸数と和昭とは少年院からの付き合いで、気ごころの知れた仲だった。
 和昭は直ぐに戻ってきた。ドアを開け、息を切らせ座席に滑り込む。
「連絡がついた。コザの手前で糸数と落ち合う。
「和、私、腹ペコ」
「ふらついて察に見つかったらパーだ。我慢しろ、途中で買えたら買ってやる」
 気がつくと、太陽が高く昇り、眩しいほど明るくなっている。車を停めている道路脇にはデイゴの木が茂っていた。デイゴは沖縄の県花で、その美しさを際立たせているが、逃げることに必死な二人にとって、深紅の花は不気味としか映らなかった。
「安江、お前の那覇にいるダチはいないか?」
「コザに行くんじゃないの?」
「細工するんだ」
「那覇にミーがいる。アパートで一人住まいしているよ」
「よし、そいつに電話してこい。俺たちの居場所は那覇の与儀公園に居ることにしてだ」
「分かった」
「まっすぐ行って右にまわったところにコンビニがあって、公衆電話がある。いって来い」
 安江は和昭から小銭入れを受け取ると、駆けていった。
 和昭は辺りをじっと見張った。
 やがて安江が手にビニール袋を抱え、戻ってきた。
「どうだった? 連絡は取れたか?」
「うんアパートにいた。でも朝に警官が尋ねてきたと言っていた」
「そうか……」
「それでもし警官がまた来たら、与儀に居ると言ってた、と言ってと伝えた」
「それでいい」
「久しぶりに話して懐かしかった」
「安江、これからはやたらと電話はするな。どこから足がつくかわからんからな」
「腹ペコだから、コンビニで食い物買ってきた。食べよ」
 二人は、おにぎりをかぶりつくようにして食べた。そして食べながら和昭は車を発進させコザに向かった。車は浦添市を抜けると、国道330号に乗り、北に方向をとった。330号は那覇から浦添市を通り沖縄市まで、本島を縦断する幹線だ。コザは沖縄市の旧名だ。
 宮城らの細工のおかげで、警察はまだ和昭らが那覇市内に潜伏しているとして、那覇市内に非常警戒を敷き、知り合いの家からホテルに聞き込み捜査を続けていた。和昭と安江は検問にかかることなく、宜野湾市を通り沖縄市に入っていた。 
 沖縄市の入ったすぐにあるファミリーレストランの駐車場で和昭と糸数は合流した。糸数が和昭の車に乗り込んだ。糸数は小柄な体格で、髪はアフロヘアーにし、口ひげをはやしていた。後ろ座席に座った糸数が口を開いた。
「和、俺の家に来るか」
「お前のところは家族と一緒だろ。コザの潤のところに行こうと思う」
「それはいいが、コザの潤の店は一週間前に警察の手入れがあったばかりだぞ」
「潤の店に手入れがあったら、反対に安心だ。暫くガサいれがないってことだからな。よし決まりだ、潤のところへ行く」
「そうだな、そこで暫くおとなしくしてれば、警察も手薄になるだろう。そうなったらまた俺のところに連絡いれろ。それと和の車もそろそろヤバいぞ。俺が潤のところへ送ってやる。それとお前の車も俺がどこかへ隠しておいてやる」
「よし、お前の車に移る。あとを頼む」
 そういうと三人は潤の車に移った。潤はコザの街中に車を走らせた。日はすでに沈み街の明かりがつき始めていた。
「和、宏志が捕まったぞ」
 糸数が思い出したように言った。和昭と安江は差し入れのハンバーガーを取り出そうとした手をとめた。
「朝、アパートに戻ったところを察に踏み込まれた」
「宏志がパクられた? あいつはおとなしく手錠(わっぱ)なんか掛けられる奴じゃないのに、何で察が張ってるのを承知で、のこのこ戻っていったんだ」
 和昭の荒々しい声だった。
「コザの潤は何してるの?」
 安江が糸数に聞いた。
「潤か、奴はクラブを任されている」
「たいしたものね、クラブのマネージャーか」
 安江はコーヒーを飲みながら感心していた。
 沖縄市は、アメリカから沖縄返還がされるまではコザ市と呼ばれていた。市の経済の多くは米軍に頼っている。近くには東洋最大を誇る嘉手納空軍基地があった。

四章

2005年04月02日 | Weblog
 宏志の部屋の電話が鳴った。
「里美か、俺だ」
「宏志、どうだったの?」
「うまくいった。だが直ぐ手が回る、お前は逃げろ」
「何言ってるの、宏志、どうする積もりなの?」
「ごちゃごちゃ言っている暇はない。すぐ部屋をでろ」
「バカ、宏志と一緒じゃないの、いつも」
 里美は泣き出さんばかりに顔を紅潮させる。
「里美、よく聞け。俺は部屋に戻る」
「戻るって? 警察が直ぐ来るんじゃないの?」
「そうだ。だから二人とも捕まってどうするんだ。お前は関係ない。暫く店のママのところへでも行ってろ」
「逃げないの? 逃げるんだったら一緒に行くよ」
「それも考えた。考えた末のことだ。いいか、もし俺が逃げたら誰かに頼ることになる。そうしたら、そのダチも後で察に連れて行かれるんだ。今度のことは和昭を逃がすことだ。そうだろう俺が逃げてどうするんだ」
「私一人になりたくない」
「ここは分かってくれ。捕まるのは俺一人だ。お前は、その気持ちがあるんだったら、そのあとのこと頼む」
 里美は言葉が出なかった。
「里美、聞いているのか? ぐずぐずしてる暇はないんだ! 急げ!」
「宏志、わかった……」
 里美は電話を切ると、身支度したものをまとめ、電気を消して部屋をでた。

 それから三十分もたったころ、宏志が部屋に戻った。入り口のドアを開け明かりをつけると、ガラーンとした部屋に消し忘れのテレビが目に入った。宏志は居間に崩れこむように座り込んだ。そのときドアを叩く音がした。
「大嶺さん、大嶺さんお見えですか?」
 警察だった。宏志は返事もせず座り続けていた。ドアが開き、どやどやと私服の刑事と警官が入ってきた。
「大嶺宏志だな! 家宅侵入罪および暴行傷害の罪で逮捕する!」
 座り込んだ宏志に手錠が掛けられた。あっという間の出来事だった。


五章

2005年04月01日 | Weblog
車が目抜き通りを過ぎ、暫く走って交差点を左に折れると、横文字の看板が林立するセンター通りにでた。
「もうじきか、糸数?」
 そう聞く和昭に、
「少し行った左側で、オリンピアの看板が出ている結構大きな店だ」
と左右を確かめながら答える。道の両側に椰子の並木が続き、横文字の氾濫する店の多くは、バーやクラブであった。
「ここだ」
 糸数は一軒の店の前で車を止めた。窓から見上げると、CLUB OLIMPIAと縦に英語で書かれたネオンの文字が目に入った。店の入り口では、客引きのホステスが三、四人、大きく胸を晒し、スカートのスリットも深々と、すらりとした脚を露出させている。
「察なんかに捕まるんじゃないぞ。いいか、和。何かあったらいつでも連絡してくれ。この携帯、使うか?」
「携帯はいい、居場所が分かる。またお前に世話になるかも知れんが、頼むぞ糸数」
 そう言葉を残し、和昭と安江は両手に紙袋をさげ、車から降りた。二人ともジーパンを履き、和昭は薄地のジャンパーを、和江はトレーナーを顔を隠すようにはおった。糸数は車のハザードを一瞬点滅させ、車の流れに消えた。
 クラブの入り口に立った二人に、客引きのホステスが奇妙な眼差しを向けた。ホステスの一人に和昭は潤の名を告げ、呼び出しを頼んだ。白いドレスの裾を滑らせ、店の中に消える。クラブの店先にポツンと立つ二人の横を、マリンコと呼ばれる海兵隊の兵士が、ホステスを物色しながら通りすぎる。
 暫くして黒いスーツの潤が現れた。潤はテレビで既に和昭らの事件を知っていた。
 二人の姿を見るや、自分の後に続くよう合図を送った。三人は店の端の細い通路を進み、鉄製の階段を上がった。二階には部屋が二つあった。手前の部屋のドアを開けると潤は、
「テレビでお前たちのことは観た。後は俺に任せろ。この部屋を使ってくれ、俺たちは奥の部屋を使っている。俺は店があるから、終わるまでは戻れないが、寝るんだったら奥の部屋の押入れに布団があるから適当に使ってくれ。もし何かあったら、下に連絡しろ、いいな。ここだったら安心だ」
 そう早口に喋ると潤は、階段を降り店に戻って行った。廊下に残された二人は、ドアをくぐり部屋に入った。靴を脱ぎ手の紙袋を床に置き電気のスイッチを入れた。ガスコンロと流しが廊下側の壁際にあり、中央にテーブルが置かれていた。
 木戸を開いた奥の部屋は、畳敷きで、小物が散在していたが気になるほどではなかった。カーテンがかかった窓があり、二人はカーテンを少し開け外を見る。街の騒音がガラス越しに聞こえ、街の明かりも目に映った。下を見ると、椰子の茂りの横で、店先に立つホステスの頭があった。
「潤さんは誰かと一緒?」
 安江が聞いた。
「潤の女だ。三年ぐらい前から一緒に住んでるって聞いたことがある」
 二人が話し合っていると、ドアをノックする音が鳴った。
「俺だ、入るぞ」
と潤が、手にピザや果物の乗った銀皿を持って入ってきた。
「お前たち腹が減っているだろう。これで一息入れろ」
とテーブルに置く。
「うわーおいしそう!」
 安江はテーブルに駆け寄った。
「ゆっくり休め」
 そう言って階段を降りて行った。二人はピザをむさぼるように口に運んだ。チーズの香りが鼻をついたが、空腹が先にたち味わっている余裕はなかった。まるで呑み込むように、あっという間に平らげた。
 腹が満たされると急に眠気が襲い、二人は毛布を頭からかぶると、着替えもせず寝込んでしまった。
 それからどの位時間が経ったか、和昭は物音に目を覚ました。耳を澄ますと表で騒ぎが起きているようだ。緊張から体が硬直した。すっと手を紙袋に伸ばしナイフを掴んだ。安江も気がつき起き上がる。明かりは消したまま二人は、毛布から抜け出し窓に寄った。道路の向こう側に、外人らしき数人の人影が見える。
 騒ぎは米兵同士の喧嘩だった。一人の黒人の男に、両側から白人の男が二人突っかかっていた。その少し離れたところに女が一人立っている。窓から見る限り、事情は分からない。
「米兵同士の喧嘩かな、和?」
「喧嘩だったら、もっと離れたところでやってくれ、ヒヤッとするじゃねえか」
 喧嘩の黒人は喚き声をあげ、ゴミ箱を金網の塀にドーンとぶつける。両側の男に対するむき出しの怒りだった。男の声は黒人特有の艶のある響きで、何か喋るたびに、語尾に「ファッキング!」吐叫ぶ。暴れまわる黒人の男に両側から白人の男が、顔を突き出し食ってかかる。中央の男も怒鳴り返すのだが両手はだらりと下げ、ノーファイトのポーズをとった。刻一刻と男たちに闘争心が高まった。
 ついに緊張が破れた。白人の男が中央の男を金網に突き倒した。黒い巨体が金網を大きく揺らせる。続いてもう一人が、思い切り膝蹴りを入れると、ドスンと下腹に食い込む。
 男は痛みから体をくの字に曲げる。口はパクパクさせるが声にはならず、息が激しく乱れている。続いて両側から殴りつけた。その度に体を震わせ、ついに路上に崩れ落ちる。白人の男は、ペッっとつばを吐き、人ごみに姿を消した。
 やがて一台の車が走りより、中から男が飛び出してきて、ぐったりしている男を抱え、車の中に運び込み、そのまま走り去っていった。さっきまで立っていた女は、いつの間にか消えていた。
 窓の隙間から様子を伺っていた和昭と安江は、喧嘩よりその後のことが気になっていた。
 やがてサイレンが聞こえると、パトカーが二台、赤い回転灯をつけ止まった。ドアから降り立った警官は四方に散ると、聞き込みを始めた。一人の警官が道を渡り、こちら側に歩み寄ってきた。和昭はカーテンをゆっくり閉めた。
「和、大丈夫だろうか?」
「ここまで来ることはないだろう」
 二人は電灯を消したまま、息を殺し時間の過ぎるのをまった。やがて警官はパトカーに乗り込み、走り去った・窓の隙間から見る外の様子は、夜の賑わいに戻っていた。
 コザの街は酔っ払いによる喧嘩騒ぎが日常茶飯事で、毎夜どこかで騒動が起こっている。そのためか路上では二人一組になった警官の巡視が頻繁だった。
 二人が寝付かれないまま畳に座り込んでいると、店が閉まったのか、潤が戻ってきた。その後をホステス姿の女が続く。二人は和昭の居る部屋に入ってくる。
「まだ起きていたのか、今夜は客が多かったので遅くなった。どうだ、少しは落ち着いたか」
「寝てたら表で騒ぎがあって……」
「よくあることだ気にするな。和、こっちは美也。いま一緒に住んでいる。あの二人は俺のダチで、和昭と安江さんだ」
 潤の紹介で皆は軽く頭を下げた。

 潤ーー金武潤といい、以前は那覇や糸満で仕事をしていたがコザの街が性に合うといって、この街に住み着いた。和昭とは那覇に居たころからの付き合いだった。偶然この店のボーイとして働き始めたのだが、持ち前の行動力が気に入られ、いつの間にかマネージャーになっていた。
 潤はいままで警察の厄介になったことがなく、機敏と言うか立ち回りのうまい男であった。美也とは、彼女が九州から沖縄に出てきたときに知り合い、どうせならとこの店のホステスをしているが、クラブのママに近い存在だ。

翌朝、陽も高く昇ったころ和昭と安江は目を覚ませた。隣の部屋の潤らはまだ眠っているようだ。和昭らは静かに布団をたたむと、カーテンを引いた。ガラス窓の外はネオンの輝きに彩られた夜の顔は失せ、まるでくすみ切り、色あせた街並みであった。
 二人がごそごそとパンとジュースを取り出し食べ始めると、隣の部屋の窓ガラスの空く音がした。続いて窓越しに、
「オー、起きたか」
と、眠そうな潤の声だった。
「和、俺たちは出かけるが、何か欲しいものはないか? 買ってきてやるぞ」
「そうだな、食い物を頼む。贅沢は言わないが日持ちのいいものを適当に頼む」
「よし分かった」
 潤と美也は、暫くして外出していった。和昭と安江は部屋の中で、逃亡中の不自由さを嫌というほど味わう。買い物も外食も、外をパトロールする警官が多く出来なかった。

 順に世話になり始めて三日目の夜、店を終えてから四人は潤の部屋に集まった。テーブルの上にはウイスキーやビールにつまみ類がある。この夜は何故か潤の機嫌がよく、一人ではしゃいでいた
。美也も、店で酒を飲んだ上に潤に付き合い、グラスをあけるのでかなり顔が紅い。
「安江ちゃん、なんか困ったことがあったら言ってね」
 美也が安江の体を気遣った。
「美也さんにはほんとにお世話になります。私、もちろん子供産むの初めてだし、誰にも相談できないから心配で……」
「そうよね、私も経験がないから何にも教えてあげられないけど」
「そうか、和は親父になるわけか」
 そう話す潤の声は、酔いが回っているせいか聞き取りにくかった。
 安江はジュースを飲み、和昭は安江に気兼ねしてビールを少しあけているだけ。それに比べ潤らはコップが空になることがないくらい飲んだ。もはや二人の目には、和昭や安江の姿は映っていなかった。
 潤が美也の膝にうずくまるように、床に座り込む。すべすべした美也の太ももに顔を寄せ、手でなぜる。
「私の脚に触れるのは誰でしょうね」
 美也の乱れた声は、潤の髪をかきむしるように撫ぜる。潤が美也の膝頭に唇を当てると、美也はうめき声をあげた。二人はすっかり夢心地の境地にあった。美也は潤の頭を手で押さえ、
「この潤の虫けらめ、ぐさりと串刺しにしてやる」
と、潤の頭のてっぺんから串棒を差し込む真似をした。
「どうだ、虫けら」
 美也が声をだすと、潤も刺激されるように手をばたつかせた。美也はなおも、ぐいぐいと頭に刺した串棒をえぐる格好をする。
「頭から脳みそを出しちゃえ」
と手を回し、大げさなジェスチャーをとった。
 和昭と安江は無邪気な二人に、互いに笑いあった。そのうち潤は美也のスカートの奥深くへ手を差し入れる。
「こんな悪いことをする潤は、もっと脳みそを出しちゃえ」
 美也は盛んに串棒をかき混ぜる仕草をした。その動きに合わせ、潤の手は美也の奥深くをまさぐった。いたずらな手の動きに、美也は興奮し、引きつったようなうめき声を漏らす。
「潤ったら、感じるじゃないの」
 二人の戯れをあとに、和昭と安江は席を立ち自分の部屋に戻った。
 四月の夜は、一年を通し最も快適に過ごせる時期だ。和昭が布団に横になりタオルケットをかぶると、横から安江が体を寄せてくる。
「和、ちゃんと守ってね」
「当たり前だろ安江」
「私一人になったら、どうしていいか分からないから。絶対嫌だよ」
「一人にするわけないだろ」
「きっとだよ」
「安江、任せろ」
「嬉しい、和」
 安江の白い肌は熱く火照って、声がかすれるように上ずっている。和昭は、我に帰ったように両手に力を込め、安江を抱いた。
「和、私どんなことがあっても産むからね」
といって手を和昭の腰に回した。
「和、抱いて……」
 二人はタオルケットの中で、絡む炎のように燃え上がった。


 


六章

2005年04月01日 | Weblog
「早く捜査状況をまとめろ!」
 知念刑事が部下に指示をだしつつ廊下を急いだ。捜査がうまくいっていないのか、部下に当り散らしている。
「課長、本部からもうひとつの山の捜査命令が出ておりまして、なかなか手が回りませんので……」
「言い訳はいいんだよ! ともかく結果を出さないとだめだろう!」
「はっ、課長!」
 沖縄県警刑事一課長、知念寛英は県警本部の二階廊下を会議室に向かう。柔道の高段者らしく腰の肉付きがしっかりし、背筋をピーンと伸ばし、目は鷹の鋭さがあった。
 背広姿の彼の後を、警官二名が手にカバンを持ち続く。会議室のドアの前で知念は、入り口に貼られた墨書きの文字に目を通す。
ーー少年鑑別所被拘禁者奪取事件、臨時刑事担当課長会議ーー
 縦長の紙に黒々と書かれた文字を一瞥すると、部下の警官がドアを開ける。この事件の捜査指揮官となった知念刑事は、部屋に入ると既に着席している担当刑事に軽く挨拶をし、会議が始められた。知念がゆっくりと口を開く。
「今回の事件は、まったく不名誉の極まりであります。過去、脱走未遂や脱走事件はあったが、外部から進入して収容中の者を奪取されたのは、われわれに泥をかぶせたようなものだ。犯人は前科があり教官に暴行をはたらいており、一刻も野放しにしておくわけにはいかない。共犯者は既にしょっぴいておりますが、早く事件を解決しなければならない」
 会議室には県警本部捜査官のほか、広域捜査のため沖縄中南部の、糸満、与那原、普天間、沖縄市、嘉手納、石川の刑事担当係官が招集を受けていた。知念は各署の刑事を前に続ける。
「県内第一種指名手配犯、金城和昭。二十二歳。生まれは沖縄県伊是名島内花。両親の離婚後、母金城たまとともに本島に移り、その後住所を糸満、浦添と変えたあと西原に定住。仕事は那覇のコンビ二でアルバイト。住所は西原町我謝……」
 知念刑事は手配書を読み上げた。椅子に腰を下ろし担当官に、
「担当官、捜査状況を説明しろ」
と指示を出した。立ち上がった担当官の説明が始まる。
「現在、那覇警察の専従捜査官二十名をあて、逮捕に全力をあげております。特に奪取された被拘禁者、比嘉安江、比嘉は十四歳の未成年でありますが、犯人とあわせて比嘉の交友関係を重点的に聞き込みに当たっています」
 聞き入る捜査官らは、配布された資料に目を通す。
「我が署は事件発生以来、連日にわたり署員百名以上を動員し市内および近辺の旅館、ホテル等の宿泊所の立ち寄り捜査を行いましたが、残念ながら手がかりを得るにいたっておりません」
 説明する捜査官の横で、知念刑事は参加者全員を見渡していた。その目は、いつか必ず犯人に手錠をかけてやる、との自信に満ちていた。説明はなおも続く。
「事件当日、奪取された比嘉の知り合いが、食料を買い込み那覇の与儀公園に向かったとの情報がもたらされました。総動員で公園を取り囲み捜査を行った。それ以前にも犯人のものと思われる衣服が与儀公園に捨てられていた。しかしそれらは何者かによる攪乱行動の可能性が高い。我々を与儀に引き付けておいて、その間に遠くへ逃走を図ったと思われる。したたかな奴らだが、徹底した洗い出しを続ければ、必ず捜査の網にかかると思われる」
 金城和昭に対する容疑は、被拘禁者奪取、公務執行妨害、傷害、それに児童福祉法違反が加えられていた。犯人手配は沖縄県下くまなく及んでいた。説明はさらに続けられた。
「ここに比嘉安江について、那覇少年鑑別所からの報告があります。比嘉は本年一月から金城和昭と同居を続け、その間だと思われるが、現在妊娠三ヶ月。窃盗グループを検挙した際、行動を共にしていたため補導。鑑別所収容と同時に嘱託医師の診察を行い、診断書をもとに比嘉の親や家庭裁判所と相談し、一応の結論を、堕ろすということですが、出していたのでありますが……」
 中央に座る知念刑事は天井を仰ぎ、大きく息をついた。その表情は、何かいまわしいものを目にしたときに見せる、苦々しさが漂った。
「十四歳の比嘉は学校を長期に欠席し、不良仲間と交遊を重ね、男と同居。その結果身ごもるという、社会常識では到底容認されざる事態になったわけです」
 知念刑事にも年頃の娘がいた。目に入れても痛くない我が娘が、あたかも和昭らに持て遊ばれたかのような錯覚を、知念刑事は感じていた。



七章

2005年04月01日 | Weblog
「和、出かけるよ」
 安江は支度の遅い和昭をせかせた。時計は午前4時。隣の部屋の潤らは店を終え、寝ついだ頃だった。和昭と安江は階段を足音をさせないよう降りた。行き先は近くのコンビニ。そこで食べ物を買い込み、雑誌や漫画を立ち読みした。
 安江は連載ものの漫画雑誌を読み耽った。安江にとっては、ここのコンビニが、唯一外界の空気が味わえる場所だった。
「和、見て。私が気に入ってる漫画。ちょっとエロいとこもあるけど、はまってるんだ私」
 和明は安江の手元を覗き込んだ。
「面白そうだな、俺は車の雑誌を見てるからな」
 そういって移動していった。そのとき和明の目にコンビにのガラス窓越しに、警官の姿が目に入った。和昭は安江に近づき、肩を突いた。安江は一瞬にして漫画を棚に戻すと、顔を伏せるようにし、トイレに駆け込んだ。
レジに制服姿の警官が二名歩み寄っていた。和昭は警官がレジ係と話している隙にコンビニを出た。道路を渡った立木の影から、じっとコンビニ内の様子を伺った。
警官はコンビニの中を一周すると外に出ていった。和昭は再びコンビニに入り、トイレのドアをノックして安江にサインを送った。二人は走り去るようにコンビニを後にした。
 翌日、店が終わり潤が部屋に戻るとき、和昭は潤に相談をもちかけた。
「世話になっていて勝手なことを言うようだが、ここはヤバイ。どこか察の来ないところがあったら移りたい」
「俺も気にはなっていたんだ。よし山里のアパートを紹介してやろう。あそこなら心配ないだろう」
「警察の動きは何かあったか?」
「聞き込みが一度あった。ホテルや旅館には写真付きの手配ビラが配られているようだ」
「しつこい奴らだ」
「くれぐれも用心しろ。山里のアパートは、すぐ話つけてやる」

 潤が紹介してくれたアパートは、国道330号を西に数百メートル入った住宅街にあった。周りは緑に包まれた簡素なところで、赤瓦を白いしっくいで固めた屋根が、坂道に沿って続いている。
 アパートはモルタル造りの二階で、外から見ると塗装の緑を帯びた黄色が、年月にすっかり色あせている。
 和昭らが借りた部屋は二階の一番奥。間取りはダイニングキッチンに六畳の居間が一部屋、それにトイレと浴室がついていた。潤はかって、このアパートに住んでいたことがあり、所有者の六十近いおばさんと顔見知りだった。おばさんと主人の二人でアパートを経営していた。潤が空き部屋を問い合わせたところ、丁度一部屋空いていて借りることが決まった。
 二人は名前を呉屋と変えた。和昭は口ひげが生えそろうまで付け髭をし、安江は髪をばっさり切っていた。外出するにも人目を避ける不自由な生活が続いていたが、毎日布団で寝られ、食事も規則的に取れるので贅沢は言えなかった。
 それでも手持ちのお金が、日一日と減っていくので、潤に「人目のつかない適当な仕事はないか」と頼んでいたが、いい仕事が見つかるまでこのアパートにへばりついているより方法はなかった。
 夕飯を終えた十時ごろ、アパートのドアを叩く者がいた。訪問者があると二人は決まって身構えた。安江は部屋の電灯を消す。和昭は、取り付けたばかりのチェーン錠を確かめ、ドアのノブを引いた。
「美也です」
 薄暗い廊下の明かりの下に、黒いシャツにジーパン姿の潤の彼女が立っていた。和昭はチェーン錠を外し、玄関に向かえ入れた。
「どうも」
 和昭が挨拶すると、美也は手に持った紙袋を下に置き、
「元気にやってる? 当面必要なものを持ってきました。何かの足しにして」
といい、言葉を続ける。
「それから、これ、安江さんの知り合いの方からのことづけ物」
と言って、白い封筒を差し出した。
「おい安江、美也さんが見えたぞ」
 和昭が声を出すとパジャマ姿にフリーズをはおった安江が近づいてきた。
「わあー美也さん、いらっしゃい」
「美也さんが差し入れを持って見えた。なにかお前にと」
 安江は美也の手の白い封筒を受け取った。裏を返すと、仲里裕子の名前があった。
「裕子からだ。鑑別所で同じ部屋にいたの、彼女」
 そういって安江は封筒を開ける。安江の目に入ったのは、裕子からの励ましの言葉だった。
「なんて言ってきたの、その手紙」
 美也が聞いた。安江は声をだして読み始めた。

   安江へ
   元気でやってる? 時々夜空を見上げながら、
   この星屑の下のどこかで安江が必死で暮らしていると思うと
   「頑張って!」と叫んでいます。お金はカンパしたものです。 
   私は鑑別所をでて、今は友達と一緒に生活しています。
   安江のこと忘れたことないよ。
   和昭さんだったっけ、一緒にいる人。よろしく伝えてね。
                        裕子

 読み終えると安江の目が潤んだ。二人にとって、食べ物やお金が底をついていただけに、美也からの差し入れと、裕子からのカンパは有難かった。とりわけ裕子からのメッセージは安江を励まし、二人を勇気づけた。

 二人が山里のアパートに潜伏し始めてから、一ヶ月ちか


二人が山里のアパートに潜伏し始めてから、一ヶ月近くが過ぎていた。
 五月も終わりに近い頃、和昭は遅くまで新聞を読み耽っている。記事は銀行強盗の事件を伝えるものであった。先立つものはお金だった。和昭は切羽詰まれば銀行に押し入ることも考えていた。手っ取り早く、大きな金を得るには、多くの手段はなかった。安江が、
「いい加減に新聞読むの止めて、早く風呂に入って」
と催促する。
「ちょっと黙ってろ」
と考え続ける。安江は、何を読んでいるのか気になり、和昭の横に来て新聞記事を覗く。
「和、お金はいるけど、捕まるようなことはしないでよ」
といいつつ、
「先に入るから」
と、風呂に入っていった。
 安江は湯舟に身を沈めながら、自分の腹に手を当ててみた。もう四ヵ月を数える腹の膨らみは、ふっくらと突き出ている。
--友達のみんな、どうしているだろうか。うちの母親には元気にしてるだろうか。--
 そう思いを巡らす安江の鼻先に、天井のしずくがポタンと落ちた。鑑別所から逃走し、コザ、山里と慌ただしい生活が続いていたが、安江の身体は一日一日、母親としての変化が続いていた。

 それから一週間程たった夜、安江の作るささやかな夕食を終えた頃、
「風呂に入ってくる」
と和昭は浴室へ歩いて行く。安江は洗いものをしながら、
「私、今夜は眠いんで先に寝てるから」
と声をかける。
「そうか」
 和昭は浴室の中から返事をしている。ぬるめの湯にゆっくり浸かった和昭は、パジャマに着替え、部屋に戻り新聞を広げた。夜、外に出たときに拾った新聞で、日付はとっくに過ぎている。
 和昭は、自分達に対する警察の動きを読み取ろうと、食い入るように紙面を見ていた。安江は敷いた布団の中で、軽い寝息を立てている。和昭は新聞を無造作に脇に置く。時計を見ると、十一時を回っていた。
「さて寝るか」
と立ち上がり、何気なくキッチンの窓を閉めようとした。窓からは廊下越しに町が見える。数センチ開いた隙間から目に映るものは、等間隔に連なった街路灯とまばらな家明かりで、すっかり寝静まっている。
 手をかけた窓を閉めようとしたほんの一瞬、和昭は「何んだ?」と息を止める。百メートル程先の交差点を、赤い回転灯の光が横切るのが見えたのだった。
 和昭はじっと窓の外を見続け、耳を澄ます。犬の遠吠えが尾を引いて聞こえた。 
 和昭の身体が硬直した。すっと窓ガラスを閉め部屋の明かりを消し、再び窓を僅かに開け、外を伺った。じっと目を凝らす和昭は、赤い回転灯が横切った辺りに、白と黒のツートンの車が止まっているのを見つけた。車の屋根には、うっすらと回転灯の影が見える。やはりパトカーだった。

 二階の窓からじっと外の様子を伺う和昭。その同じアパートで、もう一人窓に顔を寄せる姿があった。一階の管理人のおばさんだ。窓から覗きつつ、部屋でお茶を飲んでいる旦那さんに小声で話す。
「おじいさん、来たよ。警察の車」
「間違いないのか。人違いだったら恨まれるぞ」
「手配の写真にそっくりだよ。髭は写真にはないけどね、二階の男。まず間違いないね。それに呉屋っていう名前らしいけど、手紙が来たのは見たことないよ」
「二階の二人何やったんだっけ」
「すぐ忘れるんだから、おじいさんは。二階の娘さん、入居の時は十七って言ってたけど、まだ中学三年だって。それに妊娠してるらしいよ。学校にも行かず、遊び回って……。ああ恐ろしい世の中だこと。早く警察に捕まればいいんだよ、あんな不良は」
「そう言われれば上の二人、出かけるところを見たことないぞ」
「そうだろう、きっと悪いことやりまくって逃げ回ってるんだよ。でももうすぐだよあの二人が捕まるのは」
 すぐ下で交わされている会話を知るすべもなく、二階の和昭はじっと外を見続ける。やがてパトカーの窓の人影が動くのを確かめると、窓を閉めロックした。そのまま玄関へ寄り、ドアロックとチェーン錠を確かめ、
「察だ!」
と、押し殺す声で叫んだ。部屋の豆球をつけた和昭は、えもん掛けのズボンとシャツを引き取り、慌ただしく着替えた。
「どうした?」
 布団の中から見上げる安江に、
「パトカーだ! 手が回った、早く用意しろ」
と、安江のジーパンやシャツを、えもん掛けから外し布団の上に投げる。安江が布団から起き、着替えた頃には和昭はキッチンに置いてあったロープの束を手にすると、部屋を横切り裏窓の下に置く。
「靴を持ってこい!」
と叫ぶなり窓を静かに開け、ゆっくりとロープを下に垂らす。二階の窓から地上まで、数メートルの高さを白いロープがするすると降りた。靴を手に近寄った安江に、
「俺のバッグに必要な物を詰め込め。財布に懐中電灯、工具箱も忘れるな」
と声を出す。和昭はロープの端を流しの蛇口に結び付け、力を込め丈夫さを確かめる。安江は部屋のあちこちから必要な物を寄せ集め、バッグに詰め、窓際に寄った。
 和昭は窓をまたぎ、バッグの握りを肩に通すと、モルタルの壁を降りた。続いて安江もロープにぶら下がる。だが地上を見下ろすと怖さが先にたち、ロープを握りしめてしまう。和昭の、早く降りろと促す合図に、安江は思わず握る手を緩める。次の瞬間、安江の体は地上にするすると滑り落ちた。
「熱い!」
 ロープの滑りで安江の手が焼けた。水ぶくれの痛みを我慢し、和昭の後に続く。二人は足音を忍ばせ裏道を逃げた。家と家とのぬかるんだ道を、足を取られそうになりながら夢中で駆けた。
 暗闇の道を数百メートル走り、道に止めてある車の影に身を寄せた。遠くの道をパトカーが二台、走り過ぎていった。
 車の陰の和昭はバッグからドライバーを取り出すと、中腰になり車の横窓に張りついた。ドライバーの先を窓ガラスの隙間に差し込んだ。すっぽり入ったドライバーを上下に振ると、窓ガラスは一せんち程隙間を作っていた。
「安江、窓をずり下ろす。隙間に手を入れろ」
 二人は窓ガラスにぶら下がり力を込めた。
「一、二の三」
 拍子をとり何度も力を入れると、窓ガラスは、ずるっずるっと下がり始める。
「よしその調子だ」
 なおも力を入れ続けると、十五センチほどの隙間を作っていた。和昭は窓ガラスの隙間に腕をいっぱい入れドアのロックつまみに手を伸ばす。
「よし開いた」
 和昭はドアの取っ手に手をかけ、ゆっくり手元に引くと、体をのめり込ませるように車内に入る。
「工具箱とライト」
 そう指示する和昭に、安江はバッグから取り出し手渡すと、車の外で見張りに立った。ハンドルの下辺りへ顔を突っ込んでいる和昭は、ニッパーを手に電気配線を探っている。見張りを続ける安江は、刻一刻と過ぎる時間に気持ちをじらした。時々車内で、パチパチと電気火花が飛と、安江は心配を募らせた。突然、ブルブルブルとエンジンが回りだしたかと思うと、ブルーンと一気にエンジンがかかった。和昭がハンドルの下から這い上がり運転席につくと、安江も助手席に滑り込む。
「よし行くぞ」
 和昭はヘッドライトをつけると夜の道に車を走らせた。最初にパトカーを見てから僅か十数分の早技であった。
 知念刑事と数名の警官が和昭のアパートに踏み込んだのは、二人が脱出した直後だった。アパートの管理人から鍵を借り、チェーン錠を切り、一気に部屋になだれ込んだ知念刑事の目に映った光景は、薄明かりの中に張られた一本のロープと、開け放たれた窓だった。とっさに無線機に送話スイッチを押し、緊急配備と警察犬の要請を指示した。
 知念刑事は近辺に二人が隠れていると見て、五十人近い警官を動員して一帯を捜索した。近くの国道や県道にも検問がはられ、通過する車両を徹底的に調べていたが、すでに和昭らが走り去った後のことだった。
 知念刑事はパトカーの仲で、刻々と入る無線報告に耳を傾けていたが、そのどれもが犯人の手がかりになるものではなかった。頭に血をたぎらせ、唇を噛み、気持ちを爆発させていた。
「金城の野郎!」
 知念刑事は握ったマイクを、ダッシュボードに叩きつけ、隣の警官を怒鳴り散らしていた。
「奴等にここのアパートを紹介したのは誰だ! そいつを連れて来い。絞り上げれば何か吐くだろう。ぐずぐずするな!」  
 まるで泡盛に浸かったような、知念の赤ら顔だった。

八章

2005年04月01日 | Weblog
「和、どうしてあのアパートが察に分かったんだろう?」
「管理人のババアだろう。俺と廊下ですれ違ったとき、薄気味悪い顔としてやがった」
「潤さんたちに迷惑かけるだろうか?」
「多分……」
「二人ともよくしてくれたものね」
「警察のやろう、俺たち皆しょっ引くつもりだ。くそったれが!」
「和、どこか当てはあるの?」
「名護からちょっと行った親川にダチがいる」
「誰?」
「賢吉だ。苗字はたしか、松田」
「頼るしかないね」
「安江、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「うん、気持ちが悪い。吐きそう」
「安江、暫く我慢しろ」
「逃げ切るだけ逃げ切らないと。休むのは後だ」
 車は猛スピードで駆けた。和昭がハンドルを切るたびにタイヤが激しく鳴った。家並みの間から嘉手納飛行場の灯が見える。やがて広い道路にジャンプするように乗り入れた。
「58号に乗った。少しは楽になるだろう」
「私のことはいいから走って」
 安江は窓を下ろし吐いた。アパートから脱出した疲れと、つわりの症状が加わり顔面蒼白となっている。
「和、苦しい」
「どこかで休むか?」
「そんなことしてたら察に捕まっちゃうよ」
 安江はタオルを口にあて、空吐きを続けた。和昭は片手でハンドルを握り、左手で安江の背中をさすった。 
 車は名護に入った。和昭はこんもりした林に車を乗り入れた。エンジンを切ると朝もやの静けさが車を包んだ。東の空が白く明け始めている。
「安江、少しここで休む」
「名護に着いたの?」
「着いた。ここで一番のバスを待って、親川に行く。少し寝よう」
「私、体がえらい」
「少し休めばもどるだろう」
 そういいつつ、和昭は安江の額に手をあてた。額から流れでる汗と熱気が和昭の手に伝わる。和昭はタオルで安江の額を拭いた。リクライニングを倒し、横向きになった安江の背中をさすり続ける。安江は大きな息をさせつつも眠りに入っていった。

 二人は小鳥の鳴き声で目を覚ました。うっすら目を開ける安江に和昭が声をかける。
「どうだ? 具合は」
「ああ和、眠ったら少しおさまったみたい」
「よかったな。これからターミナルまで歩いて、バスに乗換えだ」
「行き先は親川だったわね」
「そうだ。始発のバスに乗る。起きたらすぐに支度だ。車の中には何も残さずに行く。見つけられたら足がつく、いいな」
 二人が車から降りると、鳥のさえずりが一層やかましく聞こえた。人気のない朝の道をバスターミナルまで歩き、辺戸名行きのバスに乗った。乗客は五六人乗り込んでいる。
 バスは国道を北に向かう。十分も揺られていると、周囲をサトウキビ畑にすっかい囲まれた田舎道を走っていた。安江は座席でうとうとし始めていた。和昭は窓の外をじっと眺めている。
 やがてバスは親川入口の停留所に止まった。二人が、まるで放り出されるように道路脇に立つと朝の湿りが漂う中、眠ったような村の景色が映った。和昭は、ふらつく足取りの安江を抱えるようにして歩き始めた。
「和、私おなかがすいた」
「もうちょっと我慢だ。賢吉のところに着いてからだ」
「遠いの?」
「すぐのはずだ」
 和昭は、かってこの村を訪れた古い記憶の糸をたぐっていた。確かこっちだったが……、と周りを見定めながら、キビ畑の道を進む。弓なりになった道を暫く行くと、ぽつんと立つ公民館に出くわせた。村民の集会所となっている古い木造りの建物には、親川公民館と書かれた板が掲げられている。
 和昭は頭に描いた地図を確かめ、方向を日の出の向きと照らし合わせ、更に進んでいった。所々に木々の繁りが見られ、鳥がさえずり飛び交っている。
「安江、あそこだ」
「良かったー、一体どうなるかと思ったわ」
とため息混じりに安堵の声を上げた。二人が立ち止まったのは、一軒の平屋造りの家の前だった。和昭がドアを引くと、すっと開いた。
「松田君、松田君いますか」
と呼びかけると、中から年老いた男が腰を屈めて出てくる。
「賢吉かね……」
 老人はゆっくり声をだす。
「はい、賢吉君の知り合いのものです」
「ああ、今呼んできますから」
 和昭の顔をいぶかしげに眺めながら奥に消えて行った。
 暫くして、廊下をばたばたと賢吉が現れた。
「おう和か、無事だったか。そちらの人が……」
「そうだ、安江だ」 
 和昭が安江を紹介すると、安江は頭を下げた。
「とにかく上がれ。疲れただろう」
と二人を招き入れた。
ティーシャツにジーパン姿の賢吉を先頭に、三人は廊下を進みフローリングの部屋に入った。賢吉は寝起きだった。部屋の隅のベッドには整頓されていない掛け布団が見える。フローリングの中央はじゅうたんが敷かれ、三人はその上に座った。
「宏志が捕まったことは聞いたが、そのあとお前達がどうなったか、心配だったんだ」
「コザの潤の所にいたが、もう頼れるところはお前のところしかない。面倒見てくれ、頼む」
「任せておけ。俺の親父は貸し部屋を持っているから心配するな」
「ええー、すごい!」
 安江は思わず歓声を上げた。賢吉は安江の方に目をやりながら、
「安江さん、おなかの子、大丈夫?」
と聞く。
「おなかの子も大事だけど、私たちが危ないから……。でも順調みたいです」
「それにしても少年院で一緒だった和昭が親父になるとはな」
 賢吉の言葉に和昭は、
「まだ四五ヶ月だ。これからが大変だ、誰にも相談できねえから」
と顔をこわばらす。安江も、
「なんともないときはいいけど、おなかが痛んだときは物凄く心配。どうしたらいいのか分からなくて」
「そうだろうな安江さん。よし部屋を案内しよう」
 賢吉がたち上がった。
 賢吉の親父が持っている貸し部屋は、一般のアパートとは程遠いもので、豚小屋を改造した掘っ立て小屋だった。
 ずっと以前、といっても戦後のことであるが、この親川では養豚が盛んで、少なくとも十軒の豚舎が見られた。食肉用に各豚舎では何十頭もの豚を飼っていたのだが、沖縄返還後は公衆衛生上の法律や規則ができ、自由に豚が飼えなくなった。
 豚が飼えなくなると、今まで豚舎として使っていた建物を壊すのも惜しく、数軒の持ち主は豚舎を貸し部屋に改造していた。当初はベニヤ板や簡易屋根の造りだったが、入居希望が多く、その後改造を重ね、プレハブハウスになっている。
 一軒の豚舎あとに、八畳ほどの広さの部屋が五つ、六つできていた。持ち主は一部屋二、三万の安い家賃で貸している。部屋を利用するのは日雇いの労働者か、ぐれて家を飛び出した若者であった。
「賢吉、お前いい家具持ってるな。ビデオも揃っているし、ベッドも高そうだな」
「まあな。ちょっとここで待っててくれ。お前たちのこと話してくる」
 そういって親父さんたちの部屋へはいっていった。数分ののち賢吉は二人を貸し部屋に案内した。貸し部屋は、賢吉の家の裏側に建っていた。貸し部屋と賢吉の家の間は広い庭になっていて、数本の立ち木と、貸し部屋の共同の洗い場とトイレがあった。
 和昭らは貸し家の左隅の部屋を借りることになった。その部屋は板張りの部屋が一つきり。玄関ドアと、玄関と反対側にドアがあった。裏扉から共同の洗い場と便所にでられた。窓は横に一つあった。電灯は蛍光灯が天井に作りつけてある。
 何もない部屋に、賢吉が貸してくれた布団を一組、運び込んだ。ここが昔豚舎だったと思わせることはなかった。食料、雑貨は近くに小売店があり、必要最低限のものはそこで買うことが出来、毎日の食事の材料もそこでまかなうことが出来た。
 ここの貸し部屋は、夫婦者が一組、一人で使っているのが三人いた。彼らは昼間は外に出かけてしまうので、夜にならないと帰ってこない。
 親川村の住人は、せいぜい三百人ほど。七、八十世帯の家が散らばって建っている。村の中で若者の姿を見るのはまれで、子供か老人ばかりである。村の周りは一面のサトウキビ畑で、丘を越えたところに僅か、稲田が広がっていた。
「あー疲れた」
 安江は床に腰をおろし、積まれた布団に背をあずける。
「安江、少し休め。部屋の整理はそれからだ」
「うんそうする」
 和昭が布団を広げ、安江はジーパンとシャツを脱ぐと、その中にもぐりこんだ。和昭は鍵を確かめたり、裏の洗い場を見て回った。





九章

2005年04月01日 | Weblog
「安江、体の調子はどうだ」
「別に変わったところは無いよ。ちょっとおなかが大きくなったぐらいかな」
 親川のアパートで二人の朝が始まった。
「今年の十二月に生まれるとして、あと五、六ヶ月か? 安江」
「察にさえ邪魔されなかったらね」
「産むには幾ら金がいるんだ?」
「分からない」
「金を何とかしねえとな。手持ちの金も残りすくねえだろ?」
「あと何日持つかというところ」
 和昭は金の工面に切羽詰まっていた。住むことは何とかなったが、このままでは食べることに事欠く有様だ。和昭はアパートの独り住まいの男たちに、仕事について相談をもちかけた。男たちは、
「明日の朝、俺たちについて来い」
と答えた。

 次の日の朝早く、和昭は男たちと一緒にバスに乗り、名護へ出て行った。名護市役所近くの広場へ行くと、そこには既に数人の人夫姿の男たちがたむろしている。和昭らは、同じように広場の一角でタバコを吸い、立ち続けた。
 やがて一台のトラックが広場の前に止まった。
「トラックが来た。あれに乗りますよ」
と和昭に話す。男たちは一斉にトラックの荷台に飛び乗っていった。和昭も後に続き荷台に飛び乗った。
 首に手ぬぐいを巻き、汚れたジーパン姿の和昭らを乗せたトラックは、名護の町外れの、道路工事の現場に着いた。トラックを待っていた現場監督が、荷台から降りる人夫の数を数え、てきぱきと仕事の分担を指示した。
 初めての和昭は、貸し部屋の男と一緒に仕事をするよう指示された。和昭は重いつるはしを渡され地上に区画線が引かれたところを掘り起こすよう言われた。
 日ごろ力仕事をしていない和昭は、すぐに腕の動きが鈍くなっている。和昭の体からは滝のような汗が流れ出ている。頭上からは、ギラギラ照りつける太陽が、体中の水分を全部吐き出させるかのように、輝いている。
 やっと昼の休憩の時間になると、和昭は崩れ落ちるように地面に大の字になる。
「お前、力仕事には慣れてないようだな。最初から全力をだすな。適当に力を抜いてやれ。最後までもたないぞ」
 貸し部屋の男は笑いながら声をかけた。和昭は水筒の水を飲みながらうなずいた。
「さあ、昼だ。お前昼飯はどうする? 俺は弁当を買いにいくが」
と和昭に聞く。
「俺も買いにいきます」
 和昭は立ち上がり男についていった。工事現場の近くの木陰に一台のライトバンが止まっていて、台の上に弁当を並べている。和昭は弁当とお茶を買い、まるで飲み込むように食べた。
 午後からはやっとペースもつかめ、夕方までの数時間を適当にスタミナ配分をしながらつるはしを振るった。五時に仕事終了の合図が鳴ると現場監督が現れ、一日分の金が入った茶封筒を一人づつ渡した。
 和昭は渡された袋の中の千円札を確かめるとポケットに捻じ込む。人夫の男たちは、再びトラックの荷台に揺られ名護まで送り返された。
 名護で、貸し部屋の男たちは酒を飲みに繁華街に向かった。和昭は一人バスに乗り、安江の待つ貸し部屋に戻った。
「お帰り、どうだった仕事は?」
「あー疲れた、飯にしてくれ、腹がペコペコだ」
「お疲れ様、慣れない仕事だから、ちゃんと最後まで持つか心配だったよ」
「最初の日は堪える、体がビシビシ言ってる」
「明日も行くの?」
「行かねえと飯の食い上げだろ」
と和昭は言う。ジーパンにトレーナー姿の安江は、夕食の準備をした。
「湯を浴びてくる」
 そういって和昭は裏口に向かった。賢吉の貸し部屋は浴室がついていなかった。ほかの住人は親川村に一軒だけある銭湯で体を流していた。しかし和昭らは地元の人に見られるのを嫌っていたから、にわか造りの浴室を作っていた。部屋の裏口を出た辺りに二畳ほどのスペースがあって、和昭はそこにビニールシートで四方を囲み、中に木製のすのこを敷きプラスチックのたらいを置いた。湯はプロパンガスを炊いて沸かしたものを、バケツで運び使った。体を流すだけの簡易浴室だったが、ともかく体の汗は流せた。
 二人は、まだ食卓を用意できてなかったから、床の上に新聞紙を敷き、その上に茶碗やお皿を並べ食べた。
「和、今日の昼の弁当はどうだった?」
「疲れてたから味わっているまもなかった。明日からは安江、弁当作ってくれ。弁当代もばかにならないから」
「わかった、栄養のあるものつくるよ」
「天気はどうなんだ、明日の?」
「下り坂といってたけど」
 二人にとって気になることといったら天候だった。いくら働く気があっても日雇いの仕事は雨は休みだった。
 夕飯が済むと疲れが一気に出たのか和昭は、明日も仕事に行くから支度しといてくれ、と言い残し、どっと寝込んでしまった。

 翌日は朝から雨だった。雨になると仕事はなく、全くのお手上げだ。ほかの部屋の三人は、今日が雨になるのは承知していたらしく、まだ寝ているようだ。
 沖縄の梅雨は五月の末から中旬にかけて続く。一日中、しとしと降り続く日もあれば、スコールのようにザーッと急に降り出し、その後太陽が顔を出すこともある。雨が降る間、気温は上がらないが湿度が高く、太陽が顔を出すと湿度は下がるが、急に気温が上がる。いずれにしても不快な時期だ。
 次の日も雨だった。雨が続くと、和昭も気持ちを苛立たせている。手持ちのお金はすっかり底をつき、仕事にも出られないと、サトウキビ畑の変化の無い一面を眺めては、もやもやする気持ちを一層募らせる。安江は余り布に鋏を入れ、カーテンを作っていたが、梅雨空は二人を無口にさせていた。

 次の日はやっと太陽が顔を出した。和昭は安江の作った弁当を手にバスに乗り仕事場へ向かった。仕事が終わったとき、他の三人も雨続きで気持ちを苛立たせていたのか、仕事が終わると和昭を名護の居酒屋に誘った。
 和昭も仲間付き合いを余り断っても、と思い適当にセーブして飲んだ。皆は和昭の懐具合を気遣って勘定を払ってくれた。
 三人と別れ、和昭は一人ほろ酔い気分でバスを降り、親川の田舎道を歩いていた。すると公民館の広場近くで、一台の車が走り寄って来る。賢吉だった。
「和、どうだ仕事は?」
と、車の窓を下げ声をかける。
「このところお前の顔を見なかったけど、どっかへ行っていたのか?」
 賢吉は返事をせず、和昭に「車に乗れ」と手で合図をした。和昭が助手積に座りドアを閉めると、
「実はな和、仕事だ、手伝ってくれ」
と切り出した。和昭は賢吉の頼みがどういった内容のものかは分かっていた。どこかのスナックへ盗みに入る仕事なのである。
「いつだ、賢吉」
「明日の夜、やるスナックは目星をつけてある。名護のビール工場の近くだ」
 賢吉の言葉をじっと聞いていた和昭は、
「よし分かった」
と短く答えた。
「明日夜十一時過ぎ、名護の市役所の近くにいてくれ」
という賢吉に、
「十一時だな」
と短く答え、ドアを開け車を降りた。そのまま和昭は安江の待つ部屋に戻った。
「安江、明日は帰りが遅くなる。賢吉に付き合えと声をかけられてな。断るわけにもいかないから」
「珍しいわね、賢吉さんに会ったの?」
「さっき公民館のところで」
 そう答える和昭の表情を安江はじっと伺った。しかし世話になっている賢吉の言うことだ、応じるほかないと安江も思った。

 翌日和昭は仕事が終わってから時間を潰し、名護の市役所に向かった。すっかり人影の途絶えた夜の道に賢吉が立っていた。賢吉も和昭も昨日会ったときの表情とはまったく別人のものだった。顔をこわばらせ、言葉少なくどこか殺気を漂わせていた。
「手袋だ」
 賢吉が差し出した黒皮も手袋を和昭ははめた。さらにかぶっているひさしのある帽子を一層深くかぶった。二人は近辺の地形を記憶するため一時間も歩いた。止めてある賢吉の車の位置や押し入る店の近辺の道筋を克明に頭に叩き込んだ。
「和、あのスナックだ。お前は俺が入り口の鍵を外す間、見張りに立ってくれ。誰かが来たら指笛を鳴らせ」
「その後は?」
「俺が手で合図を送ったら一緒に中に入る」
 賢吉が目をつけたスナックは、十メートルほどの袋小路の奥にあった。午前三時、和昭は表通りの電柱に身を寄せながら辺りを見張った。賢吉はドアに張り付き、鍵を外しにかかっている。
 和昭はじっと道の両側を見張った。町はすっかり寝静まり、犬の子一匹通らなかった。袋小路の奥を見ると、賢吉が鍵を外し終え手を振っている。和昭は左右を見定め、身を翻すとスナックへ走り寄った。賢吉が先に中に入り、和昭も後に続きドアを閉めた。
 店の明かりはつけず、和昭が懐中電灯でレジの鍵穴辺りを照らす。賢吉は以前から鍵を外す名人だった。曲がりくねったスチールの針金二本で、たいていの鍵は外してみせた。
 暫く鍵穴に針金を差込み手を動かせていると、表の道を車の音が響いた。そのときには和昭は入り口ドアに寄って、小さなサイトグラスに目を当てている。
「誰か来る様子があるか、和」
「いや車が走り過ぎただけだ」
 和昭の返事に、賢吉は鍵を外すのを続けた。数呼吸のあとレジの鍵が「カチッ」と鳴った。賢吉はレジの引き出しをゆっくり引いた。和昭が中を照らすと、賢吉は中の札をわし掴みにするとポケットに捻じ込んだ。ざっと五十万近い金であった。
 賢吉はレジの引き出しを戻し、ドアに寄る。暫くサイトグラスから外の様子を伺っていたが人影の無いのを確かめると、二人はドアの外に出た。足音を殺すように袋小路を抜け、表通りを足早に進んだ。和昭がまず先を歩き、五十メートルほど後を賢吉が進んだ。
 賢吉の車の所までくると二人は吸い込まれるように車内に入った。
「和、この袋の中に手袋を入れろ、俺が処分する」
と布袋を和昭の前に出す。和昭は二十万円の分け前を受け取った。金をポケットに突っ込み、タバコに火をつけた。二人は親川に戻るまで一言も口を利かなかった。賢吉の家の前で車を降り、和昭はすぐ貸し部屋に戻った。
 ギーッと扉を開け部屋に入ると、安江は布団の中で和昭の帰りを待っていた。カタ、カタとコップに水を注ぐ音に、和昭の無事を思い気持ちをほっとさせる。
「和、何やっていたの?」
 思いきって安江は布団の中から声を出した。和昭は一瞬体の動きを止める。暫く黙っていたが、
「賢吉に頼まれた仕事だ」
と帽子を取りながら答える。和昭はジーパンと上着を脱ぎ捨てると、そのまま布団に入り寝込んでしまった。
 安江は和昭が漂わす緊張感を感じとっていた。和昭がものすごく頼もしく思えると同時に、本当に無事子供を生む事ができるだろうか、という不安。その二つが嵐のように安江を襲った。

十章

2005年04月01日 | Weblog
 翌朝、天気は晴れた。
「さあ今日も仕事に行くぞ」
「あ、和、今日は弁当作らなかった。悪いけど買って食べてくれる」
「何だ、どうかしたのか?」
「いや、何作っていいか決まらなくて……」
「それじゃ行ってくる」
 そう言って和昭は、道路工事の仕事に出かけた。安江は和昭を見送った後、部屋に戻るとジーンズのポケットから紙切れを取り出していた。雑誌の案内広告を破いたものだが、テレクラの文字があった。
 小銭入れと紙切れをポケットにしまうとスニーカーを履き、通りに出た。百メートル程行くと公衆電話ボックスがあった。安江は電話ボックスの狭い空間に吸い込まれるように入った。コインを入れ、紙切れの電話番号を押す。呼び出し音の後、相手の声がした。
「もしもし、おはおう」
 電話に出た男の声は三十歳を超えた厚みがあった。安江は少し間を置いた後、
「今どこにいますか?」
と話す。
「沖縄市だけど、君は?」
「ちょっと沖縄市からは離れているけど」
「そうすると名護の方? もし会えるのだったら車とばすよ」
「そう名護だけど」
「名護で何やってるの?」
「それはちょっと……。歳聞いていい?」
「三十二。君は?」
「十八」
 安江は無表情に答えながら、この男ならいいか、と気持ちのふん切りをつける。テレクラの相手はセールスをしている男で、昼に名護で会う約束をつけた。安江は電話ボックスを出ると部屋に戻った。
 久しぶりに化粧をし、髪のブラシを丁寧にかけた。気持ちを落ち着かせようと、ぐっと唇を噛んだ。自分でも息づかいが荒いのが分かった。和昭と知り合う前は、街で遊び歩き知り合った男たちと飲み回っても、自分の行動に疑いを持つことなど全く無かった。それが今回は違った。
 バスに乗り、名護に向かうあいだ何も考えないよう、頭を空っぽにしようと努めた。指定のコーヒーショップで、安江は店に入らず近くの木陰から様子を伺った。やがて車が駐車場に止まり、白の半そでシャツの男が中に入った。
 安江は数分の間をおいてコーヒーショップに入った。
「朝の電話の方ですか?」
 安江は椅子に座る男に声をかける。
 男は安江を足先から顔まで観察するように見上げた。安江は向かいの椅子に座った。
「はじめまして、僕、セールスやってます」
「はじめまして……」
「君、とても可愛い方ですね。でもちょっとおなかが大きくない?」
「おなかが大きいと駄目なの?」
「いやー、参ったなー」
 男は店の中を、なにかバツの悪そうな表情で見回す。店は客がまばらだったが、男の顔は迷い始めたものだった。
「どういう事情か知らないけど、妊娠してる女性が来るって話は余り聞いたこと無いもので……」
「私、お金が要るの。だからここへ来たの」
「いやー参ったなー。あのね男はね、女なら誰でもいいってもんじゃないの」
「どうするの? はっきりして」
「ちょっと聞くけど、腹の子供の親は?」
「一緒に住んでいる」
「そうか……、だったら駄目だな」
「初めて会って何なんだけど、私生活に困ってるの。働こうにも無理だし」
「それは分かるけど」
「いいわ、嫌だったら仕方ないから」
 安江は立ち上がろうとした。すると男はそれを制するように、
「ここまで来たんだ、一緒に飯食うの付き合ってくれ。君にもおごるよ」
「いいんですか? すみません」
 安江にとってもすぐに帰ったところですることも無かった。食事代が浮くだけでもバス代替わりになると思い応じた。
 男は帰りに、
「これとっていてくれ」
と言って、一万円札を安江に渡した。安江は軽く頭を下げ、受け取ったお札を小銭入れにたたんで入れ、帰りのバスに乗った。

 夕方になり和昭が帰った。安江は普段と変わらないように振る舞った。食事をし、体を洗い、布団に入った。しかし昼間の光景が頭に浮かぶと、穏やかな気持ちにはなれなかった。和昭に対する裏切りの後ろめたさが安江を襲った。
 和昭が布団の中で、安江に伸ばした手を振り払うようにはねのけ、早く夜が明けてくれることばかりを願った。
 安江は薄い氷の上を歩くような夜を過ごし、朝を迎えた。和昭も隣で何度も寝返りを打っている。
「安江、何考えてんだ?」
「何も……」
 布団の中で、和昭と安江の低い声が交差する。
「安江、昨日の昼、どこかへ行ったか?」
「うん、下着がそろそろ古くなったから、買い物に」
「お前、俺に隠しているだろ。雑誌の破いてあったところは何だ?」
「 和昭の言葉に安江の胸に張っていた氷が、パーンと砕け散るのが分かった。
「黙って仕事に行って」
 その言葉に和昭は、がばっと布団から身を起こした。と同時に平手が安江の顔に飛んだ。まるで石の塊がごろんと転がるように、安江の顔が枕の上で向きを変えた。安江は無言だが、胸にかけた布団が上下に波打ち、息づかいの荒さがわかった。
「和だけに仕事させて、私だって、できることあったら、して悪いの?」
「馬鹿やろう! 俺たち、今何やってるのか分かっているのか!」
「いいから和、今日は仕事にでかけて、お願い」
 落ち着いた声で安江が言うと、和昭は布団の中にもぐり、安江に背を向ける。
「安江、今日は出かけないからな」
と布団の中でつぶやく。安江は布団から起き上がる。パジャマを着替え、朝ご飯の用意をするため裏口のドアを開け、外へ出た。
共同の洗い場の先は、手入れのされていない草むらが賢吉の家まで続いていた。安江は何気なく草むらに歩いていった。そのときガサッと足元で音がした。
 安江はこんもりとした繁みに目をやり、はっと息をのむ。次の瞬間、心臓がキューっと締め上げられ、体中を恐怖が駆け抜けた。
 すぐ足元に体長一メートルほどのヘビが、かま首を持ち上げ今にも飛び掛りそうに身構えている。手首ほどの太さはあろうか、体中を覆ったうろこが気味悪く光っている。その戦慄に安江は足がすくみ、動けなくなってしまった。
 沖縄のヘビ、ハブは猛毒を持つがゆえに動きが鈍い。天性の武器を与えられたものの余裕だ。不気味な縞模様を草陰に見せ、じっと安江の方をにらんでいる。
 この島に住むものは、何度もハブを見かけることはないが、潜在的にハブに打たれることへの恐怖感を抱いている。しかし現実にハブを目の前にすると、それは言葉を越え、殺されるという動物的恐怖に襲われる。
「キャーッ!」
 朝の静寂さの中で、安江が叫んだ。と同時に和昭が、パジャマ姿のまま部屋から飛び出てきた。
「何だ、どうした!」
 血相を変え叫ぶ和昭に、安江は無言のまま草の繁りを指差す。和昭は身をひるがえし、立てかけてあった木切れを取ると脱兎のごとく草むらめがけて飛び掛った。ハブは長い体をくねらせつつ草むらの向こうに姿を消した。安江は気持ちを動揺させ、
「もう嫌!」
と金切り声をあげる。木切れを草の繁みに、手当たり次第に打ち付けていた和昭は、安江のそばに戻り、
「何がもう嫌だ、金は俺が用意する。お前は家にいればいいんだ」
と吐き捨てた。
「もう嫌よ! 嫌だったら嫌!」
「分からねえ事言うな!」
「もうこんな生活、嫌っ!」
「しかたねえだろ」
「何がしかたないの! 私に何も話さず。それで私がちょっと金を稼ごうとすると口出して!」
「お前は余計なこと考えるな!」
「和昭のバカ! もうむかつく!」
 わめき散らす安江に、和昭も、
「嫌だったらどこへでも、好きなとこへ行け!」
と怒鳴る。その言葉と同時に安江は、わーっと泣き出す。泣きながら、ぱっと振り返り裏口から入ると、そのまま部屋を突っ切り玄関から外へ駆け出して行った。安江は通りを抜け、キビ畑の道をどこまでも駆け続けた。
 和昭は木の棒を握ったまま、洗い場の横で呆然と立ち尽くす。売り言葉に買い言葉で、頭をカッカさせる和昭は、「安江のやつ、勝手なことばかり言いやがって」と興奮が収まらない。
 どのくらい和昭は庭に立ち続けていただろう。貸し部屋から一人の男が出てくる。
「お前喧嘩するのはいいけど、あの人、普通の体じゃねえだろう? 車にでもひかれたら大変だぞ」
と和昭をなだめた。その声に和昭も、はっと我にかえり、
「安江! 安江!」
と声を張り上げ、部屋を駆け抜け、表に飛び出して行った。
 早朝の村の道に人影はなかった。和昭はバス通りまで一気に駆け、左右を見つめるが、どちらを向いても安江の姿はなかった。
「安江! 安江!」
 朝もやのなかで和昭の声が鳴った。和昭は、この道のどっちかへ歩いて行ったに違いないと思った。西は名護、東に行けば辺戸名に通じる道だ。
 和昭が、どっちだと迷っていると、東の方からバスが走って来る。名護行きのバスだった。和昭がバスに向かって手を上げると、運転手はブレーキをかけドアを開けた。
「こっちに走ってくる間に、女が一人歩いているのを見なかった?」
「いや、だれもいなかったよ」
 運転手は和昭を見下ろしながら言う。和昭はバスのステップを駆け上がり、一番前の座席に座る。国道を走り出すバスの中で、和昭は目を皿にして前方を見続ける。道路は一車線しかなく、歩いていれば見逃すことはなかった。
「どこへ行っちまったんだ、安江……」
 バスの中でぶつぶつ呟いた。バスは既に三つ停留所を過ぎている。そのときだった。道路端を、小走りで駆け続ける安江の姿があった。
「安江!」
と和昭は立ち上がって叫んだ。ちょうどバスが安江を追い抜いたところで、
「止めてくれ! ここで止めてくれ!」
と運転手の腕を掴む。運転手は徐々にスピードを落とし、バスを止める。和昭は腰の辺りを探すようにバス代をとり出そうとしたが、パジャマ姿の自分に気づき、
「あの女が持っているので」
と指差す。運転手は、
「いいよ、いいよ」
と手を振った。和昭は開いたドアから道路に飛び降りた。泣きじゃくりながら、こちらに向かってくる安江に向かい、
「安江!」
と叫ぶ。バスの発進する音でかき消されそうになったが、安江はその声に顔を上げた。和昭は走りより、安江の肩を掴んだ。安江は急に大きな声で、ワーワーと和昭の胸で泣き崩れてしまった。
 和昭は何も喋らなかった。立ったまま安江を抱いた。安江は暫く大声で泣いていたが、やがてすすり泣きに変わっていった。二、三度息をするたびに胸の嗚咽を繰り返した。
「ごめん和昭」
「いいんだ、何も言わなくていい」
「昨日私、テレクラに電話した。相手の男は、私のおなかが大きかったから昼ごはん食べただけだったけど。私あやまる、和昭に……」
「もういいんだ、もういいから」
「和昭、ごめん……」
「わかったから、もういいんだ」
 二人は国道をゆっくり歩いて戻って行った。

 

十一章

2005年04月01日 | Weblog
「和昭、すっかり日焼けして黒くなったね」
「お前が白すぎるんだよ」
「だってどこへも出かけられないもの」
 和昭は炎天下での仕事のため顔は褐色に焼け、一見するとたくましく見える。だが貧しい食生活のためか、体つきは弱々しかった。
「安江、育児書みたいな本かなにか持ってるか?」
「ここの貸し部屋の夫婦から一冊もらった。出産のほんだけど、あるのはその一冊」
「それだけでは心配だろ。仕事の帰りでも買ってきてやる」
「頼むね」
 安江は腹の膨らみに合わせた、ゆったりとしたワンピースを着ている。化粧はすっぴん顔であった。夕食の後片付けする安江。外は細い雨が落ちている。和昭と安江の親川村での生活が梅雨空の下で続いていた。二人は僅かな稼ぎを細々と食いつなげる生活で、貸し部屋は質素なたたずまいを雨の中にけぶっていた。親川村に来てから一ヶ月半の月日が流れている。
「和昭さん、和昭さん見えるかね」
 ドアの外で弱々しい声がする。
「はい……」
 安江が、声を出しドアを開ける。外に立っているのは賢吉の父親だった。
「何か……」
「ちょっと話が……」
 父親の目が赤く充血している。その重苦しい様子に和昭もドアに寄ってくる。
「賢吉に何か?」
 和昭が父親の顔を見つめながら声を出す。
「どうしてこんな事に……」
 父親は涙声を出す。
「どうしたんです? 賢吉」
「馬鹿なやつでして、事故起こしたんです」
「ええ! それで賢吉は?」
「息子のやつ、わしより早く……。あの親不孝者めが」
 和昭と安江は顔を見合わせ、息をごくりと呑んだ。
――死んだ? 賢吉が――
「事故で賢吉が?」
 詰め寄るような和昭に親父は、
「くだらん死にかたしよって……」
「いつ?」
「今日の昼過ぎに」
「事故で?」
「昼に警官が来たんですよ。入り口でわしと警官が話している最中に、裏口から飛び出して行って。その後をパトカーが走って行って。途中の橋げたにぶつかって……」
「それで?」
「病院に担ぎ込まれて、連絡があったから慌てて病院に行ったけど、駄目だった。そんなバカな……」
 父親は、体から生気の抜けた表情で話す。和昭の目が激しく反応した。
「え、警察に追われて死んだ?」
 賢吉に対する突然の悲しみと、賢吉への捜査が自分たちにも及ぶ危惧。その二つが混ざり合って和昭を襲った。
「後からとも思ったんですが、早い方がいいと思って……。息子が渡してくれって言うもんだから」
「え? 賢吉が俺に?」
「病院でまだ意識があるとき、息子がわしに、和昭さんに渡してって。自分の机の引き出しに入っているからって言って。帰って見たらこの封筒が」
「そうですか……」
 そう言って賢吉は親父から封筒を受け取った。
「親父さん、明日ぐらいに葬式があると思いますが、俺たちちょっとわけがあって。葬式には出られないと思うので……」
「何か? ま息子だって警察に追われ死んだんだから……、ま何も聞きません。和昭さんたちのいいようにしてください」
「世話になっていて、親父さんすまんです」
 安江も和昭の考えが想像できた。
「ほんとにお父さん、お世話になります。何にもお礼するものがありませんが……」
「気にせんといてください」
「親父さん」
 和昭が改まった声で親父に話す。
「世話になりっぱなしで、こんなこと言えた義理じゃないけど、俺たち金がないんです」
 和昭の言葉に父親は、
「分かってます。部屋代なんていいです」
「すんません親父さん」
 和昭は深く頭を下げた。安江も、
「ほんとにお礼のいいようが。ありがとう」
と涙ぐんだ。
「それじゃ私はこれから何だかんだと準備がありますので」
「親父さんも気を落とさないで……」
「えぇ、じゃあこれで」
 そう言って戻って行った。安江がドアを閉めると、和昭は立ったまま、渡された封筒の封を切った。  
「何? 和、中は」
「何だろうな」
 そういいつつ和昭は封筒の中のものを取り出す。便箋二枚と一万円札の束が出てきた。
「和、賢吉さんに預けていたの?」
「預けたことはない」
 和昭は札の枚数を数えた。一万円札が二十枚あった。和昭は便箋を広げ、明かりの下で読んだ。
「何て書いてあるの?」
 そういう安江にも見せつつ文字を追った。ボールペンで書かれた字は紙に押し付けるように書かれていた。

     和昭たちへ

   もし俺が捕まってもお前たちは絶対逃げ延びてくれ。逃げて逃げて
   逃げまくれ。俺は捕まったって四、五年もすればシャバに戻れるから
   心配するな。ムショなんてどうってことないからな。俺が捕まったと
   しても、ムショからでたらまた会おう。
   金は使ってくれ。たいしたものではないけど、俺のしてやれる精いっぱいの
   ことだから使ってくれ。
                            賢吉


 和昭は読み終えると、便箋とお金をポケットに捻じ込んだ。
「安江、すぐ支度だ。明日には察がここへ来る。今夜中にでるぞ」
「持ってくものは?」
「身の回りのものだけだ」
「どこか当てはあるの?」
「もうどこもない。本土へ行くしかねえかも」
「誰か知り合いはいるの? 本土に」
「いることはいるが……。船だったらヤバイな。女のカツラつけるか」
「そうでもしないと見つかるかもね」
「お前持ってるか?」
「一つある、和急がないと」
「よし、バスの時間に間に合うように急ごう」
 和昭は、髪の長いウイッグを頭にかぶった。ひげと足の毛をを綺麗にそり、安江のスカートをはいた。シャツはサイズが一回り小さく、体にぴったりと張り付きどこか不自然さを感じさせた。それでも手回りの日用品と衣類の替えを紙袋四つに詰め込み、二人は貸し部屋を後にした。 

 和昭らは名護までバスに乗り、名護から那覇行きの最終バスに乗った。明日になれば和明の身元が明かされ、一斉捜査が始まる。動けるのは今夜だけだ。なんとしても名護から離れなければならなかった。
 深夜の那覇に降り立った二人は、バスターミナルから公園に向かった。
「安江、誰か友達はいないか。明日の夕方のフェリーに乗りたい。そこまで車で送ってくれる」「もっと早い時間のフェリーはないの?」
「大阪に向かうフェリーは、確か夕方出港だった。夕方までどこかでじっとしてないと」
「わかった、美香がいるから電話してみる。美香はスナックで働いているから、まだ仕事してると思う」
「あそこに公衆がある。電話番号、分かるか?」
「大丈夫、メモがあるから」
 二人は公衆電話まで歩き、安江が電話番号を押した。
「もしもし、私、お店の美香の知り合いですけど、美香と代わってもらえないでしょうか」
 安江は店の店員に美香の呼び出しを頼む。
「はい美香ですけど。どなた?」
「私、安江。分かる?」
「え? 安江。もちろん分かるよ。で、今どこ? 追われているんでしょ?」
「そう、今晩一晩泊めてくれない。一緒だけど、前話したことの和昭という……」
「分かった、分かった。店は二時に終わるから、わたし車だからそっちへ行くよ」
「来てくれると助かるわ」
「で、どこにいるの?」
「那覇のバスターミナルの近く」
「じゃあちょうど二時半、前一緒に行ったことがある、トロピカーナの前で待ってて。分かる?」
「大丈夫。じゃあお願い。迷惑かけるけど頼むね」
「気にしないって。じゃあ」
 受話器を置くと、和昭はほっとした表情だった。
「安江、うまく話がついたようだな」
「二時半にすぐ近くの店へ迎えに来てくれる」
「今十一時だから少し時間を潰さないと。ここに来る途中にあった公園の物置にでも入る」
 二人は公園の物置に戻った。公園の一角に物置小屋が建てられている。和昭は入り口ににかかっている南京錠を、近くに立てかけてあった鉄棒を差込み、一気にねじごと外した。小屋の中は清掃道具や木材が立てかけてあった。
「安江、虫に刺されるな。刺されると一週間は真っ赤にはれるぞ」
「わー、何か匂うな、和」
「ホテルや旅館が一番やばいんだ。我慢しよう」
「本土のどこ? 友達がいるのは?」
「岐阜にいる」
「フェリーはどこまで?」
「大阪だ。そこから私鉄か新幹線で向かう」
「ともかくもう沖縄はやばいよね」
「フェリーにさえ乗れれば、もう大丈夫だ。港に手が回ってなければいいが」
「和、逃げ切ろう。大丈夫だって」
 安江は見知らぬ本土での生活に不安が募った。しかし事情がどうであれ、本土しか行くあてがないとなると、その不安も一筋の希望に変わっていった。
「そろそろ時間だ。安江、行くぞ」
 和昭は物置小屋のドアを開け外に出る。通りの車の数もまばらになっていた。約束の店の前に来ると、既に美香の車が待っていた。二人が近づくと後ろドアが開く。
「美香、ありがとう。きてくれたのね」 
 そう安江が声をかけると、
「いいから早く乗って」
と、美香は二人を後部座席に乗るよう手で指示を出す。小型の車であったが乗るのに不自由はなかった。
「私のアパートでいい?」
「助かるわ、明日の夕方の船に乗る予定。ともかく頼むね」
 安江は、大きくなっているおなかをかばうようにして座席に座る。
 車はすぐ美香のアパートに着いた。美香は部屋にはいるとキッチンで食べ物をつくった。そのあいだ、安江と和昭は交代で風呂に入った。二人とも、いままで湯で体を流すだけのものだっただけに、湯船にゆっくり入れる感慨を味わった。
 湯から上がると、美香の作った食事を二人は流し込むように食べた。
「安江、体は大丈夫?」
 美香が安江の体を心配した。
「何も分からないから心配。でも順調にいっているみたい」
「よかった。二人が鑑別所抜けたとき、新聞に大きく出てたから、そのあとどうなったか心配だったよ」
「ありがとう、それで美香、ぼろでいいから着れるもの少し頂戴。見ての通り、彼女装してるでしょ。私のちっちゃいのサイズが。美香のだったら和昭が着ても不自然じゃないから」
「何でも持ってって。船の中で食べるものも冷蔵庫にあるもの好きなだけ持ってって」
 美香の好意に二人は感謝した。
「じゃあ明日午後四時ごろ車で那覇新港に送るよ。ちょうど私は店に行く時間だからちょうどいいし」
「助かるわ、そうしてもらうと」
「少しでもいいから休もうといいよ。寝てないんだろ」
 美香の食事をおなかいっぱいに食べると二人を眠気がどっと襲った。和昭はキッチンで毛布に包まって寝、美香と安江は美香のベッドで深い眠りについた。
 

十二章

2005年04月01日 | Weblog
 那覇県警、知念刑事のデスクの電話が鳴った。
「はい知念です」
 電話は名護警察からだった。知念刑事の耳に名護署の係官のこえが響く。
「こちらは名護警察の宮城刑事ですが、昨日窃盗容疑の松田賢吉という被疑者を追跡したのですが、それは自損事故で死亡したのですが、身辺を洗っていると氏名手配犯に似た容疑者が浮かび上がってきました」
「名前は?」
「名前は久高芳郎。ただし偽名の可能性があります。久高と同居していたのがおりまして、そのものが身重というこどでして」
「何! 妊娠しているというのか? どのくらいだ!」
「五、六ヶ月だということです」
「いつからだ!」
「五月中頃だと」
「何だ! 金城だ! 金城に違いない。まだ遠くへは行ってないな。すぐそちらへ行く。そちらでも警官を動員して捜査に当たってくれ」
 知念刑事は顔色を紅潮させた。いよいよチャンス到来だ。受話器を下ろすや、すぐ部下に電話を入れる。
「ああ知念だ。名護署から金城和昭の潜伏情報があった。すぐ名護に行く、数名動向するものを準備させろ」
と指示を出すなり、椅子から立ち上がった。そのとき知念の電話がなった。
「はい知念です」
と答える刑事の耳に、刑事局長の声が聞こえた。
「急な事件が発生し、刑事全員その事件に当たってくれ」
「部長。あ、ただいま名護署から操車中の指名手配犯についての有力な情報がありまして、捜査に向かうところでありますが」
「具志川で中国人が殺されたんだ。外国籍が絡んだ事件だから、県警として迅速に解決せねばならん。東京の本庁からも念をおされているんだ。すぐ具志川に向かってくれ」
「はあ、しかし名護の方も……」
「いいから、具志川へとんでくれ」
「ハッ! 部長。了解しました」
 見る見る知念の表情がこわばった。警察において上司の命令は絶対である。受話器をおく知念刑事の顔がゆがんだ。
 知念刑事は周りの刑事に、具志川行きをしぶしぶ指示する。和昭らにとって、具志川の事件発生は、何ともタイミングがよかった。通常なら那覇空港を始め、港、道路に一斉検問が貼られるはずだった。
 那覇署の捜査員の殆どが、具志川の事件捜査に派遣されたのだった。

                 *

  昼過ぎ、三人は遅い朝を迎えた。時計は十二時を過ぎている。
「さあ、今日は大事な日だ。起きてしっかり食べて」
 最初に身支度を整えた美香は冷蔵庫から食材を取り出し、ブランチの用意をした。起き上がった安江もジーンズにティーシャツ姿で、美香を手伝う。テーブルに三人分の食器を並べると、和昭が椅子についた。
 和昭はスカートを履き、女もののシャツを着ているが、ウイッグはまだ頭に乗せてないので、アンバランスさが目立つ。
「和昭さん、飲み物は?」
 そう聞く美香は、笑っては彼に対して失礼だという抑制が働き、ぐっと口元を引き締める。
「コーヒーを」
 ぼつりと答える和昭に、安江はコーヒーを注ぎながら、
「髭が伸びてるよ。食べたら綺麗にそって」
と注意を与える。
「たしか時刻表にフェリーの出港時間が書いてあったと思う」
といいつつ、美香は時刻表をめくった。
「午後七時二十分だ、大阪行きのフェリーが那覇新港をでるのは。だから六時には港に着けばいいな」
「どのくらいかかるの? 那覇から大阪まで」
「一日半ぐらいだろ」
「じゃあ何色もの弁当をこさえなくちゃね」
 美香は準備の余念がなかった。
「ねえ、いるもの今のうちに書き出しといて。食べたら買い物にいくから」
「悪いわ、でも助かる」
 安江はそういいながらブランチを食べ続けた。
 食事後、本土への船旅の準備に三人はそれぞれの支度にかかっていた。

真夏が近づく頃、糸満市では糸満ハーリーが催される。海の安全を願う漁民たちが、龍を形どり極彩色に塗り上げられたサバニと呼ばれるクリ舟に乗り、両手に手漕ぎの櫂を握り、鉦や旗の拍子に合わせ、速さを競う勇壮な行事である。沖縄では糸満ハーリーの声をきくと、そろそろ梅雨が明けると言われる。
 沖縄の夏は非常に暑い。既に時期を過ぎたアジサイは薄茶色にしおれ切り、ギラギラ燃える太陽が照りつける。
 この季節を迎えると南の島は白く輝く街に変わる。石畳の上に落とされる軒の日陰は、周りの白壁からの照り返しを受け、全体が白く浮き上がったコントラストをつける。
 空は黒青色に晴れ上がり、紫外線を雨を降らす。街中を吹き抜ける風は、たっぷりと水蒸気を含み、昼夜の境目なく蒸し暑さを運んでくる。春先に鮮やかな紅色を際立たせていたハイビスカスやデイゴの花は、この燃える季節を迎え、葉も花もかすんでしまう。
 その太陽も、西の空に沈みあたりは夕暮れ時のしじまに覆われていた。
「ねえ美香、この辺で降ろして。港まで歩くから」
「どうして和江、フェリーの乗り場まで送るよ」
 助手席の安江と運転する美香が話す中に、後部座席に座る和昭は、
「そうだよ美香さん、ありがたいけどもし警察が張っていたらややこしいことになるから」
「何いってるの、大丈夫だよ」
 なおも車を走らす美香に安江も、
「ほんとにここでいいから。美香の親切さは一生忘れないからね。ともかく車止めて」
 止む無く美香はコンテナの積み上げられた倉庫街の脇に車を止めた。緑色のコンテナが夕暮れの景色の中で唯一の色彩だった。
「ほんとにここでいいの、安江?」
「ありがとう美香、何とかやりきるから」
 安江と和昭はカバンを手に、車を降りる。暗闇の中で女装した和昭の顔が不気味に見えた。
 バターンとドアを閉め、歩道に降り立った二人は足早に暗闇に消えた。
「安江、察の姿が見えたら手で合図を出せ。もし察に追われたら、どこか落ち合う場所を決めるか?」
「和、ここまで来たら何が起こっても一緒にいよう。私を離さないで」
「分かった。逃げ切れなくなったら腹くくるか。で、どっちだフェリーの乗り場は?」
「向こうに茶色の建物がうっすらと見えるだろ。その向かい側」
 安江は前方を指差しながら和昭の顔を見て笑った。ウイッグに薄化粧の和昭は何とも不美人なおばさんにしか見えなかった。安江は地味な柄のワンピースを着て、パンプスを履いている。しかしくっきりした目鼻立ちは、和昭と対象的だった。
「和、宏志の裁判、どうだった?」
「七年の求刑だ。裁判所の馬鹿野郎が」
「七年もか……。執行猶予とかは付かないの?」
「実刑だ。奴等、前科のある者には容赦ねえんだ。ブタ箱に放り込むのが奴等の仕事なんだ」
「次の裁判はいつ?」
「秋には最終判決が出るってことだ」
 和昭は歩きながらバッグから新聞の切り抜きを取り出し、安江に渡す。安江は薄明かりの中で目を通した。

  四月十日早朝、現在逃走中の金城和昭と共謀し、那覇少年鑑別所に押し入った
  大嶺宏志。罪状、被拘禁者奪取、逃亡ほう助及び暴行、建造物侵入、職務強要、
  銃刀法違反。検察側求刑、実刑七年。

 安江は新聞を和昭に返すと表情を曇らせた。安江の腹は人目からもそれと分かる程大きくなっていたが、こうやって二人が何とか無事でいられるのは、宏志の手助けがあってのものだった。
 恩人の宏志が、何年もの間、刑務所暮らしを送ることになる。また同棲していた里美のことを思うと、安江の胸は痛んだ。今二人は沖縄の地を離れ本土へ渡ろうとしているが、後ろ髪の引かれる重いでもあった。
 やがて二人は那覇新港フェリー乗り場に着いた。もう一歩で頂上にたどり着く登山者のようにい二人は慎重に辺りを伺い、ただ無事に通り抜けられることだけを念じた。
 夕暮れ時の辺りはまばらな人影を見るだけであったが、和昭はなおも注意深く周りを見渡した。幸いパトカーや警官の姿は見かけなかった。二人は乗船所の建物をくぐってホールに入った。
 ホールは中央に、二十脚ほどのベンチが、時間待ちの乗船客ように置かれていた。その向こうにはガラスドア越しに港が見えた。海に突き出た埠頭に大きなフェリーが横付けされている。和昭はその光景に一瞬胸の興奮を覚えた。ホールでは既に十数人の待合客がベンチに腰を掛け、出航の時間を待っていた。
「和、切符買ってくる。ここにいて」
 和昭は、俺が行こううか? という表情を投げるが安江は、大丈夫というゼスチャーをとり、切符売り場へ歩く。ホールの隅にある乗船切符発売窓口で安江は、
「大阪まで二枚」
と、窓口のガラス越しに言うと、係員はカウンターの上に置かれた用紙を指差し、
「その用紙に、住所、お名前、年齢、それと行き先を書き込んでください」
と、上目づかいに言った。安江はボールペンをとり、適当な住所と年齢を記入したが、名前をどう書こうかと迷った。男の偽名を書こうかと思い、「あ、そうだ。和は女だった」と気づき、自分の友達の名前を書き込んだ。
 安江が二人分の船賃と申し込み用紙を窓口に出すと、係員は乗船券二枚を紙ケースに入れ、渡した。
「七時二十分ですね?」
 そう念を押し、安江はバッグに納め、ホールのベンチに座る和昭へ歩いた。少し離れて和昭を見ると、確かに女には見えたが、肩の線が角ばり何となく不自然さを感じる。それにウイッグをつけ化粧をした和昭の顔は、やはりおかしかった。
「和、七時二十分に船までのバスが出る」
 そう言って和昭の隣に座った。

十三章

2005年04月01日 | Weblog
「和、警察はいないみたいね」
「今のところはな。だが最後まで気を抜くな」
 二人は待合室のベンチで、じっと椅子に座っている。捜査の網がかかることを承知の上での強行突破だったが、警官の姿させ見当たらない様子に安心感を漂わせていた。
 やがて送迎バスのガラス戸の向こうに着き、和昭らの乗船客はぞろぞろとバスに乗り込んだ。フェリーのタラップまでの数百メートルをバスに揺られる。
 バスを降りると、目の前に七千トンものフェリーが、バシャバシャと波音を立て横たわっている。乗客は一人一人、見上げるようなタラップを荷物を抱え登っていく。和昭と安江も、一歩一歩タラップを踏みしめた。 
 時に七月八日。少年鑑別所から逃走し丁度三ヶ月を数えていた。タラップを登りながら二人は、無我夢中の逃亡生活に思いをはせた。先のことなど考える余裕もない、終わりのない旅の途中であった。
 タラップの下では、見送りの子供づれが数組、黒い影となって見える。警官らしき人影はなく、緊張の汗をにじませていた和昭らにとって、信じられないほどの平穏さであった。二人の頬に潮風が涼しく吹き寄せる。タラップを上がりきり、二人は通路を奥に進み、二等客室に入る。
「安江、出航は八時だったな。いま十五分前だから、もうじきだ。デッキに行くか?」
「そうね、ここのフロアーは人目があるからデッキの方が安全かも」
 そう言って二人は階段を上がりデッキにでた。潮風が安江の髪を巻き上げながら吹きぬける。埠頭を見下ろすと、出航時の機械操作をする係員が忙しく動き回っている。その少し後ろでは、見送りをする数人が埠頭を照らす水銀灯の明かりの下で、盛んに手を振っている。乗船客が紙テープを埠頭に向かって投げると、紙テープの芯が埠頭のコンクリートに二、三度跳ね返り転がる。それを地上の人が拾いあげると、テープがピーンと張られ何色もの紙の架け橋ができる。
 フェリー・くろしおは七千トン近くの大きな船だが、その巨体と地上を結ぶ紙テープは、いかにもか細く感じられた。
「和、いよいよ出航だ」
「沖縄よさらば」
「あ! 美香がいる!」
「どこだ?」
「一人だけぽつんと立っている。ほら水銀灯の横」
「仕事休んでしまったのか」
「あ、私たちに気が付いた! 手振ってる!」
 和昭は自分の胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。彼女だって一つ間違えば警察から追われるのだ。それを承知で手助けしてくれている。
 船はゆっくり岸を離れ始めた。出航のドラの音が、ガラーンガラーンと鳴ると、ピーンと張っていたテープが、一本二本と切れて、海面に落ちていく。たった一本、まだ切れずに繋がったまま風に揺れているのを見ると、早く切れてしまえと思う反面、いつまでもいつまでもと願いを込めてしまうのだった。
 船はスクリューで海水を慌しくかき混ぜ、白い泡を一面に作っている。見送りの手の振りが一層大きくはなるが、その姿は豆粒ほどに小さくなっていった。
 船は那覇新港を後にすると、小さな漁船の光が無数に彩る泊港沖を通る。その辺りから、和昭らの視野いっぱいに那覇の街明かりが広がり始める。デッキから見る光の大河のような帯は、まばゆいばかりに綺麗だった。
 二人は生暖かい潮風の逆巻く船上から、少しずつ遠ざかる街の灯を無表情で眺めていた。次の瞬間、二人は夜景の中にはっきりと、建物のシルエットを捉えた。
「和、見える?」
「鑑別所だろ、見えるぞ」
 船の進行と直角方向に波之上宮が見え、その海岸線を右にたどると、水銀灯に照らされた一角がある。それは、記憶の中にくさびで刻印を打ったように残る少年鑑別所の建物だった。
「逃げ切ろうね、和」
「当たり前だ、俺たちの子供のためにな」
「私たち、出発点に戻ったということね」
「察さえいなかったら、女の格好なんてしなくて済んだんだ」
「ほんとにしつこいよね、いい加減に諦めないのか」
「あいつら、俺たちを追っかけて飯食ってるんだ。簡単にはな」
 安江は和昭の腕にすがった。あの建物こそが、何とか手がかりと掴みかけた二人を突然打ち砕き、その後も影のように付きまとう不気味な存在だった。
 二人はいつもでの、その一点だけを見続けた。人生において、始まりと終わりが全く同一点に符号することがある。あの建物から始まった二人の逃亡生活が、今やはり同じ建物を目にしながら、新たな生活に飛び込もうとしている。だがそれは、苦痛と困難さに満ちた生活の始まりであった。
 船は沖にでるに従い横揺れが大きくなり、街の灯も星屑の一角に消え去っていた。
「冷えると体に悪いだろう」
 和昭の言葉に、安江はデッキの手摺を離れた。階段を降り、蛍光灯の眩しい船室を歩き、フロアー室に戻る。暫くして、
「まもなく船内消灯します」
というアナウンスが流れた。やがて蛍光灯とテレビが消され、薄暗い非常灯の明かりに包まれた。
 二人は、持参した握り飯を暗い明かりの下で食べたる。手作りのおにぎりは、具の美味しさも手伝い二人の食欲を満たす。と同時に昼間の疲れがどっと押し寄せ、二人は毛布の中で深い眠りに付いた。









十四章

2005年04月01日 | Weblog
 フェリー・くろしおは太平洋を北上した。船につけられた名前のとうり、海原を北上する帯状の黒潮に乗って本土を目指す。
 和昭らは昼間はフロアーに横になり動かなかった。安江は船酔いにあわないよう、丸い窓から限りなく続く海原を眺め続けた。ときどき窓の外の海上を、飛び魚の群れが飛び跳ねた。
 夜が来るとデッキに上がりベンチから夜空を眺め、新鮮な空気を浴びた。出航して三十六時間後に神戸港に寄っていた。一時間の停泊の後、最終寄港地大阪へ向け朝の海原に船先を向けた。

 フェリーは千キロの航海を終えて、大阪・かもめ埠頭に長旅に疲れた船体を着けていた。タラップが降ろされ、和昭と安江は本土の地を踏みしめた。二人にとって初めての本土の土面だった。地上には、近くの地下鉄駅までの送迎バスが待ったいた。二人は満員の乗客に紛れ座席に着いた。
 バスは整備された道路をひた走り、地下鉄駅で止まった。二人は先頭をきってステップを降り、小走りに駅に入る。
「安江、トイレはどっちだ?」
「そんなに急がないで。私は身重なんだから」
「はやくこのウイッグをとりたくてな。もう、うっとおしいんだ」
「分かった分かった、あそこにトイレの看板が出てよ」
 和昭はともかく早く、普通の男の姿に戻りたかったのである。和昭はトイレに駆け込んだ。男子用のトイレブースの中で、ウイッグをとりシャツとスラックスを脱ぎとった。男物のジーンズとシャツに着替えると、洗面で顔を洗い流した。
 和昭は着替えたものを手提げ袋に詰め込み、ほっとした表情で洗面所から現れた。まるで穴倉生活をしていた者が、急に人前に現れたような開放感を漂わせた。
「和ったら、急に元気になった」
「当たり前だ、丸二日死んでたからな」
 二人は地図を頼りに地下鉄を乗り継いだ。沖縄に地下鉄はなく、初めて目にする本島の混雑さに驚いた。だが人目を気にする二人にとって、魚の群れを想像させる人の流れはむしろ、警戒心を和らげた。
 新大阪の新幹線乗り場に着き、名古屋までの切符を買うと二人は列車に乗り込んだ。窓の外の景色を楽しむ余裕もなく、車内で買った弁当をむさぼり食って空腹を癒した。
 列車は一時間程で名古屋駅ホームに滑り込んでいた。乗降ドアから降り立った二人は、最寄の公衆電話に駆け寄りメモ帳を取り出す。ボロボロになった住所録を指でたどりながら、福原の名前を探し、勤め先の電話番号を押す。コール音のあと福原がでた。
「もしもし、俺だ。和昭だ」
「何だ和昭、一体どうしたんだ突然に。いま沖縄か?」
「いや、それが訳があって名古屋駅からかけている」
「名古屋駅? 新幹線の名古屋駅か?」
「ちょっと困り事があってな……。頼む福原、しばらく面倒見てくれ」
「急にややこしいこと言い出すんだな、お前は。よし、とにかくそこへ行く。俺は今仕事中なんで時間がかかるが、話しをつけて早く行くようにする。それで駅のどこだ?」
「駅のホームの公衆電話だ。降りたところだから上りだ」
「そこの近くに待合室があるだろ、そこにいろ」
 安江は、和昭の電話の応対から、うまく話がついている雰囲気に、ほっとした表情をみせている。電話をきった和昭は、
「話がついた、福原がきてくれる」
「わあ良かった。どうなることかと思ってた」
「岐阜に住んでて、頼りになる奴だ」
「こうなったら知り合いだけが頼りだね」
「安江、迎えに来てくれるまで近くの待合室で休もう」
 二人がホームの待合室で、およそ二時間も待っていると、福原が飛び込んできた。
「おー和か、久しぶりだ。で、一体どうしたんだ」
 福原は和昭に語りかけながら、隣の安江を見た。
「これ、安江だ。一緒に住んでいて……」
 和昭はとりあえず安江を紹介したが、その後周りを気遣い、きょろきょろと目を左右に動かせた。福原は、
「よし、そとへ出よう」
と手招きし、つかつかと歩き出した。和昭は福原の後に続きながら安江の顔を見てうなずいた。それは、福原が事件のことを本当に知らない様子に、ほっとした安江へのサインだった。安江も小さくうなずいた。
 三人は改札を通り近くの喫茶店に入った。三人が席に着くと、福原は「さあ話せ」という表情を投げる。だが和昭は、ホームを歩いている間も福原に全てを話すかどうかを迷っていた。
 福原が自分たちの事件を知らないのは確かなようだ。そうであれば、自分たちが警察に追われていることは黙っていたほうがいいのではないかと思った。もし自分たちが警察に捕まったら、いや捕まらなくても運良く逃げ延びたとしても、福原がそれを知っていて手助けしたとなれば、迷惑をかけることになる。
 沖縄で、宏志をはじめ糸数や潤までもが警察に連れていかれた。もうこれ以上迷惑はかけられなかった。和昭は本当のことを喋らないと決めた。
「福原、実は沖縄でこの安江と付き合っていて、こいつは十七になるんだけど子供ができちまって。周りで騒ぐものだから、夜逃げ同様にして来たんだ。何とか住むところと、できたら仕事も世話してくれねえか」
 福原は、腹の大きくなった安江に目をやりつつ、
「いろいろ訳がありそうだが、和の頼みだい当たれるだけ当たってやる」
と言う。和昭は頭を下げつつ、言いにくそうな表情で、
「それで、頼んどいてこんな事言うのも変だが、沖縄の知り合いには俺たちの事黙っていて欲しいんだ」
「よし分かった」
 福原はそれ以上何も聞かなかった。和のことだから何かヤバイ事をやったかも知れない。だが寝堀り葉堀り聞いたところでどうなるものでもなかろう。できる限り力になってやればそれでいいじゃないか、と思った。
「よし和、とにかく今夜は俺の所に来い」
といい、三人は立ち上がり店を出る。
 
 福原が紹介した仕事は、自動車部品の鋳物工場であった。可児市今渡から多治見へ通じる国道を南へ五キロほどいった谷迫間に大きな工業団地がある。鉄工所、電機製造業、圧延工場など十以上の工場が集まって可児工業団地を形成している。
 その中の長良鋳造所の下請け作業員に雇われた。長良鋳造所はフォークリフトの鋳物部品を造っている。
 和昭に仕事の説明をする親方は、
「いいか、あの鋳物機からでてきたものを箱詰めするのが仕事だ。名前は金田っていったないどうだやれそうか?」
と話す。
「ええ、是非やらせてください」
「そうか、やってみるか。朝は八時半に仕事開始だ。時間には作業服に着替えて、仕事が始められるようにしとけ、いいな」
「はい親方」
「作業服のサイズはMでいいだろう。そんなに大きいほうじゃないから」
「大丈夫です」
「金田、お前どこに住んでるんだ?」
「今渡の駅近くのアパートです」
と福原に紹介され住み始めたアパートを答えた。
「そうか、あそこだったら七時半に俺が駅前を通るから立ってろ。乗せてってやる」
「助かります」
「いいんだ、いいんだ」
 親方は和昭の肩を叩き、しっかりやれと励ました。
 和昭はこの仕事につくに当たり、履歴書も出さず身元を簡単に聞かれていただけに、ひょうっとしたら物凄い重労働ではないかと心配していた。どんなきつい仕事でもとの覚悟をしていたが、実際についてみると普通の程度だった。取り越し苦労に終わりラッキーだった。
 給料は日給月給で、月二十五万と言われたときはびっくりした。沖縄に比べ無茶苦茶高かったからだ。しかも残業をやれば月三十万はもらえると聞いて、信じられない気持ちになっていた。
 小躍りする気持ちでアパートに帰ると、和昭の仕事を気遣っていた安江は、本人以上に安堵の表情を見せた。
 ――これならやっていける――
との気持ちが二人の胸を満たした。
 初めての日曜日。和昭は朝ご飯の支度をする安江に話す。
「図書館にいってこようと思う。ここ半年分の新聞を見てくる。どう扱っているか心配だから」
「そうね、写真でも載ってたら対策たてなくっちゃね」
「俺たちが船に乗ったかどうかのニュースを見ておかないとな」
「分かった、でもくれぐれも気をつけてね」
 和昭は朝食を済ますと着替えて図書館に向かった。可児市の市営図書館の閲覧室で、半年前からの地元紙に目を通した。
 和昭にとって驚いたことには、地元紙には事件翌日すら、和昭らによる奪取事件は報道されていなかった。また交番にも和昭らの指名手配写真は貼られてなかった。和昭は、心配の種が一つ、取り除かれた安堵を味わった。

「和、病院に行こうかと思ってる」
「病院? 産婦人科か?」
「そう、このままだと心配だから」
「どこか知ってるのか?」
「買い物に行く途中にあるの。結構大きな病院」
「病院か」
「和、察が心配なのは分かるけど、産む時に病院やお産婆さんなしで産めないでしょ」
「そうだな、診てもらえ」
「うんそうする。明日行ってくるから」
 夜ご飯を食べながら二人は病院で診てもらうことを話合う。確かに和昭の心配するのは無理もなかったが、二人きりで産むわけにもいかず止むを得ない結論だった。特に身体に異常があるわけではなかったが、和昭以外に相談する人もなく、知識に乏しい安江にとって早く医者に診てもらいたかった。
 翌日、安江は和昭を仕事に送り出した後、病院に向かった。病院は小林産婦人科医院といい、アパートから歩いて十五分のところにあった。四階建ての中規模な病院で、中央の出入り口を通ると廊下を歩いた。アルコールの匂いが漂う中、スリッパに履き替え受付窓口へ進む。
 窓口の中からは、既に看護婦が安江の姿を見て言葉をかけた。
「診察ですね」
「はい」
「この診察申込書に必要な事項を記入してください。保険証はお持ちですか?」
「いえ持ってません」
「では書き込まれたら、あちらの待合室でお待ちください。名前を呼びますから」
 受付の看護婦は一枚の紙切れを渡した。安江は受け取ると、窓口の横に置いてある入院案内も一枚とって、待合室へ歩いた。歩きながら申込書の隅々に目を通す。そして必要書類欄に見入った。もし住民票が必要だとアウトだ。幸い必要書類欄に住民票のたぐいは記入されてなかった。安江はほっと胸をなでおろした。
 待合室中央の記入台で、申込書の空欄を埋めた。住所、氏名、生年月日、年齢……の文字が目に入る。安江は住所だけ現在のアパートを正直に書き、あとの記入欄で頭をひねった。名前は金田安子、と。年齢は 十八と記入し、窓口へ提出した。
 待合室で二十分ほど待つと、アナウンスが流れた。
「金田さーん、金田やす子さん。診察室へお入りください」
安江は診察室に入った。白衣を着た医師が向こう向きに座り、診察の済んだ患者のカルテにせわしくペンを走らせている。
医師の手前に丸椅子が置かれ、座るよう看護婦から指示を受ける。安江がゆっくり椅子に腰をかけると、くるっと医師が体を回転させ安江に向かった。
「金田さんですね。今日はお父さんになられる方は一緒ですか」
「仕事が忙しく休めなかったので私一人です」
「そうですか、いいですよ。ここの病院で出産の予定ですか?」
「はいそうしたいと思っています」
「そうですか、それでは診察しますので、カーテンの向こうの診察台に乗ってください」
医師はくるりと安江に背を向けると、カルテに向かう。安江は立ち上がると、診察台に向かう。看護婦がカーテンをあけ安江に指示を出した。
安江は医師の診察を受けているあいだ、凄く安心する自分を感じた。医師は自分の身体とおなかの胎児だけを診てくれている。その安心感が、ひと時のあいだではあるが、警察から追われている事実を忘れることができた。
今まで一度も医師に診てもらっていない不安が、まるで身体の毛穴からみるみる溶け出していく実感を覚えた。
 診察が済むと安江は再び丸椅子に座った。
「順調ですよ」
医師は温和な表情で言った。医師の目から見れば十八と書かれた年齢に不自然さはあった。だが妊婦の、子供ができた嬉しさを漂わせる表情に、医師は疑うのをやめた。医師は椅子をくるりと回転させ、カルテに向かう。ペンをとりつつ後ろの安江に、「頑張りなさい」とぽつりと話す。
そのあと看護婦は、母子手帳を保健所で受け取る手続きを説明した。
「病院へは二週に一度、診察を受けに来て下さい」
そう説明を受け、安江は診察室をでると会計窓口に向かった。診察料を窓口で払い、レシートを受け取った安江は、
「あのー」
「何でしょうか?」
「出産で入院するとき、私保険がないけど、全部でいくら位お金がかかりますか?」
と尋ねる。受付の係員は入院案内を片手に、安江に料金の説明をする。大部屋で、とくに異常がない場合で、約三十万円必要と答えた。
安江は病院をでると駅前のスーパーに向かった。病院で初めてみてもらい、順調に育っていることに気持ちが晴れ晴れとしていた。なんだかご馳走を作って喜びたい気分だった。

その夜、和昭が仕事を終えてアパートに帰ると、安江はご馳走で迎えた。
「どうだった、病院?」
そう聞く和昭に、
「すべて順調、まかしときなって」
安江はおどけて腹に手をやった。
「よかったじゃないか、やったな安江」
「病院でいろいろ聞いてきたけど、三十万は要るみたい。直接かかるのがそれ位だから、もう少し余分に持ってないと」
「まあそれぐらいはかかるだろう」
「和、稼いでよ」
「仕方ねえだろう。ちょうど来週から仕事忙しくなって、今日親方に言われたけど、当分残業してくれってな」
「じゃあ帰りは遅いね」
 安江は作った料理を片っ端から平らげる和昭をみて、頼もしさを感じた。
「あ、和、私病院じゃ金田やす子って名前だから。それに歳も四つばかりサバ読んじゃった。十八になってないと何かと面倒だから」
「何だそこの病院、よっぽどヤブ医者じゃねえか? お前の歳もわからんとは」
「産科病院だから、ヤブ医者だなんて言わないの。私の大切な先生だから」
「安江、俺ない実は決めてるんだ」
「何を?」
「お前、決めとけって言ったろ」
「名前?」
「もしもってことがあって、生まれるとき、そばにいてやれねえこともあると思って」
「やめて! やめてよ、そんな話」
「俺、ずっと前から決めてたんだ」
「だって和、男の子とも女の子ともまだ分からないよ」
「女だったらお前つけとけ」
「勝手だ! で、なんて名前?」
「僚というんだ」
「りょう? どんな字を書くの?」
 和昭はボールペンをとると紙切れに書いた。
「僚か、格好いい名前じゃないの。でも絶対そばにいてよ。二度と縁起でもないこと言わないで!」
「お前は心配せず、身体の具合だけを心配してりゃいいんだ」
 和昭は茶碗の飯を口に運んだ。安江の出産まであと、三、四ヶ月しか残されていない。それまでに最低三十万のお金を作るのは、容易なことではなかった。和昭は必死になっていたのである。