無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

20.月見酒

2008年02月01日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
「今晩は思いっきり飲むわよ。飲んで飲んで飲みまくって、あなたを困らせてやるわ」とお鶴は酒の用意をしながら楽しそうに言った。

「お鶴、完成したぞ」

 五郎右衛門はお鶴と一緒に暮らし始めて以来、夜になるとお鶴の像を彫っていた。

「まあ、素敵。あたしが観音様になったのね」

 お鶴は自分の像を抱きながら嬉しそうに眺めた。

「ああ、観音様じゃ」と五郎右衛門は満足そうに、お鶴と木像を見比べた。

「笛を持ってるのね。やだあ、とっくりまで持ってるじゃない」

 お鶴の像は観音様のように宝冠をかぶり、薄い着物をまとって、あぐらをかいて座っていた。差し出した右手に横笛を持ち、膝の上に置いた左手はとっくりの紐をしっかりと握っている。

「それが、お前に一番、似合うじゃろう」

「やあね。あたし、タヌキじゃないのよ。ねえ、今度、あなたを彫ってよ。一人だけじゃ寂しいわ」

「一人じゃないじゃろ。もう一人の観音様と弁天様がいる」

「あの可愛いのね」

 お鶴は自分の像を持って、岩棚の側に行き、観音像と弁天像の間に自分の像を置いた。お鶴の像は二つの木像の倍近い大きさだった。

「この二つ、子供みたい。あたしも欲しいわ、あなたの子供。きっと可愛いでしょうね。男の子がいいかしら。女の子がいいかな。二人とも欲しいわ。一遍に生んじゃいましょ」

 お鶴は自分の像の前に二つの像を並べた。

「子供みたいなお前が子供を産んでどうするんじゃ」

 五郎右衛門は立ち上がると袴に付いた木の屑を払い、岩棚の所に行った。三つの像が母子のように見えた。

「一緒に遊ぶのよ」と楽しそうにお鶴は言った。

「そいつは楽しいじゃろうな」と五郎右衛門は笑った。





「あのね、昔、あたしが踊り子だった頃、面白い人がいたのよ」

 お鶴がいつものように酒を飲みながら話し始めた。

「ほう、お前より面白い奴がいるのか」

 五郎右衛門は肘枕(ヒジマクラ)をして寝そべったまま、酒を飲んでいた。

「あたしなんか、つまんない女よ」とお鶴は足を崩すと、五郎右衛門の腰にもたれて来た。

 五郎右衛門の腰には脇差がなかった。『剣を抜いた時は死ぬ時だ』と悟った時から脇差を差すのをやめていた。

「その人ね、幻術使いのお爺さんなのよ。あたしたち、あるお侍さんのお屋敷に招待されたの。あたしたちの踊りが終わった後、そのお爺さんが現れたのよ。痩せ細った骸骨(ガイコツ)みたいなお爺さんだったわ。頭は真っ白で、長いお髭も真っ白で、話に出て来る仙人みたいだった。そのお座敷にね、海の絵が描いてある屏風(ビョウブ)があったの。手前に松の木があってね、広い海が描いてあるの。その海の遠くの方に小さなお舟が描いてあったわ。お爺さんがおまじないを唱えて、そのお舟に向かって手招きすると、絵の中のお舟がだんだんと近づいて来るのよ。だんだん大きくなって来てね、お舟を漕いでる人まで、はっきりと見えて来たの。不思議だったわ。お舟が大きくなるにつれて、海の波も高くなって来てね。そのうち、海の水が屏風からお座敷の中に流れ出して来たのよ。みんなもう大騒ぎよ。お座敷中、水浸しになっちゃってさ。そのお舟がお座敷の中に入って来る頃にはもう、胸のあたりまで水に浸かってたわ。そのお爺さんたら、ひょいっと、そのお舟に乗ると絵の中に入って行ったの。お舟がだんだんと小さくなって行くと、お座敷の中の水もだんだんと引いて行ったわ。そして、そのお舟はどんどん沖の方に進んで行って見えなくなっちゃった。気がついてみると、お爺さんはどこかに消えちゃってたわ。勿論、着物なんて全然、濡れてなかったのよ。ねえ、どう思う」

「まさしく、幻術使いじゃな。しかし、新陰流にもそういう術があるらしい」

 お鶴は目を輝かして、「あなたもできるの」と聞いて来た。

「ああ。できるぞ」

 五郎右衛門は体を起こすと側に落ちていた小石を拾った。空中に投げ、落ちて来る小石を素早くつかみ、握った両手をお鶴の前に差し出した。

「さあ、どっちに石が入っている」

 お鶴は両手を見比べていたが、「こっち」と右手の方をたたいた。

 五郎右衛門は右手を開いて見せるが小石はなかった。

「じゃあ、こっちだわ」とお鶴は左手を開こうとした。

 五郎右衛門は左手も開くが、そこにも小石はなかった。

「あれ、どこに行ったの」とお鶴は五郎右衛門の回りを見回した。

 どこにもそれらしき小石はなかった。

「消えたのさ」と五郎右衛門はニヤッと笑った。

「凄い! あなた、凄いわ」

 お鶴は五郎右衛門の両手を持ったまま喜んでいた。

「わしのは単なる目くらましじゃ。お前が話した爺さんは催眠術のようなものを使ったんじゃろ」

 五郎右衛門は酒を飲むと、また寝そべった。

 お鶴も横に寝そべり、「もっと面白い人もいたのよ」と五郎右衛門の指を引っ張った。

「口が馬鹿でかい男の人でね。自分の足を口の中に入れちゃうのよ」

「ほう。足を口の中にか」と五郎右衛門は感心した。

「それだけでも凄いのに、両足を全部、口の中に入れちゃうの」

「凄えのう」

「足が全部入っちゃうと、次にお尻も入れちゃって、腰も胸も両手も入れちゃうのよ。なんか、気持ち悪かったわ。体をみんな口の中に入れちゃったから、頭しか残ってないの。そして、口から二本の手が出てるのよ。そして、その手も入れちゃって、首も入れて、頭も、目も鼻も入れちゃって、最後には口だけになっちゃったの。その口がね、『ああ、うまかった』って言ったのよ。ね、凄いでしょ」

「馬鹿な、そんな事できるわけねえじゃろ」

 五郎右衛門は体を起こし、呆(アキ)れた顔して、お鶴を見ていた。

「だって、あたし、この目で見たんだから」とお鶴も体を起こして言った。

「それで、その口はどうなったんじゃ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。

「食べ過ぎたからって厠(カワヤ)に行ったわ」

 お鶴は真剣な顔をして説明した。

「厠に行ったって、どこから糞(クソ)をするんじゃ」

「そんな事知らないわよ。きっと、ゲーゲー吐き出して、元に戻ったんじゃないの。その人、すました顔して戻って来たもの」

「馬鹿らしい」

「どうせ、あたしは馬鹿よ。すぐ、何でも信じちゃうんだから‥‥‥」

 お鶴は五郎右衛門からお椀を奪うと酒をあおった。

「そうだ」とお鶴は急に五郎右衛門の腕をつかんだ。

「今日、いいお月様が出てるのよ。ねえ、せっかくだから外で飲みましょうよ」

「月見酒か」

「そう。行こ、行こ」





「満月ね。うさぎさんがお餅(モチ)をついてるわ」

 お鶴が月を見上げながら言った。

「うさぎは餅が好きなのか」

 五郎右衛門も月を見ていた。

 二人は岩屋の上に登って酒盛りをしていた。

 雪におおわれていた頃はわからなかったが、岩屋の入り口の横に石段があり、そこを登ると見晴らしのいい場所に出た。その場所を見つけたのはお鶴だった。お鶴はそこが気に入り、食事場所に決めた。五郎右衛門もいい考えだと賛成した。月見をするには絶好の場所だった。

「うさぎがお餅を食べたら、喉(ノド)につかえて死んじゃうでしょ」

 お鶴は急に現実的な事を言った。

「じゃあ、何で餅なんかつくんじゃ」

 五郎右衛門はお鶴の頭に付いて行けなかった。

「誰がお餅なんてついてるの」

「うさぎじゃろ」

「うさぎがお餅なんてつくわけないじゃない。ついたとしても尻餅くらいよ。焼き餅もつくかな。ねえ、他に何とか餅ってない」

「草餅、牡丹餅(ボタモチ)‥‥‥いい気持ち」

「いい気持ちっていいわ」とお鶴は喜んだ。

「どんな味がするのかしら」

「こんな味じゃろう」と五郎右衛門は酒を飲んだ。

「いいえ、こんな味よ」とお鶴は唇を五郎右衛門の方に突き出した。

「後でな」と五郎右衛門はお椀に酒を注いだ。

「今」とお鶴は唇を突き出したまま、五郎右衛門に抱き着いて来た。

 ブチュッと二つの唇が重なった。

「そう、この味よ」とお鶴はニコッと笑った。「もう一回」

 ブチュ‥‥‥ム‥‥‥ム‥‥‥ム‥‥‥

「ああ、いい気持ち」

 お鶴は幸せそうに月を見上げた。

「お鶴」と五郎右衛門は呼んだ。

「あい」とお鶴は答えた。

「わからん」と五郎右衛門は唸った。

「何が」とお鶴は五郎右衛門に寄り添った。

「今のが極意だそうじゃ」

 五郎右衛門はお椀の中の酒に映った月を眺めながら言った。

「今の口づけが?」とお鶴は首をかしげて、五郎右衛門を見守った。

「いや。口づけじゃない」と五郎右衛門はお鶴を見た。

「あれはやろうと思ってやったからのう‥‥‥そうか、わかったぞ」と五郎右衛門はお鶴の肩を抱いた。

「わしが今、お鶴って呼んだ時、お前は返事をしようと思って返事したか」

「そんな事、一々、考えるわけないじゃない」

「それじゃ、それ」

 五郎右衛門はお鶴の両肩をつかんで、一人で興奮していた。

「無意識のうちに『はい』と出たわけじゃ」

「それがどうかしたの」

「それが極意じゃ」

「へえ‥‥‥」

「ようやく、わかった。お前のお陰じゃ」

 五郎右衛門は嬉しさの余り、お鶴を抱き締めていた。五郎右衛門は一人で満足そうにうなづいていたが、お鶴には何が何だかわからなかった。わからなかったが、お鶴も五郎右衛門と一緒に喜んだ。

「よかったわね」とお鶴は嬉しそうに何度も言って、五郎右衛門に何度も口づけをした。

 五郎右衛門は嬉しさのあまり、お鶴を抱いたまま、大声を上げながら跳びはねていた。

 五郎右衛門の興奮が治まると、「乾杯しましょ」とお鶴は言った。

 二人は満月の下で乾杯をした。

「なあ」と五郎右衛門は言った。

「なあに」とお鶴は笑った。

「お前の笛、聞かせてくれよ」

 お鶴はうなづいた。

 岩屋から横笛を持って来ると吹き始めた。

 満月の夜にふさわしい幽玄な曲だった。五郎右衛門は月光に照らされて、笛を吹くお鶴の姿をうっとりと眺めていた。言葉では言い表せない感動が胸いっぱいに広がって来て、言い知れぬ余韻を残して曲は終わった。

 お鶴は笛を静かに口から離すと五郎右衛門に向かって笑顔を見せた。

 五郎右衛門は拍手をした。

「今度はあなたの番よ。何か歌ってよ」

「わしは駄目じゃ」と五郎右衛門は手を振った。

「そうじゃ。お前がいつも歌ってる、『空飛ぶ鳥』っていうのをやってくれ」

「ああ、あれ。もっといいのもあるのよ」と言うとお鶴は歌い出した。

 ♪ 思う人から杯差され、飲まぬうちにも顔赤らめる~

 ♪ 神代(カミヨ)このかた変わらぬものは、水の流れと恋の道~

「うまいもんじゃな」

「まだ、あるわ」

 ♪ 胸につつめぬ嬉しい事は、口止めしながら触れ歩く~

「これ、今のあたしの心境よ」

「ほう、だから、毎日、虫や鳥に触れ歩いていたのか」

「そうよ。今のあたし、幸せすぎて、幸せすぎて、誰かに言わないと気が済まないのよ‥‥‥さあ、今度はあなたの番よ」

「わしは駄目じゃ、駄目」

「ちゃんと教えたじゃない。あなたが歌った『室君(ムロギミ)の舟歌』、あれ、よかったわ。あれはね、悲しい遊女の歌なのよ。ねえ、歌って」

「あれは難しすぎるわ。『憂(ウ)きも一時』の方がいいのう」

「それでもいいわ。渋い声を聞かせてよ」

「よし、行くか」

 ♪ 憂きも一時、嬉しきも、思い覚ませば夢候(ユメゾロ)よ~

 五郎右衛門は照れくさそうに歌った。お鶴は横笛を吹いて、合いの手を入れた。

「いいわ。ついでに『世の中は霰(アラレ)』も行っちゃえ」

「よおし」と五郎右衛門も調子に乗って来た。

「次は『吉野川』行ってみよう」

「そんなの知らんわ」

「あたしが歌うわ。よく聞いてて‥‥‥」

 お鶴はしんみりと歌い出した。

 五郎右衛門はしんみりと聞いていた。

 お鶴は歌い終わると、「哀しい唄ね」とポツリと言った。

「いい唄じゃな」と五郎右衛門は月を見上げた。

 お鶴も月を見上げた。

「あなた、なに、しんみりしてるの」

「お鶴、わしはお前に会えてよかったよ。お前を見てると、なぜか知らんが楽しくなる。わしは今まで、剣という狭い世界に閉じこもっていたような気がする。お前と一緒にいるお陰で、わしにはわかって来た。この世の中っていうのは、もっと広くて大きいもんじゃと‥‥‥いくら、剣が強いと威張ってみた所で、所詮、それは井の中の蛙(カワズ)じゃ。もっと、もっと広い世界を見なきゃいかんな。そして、わしのこの剣、この剣を人を殺すだけのものじゃなくて、何か人の役に立つような事に使えるんじゃないかと思い始めて来たんじゃ。これからも、わしに色々と教えてくれ」

「なに言ってんのよ。あんた、急に改まっちゃって。やだ、五右衛門ちゃんらしくないじゃない。でも、ありがとう‥‥‥ほんとにありがとう‥‥‥」

「ここらでパーッと派手な歌を歌ってくれ」

「そうね。『瓢箪(ヒョウタン)の唄』でも行こうか」

 二人は手拍子を叩きながら、大声で滑稽(コッケイ)な唄を歌い始めた。

 山の中の夜は静かに更けて行った。

19.仁王様の剣

2008年01月29日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 新たに、二人の生活が始まった。

 五郎右衛門は剣を振ったり、座禅をしたり、お鶴と一緒に酒を飲んだりしながら考え続けていた。

 活人剣(カツニンケン)とは‥‥‥

 無心とは‥‥‥

 お鶴は、いつも何かをやっていた。五郎右衛門は一々、お鶴の事を気にしていたわけではないが、くだらない事を真剣になってやっているので、何となく気になっていた。

 背を丸めて座り込んだまま、じっと動かないでいるので、何をしてるのかと行ってみれば、お鶴は蟻(アリ)と遊んでいた。

 五郎右衛門が顔を出すと、「ねえ、見て。この蟻さんねえ、こんな大きな荷物をしょっちゃって、自分のおうちがわかんないのよ。あっち行ったり、こっち行ったりしてんの」と、一々、この蟻さんはね‥‥‥この蟻さんはね‥‥‥と説明する。

「でもね、あたし、思うんだけどさ、この蟻さんたちから見たら、あたしはどう見えるんだろ。まるで、化け物みたいに見えるんでしょうね。やあね、きっと、醜いお化けに見えるのよ。あたし、どうしよう」

「蟻から見れば、確かに、お前はお化けじゃな」と五郎右衛門が言うと、お鶴は本気になって心配して、うなだれている。

 五郎右衛門は仕方なく、「そんな事はあるまい。蟻だって、お前の事を綺麗だと思っているじゃろう」と言う。

「そうかしら」とお鶴は機嫌を直して、蟻を応援する。

 小川に打ち上げられて死んでいる魚を見つけると、可哀想だと涙を流して泣いている。

 今、泣いていたかと思うと、今度は川の中に入って、キャーキャー言いながら魚を捕まえようとしている。

 五郎右衛門は木剣を構えながら、お鶴の姿を見ていたが、思わず、吹き出してしまった。

 着物の裾をはしょって、へっぴり腰になりながら魚を捕まえようとしている。本人は真剣なのだが、それがまた余計におかしい。とうとうバランスを崩して、川の中に尻餅をついてしまった。

「畜生!」と悪態をついて、もう、着物が濡れるのもお構いなしに川の中を走り回っている。そのうちに諦めたのか、川の中を上流の方に向かって歩き始めた。

 どこに行くのだろう、と五郎右衛門は後を追ってみた。滝の側まで行くと急に走り出して、滝の下に行って滝に打たれた。五郎右衛門の真似をしているつもりか、両手で印(イン)を結び、大きな声で真言(シンゴン)を唱えていた。滝から出て、長い髪をかき上げると、川の中をさらに上流へと歩いて行った。

 いつも、水浴びをする深い淵まで行くと、着物を脱いで木の枝に引っかけ、水の中に飛び込んだ。いつまで経っても浮き上がって来ないので、五郎右衛門は心配になって側まで行き、川の中を覗いた。お鶴の白い体が水中を泳いでいるのが見えた。かなり、深くまで潜っているらしい。やがて、お鶴は両手で魚をつかんで浮き上がって来た。

 五郎右衛門が見ているのに気づくと、「ねえ、見て。とうとう捕まえてやったわ」とはしゃいだ。が、魚はお鶴の手の中から、するりと逃げてしまった。

「畜生! ねえ、あなたもおいでよ。気持ちいいわ」と言って、また川の中に潜った。

 五郎右衛門は元の場所に戻り、剣の工夫を考えた。

 行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。

 行こうと思って行くな‥‥‥

 戻ろうと思って戻るな‥‥‥

 たたずもうと思ってたたずむな‥‥‥

 立とうと思って立つな‥‥‥

 座ろうと思って座るな‥‥‥

 すべて、無意識のうちにやれという事か。

 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。

 月も無心‥‥‥

 水も無心‥‥‥

 無心になれという事か。

 無心‥‥‥

 無心になれ‥‥‥待てよ、無心になろうと思えば、そこに無心になろうとする意識が生まれる。意識があるうちは無心になれない‥‥‥いや、ちょっと、待て。無心という、そのものも一つの意識じゃないのか。

 それさえも忘れるという事か。

 お鶴が濡れた着物を着て帰って来た。手には何も持っていない。

「魚はどうした」と五郎右衛門は聞いた。

「こんな大きいの捕まえたのよ」とお鶴は両手を思い切り広げた。

「捕まえたんだけどさ、顔をみたら情けない顔してんのよ。こんな顔よ」

 お鶴は魚の情けない顔というのをして見せた。確かに、情けない顔だった。

「なんだか、可哀想になったから逃がしてやっちゃった。そしたらね、喜んで泳いで行くのよ。面白そうだから、あたし、後をついて行ったの。どんどん深く潜って行くのよ。あなた、そこに何がいたと思う」

「人魚でもいたか」

「そう。凄く大きなお魚がいたわ。あたしよりずっと大きいのよ。きっと、あたしが捕まえたお魚のお母さんよ。あたしが、『こんにちわ』って言ったら、ちゃんと挨拶したのよ」

「魚が『こんにちわ』って言ったのか」

「あんた、馬鹿ね。お魚がそんな事、言うわけないじゃない。ニコッて笑ったのよ。きっと、あれ、あの川の主よ。もう、ずっと昔から住んでるのよ。あたし、彼女とお友達になっちゃった」

「そりゃ、よかったのう」

「うん。今度、一緒に会いに行きましょ。そうだわ、お酒、持ってって、みんなで飲みましょう」

「酒を持って行くのはいいがの、水の中で、どうやって飲むんじゃ」

「あっ、そうか、駄目だわ。いいわ。彼女の方をこっちに呼べばいいのよ、ね」

「そうじゃな。お前の好きにしろよ」

「うん、ハックション」

「風邪ひくぞ」

「うん」と言って、お鶴は岩屋の方に行った。

 無心か‥‥‥

 自由無碍(ムゲ)‥‥‥

 まるで、お鶴そのものじゃな‥‥‥お鶴は無心になろうなんて思った事もないじゃろう。





 今日もお鶴は遊んでいる。

 お鶴は退屈という事を知らない。いつでも何かと遊んでいる。

 食事の支度をしている時は野菜や鍋と遊んでいる。飯を食べている時は箸で食べ物と遊んでいる。掃除をしている時はほうきと遊んでいる。洗濯をしている時は洗濯物と遊んでいる。酒を飲んでいる時は酒と遊び、寝ている時でさえ、夢の中で遊んでいるようだ。お鶴は常に、今という時を一生懸命、遊んでいるようだった。

 今も、お寺に行ってお酒を貰って来ると出掛けたが、すぐ、そこに座り込んで動こうともしない。また、蟻さんと遊んでいるようだ。

「ねえ、あなた。ちょっと来て、凄いわよ」

「どうした。蟻が蝶々でも運んでるのか」

「そうじゃないの、凄いのよ」

 五郎右衛門が行ってみると、お鶴はムカデが歩いているのを真剣に見ていた。

「ねえ、凄いでしょ」

「どこが。ムカデが歩いてるだけじゃねえか」

「そこが凄いのよ。あんなにいっぱい足があるのに、まごつかないで、ちゃんと歩いてるわ」

「当たり前じゃろ」

「でもね、もし、あたしだったら、ああは歩けないわ。あたしって、おっちょこちょいでしょ。足と足がからまっちゃってさ、その足をほどこうとして、また、次の足がからまるでしょ。次から次へと足がからまっちゃって、しまいには、ほどけなくなっちゃうわ。そしたら、あたし、どうしたらいいの」

「そしたら、わしがほどいてやる」

「あなた、優しいのね。これで安心したわ。よかった」

 お鶴は空のとっくりをぶら下げて、小川の方に行ったが、また、立ち止まり、振り返ると五郎右衛門の方に戻って来た。

「あたし、今、とても幸せよ」とお鶴は踊るように言った。

「あなたの側にいると、なぜか、とても安心するのね。こんな事でいいのかしら。あなた、ほんとに人間なの」

「何を言ってるんじゃ」

「もしかしたら、仁王様か何かが化けてるんじゃないの」

「そうじゃな。わしは仁王様の化身じゃ」

 五郎右衛門は仁王の格好をして見せた。

「そうでしょ。やっぱり、優しすぎるもん」

 お鶴はとっくりを抱いて踊っていた。

「仁王様ってのは優しくはないじゃろう」と五郎右衛門は首をかしげた。

「優しいわよ。だって、苦しんでる人や悲しんでる人をみんな、救ってくれるんだもの」

「それは観音様じゃろ」

「いいえ。仁王様も観音様も一心同体なのよ。表と裏よ。だから、あなたも苦しんでる人たちを助けてやってね」

「わしにはそんな力はないわ」

「あるわ。あなたには、その剣があるでしょ。仁王様も持ってるわ。仁王様の剣は人を斬る剣じゃないのよ。人の心の中にある悪を斬る剣なのよ。人を斬らずに、心の中にある悪だけを斬るの。あなたの剣もそうすればいいんじゃない」

「どうやって」

「それは、あなたの問題でしょ。あたしは観音様だもん。ただ、優しく笑っていればいいの。男の人って大変なのよ。頑張ってね」

 お鶴は空のとっくりを抱いたまま、踊るように出掛けて行った。

 ♪ 空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり~

 陽気に歌いながら、丸木橋を渡って行った。

 仁王様の剣か‥‥‥

 五郎右衛門は仁王様のように木剣を構えてみようとした。が、思い出せなかった。二人の仁王様の姿を思い浮かべてみたが、仁王様が剣を持っていたようには思えなかった。

「まあ、いいか」と五郎右衛門はつぶやいた。

 剣を持っているとお鶴が言ったんだから、そういう事にしておこう。

 山はすっかり緑におおわれていた。草もかなり伸びて来ている。花から花へと蝶々が飛び交い、小鳥たちがさえずりながら枝から枝へと飛び回っている。小川の方ではカエルが鳴き始めていた。

 五郎右衛門は、いつもの場所で木剣を振っていた。笛を吹いているお鶴の姿を仮想して、それを相手に剣を構えていた。

 どうしても、打ち込む事はできない。それ以前に、剣を向ける事さえできなかった。

 たとえば、花を相手に剣を構えているようなものか。

 花は無心じゃ。花はわしが剣を構えていようと、殺そうとしていようと、お構いなしに、ただ咲いているだけじゃ。

 わしにいくら闘う気があっても、相手にその気がまったくなかったら、わしの一人芝居になる。幽霊を相手に剣を振り回しているようなもんじゃ。

 相手がいるから、剣を構えたわしがいる。

 相手がいないのに、剣を構えるわしがいる必要もない。

 相手がいなければ、わしもいないわけじゃ。

 逆もまた言える。わしがいなくなれば、相手もいなくなる。

 自分を消すという事か。

 わしの殺気を消す‥‥‥

 剣を構えても、剣の先から殺気を出さずに‥‥‥花でも出すか‥‥‥

 剣の先から、パッと花が咲く。これじゃ、まるで、お鶴の世界じゃねえか。

 殺気も出さず、花も出さず、何も出さない。

 無‥‥‥いや、空(クウ)か‥‥‥

 空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。

 これか‥‥‥

 そうじゃ、空になればいいんじゃ。

 いや、空になろうと思ってはいかん。

 空‥‥‥

 空‥‥‥

 空‥‥‥





 お鶴は小鳥と話をしていた。

 小鳥がピーピーと鳴くと、横笛でピーピーと答える。小鳥がピヨピヨピーと鳴くと、横笛でピヨピヨピーと答えた。

「鳥と何の話をしてるんじゃ」と五郎右衛門が聞くと、お鶴は、「シー」と自分の口に人差し指を当てた。

「彼、今、悩んでるのよ。好きな女の子がいるんだけどね。その女の子がお頭の所に連れて行かれちゃったんだって」と小声でささやいた。

「へえ‥‥‥それで、お前は何て言ってやったんじゃ」と五郎右衛門も小声で聞いた。

「お頭と決闘しなさいって言ってやったのよ。そんな奴、やっつけちゃって可愛い彼女を奪い返せってね」

「お前、いつも、わしに何と言ってる。喧嘩なんか絶対にするなって言ってるじゃろう」

「好きな女のためだったら、いいのよ。女のためだったら男は決闘くらいしなくちゃ駄目なのよ。あなたの剣の極意、教えてやったわ。死を覚悟して、お頭目がけて突っ込めって」

「あいつはやるって言ったのか」

「今、考えてるみたい」

 小鳥はピーピヨピーと鳴いた。お鶴はピッピーと笛を吹いた。小鳥は飛んで行った。

「行って来るって。死んでらっしゃいって言ってやったわ」

「あの鳥、生きて帰って来るのかのう」

「死んで帰って来るでしょ。女の子と一緒にね‥‥‥」

 お鶴は鳥の飛んで行った方を見ながら、笛を吹き始めた。お鶴の笛に合わせて、小鳥たちが一緒に歌っているように感じられた。





 お鶴は夕焼けを見ていた。

 夕飯の支度もしないで、洗濯物も取り込まないで、石の上に座ったまま、ぼうっと夕焼けを眺めている。

「どうしたんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろに立って聞いた。

「綺麗ね」とお鶴は夕焼けを見つめたまま言った。

「ねえ、見て。あの雲、鶴に似てるのよ」

 五郎右衛門はお鶴の隣に腰掛け、お鶴の指さした夕雲を見た。確かに、鶴が翼を広げて飛んでいるように見えた。真っ赤に燃えている空を、真っ赤な鶴が気持ちよさそうに飛んでいた。

「あたしだわ。さっきまで、もう一羽の鶴がいたの。でも、風に飛ばされて行っちゃった」

「そうか‥‥‥」

 五郎右衛門とお鶴は時を忘れ、いつまでも、夕焼けを見ていた。山の中に沈む夕日と真っ赤に染まった夕雲をいつまでも見つめていた。

「ねえ、あなた」と夕日が山に沈むとお鶴は五郎右衛門の方を見て言った。

「あなたは後、何年生きるの」

「どうしたんじゃ、急に」

「ねえ、あなたは何年生きられるの」

 お鶴の顔は真剣だった。

「そんな事、わかるわけないじゃろ。いつ斬られて死ぬか、わからん」

「もし、誰にも斬られなかったとしたら」

「人生五十年て言うからのう。あと二十年位かのう」

 五郎右衛門は夕日の隠れた山を眺めた。山の向こう側はまだ明るかった。

「あと二十年‥‥‥たった、それだけ」

 お鶴は悲しそうな顔をして五郎右衛門を見つめた。

「二十年といえば、まだ大分あるさ」

「でも、二十年したら、あたしたち、別れなくちゃならないのね。別れたくないわ」

「別れたくないったってしょうがないじゃろ。人間はいつか死ぬんじゃ」

「あなたは死なないで」

「何を言ってるんじゃ」

「どうして、人間はたった五十年しか生きられないの」

「そんな事は知らん」

「短すぎるわ。短すぎるわよ。一体、誰が決めたの」

「それが自然の法則っていうもんじゃろ」

「いやよ、そんなの。あなたを死なせたくない」

「どうしたんじゃ。今日のお前はおかしいぞ」

「何でもないわ‥‥‥何でもないのよ‥‥‥ねえ、あたしを抱いて、お願い」

「おかしな奴じゃな」と言いながらも、五郎右衛門はお鶴の背中を抱いた。

「もっと強く‥‥‥」とお鶴は五郎右衛門を見つめた。

「お前、泣いているのか」

 お鶴は首を振ったが目に涙が溜まっていた。「あたし、怖いわ」とお鶴は五郎右衛門にしがみついた。

「一体、どうしたんじゃ」

「夕日を見てたら、左馬助の事を思い出したの。何となく、左馬助が近くにいるような気がするわ」

「大丈夫じゃ。こんな山奥まで来やせん」

「左馬助が来ても決闘しないでね。あたしと一緒に逃げて、お願い」

 五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。

「お願いよ」とお鶴は言った。

 五郎右衛門はうなづいたが、もし、左馬助が現れたら闘う事になるかもしれないと思っていた。

18.お鶴と横笛

2008年01月27日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 五郎右衛門が木剣を構えて、空(クウ)を睨んでいると、「五右衛門さ~ん」とお鶴が帰って来た。

 大きな風呂敷包みを背負い、酒を抱えながら川にかかった丸木橋を渡って来た。

「疲れちゃった」とお鶴はハァハァ言いながら笑った。

「何じゃ、それは」

 五郎右衛門は風呂敷包みを木剣で突っついた。

「あたしの所帯道具よ」とお鶴は風呂敷包みを降ろした。

 お鶴は風呂敷包みの上に腰を下ろすと、「ああ、重かった」と溜め息をついた。

「あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」

 お鶴は上目使いに五郎右衛門を見上げた。

「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」

「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか。あたし、もう帰る」

 お鶴はプイと膨れると、酒を抱えながら岩屋の中に入って行った。

「おい、忘れ物じゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に言った。

「あなた、持って来てよ」と岩屋の中から声が返って来た。

 五郎右衛門はお鶴が置いて行った風呂敷包みを見ながら笑うと、また、木剣を構えた。

「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。

 お鶴は頭に手拭いをかぶり、張り切って岩屋から出たり入ったりしていた。掃除が終わると山のような着物を抱えて小川に行き、洗濯を始めた。わけのわからない唄を陽気に歌っている。

 五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を眺めていた。ふと、和尚の言葉が思い出された。

 あの女子(オナゴ)はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥

 活人剣‥‥‥

 人を活かす剣とは?

 眠り猫か‥‥‥

 わからん‥‥‥

 五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。お鶴は小唄を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気が付かない。

 お鶴の洗濯している姿を見ながら、五郎右衛門は隙がないと思った。試しに木剣を構えてみた。お鶴を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。しかし、今のわしはお鶴を斬る事はできない。

 当たり前じゃ。相手は女子だし、丸腰じゃ。しかも、何の敵意も持っていない。そんな相手を斬れるわけがない。もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥

「お鶴」と五郎右衛門は声を掛けた。

 お鶴は唄をやめ、後ろを振り返った。

「びっくりしたあ。何やってんの」

「お前を相手に剣術の稽古じゃ」

「今は駄目よ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」

 お鶴はまた、洗濯を始めた。

 五郎右衛門は木剣を下ろした。

 わしがこんな事をやったって、お鶴が驚くわけないか。もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応をするんじゃろうか。

 逃げようとするか、攻撃しようとするか、何もしないで洗濯を続けるか‥‥‥

 逃げようとすれば斬られる。攻撃しようとしても斬られる。何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥

「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ」

 五郎右衛門は洗濯をしているお鶴の背中に声を掛けた。

「いい唄でしょ」とお鶴は振り返ると、「今、流行ってるのよ」と髪をかき上げた。

「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」

「あなたは遅れてるのよ」とお鶴はまた、洗濯を始めた。

「確かに、わしは遅れているが‥‥‥お前はよく、色んな唄を知ってるな」

「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り唄なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね」

 お鶴は急に手を止め、五郎右衛門の方に振り向くと、「あなたも唄の一つくらい覚えた方がいいわよ」と言った。

「最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、唄の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、唄くらいできなくちゃ駄目よ。あたしが教えてあげるわ」

「唄なんかいい」

「駄目。剣ばかりやってても駄目よ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ」

 心に余裕か‥‥‥お鶴は時々、いい事を言う。

「うん、そうだわ、唄が一番いいわ」とお鶴は急に立ち上がった。

「たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に唄を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない、ね」

 お鶴は、それはいい考えだというふうに自信たっぷりに言ったが、「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」と五郎右衛門は反発した。

「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ」

「そうじゃな、しかし‥‥‥」

「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」

 その晩、五郎右衛門は久し振りにお鶴と一緒に酒を飲んだ。

 岩屋の中はすっかり綺麗になっていた。

 お鶴が寝ていた藁の布団は新しい藁に変えられ、散らかっていたゴミもなくなっていた。焚き火の所も余分な灰は捨てられて、すっきりとしている。いつも洗濯物がぶら下がっている縄にも何も下がっていない。お鶴がちゃんと外に干してくれていた。そして、隅の方にお鶴が持って来た鏡台と化粧箱が場違いのように置かれてあった。

 お鶴は陽気だった。もう、すっかり元に戻っていた。五郎右衛門はお鶴の回復を心から喜び、乾杯した。

 お鶴は初めて横笛を吹いてくれた。

 陽気な唄とは打って変わって、その笛からは物悲しい調べが流れた。唄が彼女の表面を現しているのなら、笛は彼女の内面、心から湧き出して来るような感じだった。

 彼女の生きざま、悲しさ、苦しさ、寂しさ、そして、それを乗り越えて来た優しさと強さ、それらがしみじみと五郎右衛門の胸に伝わって来た。その調べの中には時折、彼女が持って生まれた楽天的な陽気さも顔を出すが、それが返って、上っ面だけの悲しみではなく、より深い悲しみに聞こえた。

 五郎右衛門は酒をかたむけながら、お鶴の笛に聞き入っていた。笛が奏でる世界に浸り切っていた。

 お鶴は無心に笛を吹いていた。その姿は美しかった。お鶴だけでなく、人が何かに熱中している姿というのは美しいのかもしれない。

 そこには隙がない。

 無心‥‥‥

 今のお鶴は笛を意識していない。そして、滑らかに動いている指も、笛の穴を押さえている事を忘れているに違いない。

 お鶴は笛を吹いている事を忘れ、笛もお鶴に吹かれている事を忘れている。お鶴という女は消え、笛という物も消え、一つになって、音だけが残る‥‥‥

 ふと、五郎右衛門は気が付いた。今まで悲しい調べだと思っていたが違う。確かに悲しく、寂しげに聞こえる。だが、それだけじゃない。ただ、それだけだとしたら、聞いてる方はしんみりとなって、心が沈んでしまうだろう。しかし、彼女の曲を聞いていてもそうはならない。なぜか、心が和らぎ、さわやかな気分になる。優しく、ふんわりと包み込んでくれるような、何とも言えない快い気分になって来る。

 遥か昔、子供の頃、世の中の事も何も知らず、野山で遊んでいた頃の自分が知らず知らずに思い出されて来た。優しい母親、強い父親に囲まれて、毎日、幸せに暮らしていた。

 わしにもそんな頃があったんじゃ‥‥‥と改めて思い出された。

 今まで、そんな事を思い出した事は一度もなかった。思い出す事といえば、父と母が殺された事、そして、仇を討つために剣の修行を始め、それからは寝ても覚めても剣の事だけだった。

 わしだけでなく、誰もが、そんな子供の頃の事など忘れ去っているじゃろう。お鶴もきっと、幸せな子供時代があったに違いない。だから、こういう曲が吹けるのじゃろう。

 不思議な曲じゃ。この曲を聞いたら、どんな荒くれ野郎でも、おとなしくなって、子供の頃の自分に帰るかもしれない。

 和尚が言った眠り猫の境地じゃろうか‥‥‥いや、それ以上かもしれん。

 お鶴の場合だったら、ネズミと一緒になって遊んでいる猫じゃろう。

 わからん女子じゃ‥‥‥

 お鶴は静かに笛を下ろした。そして、着物の袖で目を拭いた。

「あたし、馬鹿みたい‥‥‥自分で吹いてて、自分で泣いてるわ。どうだった」

「うむ。綺麗じゃった」

「曲が?」

「曲も、お前も」

「うまいのね」

「大したもんじゃ」

「ありがとう」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。

「おい、酒がこぼれる」

「ねえ、五右衛門さん。あたし、本気であなたに惚れちゃったみたい。どうしよう」

 お鶴は五郎右衛門に抱き着いたまま、顔を上げた。

「どうする事もないじゃろ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。

「だって、あなた、いつか、ここを出て行くんでしょ」

「ああ。いつかはな」

「その時、あたしはどうなるの」

「お前はずっと、この山にいるのか」

「どうしようか。連れてってくれる?」

「お前は押しかけ女房じゃろう」

「じゃあ、あたし、一緒にいてもいいのね。ずっと、一緒にいてもいいのね」

「ああ」

 五郎右衛門はお鶴の背中を抱き締めた。

「嬉しい‥‥‥ねえ、でも、あなた、絶対に死んじゃいやよ。それと、人も殺しちゃ駄目。ね、約束してくれる」

「わしの剣は相打ちじゃ。わしが剣を抜いた時は、相手も死ぬが、わしも死ぬ」

「それじゃあ、絶対に剣を抜かないって約束して、お願い」

「わかった。約束しよう」

「御免ね、我がまま言って」

「いや。ところで仇討ちはやめたのか」

 お鶴の体がピクッと動いた。やはり、仇討ちの事は言わなければよかったと思った。

「もう、死んだのよ」とお鶴は五郎右衛門の胸に顔を埋めたまま言った。

「もう、死んだの‥‥‥川上新八郎の妻だったあたしは‥‥‥」

「それでいいんじゃな」

 お鶴はうなづいた。わざと笑顔を見せると五郎右衛門から離れ、「お酒、飲みましょ」と言った。

 お鶴から左馬助の事を聞いた時、五郎右衛門は左馬助を殺してやろうと本気で思った。しかし、今は考え直していた。よく考えてみると、自分も左馬助と似たような事をしていた事に気づいた。

 お雪と一緒にならずに、剣の道を選んだ五郎右衛門も、もし、お雪が他の男と幸せに暮らしていたら、その男を殺してしまったかもしれなかった。その事が恐ろしくて、江戸に帰る事ができなかったのかもしれない。

 左馬助の立場に立ったら、きっと、自分も同じ事をしていたに違いない。この先、どこかで左馬助と出会ったら、どうなるかはわからない。しかし、あえて捜そうとは思わなかった。

 その晩、五郎右衛門は無理やり、お鶴に唄を歌わせられた。

17.老いぼれ猫の境地

2008年01月25日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 お鶴は元気になった。

 五郎右衛門はお鶴が寝ている間は木剣を手にする事なく、彼女の看病と座禅だけに熱中していた。

 座禅の中で、ひたすら自分を殺していた。

「御免なさいね。あなたの修行を台なしにしちゃったわね。すみませんでした」

 お鶴は両手をついて頭を下げた。顔色もすっかり、よくなっていた。

「他人行儀な事を言うな」と五郎右衛門は照れ臭そうに、ボソッと言った。

「そうか‥‥‥そうね。ありがとさん」

 お鶴は笑って五郎右衛門の膝をたたいた。

「わしもお前のお陰で、少しわかりかけて来たんじゃ」

 五郎右衛門は焚き火の上の鍋の中を覗いた。鍋の中ではお粥が煮えていた。

「そう、あたしのお陰?」

 お鶴は首をかしげながら五郎右衛門の横顔を見つめた。

「ああ、ありがとう」と五郎右衛門はお粥を掻き混ぜながら言った。

「何だか、二人とも変ね」

「死にぞこなったからのう」と五郎右衛門はお鶴の方を向くと笑った。

 お鶴も笑った。

「生まれ変わったのね、きっと」

「そうじゃな」

 お鶴は手をたたくと、「今日は祝い酒よ」と言った。

「久し振りに思いきり飲みましょ。ね、やりましょ」

 五郎右衛門は久し振りにはしゃいでいるお鶴を見て、うなづいた。

「その前に食った方がいい」

「うん」

 お鶴はおなかが減ったと言いながら、お粥をお代わりして食べた。もう大丈夫のようだと五郎右衛門は安心した。

「あたし、お寺からお酒をいただいて来るわ」

 そう言うとお鶴は嬉しそうに撥ねるように出掛けて行った。お鶴の後ろ姿を見送りながら、五郎右衛門は心の底から元気になってよかったと思っていた。

 五郎右衛門は木剣を持つと外に出た。

 外は眩しかった。すでに四月となり、山はあっと言う間に新緑の季節となっていた。陽気もかなり暖かくなっている。新鮮な空気を吸い込むと、久し振りに木剣を振ってみた。

 今までとは違った。剣がすんなりと自然に振れる。心の中も静かに落ち着いていて澄み切っているようだ。

 五郎右衛門は回りの景色を眺めた。

 今まで目に付かなかった小さな花や草、そして、樹木の緑が鮮やかに目に入った。

『回りをよく見ろ』と言った和尚の言葉が思い出された。あの時は意味がわからなかったが、今、ようやく、その意味がわかったような気がした。今までは見ていたつもりだったのに、何も見ていなかった。ただ目を開けていただけで、何も目に入らなかった。

 今は違う。まるで、世界が変わったかのようだった。

 鳥のさえずり、虫の鳴き声、小川のせせらぎ、風の音、若葉の匂い‥‥‥

 すべて、自然のものが自然のままに感じられた。自然の偉大さというものが素直に感じられた。

 そして、剣‥‥‥

 構えあって構えなし‥‥‥

 自然に‥‥‥分別なく‥‥‥

 心の念ずるままに‥‥‥

 ただ、振り下ろすのみ‥‥‥





 久し振りに和尚がやって来た。

 分厚い綿入れは着ていなかった。のんきそうに景色を眺めながら、とっくりをぶら下げて、やって来た。

 お鶴に頼まれて酒を持って来たのか、と五郎右衛門は思った。

「どうじゃな。ほう‥‥‥何か、つかんだようじゃのう」

 和尚は五郎右衛門を見ながら笑った。

「わかりますか」

「うむ。顔を見りゃわかる」

「和尚、お願いします。もう一度、立ち合って下さい」

 和尚はうなづいた。

 五郎右衛門は木剣を清眼に構えて、和尚に向かい合った。

 和尚は相変わらず、杖を突いたまま五郎右衛門を見ている。

 二人とも、そのまま動かず、時は流れた。

 ひばりが鳴いていた。二人の間を蝶々が舞っていた。そよ風が若葉を揺らせた。

 五郎右衛門は木剣を下ろし、「いかがですか」と聞いた。

「相打ちじゃな」と和尚は言った。

「はい」と五郎右衛門はうなづいた。

「どうやら、わかったようじゃな。心(シン)、体(タイ)、業(ギョウ)が一つになっておる」

「和尚さんのお陰です」

 五郎右衛門は素直に頭を下げた。

「なに、わしは剣の事など知らん。もし、最初の立ち合いの時、おぬしが打ち込んでいたら、わしは死んでいたじゃろう」

「しかし、どうしても打ち込めなかった‥‥‥」

「それは、おぬしが強すぎるからじゃ」

「強すぎるから?」

 和尚はうなづいた。

「おぬしは鏡に向かって自分を相手に戦っていたようなもんじゃ。一度めの時、おぬしは相手を殺そうとしていた。相手を殺すという事は、自分は殺されたくはないという事じゃ。殺そうとする自分と殺されたくないという自分が、おぬしの中で戦っていて、どうする事もできなかったんじゃ。今度は、おぬしはまず、自分を殺した。そして、相手も殺す‥‥‥相打ちじゃ」

「はい、その通りです」

「まあ、理屈では何とでも言える。今日はな、おぬしと酒を飲もうと思ってやって来たんじゃ。まあ、やろうじゃないか」

 和尚は立ち木の側に置いたとっくりを持ち上げた。

「はい。今、お鶴がお寺に行きませんでしたか」

「来た。随分と世話になったようじゃのう。今、犬と遊んでおるわ」

「犬と?」

「ああ、野良犬じゃ。二、三日前にフラッとやって来てのう。居心地がいいとみえて、あのお寺に居着いてしまったわ。お鶴はその犬と本気になって遊んどるよ」

 五郎右衛門は犬と遊んでいるお鶴を想像して笑った。

「あれは面白い女子(オナゴ)じゃ。こだわりがちっともないからのう。その時、その時の気分しだいで生きている。色々と苦労して来た女子じゃが、まるで子供のように、ちっとも汚れとらん。綺麗なまんまじゃ。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いてるようなもんじゃ」

 五郎右衛門も、確かにその通りだと思った。コロコロと気分を変えるが、こだわりというものはまったく感じられなかった。

 和尚は鼻唄を歌いながら岩屋の方に向かった。見るからにのんきな和尚だった。





「本物の剣術は一生のうちに一度だけ使うものです」と五郎右衛門は和尚に言った。

 二人は岩屋の入口の側で、焚き火を囲んで酒を飲んでいた。

「その使い道も三通りしかありません。一つは戦場での太刀打ち。二つめは泰平の時、主君の命によって罪人を斬る時。三つめはどうしても避けられない喧嘩の時です。この他に剣術を使う時はありません。そして、三つとも、その場での相打ちの死は、武士として恥ずべき事ではありません。戦場においては、一人でも多くの敵を滅ぼす事が主君に対しての忠ですから、臆病になって命を惜しんだり、敵に討たれて、その敵に逃げられたり、流れ矢に当たって敵を斬る事なく死ねば、それは恥となります。しかし、敵と相打ちになって死ぬ事は恥ではありません。主君の命によって罪人を討つ時も、もし、自分が罪人に斬られ、その場で死に、罪人を取り逃がす事になれば恥となりますが、自分の命を捨てて罪人を討ち捨てるならば恥にはなりません。喧嘩でも相打ちは見よき、聞きよきものです。敵を殺して勝ったとしても、敵の兄弟、子供らが憎しみを持って仇を討ちに来ます。相打ちで両方が死んでしまえば仇討ちなどなくなります」

 五郎右衛門は話し終わると和尚の言葉を待った。

「うむ」と和尚はうなづき、酒を飲んだ。そして、五郎右衛門を静かな目で見ると言った。

「おぬしが剣を抜いた時、それは、おぬしの死というわけじゃな」

「そうです」と五郎右衛門は力強く答え、とっくりをつかんだ。

「それもいいじゃろう」

 五郎右衛門は和尚が差し出したお椀に酒を注いだ。

「じゃがな、ちょっと、おぬしに面白い話をしてやろう」と和尚は言って、酒を一口飲むと目を細めた。

「何年か前、わしが京都のお寺にいた頃の事じゃ。わしがいたお寺に大ネズミが住み着いたんじゃ。その大ネズミは昼間っから人前に出て来て暴れ回った。仏像は倒す、お経は食い散らかす、お供え物はみんな食ってしまう。坊主たちが座禅していれば調子に乗って頭の上に乗って来る始末じゃ。坊主が総出で捕まえようとしても、とても手に負えん。仕方なく、近所から猫を何匹か借りて来て離してみたんじゃが、どの猫も、その大ネズミには歯が立たんのじゃ。困り果てていると檀家(ダンカ)の一人が、どんなネズミでも必ず捕るという猫を持って来た。その猫を見ると、どう見ても、ネズミを捕るような勇ましい猫には見えんのじゃ。老いぼれて、ぼんやりとした気の抜けたような頼りない猫じゃった。しかし、せっかく持って来てくれたのじゃから、とにかく、やらせてみろという事になった。ところが、その猫を離すと今まで暴れていた大ネズミがすくんでしまって、まったく動けんのじゃよ。老いぼれ猫はのそのそと動くと簡単に大ネズミをくわえてしまったんじゃ。それは、あまりにもあっけなかったわ。そして、その夜の事じゃ。坊主たちが寝静まった頃、猫どもがその老いぼれ猫を中心に話し合いを行なったんじゃ。まず、初めに口を切ったのは若くて鋭い黒猫じゃった。

『わたしは代々、ネズミを捕る家に生まれ、幼少の頃から、その道を修行し、早業、軽業、すべてを身に付け、桁(ケタ)や梁(ハリ)を素早く走るネズミでも捕り損じた事がなかったのに、あのネズミだけはどうしても‥‥‥』と悔しがった。

 老いぼれ猫はそれを聞いて、黒猫に対して、こう答えたんじゃ。

『お前が修行したというのは手先の技だけである。だから、隙に乗じて技を掛けてやろうとして、いつも狙っている心がある。古人が技を教えるのは形(カタ)だけを教えているのではない。その形の中には深い真理が含まれているんじゃ。その真理を知ろうとせず、形式上の技だけを真似るようになると、ただの技比べという事になり、道や理に基づかんから、やがて、それは偽りの技巧となり、かえって害を生ずる事となる。その点を反省して、よく工夫するがいい』とな。

 次には、いかにもたくましくて強そうな虎毛の大猫が出て来て言った。

『わしが思うには武術というものは要するに気力です。わしはその気力を練る事を心掛けて参りました。今では気が闊達至剛(カッタツシゴウ)になり、天地に充満するほどです。その気合で相手を圧倒し、まず勝ってから進み、相手の出方次第で自由に応戦し、無心の間に技がおのずから湧き出るような境地になりました。ところが、あのネズミだけは、わしにもどうする事もできませんでした』

 老いぼれ猫はそれに対して、こう答えた。

『お前が修練したのは、気の勢いによっての働きで、自分に頼む所がある。だから、相手の気合が弱い時はいいが、こちらよりも気勢の強い相手では手に負えんのじゃ。あのネズミのように生死を度外視して、捨て身になって掛かって来る者には、お前の気勢だけでは、とても歯が立たん』

 次には、少し年を取った灰色の猫が出て来て言った。

『まったく、その通りだと思います。わしもその事に気づいて、兼ねてから心を練る事に骨折って参りました。いたずらに気色ばらず、物と争わず、常に心の和を保ち、いわば、暖簾(ノレン)で小石を受ける戦法です。これには、どんなに強いネズミも参ったものですが、あのネズミだけは、どうしても、こちらの和に応じません。あんな物凄い奴は見た事もありません』

 老いぼれ猫は答えた。

『お前の言う和は自然の和ではない。思慮分別(シリョフンベツ)から和そうと努めている。分別心から和そうとすれば、相手は敏感にそれを察知してしまう。わずかでも思慮分別にわたって作為する時は、自然の感をふさぐから、無心の妙用など到底、発揮できるものではない。そこで思慮分別を断って、思う事なく、為す事もなく、感にしたがって動くという工夫が必要じゃ。けれども、お前たちの修行した事が無駄かというと決してそうではない。技といえども自然の真理の現れであるし、気は心の用をなすものじゃ。要は、それらが作為から出るか、無心から自然に出るかで、天地の隔たりができるのじゃ。しかし、わしのいう所を道の極致だと思ってはならん。わしがまだ若かった頃、隣村に一匹の猫がいて、朝から晩まで何もしないで居眠りばかりしておった。さっぱり気勢も上がらず、まるで木で造った猫のようじゃった。誰も、その猫がネズミを捕ったのを見た事もない。けれども、不思議な事には、その猫のいる近辺には一匹のネズミもいなくなるんじゃ。ネズミが密集している所へ連れて行っても同じで、たちまち、ネズミは一匹もいなくなってしまう。わしはその猫にその訳を聞いてみたが、ただ笑うだけで答えてくれなかった。いや、答えなかったのではなく、答えられなかったのじゃ。その猫こそ、本当におのれを忘れ、物を忘れ、物なきに帰した、神武にして殺さずの境地じゃ。わしなどのとても及ぶ所ではない。皆さんも頑張るように』と老いぼれ猫はのそのそと帰って行ったそうじゃ」

 五郎右衛門はじっと考えていた。

「どうじゃな。今のおぬしは老いぼれ猫じゃな。どうする。まだ、上があるぞ」

 和尚はうまそうに酒を飲むと、静かな目で五郎右衛門を見つめた。

「どういう事じゃ。剣を構えただけで敵が逃げ去るというのか」

「いや。剣など構えとらんぞ。ただ、居眠りしているだけじゃ」

「そんな事、信じられん」

「信じようと信じまいと、それはおぬしの勝手じゃ。黒猫の業。虎猫の気、いわゆる体の事じゃ。そして、灰色猫の心。今のおぬしは、この『心』『体』『業』を兼ね備えて一つになった。しかし、まだまだじゃ。おぬしの言う『相打ち』、自分を殺し、相手を殺すというのは、まだ、殺人剣(セツニンケン)の枠を出ん。剣には『殺人剣』と『活人剣(カツニンケン)』がある」

「活人剣? それはどんなものです」

「字の通り、人を活かす剣じゃ。最後に出て来た眠り猫の境地じゃ。言葉で言えるようなものではない。後は自分で考えるんじゃな」

「活人剣‥‥‥」

「さてと、わしは帰るかのう」

 和尚は立ち上がった。

 帰りがけに、和尚は五郎右衛門の背中に鋭い声を掛けて来た。

「五郎右衛門!」

「はい」と五郎右衛門は振り返った。

「それじゃよ。それが極意じゃ」と和尚は笑いながら、フラフラと帰って行った。

 五郎右衛門は和尚が置いて行った、とっくりをじっと見つめていた。

16.夢想願流、松林左馬助

2008年01月23日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 お鶴は二日めの朝になっても目を覚まさなかった。

 焚き火がどんどん燃えている暖かい岩屋の中で、たっぷりと敷いた藁の上に、お鶴は寝ていた。落ちた時に打ち所が悪かったのか、体に熱を持っていた。五郎右衛門は座禅をしながら、小まめにお鶴の看病をしていた。

 なぜじゃ。

 なぜ、お鶴はあんな事をしたんじゃ。

 普通だったら、二人とも死んでいたはずじゃ。わしをそれ程までに憎んでいたのか。

 多分、憎んでいたんじゃろう。お鶴は亭主に惚れていた。長い間、苦労してきたお鶴にとって、亭主との暮らしは夢のように幸せだったに違いない。わしはその生活を壊した。亭主の命を奪った。憎むのは当然じゃ。

 わしを剣で殺す事は不可能とみて、わしと一緒に崖から飛び降りたのか。いや、違う。あの時のわしはお鶴に対して、まったく警戒していなかった。わしだけを突き落とす気じゃったら、それもできたじゃろう。

 いや、それはできん。もし、お鶴がわしを突き落とそうとすれば、その前に、お鶴の素振りにその事が絶対に現れる。わしがそれに気づかないはずはない。あの時のお鶴には、そんな素振りは全然なかった。普段と変わらず、陽気に酒を飲んでいた。うぐいすの鳴き声まで真似していた。まず、自分を殺して、無心になっていたのか。

 自分を殺してまで、わしを殺す‥‥‥

 仇を討ったからといって、自分まで死んでしまったのでは、どうしようもないじゃろうに‥‥‥

 わからん‥‥‥まったく、わからん女子(オナゴ)じゃ。

「ここはどこ」とお鶴が昼過ぎになって、ようやく目を覚ました。

「大丈夫か」と五郎右衛門はお鶴の額の上の手拭いをはずして額にさわった。

 まだ、熱があった。

「五右衛門さん‥‥‥」

 お鶴はやつれた顔で、五郎右衛門の方を見た。やっと開いている目で、五郎右衛門の姿を捜しているようだった。

 五郎右衛門は身を乗り出し、お鶴の顔の上から、「しっかりしろ!」と声を掛けた。

 お鶴は五郎右衛門を見つめると、「あたしたち、生きてるのね」と弱々しい声で言った。

 五郎右衛門はうなづいた。

「奇跡的に助かった」

「そう‥‥‥助かったの‥‥‥いいえ、これで川上新八郎の妻であった鶴は死にました‥‥‥そして‥‥‥」

「どうして、あんな事をしたんじゃ」

「御免なさい‥‥‥あたし、あなたに嘘をついてたの」

「嘘?」

 嘘と言われても五郎右衛門にはすぐにわからなかった。が、愛洲移香斎の洞穴の事じゃなと気づいた。熱にうなされながらも、そんな事を気にしているなんて、いじらしい女だと思った。

「いいんじゃ」と五郎右衛門は優しく言った。「話は後でいい。今はゆっくり休む事じゃ」

 お鶴は小さくうなづいて五郎右衛門の方に右手を差し出した。五郎右衛門はお鶴の手を両手で優しく包んでやった。

 お鶴は軽く笑って、眠りについた。

 五郎右衛門はしばらく、お鶴の手を握ったまま、彼女の顔を見つめていた。

 自分のために自分を殺す‥‥‥夫のために自分を殺す‥‥‥果たして、今のわしにできるか。お鶴がやった事ができるか。

 自分を殺す‥‥‥自分を殺して、相手を殺す‥‥‥待てよ、それを剣にたとえると‥‥‥敵と向かい合って剣を構える‥‥‥誰もが勝ちを願う‥‥‥敵がこう来ればこう‥‥‥ああ来ればこう‥‥‥それでは畜生兵法(チクショウヒョウホウ)じゃ。強い者には負け、弱い者には勝ち、同格なら相打ち‥‥‥待てよ、相打ち‥‥‥

 自分を殺し、相手も殺す‥‥‥

 自分を殺す事ができれば、自分以上の相手とやっても相打ちに持って行く事はできる。

 自分を殺し‥‥‥相打ちに‥‥‥

 それじゃ。相打ちになって、両方が死ねば仇討ちなどというものはなくなる。しかし、自分を殺すとなると、一生に一度しか剣を使えなくなる‥‥‥

 うむ、それでいいんじゃ‥‥‥それでいいんじゃ。本物の剣は一生に一度の大事な時に使えばいい。無益な殺傷はすべきではない。

 わしにできるか‥‥‥自分を殺す‥‥‥

 五郎右衛門はお鶴を見守りながら、相打ちについて真剣に考えていた。





 お鶴が深い眠りから覚めたのは、崖から落ちてから五日めの朝だった。

 熱も下がったようだった。

 五郎右衛門はお鶴のためにお粥(カユ)を作ってやり、ほんの少しだったがお鶴は口にした。

「五右衛門さん。ありがとう」とお鶴は目に涙を溜めて言った。

「何をしおらしい事を」と五郎右衛門はお鶴の手を握った。

「あたし、あなたに嘘をついてたの。御免なさいね」

「そんな事はいいんじゃ。移香斎殿の洞穴の事じゃろ」

 お鶴は寝ながら首を振った。

「違うの、違うのよ。あなたは夫の仇じゃないの」

 五郎右衛門は自分の耳を疑った。

「なんじゃと」

「御免なさい。ほんとに御免なさい。あなたじゃないのよ。あなたじゃないの」

 お鶴は潤んだ目で、じっと五郎右衛門を見つめていた。

「ほんとに、わしじゃないのか」

 お鶴はうなづいた。涙を拭くと、「みんな話すわ」と言った。

「あたしの夫を殺したのは松林左馬助(サマノスケ)という人なの」

「松林左馬助?」

「あなたと同じ武芸者よ」

「聞いた事もない。何流の使い手じゃ」

「夢想願流(ムソウガンリュウ)」

「夢想願流? そんな流派があったのか‥‥‥」

 五郎右衛門は江戸にある武術道場を思い出してみた。江戸には様々な流派が道場を出して門弟を集めていたが、夢想願流などという流派は聞いた事もなかった。

「左馬助が自分で開いた流派よ」

「自己流か‥‥‥その左馬助とやらは、かなりの年配なのか」

「いいえ、あなたと同じ位よ」

「わしと同じ位で流派を開くとはのう。余程の自信家じゃな」

「信州の浅間山に三年間、籠もって、修行を積んだんですって」

「ほう、浅間山にか‥‥‥」

 上州と信州の国境にある浅間山は五郎右衛門も知っていた。駿河の富士山を小さくしたような形のいい山だった。この赤城山よりも雪が多く、冬は真っ白に化粧していた。

 お鶴は水が飲みたいと言った。五郎右衛門は水瓶(ミズガメ)から汲んだ水を飲ませてやった。

「早く、酒が飲めるようになれよ」

 お鶴は笑いながら、うなづいた。

「あたしが初めて左馬助に会ったのは、あたしが十五の時だったわ。左馬助は武者修行の旅をしてたの。あたしは旅芸人の娘に生まれて、両親に連れられて旅から旅への毎日だった‥‥‥十三の時、初舞台に立って踊ったわ。その頃、出雲(イズモ)のお国の歌舞妓(カブキ)踊りが流行っていて、あたしたちの一座も歌舞妓踊りをやってたの。男の格好をして舞台で踊ってたのよ。十五の時、左馬助はあたしの舞台を見て、あたしの事をとても褒めてくれたわ。お国よりもずっと素晴らしいって言ってくれたの。お世辞だったんだろうけど、あたしは本気にしちゃって大喜びしたわ。左馬助はその後、半年位、あたしたちと一緒に旅をしたの。左馬助は強かったわ。一座の者たちも左馬助を用心棒のように頼りにしてたの。左馬助は面白い話を色々としてくれたわ。若い割りには色々な事を知っていた。あたしは夢中になって左馬助の話を聞いてたわ。

 左馬助のお父さんは会津の上杉家に仕えてたの。でも、関ヶ原の合戦の時、お父さんは怪我をしてしまって、二度と戦のできない体になってしまったらしいわ。西軍だった上杉家も合戦の後、百二十万石から三十万石に減らされてしまい、左馬助のお父さんは上杉家を離れて信州に帰って来たの。まだ八つだった左馬助を連れてね。左馬助は小さい頃からお父さんより武芸を習い、さらに自分で修行を積んで夢想願流を編み出したの。十八の時だったそうよ。あたしは左馬助の事が好きになってしまったわ。このまま、ずっと、左馬助が一緒にいたらいいと願ったけど、左馬助は半年経ったら旅に出てしまった。戦をしに大坂に行ってしまったの。あたしは悲しくて悲しくて、毎日、泣いてたわ。そのまま、二度と左馬助に会わなければ、あたしは左馬助の事は忘れていたかもしれない。でも、一年後に旅先で、ばったりと再会しちゃったの。また、あたしは左馬助にのぼせちゃって、左馬助もまた、一緒に旅をしてくれたわ。そして、半年後にまた別れて、一年位したら、また再会して‥‥‥そんな事の繰り返しだった。

 十九の時、京都で夫と出会ったの。その時は話をしただけだったけど、あたしは夫に惚れてしまったわ。でも、あたしはしがない旅芸人、相手は立派なお侍、身分違いだと諦めて、また、旅に出たの。そして、また、左馬助と会って、半年近く、共に旅をするという生活に戻ったの。左馬助はあたしと一緒になろうとは言わなかった。あたしたちの一座は、いつも旅をしてたけど、毎年、同じ所を回っていたの。だから、今頃はこの辺りにいるって左馬助は知ってたのよ。左馬助はあたしに会いたくなると、そこに行って、あたしと会い、別れたくなると一人で旅に出ちゃうの。二十歳前は、あたしもそれでよかったの。でも、二十歳を過ぎると若い娘に舞台は取られちゃうし、いつまでも踊ってはいられないのよ。あたしも、これからの事を考えると不安になったわ。でも、左馬助が現れると、そんな事はどうでもいい。今がよければいいじゃないと開き直ってしまうの。そして、左馬助と別れてから、もう二度と左馬助とは会わないって誓うのよ。でも、やっぱり、会うと駄目だったわ。でも、二十歳の秋、左馬助と別れた後、夫が突然、現れて、あたしと一緒になりたいと言い出したの。夢のようだった。あたしは一座をやめ、川上新八郎の妻になったの。幸せだったわ‥‥‥ほんとにあの頃は夢のようだったわ‥‥‥

 夢のような生活は長くは続かなかった。一年後に、また、左馬助が現れたのよ。左馬助は二人の事を夫にばらすと言って、あたしを脅したわ。あたしは左馬助を何とか説得して、旅に出させたの。でも、また、一年後、やって来たわ。その時、左馬助は自分の弟子にあたしの様子を探らせるために先によこしたの。あたしがその弟子と会っている所を夫に見つかってしまって、あたしは仕方なく、昔の男がゆすりに来たんだって言ってしまったの。夫は左馬助の弟子に会いに行ったわ。話をつけて来ると出掛けて行ったけど、夫はその弟子を斬っちゃったの。私闘は禁止されてるのに、夫は人を斬っちゃったの。あたしは夫を助けるために武者修行の旅に出したわ。そして、あたしも左馬助が現れる前に、その場から消えたの。ほとぼりがさめて、夫が旅から戻って来るまで、あたしはまた、一座に戻って旅に出たわ。左馬助は弟子を殺された恨みを晴らそうと夫を追って行って、武蔵の国で殺してしまったのよ。左馬助は夫を殺してから、あたしの前に現れて、得意気に話して聞かせたわ。あたしは左馬助を殺そうとしたけど駄目だった。左馬助が旅に出ると、あたしも左馬助を追って旅に出たの。でも、途中で見失ってしまって、この山に和尚さんがいる事を思い出して、ここにやって来たの。そして、あなたと会ったっていうわけ。あたしが五日間、ここに来なかった時があったでしょ。あの時、お寺に来た人から左馬助の噂を聞いて、あたし、山を下りたの。左馬助と一緒に死ぬ覚悟で山を下りたんだけど、左馬助には会えなかったわ」

「そうじゃったのか‥‥‥」

 お鶴は武家娘じゃなかった。旅芸人の娘だという。という事は、お鶴が身に付けている剣術は武士のものではなく、旅芸人のものという事になる。

 旅芸人は年中、旅を続けているため、身を守るために武術を身に付けているとは聞いていた。お鶴の腕からすると旅芸人の武術も、なかなか侮(アナド)れないものがあると思った。

 五郎右衛門にとって、お鶴が武家娘であろうと旅芸人の娘であろうと、そんな事はどっちでもよかった。ただ、お鶴の仇が自分ではないという事は、ほんとに嬉しい事だった。

 お鶴の仇は松林左馬助という男だった。しかし、その仇はお鶴の情夫でもあった。十五の時に出会い、お鶴が初めて愛した男だった。関ヶ原の時、八歳だったという左馬助は五郎右衛門と同い年という事になる。十八歳の時、夢想願流を編み出し諸国修行の旅に出たという。

 左馬助はお鶴をもてあそんでいたのか。抱きたくなったら現れ、飽きたら、また旅に出る。自分勝手な事をしておきながら、お鶴が他の男と一緒になって幸せになると、平気で、その男を殺してしまった。五郎右衛門はお鶴をもてあそんだ左馬助を許せないと思った。殺してやりたいと思った。

 五郎右衛門はお鶴を見た。やつれた顔で五郎右衛門を見つめていた。

「どうして、わしが仇じゃと嘘をついたんじゃ」

「あなたが強そうだったから、あなたを左馬助だと思って、仇討ちのお稽古をしようと思ったのよ。あなたを殺す事ができたら、左馬助も殺せると思ってたんだけど駄目だったわ。あたし、だんだんとあなたの事が好きになっちゃったみたい」

「わしは稽古台じゃったのか‥‥‥」

「御免なさい」

 お鶴は手を伸ばして五郎右衛門の手をつかみ、五郎右衛門を見つめた。

「わしと一緒に崖から飛び降りたのはどうしてじゃ。あれも稽古じゃったのか」

 お鶴は首を振った。

「あたし、あの手を使って左馬助と一緒に死のうと思ってたの。でも、左馬助には会えなかった。でも、あたしには左馬助が近くにいる事がわかるの。もうすぐ、左馬助がここに来るに違いないと思ったの。左馬助がここに来れば、きっと、あなたと左馬助は斬り合いを始めるわ。あたし、あなたを失いたくはなかった。あなたとずっと一緒にいたかったの‥‥‥それで、あなたと一緒に死のうと‥‥‥」

「わしが左馬助に負けると思ったんじゃな」

「わからない‥‥‥でも、今のあなたは自分の剣術に疑問を持ってるんでしょ。疑問を持ったまま戦ったら、きっと負けてしまうと思ったの。御免なさい‥‥‥」

「いや」と五郎右衛門は力なく言った。

「確かに、お前の言う通りかもしれん。今のわしは、その左馬助とやらに負けてしまうかもしれん‥‥‥」

 お鶴は首を振った。

「そんな事はないわ」

 お鶴は五郎右衛門の手を握りしめた。五郎右衛門も握り返した。

「話し過ぎじゃ」と五郎右衛門は言った。

 お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、うなづいた。

「ずっと、側にいてね」

 五郎右衛門はうなづいた。