何も考えていないのと同じですよねー。
あるいは、
聡いということと、賢明であると言うこととは違う。
日本人は聡い。故に、物事を深く考えることをしない。
深いと思うことはあるが、その理由を論ずることはできない。
副題が長いよ。
例えば海を越えたどこかの国で、自分の国とはまったく違う社会制度が成立していて、どうしてそれが『この国』では実現していないのかを考えようとした時、『あの国』との『伝統的』な『文化』の違いを考慮して、それがその制度の『この国』での実現不可能性を支えているのだと言う考えは、足踏みをする言い訳にはなっても事態を好転させるための理由にはならないから。
だから。
私はそれを理由にはしたくないのさ。
はい。
村野瀬さんとこで取り上げられた
こんな話(ドイツのお話です)。
裕福なドイツ人のグループが、ドイツを金融危機から立ち直らせる力になりたいと、財産税の導入を求める活動を展開している。
先日、竹中はあほかと書いた記事で『共同体のあり方』にちびっとだけ触れたけど、これこそまさに『自分だけでない自分も含めた皆が幸せになるための方法』だと思うのですよ。
共同体を支えるためにはその能力を持つものが(その能力を得るために共同体から受けた恩恵もまた大きいわけであるし、そもそもそれが可能なのだから)その能力に見合った負担をするべきだし、また共同体の安定や成長は自身を含めた共同体の構成員全ての幸福にもつながっていくわけだから、それに対しては積極的に貢献していくべきである、わけですよね。ここで、『いや私は共同体なんて他人の集まりなんてどうでもいいから稼いだカネはできるだけ多く自分のためだけに使いたい』なんて言っちゃう極悪人はいないと思います。
こういう『べき論』は人間の欲望を克服せんとする理性の要求であって、それが故に実現することはなかなかに難しいわけですが、これを実現するよう求める人たちがいた、しかももっぱら負担を引き受けることになるであろう富裕層の中に。というニュースです。
どいつすげーよ。
すばらしい。
ぶらぼー。
はらしょー。
えくせれんと。
とかいいたいわけではありません。
なぜわが国ではかような愛国的提言がなされないのか。わが国の富裕層は勇ましいことを言ってはいるが、いざという時(例えば十年以上の年月が『失われ』ている今のような時だ。)に自らの資産を国のために差し出すこともしない。しょせん彼らは自分のお金を守りたいだけの臆病者どもではないか。こんなわが身可愛さで共同体を顧みようともしない者どもが経済なんぞを語っておるのか。それとももはやこの国には政治や経済については専門家を騙る輩しかおらぬのか。ああ嘆かわしや。
とかあほな憂国論を述べたいわけでもありません。だいたい憂国論なんぞ書くようになったらおしまいですよ。嘆きたいんなら川原か砂浜に座って石でも投げつつ酒を飲んでりゃいいんです。
いやそうでなくて。
ドイツではお金持がこういうことを提案したわけですが、日本ではどうなんでしょうか。
法人税やら所得税やらの最高税率を元に戻せという話は少なくともお金持からは聞こえてきませんし(新聞もよまねーで何言ってやがるとか言わんで、もしあるなら教えてください)、政策を評価して献金の基準にするぜとかいう『おいおい札束でほっぺた張るんですか経済界のトップにいるはずの人たちがモラルもなんも無視ですか力任せ金任せってヤクザやさんですか大人として恥ずかしくないんですか』とか言いたくなるようなことが、まかり通っているわけですよ。
これを道徳性の高低だとか、宗教的な背景の違いだとか、そういうふうに評価する人もいるんでしょう。
彼らはキリスト教的な神の名の下の公平性でもって富の偏在を是正するために様々な対策を講じようとしており、翻って日本国にはそのような強力な絶対者の下での平等という概念は育まれてこなかったのであり、こういった活動は確かに驚嘆に、そして同時に賞賛に値するが、しかし日本社会には馴染まない。とか。
そんな日本が嘆かわしい。とか。
おふざけになるのもたいがいにしてくださいな。
確かに、そこへ飛びつくことも不可能ではないでしょう。宗教はその共同体の倫理面に非常に強い関係を持っていて、明に暗に影響を及ぼしてくるわけですから。実際問題としてそこから無縁であることはまあ出来ないわけですよ。だからそういわれれば『そういう側面も確かにある』としか言えないわけで、逆に言えば『どんな問題についてでも否定しがたい理由』を挙げることで、一応それらしいことを考えているようなふりはできる、便利な理由なのですよ。
でもだからといって、違いの理由そのもの、ドイツ人にはできて日本人にはできない理由をそこに求めてしまってはいけないと思うのですね。そもそも聖俗革命によって宗教的命題よりも理性の要求をより上位においたヨーロッパ社会に対して失礼だと思いますし、なによりも有史以来人類が模索してきた普遍的な正義に対する真摯な考察に唾を吐くような行為でもありますし。
……どうしてこう脇道にそれるかな。
こまったもんだ。
先にも述べましたが、これは『自分も含めた皆が幸せになるため』に金銭的な負担を能力に応じて負担すべきであるという『理性からの要求』であるわけです。
もちろん理性とは普遍的な能力であり特性でありますから、日本人だってドイツのこのような人々と同程度に理性的でありさえすれば、同じような提案をするでしょう。
集団としてはまだまだ未成熟、ということなんですかねー。