思いがけず長丁場のオリエンテーションだったが、知的関心を刺激してくれる快い時間だった。仕事がすべからくこのような状況で進展すれば快適で質もググンと向上していくんだと思うが、なかなかそうは問屋が卸さない。
愉快な某化学界の勉強の後、某社長ちゃんがぜひ会いたいというので横浜くんだりまでお越し願い、ギネスのハーフアンドハーフを奢ってもらいふむふむとお悩み相談室をして遊んだ。これもまた善き哉である。本日は運気の流れが良かったか。
さて、重さ感覚も本日のトコトコ修行であらかた復活し目出度いので、本日も楽書きにしよう。楽メモはまた停滞しているが、多忙故しかたない。私用で考えて書く時間がない。こちらは考えない気晴らしなので日々ツラツラできるが。
すでに相手の体重とらえ、浮かしは、ほぼ意図的無自覚として実現する段階に入っているが、想像する合気の幻像との整合が取れない。これが久しく悩みなのだが、何をもって合気とするか、どこまでを合気というのかということすらわからない。ただ漠然と合気なる技があり、それに触れると力が使えなくなり相手の意のままに吹っ飛ばされたり倒されたり、というイメージばかり。武田惣角さんの逸話に接すれば、瞬時に相手を担ぎ上げるのが得意だったと言うから、吹っ飛ばしたわけではないらしい。また、三カ条でのお散歩ごっこもそうで、吹っ飛ばしたわけではない。佐川幸義さんの逸話と綜合して共通する点を絞ると、「力が使えなくなり・体が浮く」というような状態が基本になるのだろうと思う。それを元にとりあえず入り口に立つには、そこに至るぺしというのが武系楽体の目標なわけだが、現状は「力が使いにくくなり・体が浮く」ところにいる。けれど、その力の使えなさ、体の浮き方が合気なるものに近似しているのかすら判然としない。誠にもって暗中模索なわけだ。
が、そこにひとつ問題解決のヒントを得られるかもしれない機会が訪れる。これを私はずっと楽しみにしていた。やや秘密なんだが、機会があるのである。それがどういう結果をもたらすのかわからないが、私的に検証できる数少ない機会なので貴重である。
たぶん、崩れれば受身をきちんとやる余裕もないのではないか。というのが、ひとつの懸案である。体が浮いても投げの場合、格好良く受けられたりする。これが不思議に思える。なにか、引っかかる。
楽方向にのめり込む原因がそこにある。
例えば、「浮く」のとは別に、曲玉崩しが巧く嵌ると、膝が抜けて受身できないことはないが、前方にピョーンと飛んだりし難いこともある。小手返しが特徴的で、あの華やかなビュンなんて受身はし難い。ヘニョッと膝が折れ、ペニョッと転がる。
これも合気なるモデルに不思議を憶えるひとつだが、実際、ヘニョッと膝が抜けるような時がある。これは「体が浮く」合気的状態とはまた異なる。
が、それに至る過程は合気的である。
決定的な違いは「浮き」はなく、相手の体重は後方にかかっている場合がほとんどだと言うこと。そして、この際の「技」的動作は、合気道に見られるフニャフニャ系のものと似た感じがある。
体が浮くのが「合気」だと私は考えているが、このフニャフニャ系もその合気的プロセスで起こり得る。起こり得るけど、フニャフニャ系はもしかすると大東流に端を発する「合気」とはまた別で、植芝翁が発見採用したのはこちらだったのではないかという気もしたり。その辺は私のような青二才中老ではなんとも判じがたいが、その辺も検証できそうな機会が訪れるのである。嬉しい。
別に結果がどうであれ、私はこのまま何も変える気はないが、愉しみなんであるな。
明日はそういう愉しみもあるが、夜はニューヨークに住み着いている友人が帰国したので、某地へドンチャン騒ぎしに行ったりしないといけず、またまた多忙である。色々出かけるのは面倒臭いが、愉しみでならない。これで出かけずに済めば最高なんだが。ま、さっさと明日になることを祈って、さっさと寝よう。
愉快な某化学界の勉強の後、某社長ちゃんがぜひ会いたいというので横浜くんだりまでお越し願い、ギネスのハーフアンドハーフを奢ってもらいふむふむとお悩み相談室をして遊んだ。これもまた善き哉である。本日は運気の流れが良かったか。
さて、重さ感覚も本日のトコトコ修行であらかた復活し目出度いので、本日も楽書きにしよう。楽メモはまた停滞しているが、多忙故しかたない。私用で考えて書く時間がない。こちらは考えない気晴らしなので日々ツラツラできるが。
すでに相手の体重とらえ、浮かしは、ほぼ意図的無自覚として実現する段階に入っているが、想像する合気の幻像との整合が取れない。これが久しく悩みなのだが、何をもって合気とするか、どこまでを合気というのかということすらわからない。ただ漠然と合気なる技があり、それに触れると力が使えなくなり相手の意のままに吹っ飛ばされたり倒されたり、というイメージばかり。武田惣角さんの逸話に接すれば、瞬時に相手を担ぎ上げるのが得意だったと言うから、吹っ飛ばしたわけではないらしい。また、三カ条でのお散歩ごっこもそうで、吹っ飛ばしたわけではない。佐川幸義さんの逸話と綜合して共通する点を絞ると、「力が使えなくなり・体が浮く」というような状態が基本になるのだろうと思う。それを元にとりあえず入り口に立つには、そこに至るぺしというのが武系楽体の目標なわけだが、現状は「力が使いにくくなり・体が浮く」ところにいる。けれど、その力の使えなさ、体の浮き方が合気なるものに近似しているのかすら判然としない。誠にもって暗中模索なわけだ。
が、そこにひとつ問題解決のヒントを得られるかもしれない機会が訪れる。これを私はずっと楽しみにしていた。やや秘密なんだが、機会があるのである。それがどういう結果をもたらすのかわからないが、私的に検証できる数少ない機会なので貴重である。
たぶん、崩れれば受身をきちんとやる余裕もないのではないか。というのが、ひとつの懸案である。体が浮いても投げの場合、格好良く受けられたりする。これが不思議に思える。なにか、引っかかる。
楽方向にのめり込む原因がそこにある。
例えば、「浮く」のとは別に、曲玉崩しが巧く嵌ると、膝が抜けて受身できないことはないが、前方にピョーンと飛んだりし難いこともある。小手返しが特徴的で、あの華やかなビュンなんて受身はし難い。ヘニョッと膝が折れ、ペニョッと転がる。
これも合気なるモデルに不思議を憶えるひとつだが、実際、ヘニョッと膝が抜けるような時がある。これは「体が浮く」合気的状態とはまた異なる。
が、それに至る過程は合気的である。
決定的な違いは「浮き」はなく、相手の体重は後方にかかっている場合がほとんどだと言うこと。そして、この際の「技」的動作は、合気道に見られるフニャフニャ系のものと似た感じがある。
体が浮くのが「合気」だと私は考えているが、このフニャフニャ系もその合気的プロセスで起こり得る。起こり得るけど、フニャフニャ系はもしかすると大東流に端を発する「合気」とはまた別で、植芝翁が発見採用したのはこちらだったのではないかという気もしたり。その辺は私のような青二才中老ではなんとも判じがたいが、その辺も検証できそうな機会が訪れるのである。嬉しい。
別に結果がどうであれ、私はこのまま何も変える気はないが、愉しみなんであるな。
明日はそういう愉しみもあるが、夜はニューヨークに住み着いている友人が帰国したので、某地へドンチャン騒ぎしに行ったりしないといけず、またまた多忙である。色々出かけるのは面倒臭いが、愉しみでならない。これで出かけずに済めば最高なんだが。ま、さっさと明日になることを祈って、さっさと寝よう。