旧・境界線型録

この世の「型」を矯めつ眇めつ眺めて、頭の型稽古をする極私的道場。

合気二態観。

2009年10月30日 | 楽体記
 思いがけず長丁場のオリエンテーションだったが、知的関心を刺激してくれる快い時間だった。仕事がすべからくこのような状況で進展すれば快適で質もググンと向上していくんだと思うが、なかなかそうは問屋が卸さない。
 愉快な某化学界の勉強の後、某社長ちゃんがぜひ会いたいというので横浜くんだりまでお越し願い、ギネスのハーフアンドハーフを奢ってもらいふむふむとお悩み相談室をして遊んだ。これもまた善き哉である。本日は運気の流れが良かったか。
 さて、重さ感覚も本日のトコトコ修行であらかた復活し目出度いので、本日も楽書きにしよう。楽メモはまた停滞しているが、多忙故しかたない。私用で考えて書く時間がない。こちらは考えない気晴らしなので日々ツラツラできるが。
 すでに相手の体重とらえ、浮かしは、ほぼ意図的無自覚として実現する段階に入っているが、想像する合気の幻像との整合が取れない。これが久しく悩みなのだが、何をもって合気とするか、どこまでを合気というのかということすらわからない。ただ漠然と合気なる技があり、それに触れると力が使えなくなり相手の意のままに吹っ飛ばされたり倒されたり、というイメージばかり。武田惣角さんの逸話に接すれば、瞬時に相手を担ぎ上げるのが得意だったと言うから、吹っ飛ばしたわけではないらしい。また、三カ条でのお散歩ごっこもそうで、吹っ飛ばしたわけではない。佐川幸義さんの逸話と綜合して共通する点を絞ると、「力が使えなくなり・体が浮く」というような状態が基本になるのだろうと思う。それを元にとりあえず入り口に立つには、そこに至るぺしというのが武系楽体の目標なわけだが、現状は「力が使いにくくなり・体が浮く」ところにいる。けれど、その力の使えなさ、体の浮き方が合気なるものに近似しているのかすら判然としない。誠にもって暗中模索なわけだ。
 が、そこにひとつ問題解決のヒントを得られるかもしれない機会が訪れる。これを私はずっと楽しみにしていた。やや秘密なんだが、機会があるのである。それがどういう結果をもたらすのかわからないが、私的に検証できる数少ない機会なので貴重である。
 たぶん、崩れれば受身をきちんとやる余裕もないのではないか。というのが、ひとつの懸案である。体が浮いても投げの場合、格好良く受けられたりする。これが不思議に思える。なにか、引っかかる。
 楽方向にのめり込む原因がそこにある。
 例えば、「浮く」のとは別に、曲玉崩しが巧く嵌ると、膝が抜けて受身できないことはないが、前方にピョーンと飛んだりし難いこともある。小手返しが特徴的で、あの華やかなビュンなんて受身はし難い。ヘニョッと膝が折れ、ペニョッと転がる。
 これも合気なるモデルに不思議を憶えるひとつだが、実際、ヘニョッと膝が抜けるような時がある。これは「体が浮く」合気的状態とはまた異なる。
 が、それに至る過程は合気的である。
 決定的な違いは「浮き」はなく、相手の体重は後方にかかっている場合がほとんどだと言うこと。そして、この際の「技」的動作は、合気道に見られるフニャフニャ系のものと似た感じがある。
 体が浮くのが「合気」だと私は考えているが、このフニャフニャ系もその合気的プロセスで起こり得る。起こり得るけど、フニャフニャ系はもしかすると大東流に端を発する「合気」とはまた別で、植芝翁が発見採用したのはこちらだったのではないかという気もしたり。その辺は私のような青二才中老ではなんとも判じがたいが、その辺も検証できそうな機会が訪れるのである。嬉しい。
 別に結果がどうであれ、私はこのまま何も変える気はないが、愉しみなんであるな。
 明日はそういう愉しみもあるが、夜はニューヨークに住み着いている友人が帰国したので、某地へドンチャン騒ぎしに行ったりしないといけず、またまた多忙である。色々出かけるのは面倒臭いが、愉しみでならない。これで出かけずに済めば最高なんだが。ま、さっさと明日になることを祈って、さっさと寝よう。

武混エコ。

2009年10月29日 | 楽体記
 ふと気がつけば門脇の木犀の花がすべて落ち、暗緑一色。路地を挟んだ向かいの足許の千両には赤い実が鈴なりになっている。もはや冬の景色である。が、薄手のセーターを着てでたら汗ばむ陽気。ちょっと前なら小春日かとなんとなしに気分が浮き立ったものだが。
 某プレゼンを片付けて夜帰宅し、夕刊で目にした環境省や経産省のエコ目論見がまた気が滅入る。
 あ、その前に、トコトコ修行の甲斐あって、失われた感覚が帰ってきた。電車との揺れ対決は久しぶりに全勝でご機嫌になり、帰路はトコトコを越えてヌルヌル修行をした。ヌルヌルというのはナメクジ歩きである。ナメクジのように地を這って歩く。それも、他人様の目に触れても恥ずかしくなく、変質者に思われたりしないように、あくまでも自然に、さりげなく、けっして格好良くはないけど、みっともなくないような、身体内部の出来事としてのヌルヌルである。体感的には、競歩的動きに近いか。腰の上下動をなくし、地面と水平に移動する。トコトコは重さを左右交互に落とす歩行だが、ヌルヌルは同じだけどよりねっとりした重心感覚である。足も腹も使うけど、疲労度はトコトコ同様低いい割りに、速度が出る。体を流すように運用する感覚があって、けっこう愉しい。
 で、夕刊だが、まず驚いたのが、エコ発電の余剰分買取は太陽光に限るという取り決め。これはふざけた話である。パッシブだからエコなんで、風力だろうが水力だろうが人力だろうが、環境負荷が低いとされる力によって発電するものはすべてエコ発電である。アセスメント的に考えれば、もっともリスクがあるのは太陽光パネルだろうに、とんでもないことをやる。エコを経済に転換する姑息な狙いなわけで、また西欧に奪われた太陽光発電大国の座を奪取しようなんて下らない勝負意識もあるんだろうが、不公平かつ将来的なエコ文明を阻害する害悪制度といって良いだろう。
 とか憤慨して米焼酎水割りを浴びていると、その横には原発推進しろなんてコラムもあり、ゲピョーンとなった。九州のことらしいが、環境省が環境保全のために原発を進めよという。CO2減は地球規模の環境貢献だから、原発のリスクなど小さなことだというのだろう。なんという感覚なんだろう。こういう意識の人間は、自分では森を見ているつもりだろうが、地球を守るのは人間を守ることなんだから、まず人間を守るのが優先。併せて地球を守らないとなんの意味もない。とすれば原発など止めちまえである。厳格な省エネ法でも制定して、脱電気を進めるのが正しい選択である。文明病としか言いようがない。いい加減に成長幻想から脱しないものだろうか。私はこの世が薪や炭が安価で潤沢に手に入る環境なら、今日から囲炉裏生活になってもかまわない。というか望んでいるんだが、全世帯が薪を消費したら、瞬く間に森は枯渇するんではないか。電気など不足を補うエネルギーとして位置づけてしまえであるな。住宅はパッシブエネルギーを最大効率的に活用できないものは禁止。となると土地はある程度の広さが必要になるから、価格調整しないといけない。とか考えると、もう、戦後復興の原点から道を誤ったんではないかという気もしてくる。敗戦の傷手を克服するためにも経済の高度成長は必要だったと言う。それも一理ある。けど、絶対必要だったわけではなく、他にも方法はあっただろう。道は常に幾つもある。選択の最大の要点は、後世にリスクをもたらさないかではないか。今のエコ系経済活動は、その視点で見ればすべて落第だろう。
 ド田舎の旅籠なんかに泊まって、囲炉裏でなんか焼いて喰ったりすると、都会人はステキーッとか感動する。こんな生活したいッと言ったり。それは非日常だから愉しいのだとわかっているから、そんな風な反応になるんだが、それが日常でも何も問題はない。問題はそういうことをやったり、願ったりすると変人扱いされる時代の感覚にある。道をトコトコしたりヌルヌルしたりすると変態扱いされる恐れがあるのも問題である。私はすでに変態的行動の域は脱したが、周囲の目というのがけっこう修行を阻害したりする。エコも大変似ているのではないか。ちと、武とエコがこんがらがるが、もしも武の秘密が普通の感覚では理解しがたいことなのだとしたなら、変態的に見えても当たり前だろう。むしろオーッ凄いと思えるものなどたかが知れたものだと言える。凡夫が凄いと思えるものなど、たかが知れているに決まっている。エコであれ武であれ、あいついかれてんじゃねェのと思われるほどのものの方が、私的には安心な気がする。原発だけは、とにかく阻止して貰いたいものであるな。一歩間違えば無差別殺戮可能な道具なり技術なりが、エコにはなり得るわけないんだから。

感覚修行。

2009年10月28日 | 楽体記
 昔から仕事は選ばないが、人は選んできたので、浮沈激しいわけだけど、なぜかこの景気低迷の中でやけに売れっ子である。多忙を避ける意味でもわがままに選択してきたくせに、仕事を選ばないせいでこう言うことになるわけだが、これが仕事まで選んでいると飯の食い上げということになりシャッターを閉じる羽目に陥ったりするんだろう。浮世を流れるのもなかなか難しい。
 本日は思いの外に歩いたが、体重感覚が異様に薄れていることに気がつき、愕然とした。うっかり一歩踏み出すと、小指側に体重がのってしまい、ヨロッとなったりする。久しく寝床に親しみすぎていたせいだろう。
 何しろ目覚めると熱っぽいので、仕事部屋を引き払い、ついに寝床の横に臨時事務室を設え、在宅時は布団を被って勤労していた。ご老人が要介護になる時、風邪などを召して何日か床に伏せっていたりすると、ついにヨロッとなってしまったりされると聞かされるが、そういうことであるか。私の場合は、筋力の衰微というよりも、感覚の衰微である。せっかく上がってきた支え感覚も消えている。なんてこった。
 それでも帰り道でゆっくり腹式呼吸しつつトコトコと修行していたら、幾らか下腹部がドシッとしてきて、重さも落ちついてきた。こう言うのはしっかり定着するまで一日たりとサボっちゃ拙いらしい。十年くらいやってもこんなものであるか。以後は、せめて数時間の重さ感覚修行を忘れず日課としよう。常時意識しているつもりでいても、多忙などでつい忘れてしまうものなんであるな。無自覚を自覚とすることで無自覚を得なければならないということか。ややこしいが、そういうことだろう。
 本日は半日外にいたら、またまたまた発熱し、これは微熱を越えていそうである。が、幸い明日もプレゼンしに大都会に行かなきゃならないので、忘れずトコトコできる。明後日も、トコトコする予定なので、今週の修行環境は万全に整っている。ありがたいというか辛いというか、なんとも言い表しにくいが、なんとなく幸いであると思っておこう。
 言葉感覚というのも似ている。先刻も某営業的ご挨拶文について、「賜らば」は「賜れば」の間違いではないかと指摘するメールがきた。文法的にどちらが正しいのか以前調べようとしたけどわからなかったので、私は重めに仕立てる際は「賜らば幸甚に存じます」とか使う。用例を調べると与謝野晶子さんの手紙にも万葉系文例にもあり、明治期辺りの先生方はけっこうお使いになっていたようなので、偉そうな方々の代筆に頻用する。が、FEPでは変換されない。誤用だろうとなんだろうと、「賜れば幸甚」という用い方はどうも鷹揚な響きで好かないので、「賜らば幸甚」としてしまう。そこはかとなく謙遜の響きに感じられるためである。「ら」の場合、「らん」だと否定になるので間違いと思われるのか。この手の件は、文科省の指導にもなかなか見当たらないようだ。国語の先生なら知っているだろうか。私的には正しさとは情緒も含んで決されるべきだと思うので、やはり「賜らば」の方が正しい。
 こう言うのは感覚の問題である。こういう感覚が薄れていくと、なんでも良くなったり、慇懃無礼な響きを平気で使うようになる。このブログはもちろん意図的にやっているわけだけど、過去形語りや糞丁寧な言い回しは誠にもって不快である。薄っぺらな綺麗事も気持ち悪いし、異様に陽性の姿勢も面妖、といって陰湿一方はゲロゲロである。ま、感覚というのも時代とともに変容するのだから仕方ないが、許容範囲は広いほどいいだろう。
 アレッ?楽体書きするつもりだったのに、楽悩になってしまった。また熱が上がってきたせいか。

人間経済讃。

2009年10月26日 | 現世記
 またまた熱が上がったが、ここまで続くと、ほぼ常態とみなすしかなく、わが平均体温が温暖化したのだと結論した。別に上がるようなことをしていないのに、タダで上がっているのだから、なんとなく得な気もしなくもない。一説では、それは風邪じゃなくて花粉症じゃないのか、という指摘もあるが、わが辞書に花粉症という言葉はない。
 本日はポッポちゃんの所信表明である。久しぶりに感動した。すばらしい。かつて、これほど政治と言うことを適切に端的に語り得た政治屋がいただろうか。この方の力の限界がどうであれ、また民主党の手法が半端に終わったとしても、私はポッポちゃんを賞賛してやまない。私的にもちょっと彼の方のキャラクターは存じ上げているし、宰相としての限界も感じているけれど、彼の思想こそ政治家のものだろう。如何せん人の良さが徒になりそうな綻びの危険もあるとは思うが、物心ついて以来、初めてまともに近い政治家的言葉を耳にできたのは快哉である。
 個人的には友愛とか支え合いとか架け橋とかの言葉は好まないので、もう少し捻くれて工夫してほしいけど、そこがまた実直な人柄の表れだろう。所信表明を耳にして、成長とかNPO支援というような概念には危うさを感じるし、子ども手当、高速道無料化、新しい共同体のあり方などは制度設計がマズイだろうと思うけど、そこは過渡期である。やっと日本が少し方向転換したというだけで、画期的である。
 学者上がりにしては最高なのが、「人間のための経済」と言い得た点か。ずっと「私」あるいは「身内」のための経済が語られてきたが、彼が初めて不特定多数の共通概念へと経済を開放した。本来は歴代経済学者や思想家たちが求めたのもそれだったはずだが、さまざまな欲の効力で悉く転けてきたのが人類の歴史である。民主も遠くないうちに転けるとは思うけれど、わが国の宰相が経済を人間のための道具として宣言したのは実にすばらしいことだ。
 そもそも、働くのはなぜか、ということを考えればわかるはずだが、それは自分や家族の口に糊するためであり、また生を保つ安心と幾許かの喜びを得んがため。さらには、自己実現だの向上だの成長だのとも言えるけど、根本は、自分や家族が不安に苛まれず幸福に生活するために行う行為である。ところが、巷に溢れているお仕事光景を眺めると、義務感なのか出世欲なのか知らないが、下らないかけひきや自己アピールに必死になり、二十四時間闘ったりして家にはほとんど居られず、居てくれない方がせいせいするわと細君は理解を示せど、ガキどもは糞オヤジは外でバタバタするばかりで家庭を顧みもしないでふざけんなと卑下したりする。多くの大人はそれをガキだからと片付けるけど、そうではない。ガキどもがもっとも必要としているのは、親がそこに居ることである。せっせと働いて潤沢な贅沢三昧資金を稼いでくれれば、物心ついた頃には遊び放題だぜ、親なんて家に居ないで金だけ恵んでくれりゃいいや、となる。その手の状況に陥って苦悩する心やさしい親御さんをどれほど目にしてきたことか。あんたがさぼって、家でボーッとしてればいいんでないの、なんて助言すると「ふざけんな」と怒られる。私は大真面目なんだが。
 経済というのは、幸福を実現するためにあるし、労働はそれを担保するためにやる。が、労働が幸福を浸食するのが現代の代表的なモデルケースになっている。考えるまでもなく、チラッと見ればわかることだ。そういう意味では、「人間のための経済」とは重要な概念であるな。簡単すぎる嫌いはあるが、ポッポ語の最高峰である。
 日本「架け橋」論は、ちといただけない気がする。国際では架け橋になるよりも、煽動者になるべきだな。被爆国としての責務である。核保有国を徹底攻撃するくらいの覚悟をしてもらいたい。恥を知る日本こそ、核保有の恥を知らしめ得るんだし、それは人間の目を覚ますに足る強さを持ち得る。ホントはもっと早くやるべきだったが、まだ可能だろう。それをやるためにも経済大国なんて肩書きは捨てて、八百万神大国として世界に攻めこむべきである。八百万に神はましますのである。核は八百万を破壊する悪魔の道具なんだから、そんなものを持つことの恥を知らしめる文化を人類に伝道するのが日本政治の使命だろう。闘うなら肉弾戦でやれッと渇を入れてもらいたい。
 や、ポッポ所信に感動して、つい興奮して書きすぎた。また、熱が上がったっぽい。ポッポちゃんの次の宰相がひとつのポイントになるか。誰が来るんだろう。福島さんが転向すると、すぐれた女帝になりそうな気がするんだが。

忘務悔。

2009年10月25日 | ぼや記
 また、仕事をふたつ忘れていた。まいった。このところ楽体思索に忙しくて、仕事に差し障る。期日は差し迫る。仕方ない、差しあたり上辺を取り繕って誤魔化すか。
 というように相変わらずいい加減であるが、気象庁ほどではないだろう。予報では晴天と聞かされていたが、お天道様はわれわれを見放されたか、と昨日も某人と話した。
 今日はまた一気に冬である。温暖化した地球は意外に寒いのであるか。やはり地軸が零コンマ何度とかずれたんじゃないか。朝はせっかく体温が落ち着いている感じだったのに、また嚔鼻水に襲われた。
 本日は稽古ができなかったので機嫌が悪い。今は猛烈に稽古したい。いや、猛烈にしたいわけじゃなくて、ヘラヘラとサボりながらのんびりやりたいのだが、猛烈に休みたくない。固着体をどうしたら皮膚の下弄りに繋げられるのか、次から次と仮説が涌いてきて猫を相手にでも稽古したい。あいにくわが家には犬しかいない。犬はダメである。さあ、思いっきり掴めッと手を差し伸べると、お手をして尻尾をパタパタしたりする。で、エイッなんて鼻先で指を振ると、やられたァーと仰向けに転がり、舌を出して尻尾をパタパタしたりする。まったくお稽古にならない。
 このところ楽体記録を増やしていて、楽メモの方はやや真面目に記録しているのだが、これが実にいい稽古になる。体の感覚を言葉にするのはとうてい私の手に負えることではないが、細部の思索が詰まってきたり、新しい試論がポッと出たりする。書くという行為は、稽古である。
 そもそも書くのは私は好きではなかったが、行きがかり上、書く仕事に就いてしまったので毎日書いているが、私事を書くなんて思いの外だった。越える気のない境界線だったんだが、外に開いてみれば、これが実に内側に深まっていく。不思議なものである。
 歌詞なんてのは近頃の日本歌謡では私事的境界線の内側の暴露になっていて、多分に西洋歌謡的性質に変化しているが、日本人の言葉は狭隘な私事を記していても、そういえば外に開いていたんだなと徐に思い至ったりする。久しぶりに登場願うが、芭蕉の句など確かに私事が他事に開かれる。奥の細道の緻密な作為も、また他事とせんがためか。曾良の記録の意図は良くわからないが、やはり他事っぽい。とか考えるとタジタジとなる。
 親鸞の教行信証も他事に開く。法然の念仏集も他事る。昨日嵌り予告した般若心経も他事。文学には私事が多いが、私事が他事に転換するところに意義がある。代筆していても自覚的に満足が高いのは、他事となり得たとき。
 代筆で誰かに請われて指導すると、多くの場合、私事の表現に迷っている。自分がどう表現するかではなく、いかに読まれ得るかを考えた方がいいんでないのと助言したりすることが多いが、それも武に通底する。実に天地自然というのは、通底して循環するのか。
 とか、仕事を忘れ続けるために無理やり真面目ぶってテキトーに考えてみたけど忘れられないから、チラッとやって寝るか。また明日は地獄であるな。

波羅蜜多稽古考。

2009年10月24日 | 楽体記
 午前中、時間ができたので楽式型解析を楽メモして遊んだ。更新がまた滞ったのでせめて週に一二度は入れとこうと考えてやったのだが、これが楽しくて、つい長くなってしまった。何年前だか忘れたがホームページに入れだした頃から何度も取りあげている、正面打ち三カ条(二)について、以前より細かく書いたので、暇な方はぜひご一読いただきたい。私がおふざけ記録する理由は、この型解釈の問題と密接に関わる。あまり真面目にやると誤解が増えすぎるだろうからおふざけする手口を選んだんだけど、型というのは明らかにそこに記録したようなものだと私は考えている。
 先日、海外でお稽古することも多い方と喫煙所で話していたとき、門人になにか小さな冊子をもたせて稽古の前に唱和させていたという話を聞いた。冗談半分に「般若心経じゃないでしょうね」と問うと、正に「ずばり、その通り」とのこと。これには面食らった。
 植芝宗家といえばもちろん大本教である。大本の出口さんは素戔嗚尊を担がれたはずで、神道の流れだろう。もっとも日本は神道も仏教を導入して融合している多神の世界だが、般若心経を唱和してから稽古する風景は見たことがない。
 般若心経といえば経典には色々あるらしいが、一般に愛好されているのは、西遊記で高名な三蔵法師玄奘さんがサンスクリットの原典を持ち帰って漢訳した「般若波羅蜜多心経」だろうか。これに摩訶が付いたりするのも多いようだが、基本は玄奘さん訳だろう。これは経典としてはとっても短くて二百六十文字くらいだったろうか。ということで愛唱しやすいわけだ。
 また、かの有名な「色即是空、空即是色」があるから、いよいよ人気が高まる。
 まて、気分がのってきたから資料本を探そう。
 あった。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見蘊皆空、度一切苦厄…やれ、大変だからこのくらいにしておこう。で、この後に例の色即是空が現れる。
 これはサンスクリット原典からの訳を見ると、色々な問題を孕む経典だと言えるが、内容は観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ)に、悟りの境地を語り聞かせ、それに至るためにもっとも重要と言える波羅蜜多の行のための真言(マントラ)「掲諦掲諦波羅掲諦波羅僧掲諦菩提娑婆賀」を教えるという物語り。つまり、悟りに至る公案を授ける物語であるな。
 それはまあ悟れれば合気もできてしまうかもしれないが、やはり何ごとにつけ道には階梯というものがある。こういう経は念仏とは違うのだから、唱和してもしょうがないのではないか。
 とは思うが、よくよく考えると、このマントラ、一種の大願成就を願う祈りであり、また訳によって違うが悟りを祝する言葉になっていたりする。単純に見ると、意を空にしてただ成就を願う祈るという意味では、専心念仏にも通じるのではないか。そーか、彼らはマントラを唱え大願成就を祈願しているのか、とも受け取れないこともない。
 が、その大願とは合気の取得であり、悟りとはまた違うのだろう。
 ただ、十年以上合気を模索してきてみると、仏教的教えと多くの面で重なる面がでてくる。無欲でなければ、相手に一瞬なりと身を預けることはできない。攻める心があっては、受容はできない。自在の境地は一種タオの地平に近い。どうしても宗教的な発想に結びつかざるを得ないのだろう。
 もっとも近いと感じているのは老子の境地である。天地自然のあるがままに身を任せる。有名な牛を捌く職人の寓話など、正に達人のものである。刃を当てれば、自ずから刃が進むべき道に誘われる。だから、千頭捌いても切れ味は変わらない。進むべき道筋は、他に在る。切る者はただその導きに従って刃を進めるだけ。そういうことであるな。
 般若心経ににわかに興味が湧いてきたので、ちと暫く嵌るかな。空と無の問題など、思えば色々謎がある。これは愉しそうである。

日本のリーダー。

2009年10月23日 | 楽悩記
 目覚めると体がやや軽かった。まだ鼻水がずるると垂れるが、どうにか耐えられそうなので、特製生姜味噌入り自家製梅干しのせ豪華粥を喰ってブレストに乗り込んだ。勢いづいて某社長ちゃんをけちょんけちょんと虐めたら、興奮してまた熱が上がってきた。で、結局、私が変態役に納まってしまい重荷を背負って帰るという案の定の悲惨な身の上となった。
 せっかく大都会に上ったついでだから、来週猛ダッシュに突入する案件を頼んでいるデザイナーさんの事務所を覗き、未確認インフルかもしれない風邪菌をばらまいてきた。(私信:あ、たまにここを覗いてくださるカメラさん、例の玉葱と唐辛子のできあがりも渡してきたので、もし寄ることがあったら未確認インフル菌と一緒にもらってください。)

 ところで、優雅な午餐のひと時に先日の竹中さんインタビューを読んだ。期待通りの理知的分析に溢れていて愉しめた。
 先にお断りしないといけないが、私は竹中さんをなんとも思っていない。彼を選んだのは小泉さんであり、小泉さんを選んだのは国民なんである。今日的状況がよしんばかの時代に因があったとしても、それは小泉さんや竹中さんのせいではなく、国民、つまりわれわれのせいだ。なので、竹中さんについて言いたいのではない。そういう人間を選ぶことについて考えるだけである。
 出だしから大サービスだった。--例えて言えば、(鳩山政権の運営は)キッチンやリビングなど個々の部屋のプランとしてはすばらしいが、実は全体の設計図がないままに進んでいる感じ。--なんて洒落たことを言ってくれる。こう言うのは幾らでも応用自在で、小泉政権は例えて言えば、家の外観はすばらしいが、基礎に鉄骨を入れ忘れておまけに生乾きのまま上物をのせちゃった感じ、なんて言い方もできる。さすが、賢い学者さんは優れたレトリックを操る。
 結局、竹中さんは小泉時代の改革を進めていれば、今頃は弱者も救済され雇用も増えてきたはずと信じているらしい。今の雇用環境の悪化は、すべて、改革を止めちゃったせいらしい。--規制緩和を進めれば、2~2.5%の成長は可能です。他の先進国と同じです。人口が減っているのだから、2%成長すれば雇用は十分に確保できます。--と平然と仰有る。その後に、雇用形態の問題に触れ、多様な働き方を認め同一労働・同一賃金というオランダみたいにしろ、と付け加える。
 素朴に、なぜ、それを先にやらなかったのか、と思う。なぜ、当時、郵政民営化なんかより先にそれを提唱しなかったんだろう。
 当時の政権の基本的姿勢は、こんな発言で理解できる。
 --政府の責任は、ただ国民の声を聞くことではありません。『大変ですか?』と聞けば、人々は『助けてほしい』というでしょう。小泉政権で公共事業費を10%削減したのも、郵政民営化も、国民のそういう声を聞いてやったのではない。選ばれたリーダーが問題解決を第一に考え、『こうしようではないか』と唱えて実行する。それがリーダー型民主主義です--
 彼の心中は良くわかる。私もけっこう同感する。が、国民はリーダー型民主主義なんてものを求めていたわけじゃない。生活不安が募るから、なんかやりそうなやつにやらせなきゃと思ってリーダーを選んだだけで、やらせてみれば弱者切り捨て型で強者を伸ばし、強者が伸びれば甘露の雨が衆生の上にも降りそそぐのかと期待して天を仰げば日照りはいよいよ厳しく、一向に慈雨の降る気配がない。そうこうする内に郵政民営化で僻地の衆生が不安に怯えるわ、後期高齢者医療制度だのまるで体温のないトカゲが考えだしたみたいな弱者追い込み作戦が展開されるわ、ITの衣を被った金融ゴロがのさばり大騒ぎしたあげく御用になるわ、で民心はブルブルしちゃって、それでも急変は怖いから小泉後も自民に舵取りさせていたら、米国経済の破綻に見舞われ手の打ちようもなく、一年交替で歴代総理名簿にみんなで名前を連ねよう的遊びをやったりするのでさすがに嫌気がさして、政権交代した。
 国民の不安に震える声を聞いてやっていないから、こういう現実が現れたのだということがわからないんだろうか。強い者を強くするなんてアホでもできるだろ。それしか手がないのなら、せめて民心の不安要因を取り除いて、手放しでリーダーを支持できる環境を手当てしてからやるのが、リーダーたる者の資質というもの。そんなこと宣伝の世界では当たり前のことだが、政治屋や学者は知らないんだろうか。
 もっとも、八十年代以後の宣伝もリーダーシップ型に走って転けた歴史がある。私はそういう型に嫌気がさしてさっさと転落して地味なお手入れ型コミュニケーションに舵をきったから今も虫の息で生き残っているが、本当に売る力をもつ宣伝は配慮の行き届いたものである。小泉さんの選挙手法はまったくリーダーシップ型の遺蹟みたいで、パブリシティの悪い使い方の見本に見えた。
 小沢さんがやったのは、良く気がつくふりをする姉さん女房型か。所詮、立候補して名前を連呼し当選した政治屋に細かな配慮などできるわけないが、それでも自民よりはマシだと国民が判断した。ここのところをこそ小泉時代の戦友の皆さんは理解しないと、ただ日本人はバカばっかりだと思い続けるばかりだろう。バカでもアホでも人間は人間、超エリートもホームレスも同じ人。竹中さんは年末辺り夜の新宿に繰り出し、路傍に蹲る人に『大変ですか?』と尋ねてみるといいのではないか。『助けてほしい』なんて答えは返ってこないだろう。ただ、無気力にジーッと見つめるか、見向きもしないか、くらいではないか。そういう無気力脱力の種を取り除くのが政治の役割である。国を活かすと言うことは、国民を活かすことなんだから。日本のリーダーは所詮この程度なんだな、と再認識できたという意味で役立つインタビュー記事であった。

吾が豆納。

2009年10月22日 | ぼや記
 昨日は新聞に竹中さんのインタビューがあったから、近年の経済情勢を色々あれこれして遊ぼうと楽しみにしていたが、微熱が続き意識が朧状態で推移している。一日二日たっぷり寝ればいい加減寝るのが厭になり熱も退くと思うが、いきなりどこそこへきてくれだのあれをどうしたいだのこれはどうしようだの虐められ、いよいよ微熱中老パワーが蓄積されていく。おまけに明日も朝一からブレストにご招待されてまいった。
 このブレストというやつ、二十年前くらいに流行しだし近頃はあまり耳にしなくなったが、まだ使用されている。前にも記録したかな。ブレインストーミングだそうだが、昔辞書を引いたらingはなくBrainstormと記されていた。別にどっちでも良いが、今再度引くと、和訳は--妙案、インスピレーション、自由に考えを出し合う--とかなっている。が、面白いことに、もっとも適切と感じられるのが、--(突然の)精神錯乱--なんて訳だったりして洒落ている。
 ブレインといえば脳とか知能とか頭脳、あるいは知的指導者や企画者なんて意味らしい。わが生業は企み屋さんなので、その手の儀式に巻き込まれたりするが、企画者以外の語意には当て嵌まらない。わがブレインは、悩とか痴能とか豆納、あるいは痴的変質者や企画者なんて意味だと適切である。豆納とは納豆でも豆腐でもない。マメにさっさと納めたがる性質を指す。
 ドングリ頭を適当に集めて語り合うのがブレストだが、たいていさしたる問題解決には結びつかない。なんとなくみんなでブツブツして泥沼に嵌りいよいよラチがあかなくなると、恥も外聞もなく平気でヘンなことを言いだすやつに目が集中しだす。俗に白羽の矢が立つというような状況になる。で、そいつが調子に乗ってヘンなことを言ったりすると、オォーッ、それで行こう、それが良い、さっきからそう思ってたんだッなんて賞賛や出任せの声が驟雨の如く降りそそぎ、やぁ良かった良かった、実にすばらしいブレストだったなんて上機嫌で三々五々したりする。
 いつも思うんだが、結局一人の変態の意見で進めるなら面倒臭い儀式なんて要らねぇじゃん、と。どうせたいてい私が変態役になってしまうし。体調が悪いといよいよ痛切に思う。あー、行きたくない、寝床の上で暮らしたいと思うと、また熱が上がるからとっとと寝よう。
 それにしても、もう二週間近く発熱嚔鼻水が続いている。新型インフルじゃなさそうだが、やはりストレス性の新型拒職症候群ではないか。昨日某ショーに行かざるを得なくて眺めてきたが、そこそこ人出があった。そろそろ皆さん景気停滞に飽き飽きしているだろうから、わらわら走り出しそうな予感がある。走り出されてしまうと、わが拒職症はさらにドツボに嵌るから、せめて体調回復の猶予を与えていただきたいものだ。

ポジ貧困率。

2009年10月20日 | 現世記
 息つく暇もなく地獄に突入した。なんと言うことか。ま、仕事がある内が花だから文句ばかり言ってもいられないが、またまたまた熱が上がった。
 そろそろテレビが壊れそうなので、テレビのスペック調査をしたいんだが、怠いし暇もない。いや、こうしてブログを書いたりしてるんだから暇がないことはないが、その手の調査は幸福な心もちでやらないとつまらない。で、後回しになる。私はテレビなんてほとんど観ないけど、受像器愛好家なのでスペックなぞを眺めるのは好きなんである。
 しかし、民主政権へのスイッチは、諸々ゴタゴタして思っていた以上に味わいがある。前原さんは想像通りの活躍だけど、岡田さんが名役者になっているのは意外だった。この人も二重丸であるな。そこいくと長妻さんを厚労にしたのはやはりペケではなかったか。政権発足時にも記録したと思うが、はまり役過ぎると融通が利かないものなんであるな。彼のような切れ者は郵政や文科にするといいのに。
 夕刊に厚労省が発表した貧困率なる数値があった。07年は15.7%だそうだ。この数値がどういう性質なのか良くわからない。国際比較もしていて04年の日本の貧困率はメキシコ、トルコ、米国に次いで四番目に高かったとかあった。こういう情報はあくまでも相対的なものなので、実感とはかけ離れていたりする。04年のアメリカは、まだ依然として世界の長者面してブイブイ言わせていたが、貧困率では三番目に高かったわけだから。
 それは、所詮、数値なのでどうでもいいが、実際、つい先日まで一億総中流なんてヘラヘラしていた日本でも、貧困に喘ぐ人が急増しているのは間違いない。けれど、またこの貧困の尺度が曲者で、貧困なのになんだかのんびり楽しそうにやっている人もいれば、眉間にシワを寄せて暴れる人もいる。貧困の尺度が経済だけなら、のんびりしている人もシワの人も等しく貧しいわけだが、なにか違う。今晩食うものすら買えないというのは切実すぎるが、幾許かの収入が得られ辛うじて口に糊できるなら、後はものごとの捉え方ひとつ。政治屋が数値だけ眺めて、わが国は著しく貧困化していると判断していいものなのかどうか、疑問ではある。
 わが娘どもも生意気に成長してしまい、最近はビチョンだのグッチョだのジャネルだの商標入り財布が欲しいとか騒ぐので、幼稚園の頃に買ってやったキティーちゃんの財布があるだろとか告げると、バイトして自分で買ってやるッと家を飛びだしたりする。その手の商標物が欲しくてならないと、手に入らない状況は貧しいということになる。私的にはその手の商標に価値尺度をもってしまう方が貧しいとしか思えないけど、まあ仕方ない。
 朝、白粥の湯気の奥に霞む自家製梅干しの紅色を目にすると、幸福を憶える。朝飯はそれでこと足りるので実に豊かである。
 足りるを知るというのは、無知の知と同じことであるな。これしかないと思うか、こんなにあると思うかという単純な見方の問題に過ぎないけど、本来のポジティブシンキングというのは、そういう局面に適用すべきことであって、成功志向なんてものじゃないし、何でもかんでも明るく捉えようなんてことでもないだろう。足りるを知ることこそがポジティブである。あ、おれってアホなんだァと無知の知しちゃうのがポジである。
 とか、思うと、貧困の問題というのは、いったいにして真の問題なんだろうかと首を傾げざるを得なくなる。口に糊できる程度で貧困苦に喘ぐのは間違いに決まっているが、ものは捉え方次第。なんて尺度で調査してしまうと、さらに貧困率が激高しちゃうか。

ヤク。

2009年10月19日 | ぼや記
 昨日、体調が戻ったと喜んでいたら、仕事再開した途端に発熱嚔鼻水魔に取り憑かれた。拒職症の恐るべき力である。
 すでに約束があったので出かけざるを得ず、久しぶりにヤクの世話になった。ヤクったってカシミールやチベット辺りで勤労しているヤクさんではない。もちろん、ヤバイやつでもない。コンタックとか言うカプセルを二つばかり飲用して町を徘徊したのである。
 本日訪れたのは、私的に関心を抱いて将来的ニーズに応え得る良性営利陰謀と認定し、破格値でプロモーション策と制作業務をご提供した顧客だが、想像通り出足が鈍いらしい。訪問の目的はご提供したホームページ管理方法のレクチャーだったが、近況を色々聞いていると、やらないといけないことが次々に想起されてくる。想起されてくるけど、ご予算も乏しいので、超廉価でご自分方で実現できる程度のことしかアドバイスできないのが辛い。巷にニーズは溢れているのがわかりきっているのに、消費者は理解しようと努力するわけないから、どうにか理解してもらわないと提供しているサービスだの商品だののお得さがわからない。本気で某世情に質の良いソリューションを提供したいと熱心にやっている良心的な企業なのだが、難しいものだ。とりあえず、リピート誘因のための撒き餌術などを入れ知恵してきたから、来月辺りは少し改善すると思うけど、なかなかたいへんであるな。
 これは高齢者さん系サービス事業だが、この世界には、まだもの凄く多種多様の潜在ニーズが眠っている。もっともそれらすべてが価値あるものじゃないが、ぜひとも欲しいものも少なくない。私個人としてはそういうニーズに民間がビジネスとして応えるのみでは良くないと考えているが、とりあえず税収を増やして国家経営の安定を図るのが先決だから、とりあえずは仕方ないと考えるしかない。今の制度設計が浅く甘すぎるのだろう。ちょっと業界の事情を聞くだけでも、いくらでも新ビジネスのネタがでてくる。本来はそういうことはビジネスではなく、行政サービスとして実現すべきことなんだけど。そこをチョロッと解決してしまえば、役人の皆さんも感謝される時代が来るんだろうが、なぜかそうはならない。お陰でわれわれは無償奉仕系仕事をせざるを得ないのに、税金はちゃっかり取られる。で、呪わざるを得ないわけだ。アホ丸出しの負のスパイラルであるな。
 高齢系業界は知れば知るほど怖ろしい。わが老親には今正に関係し、十数年後には己が身を任せざるを得ない世界だけに、いっそう怖ろしい。厚生省はなにをやっていたのかと唖然としたり。厚労省はなにをやる気なんだろうとビクビクしたり。いっそ行政はなにもやらない方が、自然法則が働いて良い環境が創出されるんじゃねぇのなんて思ったりもする。なんたって、老人はわれわれの親なんだから、金以前に情が価値基準として働くはずなのに、それが許されない状況を作りだしてしまった。楢山節考の世界では老人が自ら山へ赴いたのだ。それを苦悶しつつ、やがてはわが身と諦め、如何ともしがたいこの世の摂理と受け止めていた。物語は苦しいばかりだけれど、概ね情の世界。山へ行くモチーフは経済だけれど、それが描きだす物語は情の世界である。現代はモチーフも経済、描きだすのも経済や自我、孤独、閉塞なんて感じか。いっそう冷たく暗い山椒魚の時代であるか。
 なんて暗澹たる気分が、若人をヤバイ系のヤクなんぞに走らせたりするのかもしれない。困ったものである。