旧・境界線型録

この世の「型」を矯めつ眇めつ眺めて、頭の型稽古をする極私的道場。

切ない原子。

2009年01月31日 | 楽体記
 やれ、また、ひと息である。たまにこちらを覗いてくださるらしい写真家さん、突然のお誘いにもかかわらず参加いただき感謝申し上げる。今再び思い返すと、今日打ち合わせしていなかったら、万事休すだった。常時いい加減にして迂闊な私ではあるが、今回のグチャグチャは壁の向こうの出来事なので如何ともしがたく、仲間の皆さんに救われて辛うじて生きながらえている。といった具合で、まったく何が何やらグチャグチャだが、ま、ひとまず楽になれて目出度い。
 で、都心辺りでなかなか旨いご飯おかわり自由の豚キムチ焼き定食を喰って帰宅し、焼酎が切れているのを発見したので、三日前に発掘したクルセイダースのテープを聴きつつ近所のスーパーまで買い物ドライブを敢行したり、満ち足りた一日であった。それにしても、ソウル・シャドゥ、とっても良い。心地良い。確か十九歳の頃だったか、偽ウォークマンでいつも聴いて歩いていたのを思い出した。あのリズムは、トコトコ歩行修行に相応しい感じがするので、今度試してみよう。
 久しぶりに電車読書をしていたら、興味深い記述に巡り会った。なんか色んな賞を受けた福岡伸一さんとかいう生物学者さんの「生物と無生物のあいだ」というご著書だが、なかなか面白い。私は話題の本はあまり読まないが、この本はさっさと読めば良かったと後悔した。
 野口英世さんに関するスキャンダラスな記録やロックフェラー大学とかロックフェラー医学研究所という名とか、やけにアメリカナイズされた文体はちょっと特殊な匂いがするけれど、純粋に科学的な記述として読むと、とっても刺激される。
 殊に興味深かったのが、量子力学の先覚者であらせられるシュレーディンガー先生が、アイルランドの何処だかで講演した内容を記録した「生命とは何か」と題されたらしい書籍に触れた下り。DNA解析競争の話しは、まあ、良いが、ここに取り上げられた「原子は何故そんなに小さいのか?」にまつわる思索が面白い。
 極微な原子に比べて、生物は何故こんなに大きい必要があるのかという話しだが、ここに紹介される平方根の法則は、人体の切なさをある面解き明かす道筋を示してくれるような気がする。これは、武的というか楽体的視点として、かなり重要なものだろう。引用するのは面倒なのでしないが、ここに触れられる原子のふるまいは、正に人間の本能的行為、というか切ない性を物語る。原子自体はなにひとつ思考せず意志もなくただ他力本願でプルプルしていて、その行動はカオスだけれど、他力によりいつの間にかある方向付けがなされてしまう。
 これは、また、社会学でもあり、力学を越える神秘学の領域にも繋がる。サブプライム禍が瞬く間に拡散したダイナミズムも、よく似ているのではないか。科学と哲学の境界線上の思索であり、まったく違う世界だが、森敦さんの意味の変容も想起させられコーフンした。
 この福岡さんという生物学者、プロフィールをチラッと見たら、私と同い年である。ニートなフリーターに比して、広大無辺的に頼もしいお方である。先頃、世間を騒がせて詐欺だかなんかで御用になられた高名音楽プロデューサーさんも同年だったかな。一九五九年、確かレイチェル・カーソンさんが人類に重要な警鐘を鳴らした年ではなかったか。その意義ある年に誕生したわれわれは、無気力世代としてボーッとしてきた。あ、本日打ち合わせした制作仲間さん方も皆さん同い年だったか。まあ、世代の話しはいいや。そういうことではなかった。
 平方根の法則である。格好つけていうと、ルートn法則である。こいつは、咀嚼する価値がありそうだ。よーく噛み噛みすると、人体が何故ピキンと伸びて緊張しちゃったりするのか、そこに関与する原子のカオスなふるまいの意味なんかが見えてきそうな気もする。なにせ、人体は原子に比して篦棒に大きいけれど、所詮は原子の集合体に過ぎず、そのふるまいは原子のふるまいの相似形になるに違いないと思うからだ。現に組織社会のふるまいは、カオスなくせにある法則に則らされてしまう原子のふるまいと瓜二つではないか。これは、とっても興味深い命題をいただいた。
 ということで、本日は上機嫌である。惜しまれるのは、今日明日はお稽古できないことのみ。
 そういえば、今朝、庭の白加賀らしい梅の花が綻び始めた。季節は着々と眠りから覚めようとしている。間もなく、生命がもっとも騒ぐ季節が訪れる。なんて予感に充ち満ちた日であった。

基本的型問題。

2009年01月29日 | ぼや記
 のっけから地獄模様になり、頭が破裂寸前である。本日も五時間に及ぶプレゼンと打ち合わせ。異常事態かつ緊急事態であり、未曾有の危機的状況である。未曾有と言えば、もはや旧聞の類だが、麻生さんを意識してるわけじゃない。漢字ぐらい読み違えたって大した問題じゃない。そんなもの騒ぐ方が異常だな。
 まあ、地獄界で揉まれて疲れ切ったので、腹癒せにちと休憩ブログするわけだ。
 本日も大騒ぎだったが、昔から度々遭遇する大騒ぎの典型だった。
 ある企業が、年々業績が落ちている、シェアが下落していると危機感を抱き、上の方から「どうにかしろ」と突かれる。で、下々は「ヘイヘイ、なんかしましょ」とやる。が、それまでも当人は一生懸命やっているわけで、どうにかしようとしても、どうにもならない。この原因は、ひと言でいってしまえば、思考やセンスが硬直して、消費者目線をケロッと忘れているからだ。
 が、皆さん頑張って旧態依然を打ち破り、新しいことをやろうとする。で、新しいことができたとか思って、これで良いだろと示すけど、なんら好転せず、相も変わらず業績は下降線を辿ったりする。要因は言うまでもなく、なにひとつ新しくなっていないせいなんだけど、当人にはさっぱりわからない。硬直しちゃってるから、理解できないわけだ。
 この「型」は、驚くほどそこら中に観察される。ゾウムシくらい類型が色々あるが、たいてい人間の思い込みと無意味なプライドに起因するだろう。思い込みとプライドが、変化を拒絶する。
 こういう人を追い込むのは簡単なことで、「で、結果は?」と問うだけで良いわけだ。でも、そんなこと言ってしまったらミもフタもないので、まあ楽しくやりましょうよと戯けないといけない。そういうタイプの頭は、ことの要因を常に自分の外側に探して納得する習性があるので、言ってもムダ。自省と言うことの真の意味に、当人が気づかない限り、どうしようもない。
 これで動脈硬化になったり呼吸不全に陥ったりする企業が多いのは周知の事実である。
 これも武のお稽古に似た感じがある。思い込み、プライドは、とっても恐ろしい。私は一般的なプライドなど持ち合わせずヘロヘロしてるので、プライド禍に陥っている人がよく見える霊感を授かっている。真のプライドは、生きる信念にこそもつもので、生活のためにコソコソやることなんかにもつもんじゃない。コソコソやる些末なことにばかりプライドを発揮しても、なんの役にも立たない。重要なのは、本質である。確か先日も書いちゃったが、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。
 型稽古の主たる問題は、こんなところに繋がっているんではないか、と私は誰にも言わないけど密かに思っている。あ、言ってしまったが。
 「型」は「技」に至る有効な手法として開発されたと思うが、もしもそれがきちんと機能しているなら、今日にも達人さんがたくさんいらっしゃってもおかしくない。あまりいらっしゃらないらしいから凄いわけだが、では「型」はなんなんだと疑問を抱いて然るべきだろう。武道の教育システムが一種のビジネスとして展開されているが、となると「型」は、入門者に「技」取得を約束する最重要の虎の巻である。もちろん習熟の速度などには明らかに個人差があるが、それを三十年とかきちんとやれば準々達人くらいの水準は約束されていい気がする。そういう役割を「型」は担えているのだろうか、と疑問を感じるわけだ。実は、「型」には、その役を担う機能が、充分に備わっているのに、見落とされてるのではないか、と。
 例えば、一カ条状態が二、三、四に求められる礎なのだとしたなら、何よりも一カ条の「型」の第一歩として、そのことが教示されるべきだろう。そうすれば、当然、「技」に向ける視点が変わるし、「型」の認識も変わる。そうされていないのだから、たぶん私の推量は誤謬である可能性が大きいのだろうが、万が一正しいのだとしたなら、これは稽古生にとってはたいへんな損失になる。初歩段階で知っている方が良いことを知らずに稽古するのと、知ってやるのとでは雲泥の差である。
 呼吸法、合気上げという神秘の技術も闇の中で、幾ら稽古してもチンプンカンプンではないだろうか。私は「一~三の基礎はダブル一カ条だよ、たぶん」と言うが、あくまでも「たぶん」である。何が合気なのか、わからないからだ。どなたか、わかっている人がいたなら、ぜひ教えて欲しい。と、たぶん、皆さん思っているのではないか。そう言う状況で、稽古が切磋琢磨という人間の習性に則った有効な機能を働かせられるんだろうか。ただ、型通りやって、その何が「技」なのかわからないけど、まあ、楽しいから良いやァということにならないか。ま、楽しければ良いんだけど。
 しかし、救いの道は必ずある。今日にもヒントは色々残されている。それらを拾って愚直にやる人間が増えれば、百年後くらいには真の達人が普遍的な「型」体系を構築してくれるかもしれない。現代は社会システムも過渡期だから、そういう宿命なんだろう。死んでもわからない難問なのかもしれないけれど、愚直に本質のみを求めてアプローチする方が断然楽しい。
 おっと、仕事の愚痴を吐いて鬱憤を晴らそうと思ったのに、いつの間にかたいへんな問題に触れてしまった。さっさと忘れて、寝よ。

それが、商売。

2009年01月28日 | 現世記
 先日、高田馬場で某ちっこい会社の社長と落ち合い、打ち合わせを装い世間話して遊んだ時のこと。
 その人の会社は、西欧からヘンなものを仕入れて売っていて、私も絡まっているが、近々、某製品の国内総代理店契約がダメになっちゃうかもしれないと言う。
 なんで?と問うと、「直接日本に進出するつもりらしい」そうだ。総代理店契約を結んでるのにおかしいじゃん、と突っこむと、「国内の数字が契約の目標値に届いてないからなァ」とぼやく。達成すべき売り上げが条件として契約に記されているそうだ。
 不景気のせいにしないところは、この社長さんの偉いところである。世襲二代目であり坊ちゃま育ちだが、常に自省する努力の人である。自省するわりには自制に欠けて、周囲の方には不評だったりするけど、比較的美しいキャラクターである。いつも人情の板挟みに苦しんでいる。多くの人はここを見ないで、せこさばかり見ていたりする。
 大元が乗り込んできたら、どうすんの?と訊いたら、「仕方ないから、下について売るしかないな」と言う。こういうケースは、ビジネスにつきものである。私はそう言うのが嫌いなのでフリーターになったが、それでも無縁とはいかず、頻繁に遭遇する。
 「下につくの?」と私がだめを押すと、彼は心外な風に「それが、商売なんだよ」と言った。
 それが、商売。なかなか洒落たフレーズだな。と感心したが、それが商売だという意識が、どうも腑に落ちない。われわれの世界も生き馬の目を抜くとか言われ、背反裏切り寝返り下克上など日常茶飯らしいが、仁義でやっても生きられないこともない。
 それが、商売。このいかしたフレーズは、競争社会を前提としている。よくギブ・アンド・テイクという。それは、競争ではなく協力の考えだが、競争の一手段、戦術として認識されていたりする。
 先日、別の困窮社の社長さんから、絶体絶命時に協力してくれたお礼だとかで、豆源のおかき詰め合わせを頂戴した。ああ、憧れの豆源である。中でも好きなのは、胡麻を贅沢にまぶした落花生入りあられである。これさえギブされるなら、何でもやってやろう。が、商売的ギブ・アンド・テイクは、その薫り高い胡麻あられの胡麻一粒をギブして、落花生入りあられは自分でテイクしちゃう式だったりするから、うっかりできない。大日本貧国民の皆さまにお一人当たり一万二千円から二万円をギブして、清い一票をテイクしようという選挙根回しと似ているが。商売とは、そういうものなのか。甚だ疑問ではある。

遠くの乳より。

2009年01月27日 | 現世記
 雪印メグミルクの統合話を目にして、久しぶりに経済頭になった。どんどん乳が遠ざかっていく。乳製品は別に好きじゃないが、相も変わらずスケールメリットにサスティナブルを見ているのが、どうにも気にくわない。
 金融なんかの専門家は、日本にはまだまだ金融機関が多すぎるから、統廃合が進むのが当然だ、その方が良いという意見もある。というか、経済の算数や理科の頭で考えれば、そりゃそうだろ。金融工学だなんだと言ったところで、所詮は、安全性の高いところに多く集めれば、利ザヤが膨らむわけで、大きい方が色々楽である。で、こぞっておっきくなろうねッとくっつく。これは寂しがりやさんの水分子と同じであるな。互いにくっつくことで、安心であり、威力を身につける。味も素っ気もない至極単純明快な真理である。で、そう言う状況を煽っている経済屋や金融屋やM&Aのコンサル屋なんかが、食の安全が脅かされている、由々しき問題だとか騒ぐのが、どうにもバカバカしい気がしてならない。おまえらがお先棒を担いできたんだろッ、とか思ってしまうわけだ。
 小売り屋さんも業績悪化でヤバイというので、みんなで手を結んでおっきくなって、仕入れを安くしたり色々やりましょね、とやる。大企業の経営陣の皆さんが、真剣な顔をして、それが正しい経営戦略であるみたいなことを宣う。そう言う経営者さんの尊敬する人物は信長だとか秀吉だとか戦国武将の名を挙げたり、中には何をトチ狂ったのか宮本武蔵殿の名を騙ったりもする。孫子なんかを口にするならイザ知らず、何を考えてるんだろ、と惘れる。ま、それはいいか。
 竹中さんの大活躍以降急増したスケール追求型経営の行方が、気になってしょうがないのである。ブログを書き出した当初から何度も思い記録しているけど、膨張は崩壊への道でしかないなんて、ほぼ明確だろう。新自由主義だの改革推進だのが、市場の膨張を促しちゃってるのはわかりきったことじゃないのか。大きな政府とは、戦後続いてきた公共投資型なんて言われるけど、そう言うものでもないだろう。そう言う方策ばかり採って誤魔化してきた政治屋が無能なだけで、政府の大小の問題ではない。この十年くらいは、小さな政府なんてスローガンをでっち上げて、わけのわからないことをやっている。もちろん、ただでかい独活の大木よりマシなのは明白である。組織というのは、拡大すれば、目が行き届かなくなって当たり前だ。個人的にはふくよかな巨体キャラは嫌いじゃなくて、食いしん坊の石ちゃんなんかは、芸無し芸人の世界にあっては優れた存在感だと思っているし。ま、これもいいや。
 昔は優れた価値を有していた企業が、大企業になってどんどん劣悪になっていくのをはっきり目撃しているのに、何故かどうどう巡りする。役所のサービスが悪い一因は確かにムダな肥満がある。大組織で末端にまで意思疎通を徹底して、厳しく管理するなんてのがムリなことなのだ。人間は一人ひとり違うのだから。同じ文言を目にしても、その解釈や理解はけっして一様にはならない。当たり前である。誰も彼もひとつの環境に生きているわけじゃないし、経験がまったく異なるんだから。
 この何年か奔出した建築だの食品だのの偽装、姑息なインサイダーなんかは、みんな毛細血管の破裂現象だろう。本来のメタボ弊害はここにあるのではないか。いかに優れた経営者だったとしても、何万人もの組織体の末端まで目が行き届くわけがないし、だから管理体制を構築する組織をアレコレ設計するし、事業部制だの分社化だのとやるが、さして効果はない。社長が替わるたびに、組織を一新しているような企業もけっこう見られるが、ほとんど無意味な儀式だろう。なんて、社長ちゃんたちには、さすがに言えないけど。
 組織というのは、例えばひとつの理想なり理念なり信念なりを共有して初めて成立するわけだけど、今日の組織体にはそれがほとんどない。昔から学校みたいな寄せ集め集団は理念だのの共有なんてなくて、ただお勉強しに集まるだけで、父権的強権構造が辛うじて組織を繋いでいたけど、それも崩壊した。今ではむしろ予備校なんかの方が父権を発揮しているわけだ。もちろん、この窮極は家庭崩壊にあるわけで、一家の奴隷に成り済まし、こっそり遊びつつ集金マシーンとして頑張ってしまったお父さんたちの失敗なんだろうと思うが、そう言う価値観を創出してしまった原因はやはり政治と教育にある。あ、危険な領域に来てしまったので、ちと退こう。
 言いたいのは、よーするに、二十一世紀になっても、大きいことは良いことだ的昔ながらの発想から、一歩も進歩していないんだな、と言うことである。小さい方が、明らかに安全であり、安心であり、平和が約束されるに決まっている。自分の隣人が作りだしたものを利用し、食べるなら、ほとんど危険などあり得ない。中には町内会の集いで毒入りカレーを喰わせちゃったりするアホもいるだろうが、あまりいないだろう。小組織の弊害は、古くさい村構造の窮屈さにあるわけで、そこをソリューションしてしまえば、こんな安心で快適な社会はない。そう言う小組織が有機的に連結していけば、自然に大組織もコントロールされるわけだ。要は、ボトムアップ構造が理想なわけだが、そうそう簡単には行かないから、それにひとつの方向性を与える指針が必要になる。この構造は、日本社会に実に合っている。合気であるな。かつてアインシュタインだったかな、誰だか西洋の高名な英傑さんが日本をべた褒めしたと思うが、そう言う簡明な理由ではないか。そう言う理想郷に最も近い性質というか才能を秘めているのに、いつまでも上手く行かないのは、やはり人間の欲に根ざす性と言うものか。欲によって生かされ、欲によって苦しめられる、因果なものよのうであるな。巨大乳製品屋さんが、ヘンな問題を起こしたりしないことを祈るしかないが。やはり、遠くの乳より、近くの乳を飲む方が安心だと思うが。値段の問題じゃなくて。

UとVの境界考。

2009年01月26日 | 楽体記
 今月は月曜日がやけに慌ただしく、ブログカレンダーがちらりと目に入ったら、月曜日の記録がない。これはマズイということで、やることが山積してるけど、むりやり記録することにした。
 昨日からずっとUVばかり考えていて、これ、昨日適当に思いついた表現だが、正にUVである。このUとVの境界にあるものが、ひとつの合気的「技」に関係するのではないかと踏んでいる。口で言ってしまえば、相手の力に応じて受け流し、力のベクトルを変化させる、という至極一般的なことになるが、この力に応じて受け流すためには楽体の極意が必要になるだろうし、ベクトルを変化させるその方法論はUとVでは大違いであり、大違いだけれど、その物理的差違はごく僅かで、実に微妙な世界だろう。相手に掴まれた瞬間に、肘を固定させて腋を空けさせるという初歩的な技術ですら、そう容易にはできないようだ。これは頭で幾ら考え、想像の世界で理解して納得しても、まずできない。私の経験から見る限り、自分の体をかなり明快に自覚し、何カ所かの関節を感覚的に固定解除できないと、まずムリだし、併せて相手の体を感覚して体でぴったり同期できないといけないようだ。
 いわゆる神秘的な合気上げという技を概観すると、腕の状態の多くは、ダブル一カ条、あるいは一カ条と小手返し、または一カ条と逆肘というような幾つかの類型になっているようだ。相手を浮かせて制する場合、ほとんどに一カ条が関与するらしい。そうして観察すれば、合気上げの多くは一カ条に依存するという仮説が立てられる。
 では、一カ条とは、何なのか?
 ここを吹っ飛ばして一カ条を稽古してもしょうがない、と私は考えたわけだ。その結果、合気に連なる一カ条とは脇を制御して、相手の筋力の自制を奪い、体重を傾かせて体全体の均衡を失わせる「技」ではないか、と仮に定義した。もちろん、もっと神秘的である。であるが、その状態を作りだせない限り、崩しに至ることはないとかなり強く確信しちゃっている。
 その状態を作るために、私の場合は楽体が必然として顕れたわけだ。
 この楽体による、相手の肘固定+腋空けを実践していると、UV問題に遭遇する。
 崩しのほとんどは力をV字的に方向転換させるものだ。多くの合気の人々は、円の動きの中に相手を取り込んで均衡を奪う的な表現をされるが、私はそういう状況はあまり多くないと考えている。具体的にいうと、丸い体捌きで相手を翻弄するような動作だが、例えば多数入り乱れる合戦場でそういう動きができるだろうか、狭い通路でできるだろうかと考えると、ないとしか言えない。円の動きは滑らかなU型転換であり、たいへん合気らしいものとして解釈し得る。が、実際は、体捌きという能動的な言葉で表現されるべきものではないのではないか、と思う。以前から諄く書いている「体捌かれ」の考え方である。
 では、Vなのか?というと、これも当たらない。Vでは、誰も崩せないだろう。直線的な力は容易に悟られ、対応される。
 で、楽体では、ずっと円と直線を結びつける方法論を探っているのだが、その表現としてUVは良いなァ、と感動したわけだ。正にUV。転換は、赤字企業が一気に業績回復するみたいなV字になるが、そこに誘う転換点は軟らかく怠惰なU字である。簡単に言ってしまえば、転換の尖端がとんがらずに滑らかな円を描くVだが、そのVの後の崩しの継続は螺旋だったりする。
 とにかく楽体的転換づくりの要点は、UVであり、特にこのUは微視的で視覚できない、ほとんど骨皮界の出来事である。崩しの結果は、「型」通りになるが、そのプロセスがまったく性質を異にする。ここが楽体の面白いところであるな、とか独り悦に入って喜んだりするわけだ。
 もちろん、これは一合気ファンの戯れ言に過ぎないが、こういうアプローチも楽しい。
 おっと、疲れたのでチラッとぼやくつもりだったが、マジ楽話しになってしまった。またにしよ。

UVプリズム。

2009年01月25日 | 楽体記
 本日は、武から離れた合気プリズム思索記にしよう。UVカットとは関係ないので、悪しからず。
 新聞の書評欄に新自由主義急先鋒のお一人だったらしい方の著が取り上げられ、良い転向であるなんて語られていたが、人の世の流れとしては当たり前ではないか。優も凡も愚も皆々踊っていたわけで、というか今も踊っているんだが、現世は無限連鎖の阿波踊り模様。だが、その踊りのベクトルに地獄を見た方が、転向宣言を発した。私はご著書を読んでいないけれど、たぶん「転向」ではないだろう。受容反射とでも呼ぶべき、プリズム効果ではないか。
 生活保護を求める人が三割増とか言うが、何をわかりきったことを騒ぐんだろう。生活保護に金がかかって困るが、困窮者のためになんとか予算を出したいと自治体は語る。これも一種のブームで、乗らないと格好悪いから乗る的図式がほとんどだろう。もちろん、語る本人は真剣である。生真面目に本気で語っているのだろう。どげんかせんとあかんッと。当然、どげんかせんとあかんに決まっているから、どげんかすれば良いんだが、今ばかり見てどげんかするのが大問題だと思うが、それがブームの宿命なのでどうにもできない。年越し派遣村の成功を目撃した政治行政界の目利きは、この波に乗らない手はないということで、コロッと手の平を返し救済と自己アピールに躍起になる。それはそれで、庶民が政治行政を動かす手法としては正解ではある。そんなもので根治はあり得ないが、これもプリズム効果だろう。
 昔々の芸術家の遺産を眺めたりすると、その手の「型」に向ける絶望的諦めと開き直りをひしひし感じたりする。日本文学や日本画、茶道、華道、礼法なんかにもプンプン香る。ムダのない質素な造形、徹底的な彫塑、何もそこまでと思うほどの生真面目ぶりが生みだしてしまう軽み、遊び。俳句なんかはその窮極であるな。表現せんと力みに力みまくった果てに生まれた、絶望的放擲というか、飢えに飢えた挙げ句口にした一粒の飯の甘みというか。我慢に我慢を重ねてついに達した厠の至福というか。モノノアハレである。
 とか、本日は、何故かお稽古しつつそんなイメージが湧き起こってきた。戦乱の時を越え、江戸期に武から芸に展開した理由が、何となく感じられるような。
 アハレは、分析したりすると、他に向ける情かつ自己陶酔とも言えそうだったり色々複雑だろうが、やはり絶対的諦観から生まれたのだろう。いわゆる、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというやつである。私は中学二年生まで泳げない水泳音痴で、バタ足で一メートルくらい進むのがやっとだった。あっ、つい調子にのって恥部をさらけだしてしまった。が、どんでん返しがあり、中三になると何キロでも泳げるようになり、ある日の水泳大会では一等賞になったこともある。エヘンである。ま、自慢したいだけだが、この金槌からの「転向」は、プールに浸かりいかに手足をばたつかせても前進しないし、ブクブク沈んでいく己が体の不具を嘆き諦め、エエイ、どうにでもなれッと一切の活動を放棄したら、プカーッと身が浮かんだという体験から生じたものである。プカーッとしてしまうと、アレ心地いい、で、沈まないなら怖くないからヘロヘロと手足を動かしてみると、スイスイ進んだわけである。力みを放棄したお陰で、体内の脂肪がドロリと拡幅し、体の比重を軽くしたのではないかと想像する。水面を歩いて渡る忍者なんて怪しげな異聞もあるが、私はあながち虚構ではないのではないかとすら思っている。横たわった人体が水に浮くのだから、ことによると水圧を受ける面積は圧倒的に小さくなるが、立って浮くことも不可能ではないのではないかと。まともな方々からはアホめと言われるだろうが、本気である。これもまた、水圧を受け入れた人体のプリズム効果かと。
 プリズム作用は、一種のコンシェルジュ・サービスという気もする。お客様のご要望にお応えして問題解決のお手伝いをして、快い世界に誘っちゃうのである。これは、正に合気ではないかと私は想像している。合気の場合は、快い世界ではなく、万事休すに誘わなくちゃいけないんだが、お客様が自ら好んで誘われてくださるなら、こんな楽なことはない。なんて現象を具象化する要点が、プリズムにあるのではないか。力の流れとしては、プリズム的異角反射ではなく、丼に落としたビー玉的滑らかな円弧の流れになるが、私的には円転によるものと言うより、異角反射に近い気がする。V字ではなく、反射の先端はU字だが、流れはV、サインはVである。Uは変容的だが、Vは転向的である。と思うわけだ。この理屈はなかなか面白いので、今年の課題のひとつにしよう。

俄繁盛の怪。

2009年01月24日 | 現世記
 イヤー、びっくりした。とうの昔にメディア信仰は廃れたとばかり思っていたが、浅はかであった。宣伝屋のくせにマスを小馬鹿にしやがってと、皆さんに嫌われる日々であるが、いやはや、マスメディアの威力は衰え知らず、まったく怪異である。なにせ、かの万年赤字零細商店に、わんさわんさとやってくるではないか。閑古鳥の飼育場となっているわが店としては、驚異的なことである。昨日はパブ効果ゼロなんて腐したが、大間違いであった。某職人オジサンとテレビスタッフの皆さまに心よりお詫びと御礼を申し上げないといけない。
 それにしても、通常の土曜日は午から開店にしているが、店長を務める女房が胸騒ぎがすると十時半頃店に行ったら、すでに人だかりができていたそうである。ザザオの報告によると、「てっきりオバマさんがやってきたのかと思いやしたぜッ」とのことである。
 で、泡喰って開店となったが、店内も電話がびりびり大騒ぎ。以降、息つく暇もなく電話来客電話来客ファックス来客電話と延々続く。私も何だか胸騒ぎがしたので、携帯に電話してみると、ヘルプ・ミーである。私が店にいるとたぶんお客様を追いだしにかかってしまうから、次女に袖の下を握らせて、勤労させた。私は人混みにいると頭痛吐き気鼻水涎扁桃腺にインフルエンザとか色々患ってしまうので、さっさと逃げたのである。
 というわけで、本日は本業とは別世界で疲労困憊した。が、もっとも懼れていたEメール攻撃が、ほんの僅かだったのは救いであった。
 それにしても、メディア効果には驚愕する。
 宣伝屋なのでその威力は知っているし、有効活用するのが業務だが、個人的にはこの威力の図式が崩壊しないと、世の中はまともにならないと考えている。本日の主題はこれである。
 宣伝屋兼商店主なので、当然、品物が売れてくれないと困る。困るけど、わが商店の方針は、売らんかなの徹底否定である。誰も信じないが、セールもしないし、宣伝したいと勝手に来るメディアは歓迎するけど自発的売名行為は一切しない。目を集める仕掛けもしない。何もしない。ただ冷徹な目で商品を凝視し、品質とデザインと生産の誠意を判断し、購入するに値する価値があり、適正な価格だと納得したものだけを扱う。それだけの価値ある商品を、適正な価格で出す生産者のためにも、基本的に値引きはしない。当然、仕入れも値切らない。なので、定価でしか売れない。誠実に生産し販売しているのに、値切るのは恥知らずだと信じるからだ。
 この考え方を理解してくれる生産者と客だけを相手にする店にしたわけだ。だから現実的には、儲かるわけがないのはわかりきっている。故に万年赤字であり、想定済みの赤字であり経営難なので、格別悩みも絶望もしないわけだ。むしろ個人的には消費性向など色々眺められて楽しいし、それでもまだ潰れないのでこの世にはまだ希望があると思うわけである。この「型」は未来を設計する上で、たぶん最重要のことだろう。
 偏屈な零細商店でも、メディアで紹介されると、お客様がドーッと尋ねてくださる。今までほとんど売れなかった品が、一気に売れていく。この図式が、とても恐ろしい。
 元々、売れて然るべきと評価したから扱っているんだが、メディアで紹介される前はあまり売れなかった。この売れる売れないの境界線に、もの凄い病的な問題がある。
 宣伝屋あるいは商売人としては、この「型」の上っ面を滑って喜ぶ方が強いに決まっている。けれど、どうにも虚しい。人はこの虚ろに漂い、薄っぺらな型をまとって、やがて虚空の闇に消えていくのか。とか思うと、冗談じゃねぇ、としか思えないわけだ。
 その点、ザザオやモルちゃんは、たいへん強い意志を持っていて感心する。腹が減ると、飯喰わせェと騒ぐ。で、食いものを提供するが、その物が意にそぐわないと、ガンとして喰わない。いかに、宥め賺しても喰わない。こんなものが喰えるか、冗談じゃねぇと突っぱねる。ま、美味そうだと思えば毒入りでも喰ってしまうんだろうが、とりあえず見上げた意志力である。意志じゃないけど。
 そこいくと、人間は賢いので、不味くても他にお得があると思えば、魚心水心とか呟いて喰ったりする。さすがに腹を壊しそうだと辞退するだろうが、得さえあれば少々の心身の傷手は諦めたりする。ご老公様のように、困窮する誰かのために喰って腹を壊すならそれもいいけど、他人のためになんて喰うやつはほとんどいない。人助けと称して、我欲を撒き散らしている光景を度々目にする。特別給付金の型である。後期高齢者医療制度ほどのあざとさはないが、似たようなものだろう。そんなのを思慮分別なんて言う人もいるし、大人という人もいる。それが思慮分別であり大人なのだとしたなら、ザザオやモルちゃんの同朋として野垂れ死にした方がマシな気がする。
 とは言え、わが店は本日限りは大繁盛で、全国津々浦々から注文が舞いこんだ。後十年くらいこの景気が続けば、左団扇である。んなこと、あり得ないとわかりきっている当たりが切ないが、まともに良い品を誠実に作っている生産者さんが、幾らかでも気楽になれれば本望ではある。

削除の悔。

2009年01月23日 | 楽悩記
 数時間前、わが万年赤字零細商店がテレビに映っていた。店頭店内ともに良い感じで映されていたが、ほんの数秒だった。店名もナレーションとスーパーで入ったけど、問い合わせ先がでない。
 もしかしてオンエアのせいで、明日からは店の電話がジャンジャン鳴り響き、千客万来、皆さん財布を開きっぱなしでレジスターもチンチン騒ぎっぱなしになっちゃうかもなァ、とかむりやり誇大妄想していたが、なんじゃこりゃである。パブ効果ゼロだなとがっかりして仕事遊びに復帰したら、バシバシッと迷惑メールが雪崩れ込んできた。いつものことだが、日々百個くらいかそれ以上の鬱陶しいメールを消しまくるのが、わが主要な業務みたいな状態である。で、毎日十分おきくらいにペチッと掃除するんだが、さっき習慣的にペチッと消したら、消える刹那、わが店の名前らしき文言が目に入った。
 ゲッ!もしかして、早速のお問い合わせかッ?と青くなったが、時すでに遅し。もはや闇の彼方である。幻の顧客様にはたいへん申し訳ないことをしてしまった。
 などと、本業以外の雑役に常時煩わされているので、能率が悪い。私は昔から怠ける時間を最大化するために、何の役にも立たない遊びにまでも高効率高能率を追究しているのであるが、なかなか思うようにいかない。宣伝文書きは手慣れているので猛効率だが、企画はいつでもゼロベースのスタートなので能率が上がらない。すでに二十年以上の経験を積んでいる業務ですらそうなんだから、これが手慣れていない規格外の雑務となると非効率極まりない。
 在宅勤務スタイルを採用したせいで、この非正規雑務が大幅に増加して困る。今は朝、美味しい粥を食した後、七時半には業務を開始しているが、事務室に引き籠もると程なくドアをコツコツするものがいる。「入ってるよォ」と応えるが、返事がない。朝っぱらから霊か?と、ドアをコソッと開けると、御免なすって、ちと遊んであげに来ましたとザザオが忍び入る。こいつは私を付け回すのが正規業務らしいので、仕方なくお付き合いしてしまったり。
 この朝のひと時は、ご近所のオバサマの声の他に雑音がなく、ものを考え文を書くのに最適である。早寝早起き型になってから、もっぱら書くという作業は午前にやる。日中はボケーッとして考え、晩飯後は酔っぱらってるのでヘロヘロとして思索しつつ下書きを書き殴り、翌朝目覚めたら粥を胃の腑に納めるという神聖な儀式をしてから、まともな形にでっち上げる。
 今朝、カーテンを開けたら、梅の小枝の蕾がかなり膨らんでいて、久しぶりの雨が蕾の間に間に珠玉を付けて、淡い日差しだったがきらきらしていた。まだ雨催いだけれど、メジロのつがいが小枝を行き来して遊んでいた。遠くから雀らしい囀りも聞こえた。この感じ、若い頃、クリシュナムルティーさんの随想を読んだ時に感じた、あの感じ。そこに生命が蠢いている。春の気配というか、何もかも生きているというか、生きられるというか。素朴に過ぎるけれど、それ故に澄んでいる。夜闇を乗り越えて再生した、朝だけがもつ精気がある。
 朝は頭も清明でヘマも少ない。校正なども、朝やると、ヘマが少ない。
 夜はいけない。夜の頭は闇鍋である。で、もしかしたら重要なメールかもしれないのにノーチェックで消してしまう。今後は、夜間業務禁止令をわが身に課すことにしよう。

体力考。

2009年01月22日 | 現世記
 今の子は昔の子に比べて体力が低下してる、なんて発表されたそうだ。一九八五年の抽出調査の成績を全般的に下回ったと言う。しかも、運動する習慣が衰微していて、なんと女子は週に一時間未満が小五で約二割、中二に至っては約三割である。誠に由々しき事態である的な結果発表である。
 が、この調査、マジなんだろうか。
 マジィ?と疑う理由の主因は、全国学力調査の結果と重なる傾向があった、と言う報告。これは昔の知能指数調査と同じような感じで、調査の意図に叶う結果はほとんど期待できないのではないか。確か私が小学生の頃にも、そんな調査だとか言って筆記テストをしたり運動をした記憶があるが、生来不真面目なので、ちゃんとやらなかった。知能指数なんて完全におちゃらけてやったので、惨憺たる結果だった。文科省のお役人さんは、ちゃんとやるだろうという前提で調査を計画したんだとしたなら、それこそ由々しき事態である。なんて言うと、そんなことは織り込み済みだと答えるだろうが、現にこの手の調査は現状の改善にほとんど貢献していないのではないか。
 この「型」は市場調査データも似たようなものだろう。マーケの場合は、問題発掘や失敗しないための境界づくりには役立つが、体力や学力の調査はあまり役立たないのではないか。
 体力調査では福井や秋田が優秀で、学力でもこの二県は素晴らしい成績を示したらしい。で、都道府県別成績表も新聞にあったのでチラチラ眺めたら、想像通りの数値がそこにあった。想像というのは、どうせ都市部のガキどもはおちゃらけてテキトーにやってるだろう、と言うことである。東京、大阪、愛知などは不良である。「学力も体力も低い。大阪はどうすんねん」とぼやく、大阪府知事のコメントもありサービスがよかった。
 この調査、主目的の調査としては役に立たないけれど、子どもを取り巻く環境と生活態度の相関関係を見るデータとしては役立ちそうである。物事に真面目に取り組まないと叱られる的しつけが生きている地域が、たぶん好成績だと言うことだろう。教師に体力測定をやるから、しっかりやりたまえッ!」と告げられ、よしッ頑張るぞ、とやる子が多い地域は好成績。ま、当たり前か。
 運動習慣はそこそこわかるだろうが、普段はグータラしてるくせに運動会になるとやけに足が速いやつなんてのもいる。実際、グータラかつメタボ系児童が増加しているとは思うが、それと能力は別問題である。
 ことの枢要な点は、何故近頃のガキどもは不真面目傾向なのか、であるな。私は四十五年前くらいから不真面目を先駆しているが、これは体育系の問題ではなく、心理系の問題である。それも、心理学じゃなくて、犯罪心理学みたいな実践的な分野でやらないとダメだろう。ま、調べるまでもなく、理由は明らかだと思うけど。
 この調査の結果をふまえ、各地で体育の活性化を図るべきである、とか真剣に議論しちゃったりするんだろう。で、地域全体で体育への取り組みを活発化し、児童の健全なる肉体の涵養に勤めるべく一致団結してエイエイオーしようッとかなったり。そんな様を見て、ガキどもはげんなりして、「つきあいきれねェな、やってらんねぇぜ」とかぼやく。神よ、この善良なるガキどもをお救いください、である。
 ガキどもの体力向上を本気で図りたいならば、鬼ごっこだの缶蹴りだのを正規の体育科目として導入すればいいのである。簡単なことだ。さすれば、喧しくてひっぱたきたくなるくらい元気な児童が、この世に溢れてしまうであろう。

教育的経営企画。

2009年01月21日 | ぼや記
 いよいよオバマさんが就任されて、ようやく新世紀に突入という感じである。それにしても、ワシントンには二百万人が新大統領を歓迎しに集まったというのだから、たいへんである。六十年代のビートルズより凄い。ヨン様でも、こうはいくまい。彼の国の皆さんは、さぞやお苦しみだったのだろうと、祝福するわけだが、オバマさんのその後を思えば慶賀一辺倒とはいかない。国内はもとより、世界経済の行く末まで背負わされちゃったんだから、たいへんなプレッシャーだろう。少々ミスしたからって叩かれたりせず、支え続けられればいいのだが。どうなんだろ。
 わが方の波は未だに荒く、ユッサユッサと揺れている。よくわからないが、トラブル続発だとかで停滞したり、いきなり騒ぎだしたり、まあ、いつもだが、グチャグチャである。昨日は公私混同の超多忙で何も作業ができず、本日こそ堰き止めていたカタログ三十六ページを一気に仕上げんと在宅音信不通の行方不明状態となり、ひたすら書きまくり、夕刻、無事任務完了した。やれやれである。
 最近やけに長女が進学する某大学から文書が来るなと思っていたら、今週入学手続きの締め切りだからさっさと金を払えと脅された。寝耳に水である。泡喰って金策に走ったが借金できるアテはなく、いっそ家出してぐれてやるかと考えていたら、娘が生まれた時に今日の窮状を予測して定期預金してあったのを思い出した。一家総出で行方不明の通帳を捜索し、辛うじて発見したら入学に要する金額がちゃっかり納まっていて歓喜した。Yes we can!である。で、鼻息荒げて郵便局へ行き通帳と届出印を突きつけて、「痛い目に会いたくなかったら、おとなしくおれの定期預金を出しやがれッ」と凄み、首尾良くゲンナマを手に入れ、大学指定の銀行に振り込み一件落着した。やれやれである。
 三十前後の頃、銀行員さんや保険の営業さんなんかに「人生設計はお考えですか?」と問われ、「んなこと考えるわけないっしょ」とか答えていたが、つい出来心で蓄えておいて良かった。ホントに、目が回るほど忙しいのに売り上げにならない恐慌多忙の渦中にあっては、忘却の彼方から浮上した定期預金は至上の甘露である。人生なんて面倒なことは考えなくても良いから、子供が生まれたら僅かでも備えておくべきであるな。
 晩飯の時には成績の悪い次女が志望する公立高校の話しになり、そこには経営企画室という極秘部署があると耳にした。ふむ、学校に経営企画か、教育が腐るわけだ、とやけに納得した。
 経営と教育。ま、経営学なんてのもあるんだからいいけど。寄付金制度なんてのは、いわば投資を募るみたいな気分なんだろうが、投資の見返りはなんなんだろう。子供を大学に入れ、学費を払うことが親にとっては投資行為だが、それ以上の投資は何をもたらすのかよくわからない。学費納入が購買と言うよりも投資だとしたなら、親はもっともリスクを負うステークホルダーではないのか。けれど親に対する配当はない。まあ、消費者に金を吐き出させてリスクを負わせるばかりの企業よりはマシだが、どうも狂っている気がしてならない。横浜も小中一貫にするとか騒いでいるが、今時は大卒が当たり前だとしたら、ヤンマーさんじゃないが、小から大まで一貫にしてしまえであるな。
 合気道で専任保育士として自主活動していると、ガキどもの意外な一面に気がつき希望を見出したりする。中学高校くらいの子に、喧しい幼児の世話を押しつけたりすると、ヤダーとか零しつつも、思いの外に面倒見がよかったりする。こういう光景は学校や世間ではあまり目撃しにくい。いかな悪ガキでも、ペットには強烈な愛情を注いだりするが、一種のデフォルメされた渇望だろう。日本は飢餓列島でもあるかとか思うと、教育関係は経営企画なんてしてないで、ガキどもの渇きにお湿りを与える方法でも企画しろよと思ってしまう。
 良質な商品やサービスのもとにこそ、顧客は集まるのが本当である。それが歪んじゃってるから異常なんだけど、せめて教育くらいは、良い教育者と機関のもとに顧客たる生徒学生が集まるようであって欲しい。そもそも、マーケティングの要は、常識感覚だろう。未来を作るのは、教育なんだから、本質を見失っちゃあヤバイ。オバマさんの成功はマーケでもあるけれど、国民に未来の可能性を見せたからだ。彼の偉いところは、わかりやすいアメ玉作戦に出なかったところか。彼の成否はわからないし、ちと宗教的モデルでもあるが、教育的本質のモデルに見えなくもない。今年前半は、オバマさんに愉しませてもらえそうで、期待大である。