やれ、また、ひと息である。たまにこちらを覗いてくださるらしい写真家さん、突然のお誘いにもかかわらず参加いただき感謝申し上げる。今再び思い返すと、今日打ち合わせしていなかったら、万事休すだった。常時いい加減にして迂闊な私ではあるが、今回のグチャグチャは壁の向こうの出来事なので如何ともしがたく、仲間の皆さんに救われて辛うじて生きながらえている。といった具合で、まったく何が何やらグチャグチャだが、ま、ひとまず楽になれて目出度い。
で、都心辺りでなかなか旨いご飯おかわり自由の豚キムチ焼き定食を喰って帰宅し、焼酎が切れているのを発見したので、三日前に発掘したクルセイダースのテープを聴きつつ近所のスーパーまで買い物ドライブを敢行したり、満ち足りた一日であった。それにしても、ソウル・シャドゥ、とっても良い。心地良い。確か十九歳の頃だったか、偽ウォークマンでいつも聴いて歩いていたのを思い出した。あのリズムは、トコトコ歩行修行に相応しい感じがするので、今度試してみよう。
久しぶりに電車読書をしていたら、興味深い記述に巡り会った。なんか色んな賞を受けた福岡伸一さんとかいう生物学者さんの「生物と無生物のあいだ」というご著書だが、なかなか面白い。私は話題の本はあまり読まないが、この本はさっさと読めば良かったと後悔した。
野口英世さんに関するスキャンダラスな記録やロックフェラー大学とかロックフェラー医学研究所という名とか、やけにアメリカナイズされた文体はちょっと特殊な匂いがするけれど、純粋に科学的な記述として読むと、とっても刺激される。
殊に興味深かったのが、量子力学の先覚者であらせられるシュレーディンガー先生が、アイルランドの何処だかで講演した内容を記録した「生命とは何か」と題されたらしい書籍に触れた下り。DNA解析競争の話しは、まあ、良いが、ここに取り上げられた「原子は何故そんなに小さいのか?」にまつわる思索が面白い。
極微な原子に比べて、生物は何故こんなに大きい必要があるのかという話しだが、ここに紹介される平方根の法則は、人体の切なさをある面解き明かす道筋を示してくれるような気がする。これは、武的というか楽体的視点として、かなり重要なものだろう。引用するのは面倒なのでしないが、ここに触れられる原子のふるまいは、正に人間の本能的行為、というか切ない性を物語る。原子自体はなにひとつ思考せず意志もなくただ他力本願でプルプルしていて、その行動はカオスだけれど、他力によりいつの間にかある方向付けがなされてしまう。
これは、また、社会学でもあり、力学を越える神秘学の領域にも繋がる。サブプライム禍が瞬く間に拡散したダイナミズムも、よく似ているのではないか。科学と哲学の境界線上の思索であり、まったく違う世界だが、森敦さんの意味の変容も想起させられコーフンした。
この福岡さんという生物学者、プロフィールをチラッと見たら、私と同い年である。ニートなフリーターに比して、広大無辺的に頼もしいお方である。先頃、世間を騒がせて詐欺だかなんかで御用になられた高名音楽プロデューサーさんも同年だったかな。一九五九年、確かレイチェル・カーソンさんが人類に重要な警鐘を鳴らした年ではなかったか。その意義ある年に誕生したわれわれは、無気力世代としてボーッとしてきた。あ、本日打ち合わせした制作仲間さん方も皆さん同い年だったか。まあ、世代の話しはいいや。そういうことではなかった。
平方根の法則である。格好つけていうと、ルートn法則である。こいつは、咀嚼する価値がありそうだ。よーく噛み噛みすると、人体が何故ピキンと伸びて緊張しちゃったりするのか、そこに関与する原子のカオスなふるまいの意味なんかが見えてきそうな気もする。なにせ、人体は原子に比して篦棒に大きいけれど、所詮は原子の集合体に過ぎず、そのふるまいは原子のふるまいの相似形になるに違いないと思うからだ。現に組織社会のふるまいは、カオスなくせにある法則に則らされてしまう原子のふるまいと瓜二つではないか。これは、とっても興味深い命題をいただいた。
ということで、本日は上機嫌である。惜しまれるのは、今日明日はお稽古できないことのみ。
そういえば、今朝、庭の白加賀らしい梅の花が綻び始めた。季節は着々と眠りから覚めようとしている。間もなく、生命がもっとも騒ぐ季節が訪れる。なんて予感に充ち満ちた日であった。
で、都心辺りでなかなか旨いご飯おかわり自由の豚キムチ焼き定食を喰って帰宅し、焼酎が切れているのを発見したので、三日前に発掘したクルセイダースのテープを聴きつつ近所のスーパーまで買い物ドライブを敢行したり、満ち足りた一日であった。それにしても、ソウル・シャドゥ、とっても良い。心地良い。確か十九歳の頃だったか、偽ウォークマンでいつも聴いて歩いていたのを思い出した。あのリズムは、トコトコ歩行修行に相応しい感じがするので、今度試してみよう。
久しぶりに電車読書をしていたら、興味深い記述に巡り会った。なんか色んな賞を受けた福岡伸一さんとかいう生物学者さんの「生物と無生物のあいだ」というご著書だが、なかなか面白い。私は話題の本はあまり読まないが、この本はさっさと読めば良かったと後悔した。
野口英世さんに関するスキャンダラスな記録やロックフェラー大学とかロックフェラー医学研究所という名とか、やけにアメリカナイズされた文体はちょっと特殊な匂いがするけれど、純粋に科学的な記述として読むと、とっても刺激される。
殊に興味深かったのが、量子力学の先覚者であらせられるシュレーディンガー先生が、アイルランドの何処だかで講演した内容を記録した「生命とは何か」と題されたらしい書籍に触れた下り。DNA解析競争の話しは、まあ、良いが、ここに取り上げられた「原子は何故そんなに小さいのか?」にまつわる思索が面白い。
極微な原子に比べて、生物は何故こんなに大きい必要があるのかという話しだが、ここに紹介される平方根の法則は、人体の切なさをある面解き明かす道筋を示してくれるような気がする。これは、武的というか楽体的視点として、かなり重要なものだろう。引用するのは面倒なのでしないが、ここに触れられる原子のふるまいは、正に人間の本能的行為、というか切ない性を物語る。原子自体はなにひとつ思考せず意志もなくただ他力本願でプルプルしていて、その行動はカオスだけれど、他力によりいつの間にかある方向付けがなされてしまう。
これは、また、社会学でもあり、力学を越える神秘学の領域にも繋がる。サブプライム禍が瞬く間に拡散したダイナミズムも、よく似ているのではないか。科学と哲学の境界線上の思索であり、まったく違う世界だが、森敦さんの意味の変容も想起させられコーフンした。
この福岡さんという生物学者、プロフィールをチラッと見たら、私と同い年である。ニートなフリーターに比して、広大無辺的に頼もしいお方である。先頃、世間を騒がせて詐欺だかなんかで御用になられた高名音楽プロデューサーさんも同年だったかな。一九五九年、確かレイチェル・カーソンさんが人類に重要な警鐘を鳴らした年ではなかったか。その意義ある年に誕生したわれわれは、無気力世代としてボーッとしてきた。あ、本日打ち合わせした制作仲間さん方も皆さん同い年だったか。まあ、世代の話しはいいや。そういうことではなかった。
平方根の法則である。格好つけていうと、ルートn法則である。こいつは、咀嚼する価値がありそうだ。よーく噛み噛みすると、人体が何故ピキンと伸びて緊張しちゃったりするのか、そこに関与する原子のカオスなふるまいの意味なんかが見えてきそうな気もする。なにせ、人体は原子に比して篦棒に大きいけれど、所詮は原子の集合体に過ぎず、そのふるまいは原子のふるまいの相似形になるに違いないと思うからだ。現に組織社会のふるまいは、カオスなくせにある法則に則らされてしまう原子のふるまいと瓜二つではないか。これは、とっても興味深い命題をいただいた。
ということで、本日は上機嫌である。惜しまれるのは、今日明日はお稽古できないことのみ。
そういえば、今朝、庭の白加賀らしい梅の花が綻び始めた。季節は着々と眠りから覚めようとしている。間もなく、生命がもっとも騒ぐ季節が訪れる。なんて予感に充ち満ちた日であった。