今日一番のニュースといえば、『東京五輪エンブレム、使用中止を正式決定』。
このニュースで私が連想したのが、先日読んだ北村薫さん著『太宰治の辞書』の中に出てくるエピソード。
太宰治の『女生徒』という作品の事を登場人物が語っている言葉が、
「――これぞ太宰という世界になっている。細かいところのリアリティが凄い。そう思ったら、元は、本物の女学生の日記らしい。なるほど――だよね。だけど、それが太宰のものになってる。太宰という網を通して濾さなきゃ、≪作品≫にはならないんだ」
「作品解説を読んでいくと、なるほど≪未知の女性の読者から送られてきた日記に基づいて執筆したものである≫と書いていた。」
そして後半別の登場人物が言っています、
「太宰のそういった例なら、幾つもありますよ。第三者の文章という食材を口に入れては消化する。その食欲は凄まじいものです。もっとも、取材し材料を集めて、自分の中でまとめ発表するのは、作家本来の働きです。――その時、≪作者である≫と最後に署名出来るかどうかは、当人の力次第ですね。魔力といってもいい。月並みな人知は、超えています」
つまり、私が考えたのは、「作品の持つ力」ということです。
東京五輪のエンブレムに、皆を引き付ける魅力がもっとあったなら、問題がこんなにややこしくならなかったのではないか、とも思えてきます。