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知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「楽しいタイ語入門」開始!

2023-02-25 11:00:25 | ハノイ
KBSカルチャー講座  5月開講!  受講者募集!

•全く初めての方でも大丈夫、あなたも一緒に楽しくタイ語を勉強してみませんか?
•「微笑みの国」タイの歴史や文化、習慣なども楽しく学ぶことができます!
•実際によく使うフレーズ、買い物、食事、小旅行など実践的な会話を中心に進めていきます。
•毎回ではありませんが、発音練習のためにタイ人のアシスタントも来られます。
•発音記号で学習します(この講座はタイ文字は扱いません)

講師:木村滋世(JTEES)
開講日:2023年5月15日、22,29、6月5,12,19日
(毎月曜日18:00~19:30)
受講料:16、500円(6回分、税込)コピー教材費660円 
入会金:2、200円(3年間有効、全講座有効、税込)
お電話でご予約ください。☎075-441-4161




京都タイ語教室~新クール開始のご案内

2023-02-24 17:54:18 | ハノイ
News!
148クールが始まります!⇒2023年3月2日開始
26年間このタイ語教室を開いてきました。
タイ語は楽しくやって、少しでもタイ的な雰囲気を味わっていただければと思います。受講料は日本一安いでしょう!
タイ人もしっかりアシストしてくれます。
近鉄大久保駅下車  南宇治コミュニティーセンター

毎週木曜日18:30~20:30
受講料  6000円(通しで) 

マハサラカムでの「出会い」2

2022-07-28 15:33:43 | マハサラカム
Mahasarakham Thailand      Sun Sep 19 Mon Oct 4'99
旅の概略
9月19日
関空 15:10発 KOREAN AIR にてソウル経由でバンコクへ向かう。
23:30頃ドンムアン空港着、近くのホテルに宿泊。

9月20日
11:30発コーンケン行きに搭乗、12:30着 マハサラカム大学まで車で1時間。 マハサラカム大学で Dr.スチンに会う。 図書館などを案内し でもらいながら、ホストファミリーを持つ。 夕方、マハサラカムから20キロほど離れたところにある、 Kosum Phisaiへ。

9月21日
お父さんのソンチャイが校長を務める小学校 (家から約1時間) で ボラ ンティアをする。 幼児クラスから小学高学年クラスまでまわり、折り紙を 教える。皆、物珍しそうに、興味深そうに熱心に聞いてくれた。 昼食は先 生方と、カオニャオやフライドエッグを頂いた。
学校周辺には農村があり、タイシルクをつくる家庭が多い。 私も一枚購入

9月22日
700に家を出て再び小学校へ向かう。 その後、マサラカムに戻り、ホテルに滞在することに。

9月23日
午前、 Loi Et ダンシングカレッジで奨学金貸与に立ち会う。 午後からはホテルに戻り、休息。 夜、大学生達が 「ナイトマーケット」に連れて行っ てくれた。

9月24日
大学生のバイクの後ろに乗り、 マサハラカム周辺をツーリング。 大学の新 キャンパスに行き、食堂で昼食を食べる。 またまたナイトマーケットで 腹ごしらえ。

9月25日
自分達だけでホテル周辺をうろついた。 デパートや市場で大量に買い物を した。

9月26日
とうとうマハサラカム最後の日。 12:00にホテルをチェックアウトし、 学生の家族の勧めで、車で手作りのおみやげを売るところに連れて行って もらう。 その学生の家に招待され、夕食をごちそうになった。 食後になぜ か体育館に行く。 夕方バトミントンをするのがこの家族の日課だった。 涙の別れをした後、バンコク行きの夜行バスに乗り込んだ。 

9月27日
午前4時30分、バンコクに到着。 カオサンのホテルがどこも満室で、途方暮れる。やっと見つけたところで6時半まで待てと言われ、ロビーで寝て待った。 部屋の鍵をもらって入ったはいいが、掃除がまだ。結局昼過ぎになって、やっと掃除のおばちゃんが入ってきた。 「ごめんねー、ちょっとどい れる?」なんて、いかにもタイらしい。怒りより、笑いがこみ上げてきた。

9月28日
 ワット・プラケオに行くが、 人ごみと暑さに負けて、 中に入らずひき返す。

9月29日
 サイアムスクエア周辺で買い物。 日本と変わらぬ風景にがっかり。 も高くて手がでない。初めて“トックトック" に乗った。

9月30日
アユタヤへ行くため、バスに乗った。 はいいが、いきなり女性に声 られ、「おぼうさんの横に立っちゃだめ」と叱られた。 文化について 勉強しておくんだったと反省。 その上、その女性に行き先が目的地。 向だと教えられた。 つくづく、親切あっての旅だなあ。
ファランポーンからタクシーを1台チャーターし、1日を運転手の リー(本名か?) に託した。 最後に美しいライトアップを見て、帰 は言葉の全く通じないチャーリーも、気の許せる友人になっていた。 

10月1日
ホテルをチェックアウトし、 電車でカンチャナブリーに向かう。 駅に着くと、人力車のようなものにのった2人がしつこく追ってきたので「マイパイ」 (行かないよ) と言ってやった。 それでもまだついて来た。

10月2日
 早朝にカンチャナブリのホテルを出て、エラワン滝行きのバスに乗る 所要約2時間。 滝を見るには、 1~7STEP まである険しい山道を登 てはならなかった。 私たちは挑戦した。 想像を絶する、 ロック・クラー グのように激しい道だった。やっと登りつめて頂上で滝を見ながら、 な気分を味わう、ということも許されず、時間に迫られて即帰路へ そのまま (泥だらけで) バンコクへ直行した。

10月3日
115am ソウル行きの便に乗り、 8:40着。ソウルで一泊し、翌日の夕方いよいよ帰国へ

10月4日
8:30 関空に到着。
長いようで、一瞬の夢のようでもあった旅の終わり。


マハサラカムでの「出会い」1

2022-07-28 14:56:17 | マハサラカム
 夏休みも明けて、秋が近づく頃、 私は悩んでいた。 学生生活について、 人間関係につい て、そして、人生について。 私は今まで生きてきて、何かやり遂げ、満足したことがあっ ただろうか。 自分の好きなことはやってきた。大学も、アルバイトやサークルなど、充実 していたと思う。 しかし、何をしても、大きな達成感というものが感じられなかった。 私は考えた。 無限に広い世界の中で、私という存在は小さな点にも及ばない。それでも、どこかで、誰かのためにできることがあるのではないかと。

 子供が好きな私は、貧困に苦しんでいる小さな子を抱える地域へ行って、少しでも彼ら の心を癒したいと思った。 始めはボスニアやカンボジアなどを考えていて、ボランティア 派遣を募集する団体に連絡をとってみた。だが、どこも自己負担金が高く、 あきらめかけ ていた。

 本をめくっていると、タイの孤児院でのボランティア募集が目に付いた。 タイという国 は、その時の私にとっては全く未知で、 貧しい地域があることなど毛頭知らなかった。 そ こで木村先生を思い出した。 先生ならタイに詳しいので、話を聞いてみることにした。 先生は一言、 「何とかしてやる」 とだけ言って、着々と現地の人と話をつけてくださった。 私は分けのわからないまま、 友人と共にタイへ行くことを決めていた。 最も素晴らしい出会いが待っていることを知らずに。

 詳細はほとんど知らされていなかった。 ただ、現地でボランティア活動がしたいという ことは伝わっているようだった。 多少の不安もあったが、 先生の紹介だから安心だろう、 と大きく構えていた。

 現地へ到着してすぐに、観光地から遠く離れた農村の家にホームステイをすることにな っていた。 イサーン地方、マハサラカムとコーンケンの間に位置する、 コースムビサイと いうところだ。

 覚悟はしていたが、ここまでとは。 虫だらけの床水しか出ない風呂、風呂の水を便器 に使う。 何もかもが急に起こり、私たちは混乱した。 やっと夜、床に入ると、 蚊の音と奇 妙な動物の鳴き声に悩まされ、眠れない。 早く朝が来ることだけを願って、友人と私は一 言も口を聞かずに、第一日目を終えた。

 次の日ホストファーザーの小学校に訪問すると、それまでの不安は子供達の笑顔によっ て吹き飛ばされた。1人一枚折り紙を渡すのだが、まだ文字も書けないような小さな子が、 受け取る前に手を合わせていた。 誰一人そのようにしない子はなかった。全員に折鶴を作 ってやると、羽を広げる瞬間、 同時に子供の顔もぱっと明るく開けるのだった。 

 驚いたのは、この学校の生徒たちは貧しい農村の子ばかりで、昼には配給を受けていた。子供達を見ていても、そんなことは全く感じさせない元気があった。 私が写 真を撮ろうとすると、レンズの前にわんさか集まってくる。彼らの笑顔は、幸せそのもの だった。学問を詰め込むことだけが学校ではない、子供が生き生きと育つための場でもあ るのだと思った。

 「こんな場所では暮らせない」そう感じていた自分を恥じた。 他でもない。そこで暮ら す人々がいるのだ。 彼らには彼らの生活があり、必要なものがあれば幸せに暮らせる。「モ ノ」の溢れる日本で生活していると、そんなことも簡単に忘れてしまうのだ。

 学校を一歩でると、そこはもう農村だ。暑さ対策のため、高床式の家々が立ち並ぶ。 考 えごとをしながらじっと座っている老人、ハンモックに揺られてうとうとしている赤ん坊。 誰と目が合ってもにっこり笑い、「サワディー」と応えてくれる。

 いくつかの家を訪問し、 タイシルクを作っているところを見せてもらった。 中でもとて も美しい模様のシルクを、私は譲ってもらえないか頼んだ。おばあさんは快く承知してく れたが、からその1枚を仕上げるのに、なんと半年間もかかっているということだった。 その代金で、いったい何日暮らせるのだろうか。

 マハサラカムでは、木村先生紹介のDr.スチンや学生たちが、私たちのために手を焼いて くれた。自分の誕生日に食事を共にさせてくださったスチンさんには、ホテルの手続きそ の他本当によく面倒をみてもらった。学生たちも、「邪魔じゃない?」 と気を使いながら、 買い物やナイトマーケットなど、いろいろな場所に案内してくれた。

 屋台で食べないとタイに行った意味が無い、というくらい屋台の食べ物はおいしい。 私 このお気に入りは、もち米をバナナの皮で包んだものと、ココナッツミルクのデザートだ。 しかも値段が格安なので、いくらでも買ってしまう。 タイの学生には、私たちはさぞお金 持ちに見えたことだろう。

 「タイの友人」と日本やタイのことについて話した。 やはり日本の方が技術も産業も 発達しているので、タイの人にとって日本は 「憧れ」だと言っていた。 しかし私は、「日本 にいてもいいことないよ」と言った。日本人はいつも時間に追われているし、便利になり すぎて、自分の目標を見失っている人があまりにも多いからだ。 私もその1人であった。 そして、タイの生活に触れ、そのことに気づかされた。

 タイで過ごした時間は、とてものんびりしていた。 誰もが自分の時間を大切にしている。 余談になるが、学校で遅刻をしても叱られないらしい。 一日が長く、その日その日が充実 していて、生きていることを肌で感じられるような生活だった。

 1週間後バンコクに行って、正直失望した。 あまりにも生活が違っていたからだ。 街並 みは日本と変わらないし、観光地は日本人や欧米人でごったがえし、物価も東北地方と差。 同じ国でここまでの違いを目の当たりにし、豊かさとは何だと考えさせられた。 

 しかし、私はバイクをノーヘルで2人乗りしたり、トゥクトゥクで道を爆走したりする、 タイの気さくな雰囲気が大好きだ。危険だといわれる大都市パンコクでも、親切で気のい いたくさんの人に出会った。 赤いタイ料理も、私に新しい食の醍醐味を教えてくれ、帰り のカバンは調味料でいっぱいだった。

 タイに限らず、世界中の人が今もどこかで、素敵な出会いをしているに違いない。 いろいろな場所で、様々な人の生き方を垣間見ることができて、本当に良かったと思う。 私というちっぽけな人間が、たくさんの人に出会うことによって、その人の「人生という 本」の隅っこにいられるだけで、生きていてよかったと感じる。 そしていま、この感 を私以外の多くの人に感じてもらいたいという願いが、私に夢を与えてくれた。 夢に向 かって必死に突き進んでいる私は、タイを知る以前よりずっと自分に満足しているはずだ。 私は、私を大きく成長させるための階段を上り始めたばかりである。 そしてこの階段には、 決して終わりはない。

おわりに
 最後に、 このような素晴らしい旅をする機会を与えてくださった木村先生とスチンさん この友情に感謝いたします。 現地でお世話になった友人達や、私が出会ったすべての人々に お礼をいいたいと思います。 本当に、ありがとうございました。 みなさんが、それぞれの 人生で幸せでありますよう、心から願っています。

 2000年2月 立命館大学文学部文学科英米文学専攻 河田惠美






イサーン見聞記8  フィールドノートより

2022-04-06 07:22:10 | コンケーン
長い間、眠ってたフラフカードを整理してみた。
当時の調査内容を綴ったものである。
*****
一応、中部タイのフィールドワークに一区切りをつけたので次なる農村を探して東北タイへ向かった。1980年8月1日のことである。
<スタート>
筆者が初めてタイへ行った時からパイアラットという運転手兼通訳にお世話になっており、彼が「東北タイ(以後、イサーン)へ行くなら俺はカムナン(郡長)を知ってるコンケーンにしよう」と提案してくれた。にべもなくそうすることにした。
イサーンのはじめての旅である。

<バンコクから>
チェントアという会社のバスに乗りバンコクを午後11時20分に出発した。出発に当たって車内サービスとして音楽が流されるのに深夜であるにも関わらず気を良くした。「コンケーン、ここはコンケーン、イサーンの中心だ私のふるさとだ。私はコンケーンとともにある。忘れない」と通訳は歌の内容を訳してくれた。バスはラーマⅣ世像を右手に北へ向かっていた。

<パクチョン>
少しうとうとしたかと思った時、バスはゆっくりと方向を左に曲がり一時停車に入った。午前2時だった。パクチョンという町のパーキングエリアである。笹に包まった匂いのきついハムを少しと水を食す。イサーン料理なのか分からないが辛そうなもの塩味のきついもの、干したものと思われるもの多々あり。

<夜明け前>
バスは不思議の国の森の中をただひたすらに走り抜けていったようだ。そしてやや東の空が白み始めてきた。車窓から見える黒ずんだ塊は森だと、うっすらと識別できるようになった。すべてが自然であり、とても豊かである。道路の端は粘土質のような土壌が赤茶けて見えるようになる。そして水のない田圃も見えてきた。
緑と赤、これがイサーンの色だ。豊かな自然のようで荒涼としている自然、西部劇でも連想させる。

<コラート高原>
薄暗い夜風に丘陵で木が揺れている。遠く彼方に極楽浄土でもありそうな、白雪姫の魔女でも棲んでいそうな森、九州のヤマナミハイウエーイを連想させる高原地帯。
そうだ、コラート高原の入り口だ。赤みの土壌はラテライト土壌だ。
 *小学館・ジャポニカより「タイ北東部にある高原。西をドン・プラヤ・エン山脈、南  をドンレク山脈、北から東をメコン川に囲まれる。中生代の砂岩が水平に横たわる構造平野で、標高は100~200メートルと低い。岩盤の表面には薄くラテライトが堆積(たいせき)している。山地に囲まれているので降水量は少なく、年800ミリメートル以下の地域がある。大部分はメコン川支流のムン川の流域だが、雨期と乾期で流量差が大きい。乾期に水を供給するために、メコン川総合開発の一環としてムン川にダムが建設されている。おもな都市にはナコン・ラチャシーマー、ウドン・ターニ、ウボンなどがあるが、いずれも小都市で、タイではもっとも開発の遅れている地方である。[大矢雅彦]1984~1994刊
<夜明け>
自然の山並みに人間の手が加わった人工加工物が一つ二つと増えてくる。空がすっかり明るくなってきた。景色の中にカラー色がくっきりしてきたのである。田圃はあくまでも濃く緑に静寂で、道路は赤みが目立ち始める。

<コンケーン到着>
5時50分、バスターミナルに到着。気温22℃。バスを降りて、そばにいるミニバスに乗りとりあえずすごろくのスタートに立つべし、通訳パイアラットの友人と称する学校の先生を訪ねるべし「コンケーン・コマーシャル・カレッジ」に向かった。学校はまだ開いてなく校庭でバスケット早朝練習をしている学生にその先生の下宿先をたずね再びミニバスに乗り込んだ。

<友人、パッチョン氏>
31才。胸にイレズミが冴える。クメール文字だといい、1年前にウドムタニで彫ったという。「ブッダよ、たすけたまえ」と刻まれている。3か月前に離婚した、という。

<交渉>
「どこか田んぼが見せてほしい。できたら宿泊もさせてほしい。そんな農村へ連れて行ってくれ。」とミニバスの運転手(スーテン氏)に切り出す。
「オレのうちは20ライの農家だ。うちでもよかたら来てもいいぜ。」となった。
さあ、筆者の好奇心、冒険心は最高潮に達する。コンケーンの朝はここちよい。とても涼しい。
荷台に飛び乗った。走り出す。僧侶の隊列がビンタートに向かう、朝市が見える、そしてコンケーン大学の池が過ぎる。
スーテン氏「大歓迎だ。日本から来た客人、バンコクから来た客人、イサーンはどこでも客人を泊めるよ。」と.。

<村>
中心部から10キロほど南下し、そこで東(つまり右)おれして10キロほど行った道路をまた右(北)折れして3キロほどしたところを左に直角(西向き)1キロ走ったところにスーテン氏の家があった。
コンケーン県ムアン郡バントム地区(大字)ムーバーン?が行政単位である。
ムアンとは県庁所在地のアンプー(郡)のことである。県には17のアンプーがある。
アンプームアンには2つのタンボンがある。バントムはその一つのタンボン(大字)である。さらにバントムには9つのムーバン(村)がある。



スーティン氏の小字(ムーバーン)はムー10で正式には「ノーンバーン・ルンパー・マイサワーティ」村と呼ばれている。

<人口>
コンケーン県には約150万人の人口がありだいたい8割が農業、2割が非農業(会社経営、勤労者、公務員、自営業など)らしい。
タンボン・バントムは700戸あり、人口は4000~5000人だそうだ。ムー10は269戸で1345人が在住している。耕作面積はざっと2000ライとのこと。

<スーティン氏の仕事>
農家に宿泊できる、足回りは彼のミニバスという前提が整った。彼のドライバーとしての一日はすべて差し引いて約200バーツの稼ぎとのこと。筆者がその日割りでその代金を支払うことになった。となると、月に5000~6000バーツを稼ぐ。しかし月に2000バーツは車のローンで返済するそうだ。彼は24カ月、つまり2年間で完済しなければならない、と言う。こうしたミニ・バスで稼ぐ者は村では5%位はいるようである。

<村の農業外収入>
ところで彼は一年間、このミニバス運転手をしているわけではない。まず、農繁期には20ライの水田稲作耕作がある。それとこの地域では多くの家で養蚕業も営んでシルクを作っている。こうした家内作業と農閑期にはミニ・バス業や町の市場で働いたり、男なら工事現場へも出稼ぎに行く。男の75%はこの現業職らしい。すべて最低賃金は40バーツ/日だそうだ。

<村人の生活費>
ずばり聞いてみた。スーティン氏 1日40バーツで家族を養っている。
隣人ファン氏も40バーツ、プー・ヤイ・バンは50バーツ、副村長も50バーツは必要という。

<スーテン氏の家>
村の様子を見るためにスーテン氏宅を起点にカメラをもって歩いたり、実際に村はずれのスーテン氏の田圃をスケッチしにいったりした。その内容は別頁で述べたい。