水面日録

フリーペーパー〈面〉編集人のブログです。
意識の水面(みなも)に浮かんでは消える様々なモノゴトを綴ります。

茨木のり子 『倚りかからず 』

2007-08-15 23:38:38 | 
たまたま立ち寄った書店で、茨木のり子の詩集『倚りかからず』を手にとる。
表題作を引いてみる。

  もはや
  できあいの思想には倚りかかりたくない
  もはや
  できあいの宗教には倚りかかりたくない
  もはや
  できあいの学問には倚りかかりたくない
  もはや
  いかなる権威にも倚りかかりたくない
  ながく生きて
  心底学んだのはそれぐらい
  じぶんの耳目
  じぶんの二本足のみで立っていて
  なに不都合のことやある
  
  倚りかかるとすれば
  それは
  椅子の背もたれだけ    

言い古されたことでも、大事なことは大事。
いまさら言うまでもあるまい、というのもひとつの判断だけれど、
いまいちど、
各々の内臓に響くような言葉で語りなおさくちゃいけないことだってある。
――そういう思いを年々強める私にとって、
この詩人のきっぱりと背筋の伸びた物言いと、
その伸びた背筋に対する若干の照れとが心地いい。
(サイト内関連記事 →「ドグマ」)

あるいは、こんな一節。

  人間には
  行方不明の時間が必要です
  なぜかはわからないけれど
  そんなふうに囁くものがあるのです  (「行方不明の時間」より)

魯迅が引用して有名になったという、ハンガリーの詩人の言葉を教えてくれたのも、
個人的にはありがたかった。

  絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい
  (絶望は虚妄だ  希望がそうであるように)

お薦めしたい一冊、であります。

… 茨木のり子 『倚りかからず』 ちくま文庫、2007年。

posted by 堀マサヒコ

耳を澄ます。

2007-08-11 02:59:10 | ある一日の記録
8月10日。
夕刻、「村岸宏昭遺作コンサート」(札幌・ルーテルホール)へ。
いいコンサートだった。
二時間強、耳を澄ましてさまざまな音に身をゆだねて、
最後は胸が熱くなった。

深夜、薄野にてステージに上がる。
こちらはお客さんが踊ってくれてなんぼ、の世界だけれど、
真剣勝負なのは同じこと。

心からそう思えるようになったのも、
村岸君との出会いが一つのきっかけだったりする。

※ 写真は薄野にて。
  街路灯に照らされた緑の色が、昔から好きで。

ドグマ。

2007-08-09 23:28:19 | 気になるコトバ
ドグマとは、
――「何らかの権威に依拠して唱えられる主張、
  他人がそれを論証抜きで受け入れるよう期待されているような主張」のこと。

菅野盾樹『人間学とは何か』(産業図書)から。
最善の定義かどうかはわからないけれど、
私にとってはとても使いやすい (しかし「最善の定義」とはそもそも、何だろう)。

この意味でのドグマから、できるだけ自由でありたいと私は思う。
とりわけ上の定義中の「他人」が「万人」となり、
「期待」が「強制」になるようなときには。

もっとも、あらゆるドグマを排したら、人は狂気に陥るのかもしれないけれど。

posted by 堀マサヒコ

フレンドリー。

2007-08-07 18:23:22 | ひと
バンドの仕事で仙台に行ってきました。
演奏を行なった日曜の晩は花火大会、
翌日の月曜日からは七夕祭りが行なわれていて、
両日とも街はたいへんな賑わいでした(→写真)。

月曜の夕方、札幌に戻っておみやげのずんだ餅と笹かまぼこを家に置き、
まっすぐ村岸宏昭君の追悼ライブへ。

体調、および駐車場所の都合上、二時間だけの鑑賞となりましたが、
出演者たちのまなざしの強さが印象的でした。
こういう、本気の目をした人たちが彼は好きだったのでしょうし、
そういう人たちに愛される人だったのでしょう。

ライブハウスからの帰り道、ハンドルを握りながら、
たった一度だけ生で聴くことのできた村岸君の演奏のことを思い起こしていました。

実験に富み、妥協を排した演奏でありながら、暖かくてフレンドリー。
ギターをいとおしそうに抱きながら一音一音丁寧につまびく姿が、
とても印象的でした。

演奏後、ケースにしまう所作もなにか儀式めいて見えたので、
「楽器、大切にしてるんだね」と声をかけると、
「これ、高いんですよ」と笑っていました。
それから少し、真面目な顔になって、
「僕の代だけで駄目にするわけにいかないんです」とも。

個性的なアーティストにありがちなエゴの強さがまったく感じられなかったのは、
世渡りのために身につけた腰の低さなどというものではなくて、
きっと、人が個として生きる時間を越えた何かをみつめるような、
彼のものさしの大きさのせいだったのでしょう。

人と握手をする、ということが照れくさかったり、
うそ臭かったりしてちょっと苦手な私ですが、
上の会話を交わした後、気がついたら「どうもありがとう」という言葉とともに、
彼に握手を求めていました。

彼と会ったのは、わずか三度だけで、
しかもそれが最後になってしまいました。
会えてよかったし、握手しておいてよかった、と思います。

posted by 堀マサヒコ