水面日録

フリーペーパー〈面〉編集人のブログです。
意識の水面(みなも)に浮かんでは消える様々なモノゴトを綴ります。

ドグマ。

2007-08-09 23:28:19 | 気になるコトバ
ドグマとは、
――「何らかの権威に依拠して唱えられる主張、
  他人がそれを論証抜きで受け入れるよう期待されているような主張」のこと。

菅野盾樹『人間学とは何か』(産業図書)から。
最善の定義かどうかはわからないけれど、
私にとってはとても使いやすい (しかし「最善の定義」とはそもそも、何だろう)。

この意味でのドグマから、できるだけ自由でありたいと私は思う。
とりわけ上の定義中の「他人」が「万人」となり、
「期待」が「強制」になるようなときには。

もっとも、あらゆるドグマを排したら、人は狂気に陥るのかもしれないけれど。

posted by 堀マサヒコ

押井守氏の言葉

2007-06-24 08:40:50 | 気になるコトバ
  「自分の経験から言えば、不幸になるのも人生の醍醐味。
  その覚悟と意志さえあれば、人生は情熱の対象となる」。

次回作について語る押井守氏の言葉から。
(前後の文脈はコチラで確認してください)

another point of view って言うのかな。
(別に英語で言う必要もないんだけど、なんとなく)
こういうふうに、一般的な物言いとは違った観点もあるんだよ、
ってことをちゃんと伝えられる大人が、
今はほんとに少ないよなあ、と思います。

人生が「情熱の対象」になる、という言い方も、
とても気に入りました。

posted by 堀マサヒコ

意味と価値

2007-06-19 02:04:03 | 気になるコトバ
意味はなくとも価値はある ―― 先日、話のマクラに軽く書いてしまいましたが()、
もちろん、人生には意味がない、と言いたいのではありません。

何かに意味がある、と言えるのはそれが部分的にでも理解できている、
という確信があるときだけだ、と私は考えているので、
少なくとも今の私には、「人生には意味がある!」とも、
「んなものはない!」とも言えません。

ただ、一方で私は、
人生には理解可能な「意味」に切り詰めることのできないような価値がある、
と考えている(あるいは、そう信じている、というだけのことかもしれませんが)。

だから、かりに人生に意味が見出せないとしても、
ただちにその価値まで否定することはないだろう、と思うのです。

もちろん、
私がここで人生の「価値」と呼んでいるもの、
理解を越えた何かこそはむしろ、人生の「意味」と呼ぶべきものだ、
という立場もありうるでしょう。

たとえば、死は「〔生の〕意味を否定することによって意味を生む無意味」である、
とジャンケレヴィッチが言うとき(※)、
この二つ目の「意味」はやはり、われわれの理解を越えた何かを指しているはずです。

結局、本当に重要なのは言葉の区別それ自体ではなく、
それを通して何を、あるいは何処を見つめようとしているかだ、
ということになるでしょう。

・・・いずれにせよ、そんなに簡単に書き流せる問題ではないですね。

※ ジャンケレヴィッチ 『死とは何か』 原章二訳、青弓社、2003年、37頁。

posted by 堀マサヒコ

個性と固有性

2007-06-11 01:04:12 | 気になるコトバ
少なくとも自分としては区別しておきたい、と思う言葉が、いくつかある。

たとえば、人生の「意味」と「価値」。
前者はなくても後者はある、と僕は当然のごとく思っているけれど、
世の中には両者をまっすぐにつなげて考える人も少なくない。

それと、先回の記事で「個性的」という言葉を使った成り行き上、
思いあたったのだけれど、
「個性」と「固有性」という言葉も、
区別しておきたいものの一つだ。

個性がさしあたり、客観的、もしくは社会的に認められる「他との違い」だとすれば、
固有性の方はむしろ、他ならぬ「このもの」の唯一性であり、
(ちょっと照れくさい言葉でいえば)「かけがえのなさ」のことであって、
それはそもそも他との比較というモノサシとは別次元のものだと考えたい。

この区別に立つなら、
一人一人の人間において尊重されるべきなのは、
個性よりもはるかに固有性なのだと思う。
個性はせいぜい、より根本的で捉えがたくもある固有性というものの、
見やすい表徴にすぎないのだと。

「世界に一つだけの花」が歌ってたのは、
結局どっちだったのかな。

posted by 堀マサヒコ

短気は損気。

2007-04-05 00:43:03 | 気になるコトバ
前回の記事の中で、「親力」なる言葉のことに触れました。
「頭に来ている」と書いたとおり、
何という下品な言葉だろう、というのが最初の印象。
「アナタの親力、ダイジョウブ?」、なーんて、
世の親の不安をあおるつもりか、と。

で、後日図書館に寄ったときに、この言葉のもとになっているらしき
『「親力」で決まる ! 子供を伸ばすために親にできること』
なる本を手にとって、怒る準備をしつつ頁をめくってみたのですが
・・・あれ?

パラパラ見たかぎりでは、要するに、
子供が楽しく勉強できるような環境を、
それとなーく、遊び感覚で整えてみてはどうですか?
ということらしく。
いたってまとも、というか、
穏当なことが書かれている。
これをやらなきゃアナタ、親として失格ですよ、
というようなものでは、全然ない。

ああ。またやっちまった。
先日の段階であまり書き立てなかったあたりは、
私も少しは成長したな、とは思うけれど、
ともかく断片的な言葉の印象だけですぐに「なんだと~!」
といきりたってしまうのは、よろしくないですね。

まあ、それでもなお、別な言葉(親力以外の)はなかったのかなあ、
という思いはぬぐえませんけどね(しつこい)。
ワタシみたいなおっちょこちょいに勘違いされて腹を立てられたり、
あるいは歪んだ形で商売に取り込まれると思うんだけど。

posted by 堀マサヒコ

怠る技術。

2007-03-24 03:03:54 | 気になるコトバ
アランという哲学者が、こんなことを書いています。
眠ろうとする努力が、かえって眠りを追い払うごとく、
注意を怠ることは、注意に劣らず難しい、と。(※)

注意のしどおし、緊張のしどおしは、「精神の鋭いまなざし」をにぶらせる、
と彼は言います。
上首尾に精神を働かせようと思うならば、
まるで「思想の徒刑囚」のごとく、
思考を絶えず締め金で締め付けようとでもするかのような習慣から、
自らを解き放たなくてはならない。

そのためには、たとえば詩人が「脚韻、歌、動き」に熱意を傾けるように、
むしろ「思想よりも低次」のことがらへと、意識をそらせてみよ、と。

さらに彼は、こうも書いています。
上首尾になされた行動には、
「軽快さと同時に、ある種の無頓着というべきもの」があり、
それをわれわれは「しなやかさ」と呼ぶ。
そしてこの「しなやかさがなくては、力のありえようもない」、と。

「理性主義者」と言われるアランですが、
むしろ彼の文章を読んでいて私が面白い、というか見事だと思うのは、
精密かつ「しなやかな」思考を遂行するためのカギを、
身体的行動や手作業についての省察から巧みに拾い上げてくるところです。
あるいは、理性(あたま)のこわばりを、
身体(からだ)に注目を促すことでほぐしていく、とでも言うべきか。

これを読んで、よし、私ももっと「軽快かつ無頓着に」文章を書いてみよう!
…と、もっぱらリキんでいるようでは、やっぱり駄目なんでしょうね。

 ※アラン「文学論集」『世界の名著66 アラン、ヴァレリー』中央公論社、213頁。

posted by 堀マサヒコ

「圧巻」??

2006-10-26 23:36:14 | 気になるコトバ
勝ちましたねー、日本ハム。
ふだんはあまり、プロ野球に興味のない私ですが、
今夜はさすがに興奮しました。

こんなときに間の抜けたことを書くようですが、
放送中、実況のアナウンサーが「圧巻」という言葉を連発するのが、
どうしても気になってしまいました。

辞書的には、「圧巻」は
「書物の中で最もすぐれた部分。他にぬきんでた詩文。
転じて、全体の中で最もすぐれた部分」(広辞苑)
ということに、まあ一応、なっています。

最近では、今夜のアナウンサーが「まさに圧巻のピッチング!」と語調を強めたように、
なにか圧倒的な凄みを見せつけられた場合などに、用いることが多いようです。

もちろん、言葉は生き物。
人々の用法の実際に応じて意味が変わっていくのは、ごく自然なことだと思います。
辞書は多少とも、そうした変動を後追いするものでしょう。

でも、一体いつ頃から、どのようにして、
辞書の説明するところの「圧巻」は、
アナウンサーが多用するところの「圧巻」へと、その意味を変えたのでしょうか。
言語学者じゃなくても、興味をそそられるところです。

えーと、今日はまた、ものすごい小ネタで恐縮ですが、
比較的言葉にこだわるタチなもんで(その割には、いい加減な表現も使いますが)、
実は以前から少なからず気になっていたんです。
くだらんぞー、との声もあるでしょうが、まあ、こういうのは大目に見てください。

posted by 堀マサヒコ

水の誘惑 ―― パウル・クレーの詩

2006-10-07 01:41:22 | 気になるコトバ
会期もあとわずかということに気がつき、昨日の午後、クレー展に行ってきました。

見ておいてほんとうに良かった。
ただただ、その独特の造形と色彩の美しさに陶然とするばかりでした。

会場を出て、絵葉書でも、と思って関連グッズの売り場を物色していたのですが、
ふと、平積みされていた『クレーの詩』(平凡社)の頁を開いて、はっとしました。
こんな言葉が、目に飛び込んできたのです。

  ぼくの意識を渦巻く波にまき込んだのは
  水の誘惑。

このことが私を驚かせた理由は、過去の記事を読んでくださった方には
すぐにおわかりになると思います(→サイト内関連記事)。
まるで折り目がついていたかのように、
真っ先に開かれたその頁に記された言葉を追いながら、
私は、そこに単なる偶然以上の何かを感じずにはいられませんでした。
以下、上の書き出しに続く部分を引用します。

  川の勢いはいまや
  引き裂くように強い。
  暗く懐かしい昔の住まいのある
  いくつもの土地がぼくを呼び止めようとした。
  夜にはよくそこで
  ただひとり、ひそかに
  かぐわしく息づくにわとこの下で
  せみの声に耳を傾けたのだ。
  嘆き悲しむ人々が岸辺に見える。
  でもぼくは波に浮かんで
  身も心も元気ですがすがしい。
  雄大な川とともに
  ぼくは注ぎ出る、
  ともに河口から注ぎ出る ※

身勝手な感傷で、今は亡きM君の思いがここにあるなどと、
代弁者を気取るつもりはありません。
ただ、やはり色々な事柄の間には、
理屈では割り切れないようなつながりというものがあるのだと、
そのことはさしあたり、率直に受け容れたいと思っています。
私が上の詩に出会い、それをこんな形で紹介することを、
誰かが、あるいは何かが支援し、
歓迎してくれているように感じるのも事実です。

すべては生者の勝手な思い込みかもしれないと知りながら、
亡き人「への」思いと亡き人「の」思いとが
直接に、あるいは間接に触れ合う可能性を信じる権利を、
私は肯定したいと思っています。

※ 『クレーの詩』高橋文子訳、平凡社コロナ・ブックス、2004年、28頁。

posted by 堀マサヒコ

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ

2006-10-01 02:04:12 | 気になるコトバ
  サバンナの象のうんこよ聞いてくれ
  だるいせつないこわいさみしい

「生活」の重みに耐えかねて、というわけではありませんが、
ブログのタイトルを少し変えてみました(旧名称:水面生活)。
「日録」と言っても、相変わらず気まぐれな更新頻度になるでしょうが、
その辺りはゆるく受け止めていただければさいわいです。

さて。冒頭に挙げたのは、穂村弘さんの歌集『シンジケート』の中の一作です。
先回の記事で、宗教と詩の近しさを述べたサンタヤナの言葉を紹介しました。
そこに示されていた見方は、たとえば宮沢賢治の詩を引いてみると、
ぐっと実感しやすいように思います。

とはいえ賢治の詩、というか文学の宗教性については、
すでに多くの人が語っていますので、
ここではちょっと変化球的に宗教への接近を感じさせるものを挙げてみました。

  だるいせつないこわいさみしい

今の世の中、なんていうと大げさですが、
ここで一気に吐露された思いと無縁に生きてる人って、
あまりいないんじゃないでしょうか。

しかも、その思いをこんなふうにストレートに言える相手がいる、
あるいは、言える場所がある、という人も、
あまりいないでしょう。
言えたらどんなに楽だろう、と、私なども思います。

でも、「サバンナの象のうんこ」に向けてだったら、
言えるかもしれないし、言っても許されるんじゃないだろうか。
いや、ひょっとしたら「サバンナの象のうんこ」以外に、
この言葉を受け容れてくれるものは存在しないんじゃないだろうか。
この歌を読んでいると、そんな気がしてきます。

唐突に思われるかもしれませんが、
神様というのは、神学者や哲学者の抽象的な議論の届かないところでは、
たとえばこの「サバンナの象のうんこ」のようなものとして、
人々の胸のうちで生きてきたんではないかな、
と思うんです。

そんなふうに考えて、この歌を繰り返し声に出してみると、
これはもう、なんだか一種の祈りのようにさえ響いてきます。

もっとも、作者の穂村さんご自身は、
そういうのは勘弁してよ、と思われるかもしれませんが。

・・・穂村弘『シンジケート』沖積社、1991年。


パウル・クレーの墓碑銘

2006-09-04 01:32:31 | 気になるコトバ
「この世では私はほとんど理解されない。
 なぜなら私は死者のそばに、
 そしてまだ生まれていない者のそばに住んでいるのだから。」
   
昨日の北海道新聞(日曜版)の記事の中で紹介されていました。
安直ですが、このところ考えていることとの関連で目を引いたので、
引用させていただきました。

『青い鳥』の物語世界にそくして言えば、
思い出の国」と「未来の国」に近い場所に、「私」は住んでいる、
ということになりますね。

うーむ。
こうなるとクレー展も、見ずにはいられなくなってきました。

posted by h.