あやめの里便り

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その昔の女性

2007-01-26 12:21:16 | 潮来・茨城の歴史
潮来市の講座に行って来ました。
テーマ「潮来の隆盛ー石塔に見る女性の生き方ー」

1.潮来の石塔・石仏
石塔を建てるのは主に男性なので、女性を「石塔に見る」というのはなかなか難しいことなのですが、そんな石塔を大事にしていた時代から、当時の生活を垣間見ることは出来るようです。

例えば、潮来近辺に多いのは「青面金剛(庚申さま)」らしいのですが、これは疫病を退治する仏さま。利根川に隣接し、水害も多かった土地柄、疫病が流行り命を落とす者も多かったのでは、と仰っていました。

その他、供養塔で多いのが、やはり「疱瘡」と「蚕」だそうです。
「疱瘡」は疫病というか、その時代では治すことの困難な流行り病です。
「蚕」は当時、この辺りの産業の一つでした。
地元では機織りをする事はあまり聞かれませんが、出来た繭を結城などの織物産業がある地域へ出していたと聞いています。

また「道祖神」は道標の意味合いのあるものもあり、今でも「かしま」などの地名が読み取れるものもあるようです。

2.その当時の女性の暮らしと生き方
女性の権限
 1.氏神・先祖をまつる
 2.火の管理
 3.家の管理
 4.食べ物の分配

こんなことが権限として考えられていたのか、と不思議な気持ちもしますが、ほんの50年くらい前までなら、おかしくないことでしょうか・・?
特に4.は一家の女性の中でも「長(主婦)」となるわけで、お嫁に来たばかりでもなれない、年寄りでもいけない。
権限を譲るに当っては、『しゃくし渡し』といって、大晦日の晩に行われたということです。
一昔も二昔も前、女性団体がデモを起こすとき、必ずと言ってよいほどおおきな「しゃもじ」が登場していましたが、あれは主婦の象徴・女性の主張そのものであった訳です。

また、私は行ったことも、それがあることも知らなかったのですが「○○講」というものがあって、それぞれ「娘」「嫁」など、同じ年代・立場の人達が集まることがあったようです。(「子育て」・「安産」・「たのもし」等)

「○○講」では、縫い物・料理・習慣・念仏おどりを教えたり、と地域の横のつながりを作る働きもあり、今で言う『生活学校』『婦人会』といったところでしょうか?
それとも『学校』かな?縫い物などは、皆が出来る事では無かったらしいですよ。(そう言えば「潮来高校」も初めは縫い物を教える女子高でした・・)

女性達はそのときだけ大っぴらに外出を許され、食事を持ち寄り、話に花を咲かせて羽を伸ばしたのだそうです。
お隣に座っていたのは私の母親よりも年上の方のようでしたが、「今は自由だからな」と仰っていました。きっとその方の若い頃には、女性が一人で好きな所に外出するなど、思いも寄らないことだったのでしょうね。
今更ながら、女性の辿った遠くてゆっくりした足取りと、今の自分の気侭な生活を振り返って、なんとも申し訳ない思いでした。

今でも夜に出掛ける時には、家族の食事は用意してから出るくらいですから、女性の気持ちはまだまだ炊事からすっきり離れる事はありません。
ただ私自信も権限とは思った事は無かったです。時代は変わるものですね・・。


結婚するのも、子供を産むのも、人生を終えるのも早かった時代。
それ以上に、生活することが全てにおいて大変だった時代。


ばあちゃん達すごい・・。




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