原爆と戦争責任

なぜ核兵器はなくならないのでしょう?なぜ日本人は非常識なのでしょう?

「集団自決」は日本軍の強制であるとした研究者

2007-10-14 17:41:10 | 沖縄戦

沖縄戦における住民の被害  安仁屋政昭 意見書
(家永教科書裁判第3次訴訟 第1審裁判での原告側証人意見書、甲第二九五号証)証人尋問:1988年2月10日

出典:家永教科書裁判 第3次訴訟 地裁編 第5巻:沖縄戦の実相  教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編 ロング出版, 1995年

(意見書目次)
1沖縄の戦争体験記録(略)
2根こそぎ戦場動員(略)
3日本軍による住民殺害の実態(略)
4「集団自決」の真相
5検定意見について

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4「集団自決」の真相

4.1「集団自決」の多様な側面
沖縄戦において各地に「集団自決」が発生したと言われている。「集団自決」は慶良間諸島を筆頭に、読谷村波平のチビチリガマ、伊江島、南部戦線などで確認されている。「集団自決」という表現そのものが多くの誤解を生んでいるので、調査結果に基づいて「集団自決」の実態を明らかにしたい。
 そもそも「集団自決」はどのような状態で起こり、その背景にはどのような事情があったのであろうか。戦場の様相が多様であるように「集団自決」もその様相も一様ではない。読谷村波平のチビチラガマでは米軍上陸によって婦女暴行、虐殺を予感して恐怖に駆られた85人の住民が集団で死んでいる(1945年4月1日)。米軍に捕まると日本軍によってスパイとして処刑されるという恐怖もあった。
 伊江島のアハシャガマでは20世帯以上の約150人の住民が避難していた。4月16日に伊江島に上陸した米軍は6日間で島を制圧した。追いつめられた住民は4月22日、防衛隊の持ち込んだ爆雷で死んでいった。これも軍と行動を共にさせられた恐怖と狂気の中で起きた事件である。戦後の遺骨収集で100体が収集されている。
 慶良間諸島では、3月26日の米軍上陸直後に、慶留間島、座間味島、渡嘉敷島などで凄惨な「住民の集団死」事件が起きている。


渡嘉敷島の場合について考えてみよう。逃げ場のない孤島にあって、人々が日米両軍の狭間にあってどのように追いつめられていったか典型的に示している事例である。1945年3月23日から沖縄諸島は米軍の激しい空襲に見まわれた。24日から艦砲射撃に加わった。米攻略部隊の最初の目標は、慶良間諸島の確保であった。

 米軍の慶良間諸島攻撃部隊は、アンドリューDブルース少将の率いる、第77歩兵師団で艦船約80、上陸用舟艇22で編成され、空母と駆逐艦の護衛のもとに上陸作戦にのぞんだ。(中略)
この戦闘に間に慶留間、座間味、渡嘉敷の島々では凄惨な「集団自決」が発生したと言われている、慶留間島は直径1kmの小さい島で、孤立した約100人の人々はパニックに陥り、家族単位で死んでいった。命を絶つ道具は鎌と縄であった。木麻黄の黄に顔を真っ黒にして群れて人々がぶら下がっていたという。座間味島では米軍上陸直後に人々が壕内で集団で死んでいる。手榴弾と剃刀が使われ我が子を火に投げ込んだり、石にたたきつけて殺す親もいた。猫イラズを飲んで死んだ者もいる。
 渡嘉敷島の状況を具体的に見ていこう、赤松嘉次大尉(25才)の率いる第3海上挺身隊は隊員104人が特攻隊100隻、120kg爆雷210個を装備して戦闘に備えていた。特攻艇は阿波連と渡嘉志久に壕を掘って隠してあった。このほかに基地隊の配属部隊として西村一五郎大尉の率いる161人、木村昭中尉の整備中隊55人、斉田茂雄中の指揮する特設水上勤務104中隊の1小隊などが配属されていた。(中略)
27日9時頃米軍は猛烈な砲爆撃の支援の元に渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸を開始した。住民は砲撃に追われて日本軍陣地周辺に避難してきた。住民の避難場所について防衛庁の記録では「村の兵事主任新城真順(富山真順)から、部隊に連絡があったので部隊は陣地北方の盆地に避難するよう指示した」としている。住民は恩納河原の谷間で一夜を明かした。米軍は日本軍陣地とその周辺に迫撃と機関銃で集中砲火を浴びせ、一帯は前後の見分けもつかないほどの煙と火に包まれた。

住民の「集団的な殺しあい」は1夜明けた3月28日に起こっている、すでに米軍の上陸前に村の兵事主任を通して軍から手榴弾が渡されており、いざという時にはこれで「自決」するように指示されていた。また防衛隊員が手榴弾を住民の避難場所に持ち込んで「自決」をうながした事実がある。しかし手榴弾は不発弾が多く、自決の手段は必ずしも手榴弾だけではなく鎌や鍬で殴り殺したり、縄で首を絞めたり、石や棒きれで叩き殺したりして、この世の地獄を現出したのであった。死者は329人であった。
 


4.2「集団自決」の背景と皇軍
一般には「集団自決」と言われているが、実態は親が子を殺し、子が老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺すといった親族殺しあいの集団虐殺の場面であった。

これは皇軍の圧倒的な力の押しつけと誘導がなければおきる事柄ではない。

「自決」というのは自ら決意して「責めを負うて命を絶つ」ことである。「自決」という言葉は死を選ぶ人の「任意性・自発性」を前提として使われる。乳幼児が自決をすることはできないし、肉親を喜んで殺す者もいない。これは牛島司令官ら皇軍の「自決」とは全く別の次元の事柄である。
 「強制され」あるいは「追いつめられた」人びとの死を集団自決と言うことは出来ない。この住民の集団的な死は、自発的な意志によるものではないからである。この実態を集団自決と表現する事は不適切であり、真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである。

渡嘉敷島の住民の集団的な死の背景には、天皇のために死ぬことを最高の国民道徳としてきた皇民化教育があった。特に沖縄にあっては「軍官民・共生共死の一体化」ということが強制され、「死の連帯感」が醸成されていったのである。その際在郷軍人会、翼賛壮年団、県や市の上級官吏など地元沖縄の有識者層の果たした役割は大きかった。赤松隊から手榴弾を渡されたとき、島の指導者たちは「イザトイフトキノ全住民ノ死」を当然の事として受け入れたのであるが、これを「集団自決」の「任意性・自発性」と考えることは出来ない。皇軍の命ずる死を拒むことは不可能な時代であった。

「鬼畜米英」への極度な恐怖も、人々に死を選ばせる要因となった。満州事変以来の大陸における日本軍の中国人虐殺の体験が広く語られており、負け戦になった時の一般住民の運命について、人々は米軍による略奪・強姦・虐殺を予感し絶望したのであった。「米軍が住民虐殺をするはずがない」と考えた移民帰りの人々もいたが、スパイ容疑者と見られていた移民帰りに積極的な発言をする場はなかった。そのような発言をするとたちまちスパイと見なされたのである。
 姉妹や妻を鬼畜米英の陵辱にまかせ残虐な殺され方を見るよりは「いっそ、一思いに」我が手で殺してやるのが肉親の愛情だと倒錯した思いにかられた人もいた。「愛情の深さ」が「殺しの徹底」となって現れた
 皇軍のスパイ狩りへの恐怖も、住民の絶望感を倍加した。軍事機密を知る住民を絶対に敵の手に渡さないというのが軍の方針であったから、米軍の保護下にはいると言うことはスパイと見なされた。日米両軍の狭間におかれた住民は、極限状況の中で死に追いやられていったのである。逃げ場のない島で砲爆撃によって生きる希望がたたれ、無惨な死を予感したことも人々が「死に急いだ」原因の一つであった。

渡嘉敷島における集団的な死はこれらもろもろの要素が、複合して集団的なパニックが起き、共同体の中で親族殺し合いになったものである。狂気と恐怖の嵐が村落共同体を支配したのであった。 防衛庁の記録では「小学生、婦女子まで戦闘に協力し、軍と一体になって父祖の地を守ろうとし、戦闘に協力できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの命を絶つ者も生じた」としている(『沖縄方面陸軍作戦』252頁)

しかしこれは事実に反する、住民は戦場動員を強いられたのであり、「戦闘員の煩累を絶つ」ため「自らの命を絶つ」などという「犠牲的精神」はなかった。恐怖と絶望が人々を支配していたのである。

渡嘉敷島の「集団自決」の生き残りの負傷者の多くは、米軍に収容されて座間味島に移されたが、日本軍の統制下におかれた住民は山中でなお数ヶ月の飢餓の生活を強いられることになった。
 渡嘉敷島の山中では、朝鮮人軍夫が「戦線離脱・スパイ」ということで処刑された。防衛隊に召集された国民学校の教頭が出産前の妻を訪ねたことが敵前逃亡と見なされ、処刑されている。 赤松隊は「陸軍刑法」などを持ち出して、これらの処刑を正当化しているが、事実関係の調査もなしに施行した執行した狂気の沙汰としか言いようがない。


5検定意見について
(前略)検定意見の主張は沖縄戦における住民被害の実相に照らしてとうてい沖縄県民の承服できるものではない。

第1に「集団自決」と言われている「住民の集団的な死」は、自発的な意志によるものではなく、皇軍によって強制・誘導されたものであることは先に述べたとおりである。しかもこの住民の集団死は様々な複合的な要因によって起きたものであり、言葉を尽くして説明しなければ字句通り「自ら決意して命を絶った」と誤解される恐れがある。一般に「集団自決」という言葉が使われるとしても、沖縄県民が「集団自決」という場合は「皇軍によって強制された集団的な死」として共通の認識が定着している。この事を無視して十分な説明もなしに「集団自決」を記述することは事の真相を正しく伝えないばかりか、むしろ誤解と混乱を招くものである。原告が「集団自決」に関してこれを「非業の死」に含めて考えたのは妥当であり、研究者としての周到な配慮であると言える。

第2に被告は日本軍の住民殺害よりも、「集団自決」の方が数が多いと主張しているが、これは事実に反する。「集団自決」と言われている住民の集団的な死は軍民雑居の極限状態で起きたものであり、慶良間諸島、伊江島、中南部戦線の限られた地域の事件である。「日本軍のために殺された住民」(住民虐殺)については、沖縄全域から報告されており、数千人にのぼるものと推計される。日本軍による住民虐殺は、スパイ視虐殺をはじめ、精神障害者・聾唖者の虐殺、ユタの虐殺、食料強奪のための虐殺、乳幼児虐殺、壕強奪のための虐殺、投降阻止のための虐殺など沖縄戦の全戦線に及んでいる。これは『沖縄県史』の記録を検討しても分かることだが、現在各地で編集作業がすすめられている『市町村史』の調査結果でも明らかである。調査の進行に従って「日本軍の住民殺害」の事例は地域的な広がりと多様な側面をあらわしてきている。このような中で「最も犠牲者数の多い集団自決」という被告の主張は、沖縄戦史研究の到達段階を無視した強弁である。

第3に、被告は「仮に原告主張の通りであったとしても、軍人が直接手を下した殺害行為と、そうでないものとは質的な違いがある」と主張しているが、これは住民被害の実相を客観的に見ない皮相な観察に基づくものである。日本軍が波照間島の住民を西表島のマラリア地帯に強制疎開させ、400人以上の住人を飢えとマラリアで死なせたことは、日本軍の責任である。この場合強制疎開を拒むものを軍刀をもって脅迫したのであるから、直接手を下して死に至らしめたものと同じ結果となっている。この住民被害について軍人が直接手を下した殺害行為と質的に違いがあるとすること自体、日本軍の残虐行為を弁護するものである。
 中南部における「壕追い出し」についても、自主的な「壕追提供」と考える向きもあるが、これは事実に反する。軍に壕を提供して砲弾弾雨の中に出ていく者はなかった。壕を出ていかないものは「非国民・スパイ」としてその場で処刑されたのである。住民にとっては壕内にとどまる事も死、出ていくことも死であった。壕を追い出された住民は砲爆撃の標的にされて死んだのである。これを「日本軍が直接手を下したものではない」として、虐殺と質的な違いがあるとするのであろうか?
 沖縄戦の末期には山賊と化した敗残兵が、食料を奪うために住民を虐殺したことも各地から報告されている。食料を奪われて乳幼児や老人が飢えて死んだのは、日本軍が直接手を下して死に至らしめたものと質的な違いがあると言えるだろうか?被害を受けた住民の側に立ってみれば事の真相は明らかである。
 投降阻止のために住民を殺害したことは各地から報告されている。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残す事なかれ」という軍隊の論理を住民にも強要したのである。米軍の保護下に入るということはスパイと見なされ、断崖絶壁に追いつめられてもなお米軍の投降勧告に従うことはできなかったのである。ここでは立ち止まるも死、進むも死であった。断崖に追いつめられて飛び降りて死んだ住民は自決したとは言えない。後方から日本軍によって銃口を向けられた住民は日本軍によって断崖から追い落とされたのである
 「日本軍が直接手を下した」住民の死と、「日本軍によって強制された」住民の死との間に質的な違いがあるとする被告の主張は、沖縄戦の住民被害の実相を見ていない論断である。

第4に、「日本軍による住民殺害」と「集団自決」を全く別の次元の事柄としてとらえている被告の主張は、県民を無惨な死に追い込んでいった日本軍の残虐行為を免罪にしようとするものである
 既に繰り返し述べたとおり「日本軍による住民殺害」といわゆる集団自決とは日本軍の残虐行為という点では同質の事柄である。いわゆる集団自決は住民の自由意志によるものではなく、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導に基づく殺し合いであったことを再確認する必要がある。従って「日本軍による住民殺害」と「集団自決」とを質的に違うものとして並記して記述することは、県民被害の実相を歪曲するものである。
 「集団自決」を書かなければ沖縄戦における住民被害の全貌が客観的に理解できないとする主張は、「集団自決」を住民の自由意志によるものとして理解させ、結果として日本軍による住民殺害などの残虐行為の印象を弱めようとするものである。県民被害の全貌を客観的に理解する第1の課題は「日本軍のために殺された住民の実態」を具体的に明らかにすることである。日本軍による住民殺害こそは、県民被害の本質を理解するキーワードである。
 「集団自決」を記述するとしても「集団自決といわれている住民の集団的な死は、住民の自由意志によるものではなく、日本軍によって死に追いやられたものであること」を欠落させてはならない

第5に、「集団自決」を書くべきであるとする検定意見は研究者の学問研究の自由と表現の自由に対する権利の侵害である。沖縄戦における「日本軍の住民殺害」といわゆる集団自決等については、事実の調査と記録作業がなお進められなければならず、戦場における住民被害の実態も様々の複合要素によって多様である。原告がいわゆる「集団自決」を住民の「非業の死」の中に含めて考えたことは、県民被害の実態に照らして妥当である。これは研究者の表現の自由の問題として尊重されなければならない。
 研究者の研究の自由と表現の自由が保障されてこそ、戦史研究も深化され教科書における戦争記述の客観性が保たれるのであ李、国民の歴史認識も科学性も高めることが出来るのである。