原爆と戦争責任

なぜ核兵器はなくならないのでしょう?なぜ日本人は非常識なのでしょう?

曽野綾子「ある神話の背景」批判1の3

2007-10-08 02:37:50 | 沖縄戦

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博)(3/3)=曽野綾子『ある神話の背景』への批判

単行本「戦争への反省」(太田良博著作集3) ボーダーインク  2005年 に収録、沖縄タイムス1985年4月8日~18日(10回掲載)

◇信頼どこにおくか

将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。

ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。

沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。

曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。

◇「事実内容」の問題

『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。

この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。

◇私製の「陣中日誌」

曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。

現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。

◇任務放棄に失望

赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。

この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。

沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博通大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。

◇無電内容も疑問

たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。

「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。

◇住民処刑の例

とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。

じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。

◇住民処刑について、二、三の例をあげる。

伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。

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終戦直後、二本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。

◇大城訓導は民間人

また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。

防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。

渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。

◇赤松批判で私兵に

なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。

◇戦争体験への暴挙

ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。

住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件をを備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。

この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。

沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。

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太田良博(おおたりょうはく)著述業、1918年=大正7年=那覇市生まれ。早稲田大学政経学部中退、沖縄タイムス記者、『鉄の暴風』を牧港篤三記者と共に執筆、編集、琉球大学図書館司書、琉球放送局ニュース編集長、琉球新報資料室長。著書『異説沖縄史』『沖縄にきた明治の人物群像』ほか

(連載終了)